千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


  小学生の ノートのうえに
  机のうえに 樹の幹に
  砂のうえ 雪のうえに
  わたしは書く きみの名を

  読んだ すべてのページのうえに
  すべての 白いページのうえに
  石や血や 紙や灰のうえに
  わたしは書く きみの名を

  ジャングルや 砂漠のうえに
  小鳥の巣や エニシダのうえに
  子どもの頃の こだまのうえに
  わたしは書く きみの名を

  夜よるの 不思議さのうえに
  日日の 白いパンのうえに
  婚約した 季節のうえに
  わたしは書く きみの名を

  生きいきとした 小道のうえ
  遠く伸びた 大道のうえに
  ひとの溢れた 広場のうえに
  わたしは書く きみの名を

  灯(ひ)のともったランプのうえ
  また消えた ランプのうえに
  わが家の 一家団欒のうえに
  わたしは書く きみの名を

  許しあった 肉体のうえに
  友だちの 額のうえに
  差しだされた 手のうえに
  わたしは書く きみの名を

  思いがけぬ喜びの 窓硝子のうえ
  待ちうける くちびるのうえに
  沈黙の そのうえにさえ
  わたしは書く きみの名を

  欲望もない 放心のうえに
  まる裸の 孤独のうえに
  そして 死の行進のうえに
  わたしは書く きみの名を

  力強い ひとつの言葉にはげまされて
  わたしは ふたたび人生を始める
  わたしは生まれてきた きみを知るために
  きみの名を呼ぶために

  白由よ

 ルイ・パロはこの詩について書く。
「……この詩は初め『フォンテーヌ(泉)』誌に掲載されて、たちまち成功を収めた。オーディジオはマルセイユで公然とこの詩を朗読した。マックス・ポル・フーシェは、連合軍の通信員たちにこの詩を紹介し、わたしはわたしで、クレルモン・フェランにおける会議の折、これを朗読した。そこには、オーヴェルニュ地方におけるレジスタンスの最初の指導者たちが集まっていた。いたるところで、この詩はひとびとの情熱をかきたて、気力を呼びさました。それは占領地帯からわれわれのところへ送られてきた希望のメッセージであり、あの囚人たちがしばしば独房からわれわれに伝えるのに成功したメッセージにも似ていた。RAF(英空軍機)がこの詩を空からフランスじゅうにばら撤いた」(『戦時下の知識人たち』)
 またのちに、エリュアールじしんがこの詩についてつぎのように語っている。
 「わたしはこの詩を一九四一年に書いた。

  金塗りの 絵本のうえに
  戦士たちの 武器のうえに
  王たちの かんむりのうえに
  わたしは書く きみの名を

 これら最初の数節を書きながら、わたしは最後のしめくくりには、愛していた女の名まえをかかげようと考えていた。この詩は彼女にささげることになっていた。だがすぐ、わたしの頭に自由という言葉がひらめいたのに気がついた。

  力強い ひとつの言葉にはげまされて
  わたしは ふたたび人生を始める
  わたしは生まれてきた きみを知るために
  きみの名を呼ぶために

  白由よ

 こうしてわたしの愛していた女性は、彼女よりもはるかに大きな願望を具象化することになった。そしてこの自由という言葉は、わたしの詩においては、きわめて日常的な、みんなが心を傾けている、きわめて単純な意志──占領軍から自分を解放するという意志を強調するものにほかならなかった」
 一九四二年の末から、自由という言葉はフランス人民にとってほとんど空語であった。占領軍による恐怖と圧制によって、人びとのなかには絶望、屈服、卑屈さが生まれ、自由は奪われ、失われていた。その自由という言葉が、エリュアールのこの詩によってふたたび生きいきとした内実をもって、人びとに呼びかけた。「小学生のノート」や「樹の幹」や「机」のうえに、誰もが書いたような愛の名まえ、愛のしぐさ──エリュアールはこのすべての人に共同の愛のしぐさ、共同の希求によって、自由を感じとられるものとして歌いだしたのである。それはどんなにか絶望と不安のなかに落ちこんでいた人びとをはげまし、希望を与えたことだろう。
(つづく)

新日本新書『エリュアール』

雪やなぎ


 一九四二年の初め、エリュアールは非合法に追いやられていた共産党にふたたび入党する。当時、フランスでもっともきびしく追及され、弾圧されたのは共産党だった。共産党の活動家、指導者たちは特に人質とされ、まっさきに銃殺された。しかし彼は党を選んだ。彼はもう五十歳になんなんとしていた。この選択は、エリュアールの思想と反抗の論理的な到達点であった。のちに彼は述懐する。
 「一九四二年の春、わたしは共産党に入党した。それはフランスの党だったから、こうしてわたしは自分の力と生涯をあげて参加した。自由、平和、幸福をめざし、真の生活をめざして前進していたわが国の人びとと、わたしはいっしょになりたかったのだ」
 この「真の生活」というのは、「真の生活は欠落している」と叫んだランボオの言葉のこだまであって、エリュアールはそれに答える──われわれが望むなら、真の生活はここに、この地上に存在しうると。
 エリュアールの入党は、生にたいする彼の誠実さ、自分自身にたいする誠実さの現われであった。自分の詩的追求とマルクス主義の哲学的追求とを融合させてからは、エリュアールはさらに大詩人となり、彼の世界像は大きく広くなる。
 この冬、エリュアールは「罪もない」名もない犠牲者たちを想って「最後の夜」を書く。

 あの人殺しのやつばらは
 罪ない者へと差し向けられ
 その口からパンをもぎ取り
 その家に火をはなち
 その服や靴を剥ぎとり
 その暮らしや子供を奪いとる

 あの人殺しのやつばらは
 死者と生者をとり違え
 泥を白くし裏切者を特赦し
 言葉を騒音に変える

 ありがとう夜中よ十二丁の銃が
 罪ない者に平和を返す
 その血まみれの肉体と暗い空を
 地に埋めるのは群衆だ
 そして人殺しどもの弱さを
 見抜くのも群衆だ

 この詩は、極度に飾りをとり去った表現、直接的な表現の力強さ、その単純さによって、ファシストの暴虐をあばき、告発する、闘いの武器となる。この詩を収めた『詩と真実一九四二年』という題名はドイツの大詩人ゲーテの「詩と真実」を意識的にもじったものである。このざら紙の小詩集はたちまちレジスタンスの愛読書となり、ベストセラーとなる。有名な詩「自由」もここに収められていた。
(つづく)

(新日本新書『エリュアール』)

エリュアール

 『わが友、わが同志』  ピエル・ヴィヨン(元国民戦線幹事長) 大島博光訳

 「それは一九四二年の終りか、おそらく一九四三年の初めであった。
 その頃、ある同志が国民戦線作家委員会と国民戦線指導委員会との間の連絡をとっていた。彼がわたしに言ったことに、わたしが抵抗運動の幹事長という資格だけでなく、共産党の活動家として、ポール・エリュアールに会う必要があるという。エリュアールが最後のためらいを吹っきって共産党に再入党するには、わたしが彼と話し合うだけで充分だと、その同志は信じていたのだ。
 こうしてある朝、わたしはシャペル街のエリュアールの小さなアパートの扉を叩いた。われわれがどんな話をしたか。ポールの最後のためらいがどんなものだったか。わたしは忘れてしまった。それにその頃、わたしには日記をつける暇がなかった。たとえ暇があったとしても、安全を期そうとすれば、そんな印象や出来事のメモをとるわけにはいかなかったであろう。そのようなメモが、ペタンの警察やゲシュタポの手に落ちれば、彼らに情報を与える危険があったからである。
 しかしポールの書斎の壁がいまもわたしには見える。そこにはピカソの署名のある、ポールやニュシュのデッサン像が小さな額に入ってかかっていた。ニュシュが行ったり来たりしてわれわれの会話に加わる。この最初の訪問の時から、彼女の楽観的な陽気さや正しい判断力がわたしの心を打った。わたしを昼食に招いてくれたのは彼女だった。そうしてわたしたちがテーブルにつく前に、ポールが党への加盟に同意したのをわたしは思い出す。
 わたしはまた思い出すのだが、「わたしは書く おまえの名を……自由よ」と書いた詩人の入党をとりつけた、という幸福感にわたしは浸ったのである。

   *

 わたしたちを結ぶ深い友情がその日から始まる。時どきわたしはシャペル街を訪れた。こんにち思えば、ポールとニュシュの家で過ごしたひとときは、非合法活動でくたくたに疲れた生活のさなかの、静かな憩いのひとときのように思われる……
 それらの訪問について、わたしにはいくつかはっきりした思い出が残っている。
 ある晩、わたしたちはとても永いことおしゃべりをした。そのために、外出禁止令の時間前に、私は自分の「隠れ家」に帰れそうもなくなった。ポールとニュシュは彼らのところに泊まるようにすすめてくれた。その夜、わたしが国民戦線かCNR(抵抗国民会議)」のために書いた、呼びかけか宣言の草案を彼らに読んできかせた。ポールは、その草案の形式がいい、つまり説得力があって力強い、と言ってくれたことを、私は大変誇りに思った。ポールの方は、「詩人の栄光」という題名で』、非合法の「深夜出版」から出る予定の詩集のために書いていた序文の原稿をわたしに読んでくれた
 それは闘争に参加する詩の真の宣言だった。
 自分の人民に鼓舞されたホイットマン、武器を執れと呼びかけたユゴー、コミューヌに霊感を吹きこまれたランボオ、おのれも奮いたち、ひとをも奮いたたせたマヤコフスキー……詩人たちが大きな見地に立って、いつの日か心動かされたのは、行動にむかってである。言葉に依拠する詩人の力は純粋なものではあるが、彼らの詩は、外部世界の多少ザラザラした接触をすることによって、けっして値打ちを下げることはないだろう。闘争はただ詩人たちに力を与えるだけである」
 それは同時に、共産党員の態度表明でもあった。……
 明らかに、エリュアールはここで詩人の役割について新しい概念を述べたのだ。この新しい概念は、非人間的なファシストとの闘争、生活、そして恐らくはわれわれ共産党員との接触によって、かれらのうちに熟成され、意識されたのである。
 この序文はその精神において、まだ闘争に参加せず、時代の外にあって、依然として象牙の塔にこもっていたフランスの詩人たちに、祖国と人間の危険を前にして、たたかう詩へ参加するよう、説得するものであっただろう。
 夜、みんなが寝に行く前、わたしはつぎのようなポールのふるまいを見て心打たれた。ポールは、わたしがとどけた非合法の新聞と私が持っていた危険な書類とを小さな包にして、便所の欄干の下の、小さな換気口のなかの釘にそれをつるした。家宅捜索にあってもみつけられないように。詩「自由」を本名で公表した彼がこのように、まるで非合法活動のやり方になれた活動家のようにふるまったのに、わたしは驚いた。
 彼はわたしに答えて言った──もしも今夜、警官がふみこんできて、政治的な非合法出版物所持のために彼を逮捕しても、その逮捕は何の役にもたたないだろう。しかしもし逆に、警官が彼の詩を不穏と判断して逮捕するなら、それはフランスの数千人のインテリゲンチャと世界にとって、精神にたいする攻撃として映るだろう。そしてそれは、多くのインテリゲンチャを闘争に参加させるのに役たち、ナチス体制とそのフランスの手先どもの野蛮性を明らかにするだろう。

   *

 ある日、わたしたちはむかしのこと、シュレアリスト宣言の頃のことを話していた。ポールはシュルレアリスト・グループの分裂や、彼がアラゴンと意見を異にしたことを思い出し、失われた歳月にたいする悔恨の色をうかべて言った。──「あのとき正しかったのはルイだ」

 しかし彼はスペイン戦争のあいだに態度をはっきりと表明したことを誇りにしていた。そしてその日かほかの日か、かれは自分が朗読してレコードに吹きこんだあの驚くべき詩「ゲルニカ」をわたしに聞かせてくれた。……

   *

 ポールはペンだけでレジスタンスと党のために尽くすだけでは満足しなかった。彼は国民戦線内部におけるすべての国民的勢力と共産党員との愛国的同盟のために、多くの人物を獲得しようと努めた。
 思えが、国民戦線の指導委員会に入るようにモーリアックを説得したのは彼である。
 ポールは又、パリ滞在中のロマン・ローランを、モンパルナスの界隈の小さなホテルの一室にわたしを連れて訪ねた。ロマン・ローランは、レジスタンスにおける党の活動や国民戦線の性格と目的には全面的に賛成していたにもかかわらず、国民戦線の指導委員会へ参加してくれるようにとのわたしの要請を受け入れなかった。
 彼が拒否した唯一の理由は、かれの健康状態にあった。かれの許を辞するとき、彼の顔に現れていた死相に、たとえば鼻孔の透きとおるような薄さにいたく心を打たれた……

(「ウーロップ」誌一九六二年十一・十二月号)

(自筆原稿、新日本新書『エリュアール』)

エリュアール
ピカソによるデッサン「エリュアール」

エリュアールの「ゲルニカ」

 一九五〇年、ピカソの「ゲルニカ」の映画がつくられたとき、エリュアールはその解説「ゲルニカ」を書いた。それはピカソの「ゲルニカ」が描かれた時代の雰囲気を生き生きといまに伝える美しい散文詩である。

 ゲルニカ         ポール・エリュアール

 ゲルニカ。それはビスカヤの小さな町だが、バスク地方の由緒ある古都である。そこにはバスクの伝統と自由を象徴する樫の木がそびえていた。だがいまやゲルニカは、ただ歴史的な、涙をそそる想い出の地でしかない。
 一九三七年四月二十六日、市(いち)のたつ昼さがり、フランコを支援するドイツ空軍がぞくぞくと編隊をくりだし、三時間半にわたってゲルニカを爆撃した。
 町は全焼し全滅した。死者は二千にのぼった。みんな非戦闘員の市民だった。この爆撃の目的は、爆弾と焼夷弾との併用効果を、非戦闘員の住民にたいして実験してみることにあった。

 火にも耐えた顔 寒さにも耐えた顔
 手荒い仕打ちにも夜にも耐えた顔

 侮辱にも殴打にも すべてに耐えた顔たち
 いまあなた方を定着させているのは空虚(うつろ)さだ

 いけにえとなった 哀れな顔たち
 あなた方の死は 模範となるだろう

 死 ひっくり返された心臓
 やつらはあなた方にパンを支払わせた  
 あなた方の生命(いのち)で

 やつらはあなた方に空と大地と水と眠りを支払わせた
 そして眼を蔽うばかりの惨(みじ)めささえをも
 あなた方の生命(いのち)で

 心優しい役者たち かくも悲しくかくもいじらしい役者たち
 はてしないドラマの役者たち
 あなた方は死などを考えたことはなかった

 生と死への恐怖や勇気などを 
 かくもむずかしく かくもやさしい死などを

 ゲルニカのひとたちはつつましやかな庶民だ。かれらはずっとむかしから自分の町で暮らしている。ほんのひと握りの金持ちとたくさんの貧乏人とで、暮らしは成りたっている。彼らはじぶんの子供を愛している。暮らしはささやかな幸福と、明日を思いわずらう、大きな心配苦労から成りたっている。明日も食わなければならないし、明日も生きなければならない。だからきょうは希望を抱き、きょうは働くのだ。
 わたしたちはコーヒーを飲みながら新聞で読んだ。──ヨーロッパのどこかで、殺人部隊が人びとを蟻の群のように踏みつぶしていると。腹をえぐられた子供だとか、首を斬りおとされた女だとか、全身の血をどっと一挙に吐きだした男だとか、ほとんど想像もつかない。だが、スペインは遠い。国境の向こうだ。コーヒーを飲んだら、自分の仕事に行かねばならない。よそでは何かが起こっていることなど、考えるひまもない。そうしてわたしたちは良心の呵責をおしころしてしまう。 

 明日(あす)は、苦悩と恐怖と死を堪えしのぶことになろう。 
 しかも虐殺をやめさせるにはもう遅すぎるだろう。

 機関銃の弾丸が瀕死の人びとの息の根をとめ
 機関銃の弾丸が風よりも上手に子供たちと戯れる

 鉄と火によって
 人間が炭坑のようにぶち抜かれ
 船のいない港のようにぶち抜かれ
 火のない竃(かまど)のようにぶち抜かれた

 女たち子供たちはおなじ宝をもつ
 春の若芽と きよらかな乳と
 生の持続を
 澄んだ眼のなかに

 女たち子供たちはおなじ宝をもつ
 眼のなかに
 男たちは力のかぎり それを守る

 女たち子供たちはおなじ赤い薔薇をもつ
 眼のなかに
 めいめいが自分の血の色を見せる

 わたしたちの多くは、なんと嵐に怖れおののいたことか。こんにち、人生とは嵐だ、ということはわかりきっている。それなのに、わたしたちの多くは、なん稲妻を怖れ、雷を怖れたことだろう。雷鳴は天使の声で、稲妻は天使の翼だなどと思うとは、なんとわたしたちは愚かなお人よしだったのだろう。だがわたしたちは、燃えあがる自然の怖ろしさを見まいとして、地下の穴倉に降りて行ったことはなかった。こんにち、世界の終りはわたしたちにかかっている。めいめいが自分の血を見せるのだ。

 ついに子供たちはぼんやり放心した風をし
 わたしたちはいやでもおうでも
 いちばん単純な表現をとる羽目になる

 なんとそこには喜びの涙があった
 男は腕をひろげて愛(いと)しい妻を迎え
 慰められた子供たちは笑いながら泣きじゃくった
 死者たちの眼は深い恐怖の色をうかべ
 死者たちの眼は非情な大地の酷薄さをたたえ

 犠牲(いけにえ)となった人たちは自分の涙を飲んだ
 毒のように苦い涙を

 飛行帽をかむり、長靴をはき、きりっとした美青年の航空兵たちが、爆弾を落すのだ。狙いをつけて。精確に。地上では上を下への大混乱となる。善に心をくだく偉大な哲学者なら、そこからひとつの理論体系をひきだすまえに、この事態をじっくり見つめるだろう。なぜなら現在とともにいま四散するのは、過去と未来なのだ。爆撃の猛火のなかで断ち切られ、焼きほろぼされるのは、過去・現在・未来という一連の連続なのだ。蝋燭のように吹き消されるのは、生の記憶なのだ。

 人びとの上に血が流れ 動物の上に血が流れ
 まるでむかつくような悪臭にみちた葡萄のとりいれだ
 それにくらべれば 死刑執行人の方がまだきれいだ
 眼はすべて抉りとられ 心臓の音はみんなとだえた
 大地は死者のように冷たい

 さあ、死臭を嗅いでいる獣(けだもの)をとりおさえにゆくがいい。さあ、母親のところに行って、子供の死をよく話して聞かせるがいい。さあ、燃える炎に想いを打ち明けにゆくがいい。この世の大人たちが、子供たちを敵にまわし、まるで戦争の機械に襲いかかるように、揺りかごに襲いかかるのを、どうやって理解させることができよう。あるのは夜だけだ。それも戦争の夜だけだ。悲惨の姉で、怖ろしくもいまわしい死の娘である戦争の──

 男たちよ きみらのためにこの宝は歌われた
 男たちよ きみらのためにこの宝は浪費された

 想ってもみたまえ、きみらの母親、兄弟、子供たちの、その断末魔の苦しみを。想ってもみたまえ、あのいのちの果ての、死との格闘を、愛するひとたちの死の苦しみを。さあ、殺し屋どもからきみら自身を守るがいい。子供や老人は、この怖るべき喪の中で、とてつもない生の恐怖に腹を締めつけられるのを感じる。こうして生命(いのち)果てようとして、かれらは突然、生きたいという希いのばからしさを感じとるのだ。何もかもが泥と化し、太陽も暗くかげる。

 惨禍の記念碑(モニュマン)
 崩れ落ちた家家と瓦礫の山と
 野っ原の美しい世界
 兄弟たち あなた方はここで腐肉と化し
 ばらばらに砕かれた骸骨と変りはて
 地球はあなた方の眼窟のなかで廻り
 あなた方は腐った砂漠となり
 死は時間の均衡を破ってしまった

 あなた方はいまや姐虫と鴉の餌食だ
 だが あなた方は顫えるわたしたちの希望だったのだ

 ゲルニカの焼け焦げた樫の木のしたに、ゲルニカの廃墟のうえに、ゲルニカの澄んだ空のしたに、ひとりの男が帰ってきた。腕のなかには鳴く仔山羊を抱え、心のなかには、一羽の鳩を抱いていた。かれはすべての人びとのために、きよらかな反抗の歌をうたうのだ。愛にはありがとうと言い、圧制には反対だと叫ぶ、反抗の歌を。心からの素直な言葉ほどにすばらしいものはない。かれは歌う──ゲルニカはオラドゥールとおなじように、ヒロシマとおなじように、生ける平和の町だ。これらの廃墟は、恐怖(テロル)よりももっと力強い抗議の声を挙げているのだ。
 男はうたい、男は希望をかかげる。かれの苦しみは雀蜂のように、険(けわ)しくなった青空のなかへ飛びさってゆく。そうしてかれの歌はやはり蜜蜂のように、人びとの心のなかに蜜をつくった。
 ゲルニカよ! 無辜(むこ)の人民は虐殺にうち勝つだろう。
 ゲルニカよ!……

新日本新書『ピカソ』

母子像


ニュース41-1

ニュース41-2

ニュース41-3

ニュース41-4




四角い額縁


朝日




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川
千曲川べりの絶壁の上に桜が咲いているようです


千曲公園

上のあづまや気になっていましたが、公園なのかも

千曲公園
千曲公園という公園で、車で行けるようです

千曲公園
車の道を行くと

駐車場
駐車場がありました

千曲公園
満開の桜並木が続きます

千曲公園 
休憩
犬 
千曲公園 
千曲公園
千曲公園
 千曲公園
千曲公園
一番奥にあずまやがありました

千曲公園
千曲公園
素晴らしい展望。千曲川の下流は坂城、千曲市方面

千曲公園
上流は上田市街と太郎山

竹松

4月のうたごえ喫茶で竹松さんが歌いました。
江間章子作詞の「花の街」

美しい海を見たよ
あふれていた 花の街よ
輪になって 輪になって
踊っていたよ
春よ春よと 踊っていたよ

すみれ色してた窓で
泣いていたよ 街の角で
輪になって 輪になって
春の夕暮れ
ひとりさびしく ないていたよ





紅い花




コマクサ



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森の歌


さくらんぼ


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鳥の歌
鳥の歌


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小鳥たちは
小鳥たちは


桜

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マチスの壁

マチスの壁

マチスの壁


博光が毛筆で書いた「マチスの壁」への礼状。御子柴昭治さんは日野市にお住まいだった友人で、障害児教育が専門でしたが、詩や絵を書いていました。(御子柴昭治さんの遺作展

「マチスの壁」は詩集『冬の歌』を出版した年(1991年)の作品ですが雑誌等に発表していないようです。同じように散歩中にとらえた情景をスケッチした作品に「もうひとつのわたしの書斎 」がありますが、こちらは詩誌『稜線』に発表しています。

散歩道


マチス


コリウールの墓石のほとり
あなたはまた見いだすだろう
涙にくれた あの深い夏の匂いを
そこに囚人らは朽ちはてて
うち砕かれた怒りの壺のほかは
もう何ひとつ残らぬだろう

マチスがあの『窓』に描いた
海が輝いていた
白い帆舟は見えなかったが
 ──コリウールで
 九一年四月二七日 大島博光


南仏の港町コリウールにふれた毛筆文が2枚があります。
右はジョン・カッスーの「アントニオ・マチャードの墓」の一節からとり、
左は1978年11月、コリウールを訪れた時の印象を書いているようです。
コリウール  アントニオ・マチャードの墓

まちす

マチス『コリウールの窓』 1905年



マチスの壁


(自筆原稿)

マチスLa Gerbe1953

マチス 「La Gerbe」1953年


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