私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと
私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと
山にのぼるのは 悲しいから おいで一緒に わたしたちと
川をくだるのは 淋しいから おいで一緒に わたしたちと
私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと
苦しみばかり 続くとも おいで一緒に わたしたちと
私と同じ あなたたち おいで一緒に わたしたちと
私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと
この闘いは きびしいだろう だけどあなたは 行くだろう
この生き方 きびしいだろう けれどあなたは 行くだろう
私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと
おいで一緒に わたしたちと
作詞 パブロ・ネルーダ
作曲 ディナ・ロット
訳詞 笠木透
私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと
山にのぼるのは 悲しいから おいで一緒に わたしたちと
川をくだるのは 淋しいから おいで一緒に わたしたちと
私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと
苦しみばかり 続くとも おいで一緒に わたしたちと
私と同じ あなたたち おいで一緒に わたしたちと
私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと
この闘いは きびしいだろう だけどあなたは 行くだろう
この生き方 きびしいだろう けれどあなたは 行くだろう
私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと
おいで一緒に わたしたちと
作詞 パブロ・ネルーダ
作曲 ディナ・ロット
訳詞 笠木透
(自筆原稿)
*アラゴンは1963年、エルザ・トリオレとオランダ旅行をし、翌年に詩集『オランダの旅』を書きました。
その訳詩は『アラゴン選集Ⅲ』(飯塚書店)に嶋岡晨氏の訳で収められています。大島博光はアラゴンの訳詩集や評伝では『オランダの旅』に言及していませんが「わたしは わが人生を」 (「前のものと後のものに」より)と「われらのいない時代が」(「青と白の迷宮」より)を訳して原稿に残しています。
詩集『冬の歌』初出一覧
1.愛について
愛について 『詩人会議』1987年3月号
恋する女 1991年1月 未発表
炎を縛ることはできない 1988年6月 未発表
ミラボオ橋 板橋詩人会『橋』 1990年
詩を書かない詩人と女と 『反戦詩集』1990年6月
2.生きるのはむつかしい
宮本百合子とマヤコフスキーと 『文化評論』1987年3月号
死ぬのはやさしいが生きるのはむつかしい 『詩人会議』1986年9月号
人生とボードレールの一行と 『詩人会議』1986年4月号
清水のような流露 『赤旗』日曜版 1986年5月11日
ミゲル・リティン監督は語る 『赤旗』 1987年9月30日
ランボオ
3.冬の歌
不幸は忍び足で 『民主文学』1989年8月号
きみが地獄の岩に 『民主文学』1990年10月号
もう思い出しかないのか 1991年 未発表
きみはやってきた 〃
きみがやってくると 〃
きみはわたしを連れて行ってくれた 〃
きみは 大地を 〃
孤独な散歩者 〃
わたしは眠ろう きみといっしょに 〃
4.鳩の歌
鳩のねがい 『赤旗』1986年2月26日
鶴と鳩と 『民主長野』1985年12月
核戦争と平和と──核戦争が起きたら 1988年6月 初出紙誌不明
戦争と平和と 『赤旗』 1988年1月17日
いまは走るときだ 『赤旗』 1991年2月23日
ヒロシマ・ナガサキから吹く風は 『赤旗』 1985年8月7日
5.風刺の季節
うごめく亡霊 『赤旗』日曜版 1986年9月
風刺の季節 『民主文学』1987年3月号
狼の憲法に改悪させてはならない 『いま声をあげるとき』第1集 月刊『憲法運動』165号1987年10月
歴史の歯車を逆転させるな 『赤旗』 1988年11月16日
夜のサヴァンナ 『赤旗』 1989年2月17日
自由 平等 友愛 『東京革新懇ニュース』1989年1月
6.わたしは党をうたう
光をはこぶ党に 『赤旗』 1986年1月1日
わたしは歌う この党を 『グラフ・こんにちは』1986年6月
それは党のおかげだ 『赤旗』日曜版 1987年9月13日
光をかかげて六十年 『グラフ・こんにちは』1988年1月17日
ま夏の太陽 『赤旗』 1990年7月1日
小林多喜二 『赤旗』1988年2月21日
おれたちの希望には 『赤旗』日曜版 1991年1月6日
7.風と雨のなかで
千曲川 その水に 『狼煙』2号 1991年3月
断片 1989年 未発表
戦争前夜の街で 『NOVA』1988年8月
早鐘が鳴ったら 板橋詩人会『橋』21号 1988年3月
夢みる 『赤旗』1989年7月18日
夕映え 1984年3月 未発表
佐木秋夫先生への別れのことば 『文化評論』1988年8月
八〇歳になった 1990年11月17日 未発表
1.愛について
愛について 『詩人会議』1987年3月号
恋する女 1991年1月 未発表
炎を縛ることはできない 1988年6月 未発表
ミラボオ橋 板橋詩人会『橋』 1990年
詩を書かない詩人と女と 『反戦詩集』1990年6月
2.生きるのはむつかしい
宮本百合子とマヤコフスキーと 『文化評論』1987年3月号
死ぬのはやさしいが生きるのはむつかしい 『詩人会議』1986年9月号
人生とボードレールの一行と 『詩人会議』1986年4月号
清水のような流露 『赤旗』日曜版 1986年5月11日
ミゲル・リティン監督は語る 『赤旗』 1987年9月30日
ランボオ
3.冬の歌
不幸は忍び足で 『民主文学』1989年8月号
きみが地獄の岩に 『民主文学』1990年10月号
もう思い出しかないのか 1991年 未発表
きみはやってきた 〃
きみがやってくると 〃
きみはわたしを連れて行ってくれた 〃
きみは 大地を 〃
孤独な散歩者 〃
わたしは眠ろう きみといっしょに 〃
4.鳩の歌
鳩のねがい 『赤旗』1986年2月26日
鶴と鳩と 『民主長野』1985年12月
核戦争と平和と──核戦争が起きたら 1988年6月 初出紙誌不明
戦争と平和と 『赤旗』 1988年1月17日
いまは走るときだ 『赤旗』 1991年2月23日
ヒロシマ・ナガサキから吹く風は 『赤旗』 1985年8月7日
5.風刺の季節
うごめく亡霊 『赤旗』日曜版 1986年9月
風刺の季節 『民主文学』1987年3月号
狼の憲法に改悪させてはならない 『いま声をあげるとき』第1集 月刊『憲法運動』165号1987年10月
歴史の歯車を逆転させるな 『赤旗』 1988年11月16日
夜のサヴァンナ 『赤旗』 1989年2月17日
自由 平等 友愛 『東京革新懇ニュース』1989年1月
6.わたしは党をうたう
光をはこぶ党に 『赤旗』 1986年1月1日
わたしは歌う この党を 『グラフ・こんにちは』1986年6月
それは党のおかげだ 『赤旗』日曜版 1987年9月13日
光をかかげて六十年 『グラフ・こんにちは』1988年1月17日
ま夏の太陽 『赤旗』 1990年7月1日
小林多喜二 『赤旗』1988年2月21日
おれたちの希望には 『赤旗』日曜版 1991年1月6日
7.風と雨のなかで
千曲川 その水に 『狼煙』2号 1991年3月
断片 1989年 未発表
戦争前夜の街で 『NOVA』1988年8月
早鐘が鳴ったら 板橋詩人会『橋』21号 1988年3月
夢みる 『赤旗』1989年7月18日
夕映え 1984年3月 未発表
佐木秋夫先生への別れのことば 『文化評論』1988年8月
八〇歳になった 1990年11月17日 未発表
山本隆子さんがエッセイ「春になったら」(『詩人会議』特集──大島博光とわたし)の中で、「一九九〇年頃の夏、吉祥寺の喫茶店で大島先生からできたての詩「冬の歌」をみせてもらったが、翌年送られてきた詩集『冬の歌』には「冬の歌」という題の作品は見当たらない」と書いています。詩「冬の歌」はどういうものなのか、気になりましたが、「不幸は忍び足で」の最後のフレーズ
最後まで希望を太陽を抱いてゆくことだ
それが冬にうち勝つ きみの冬の歌だ
を思い出して、この詩のことかも知れないと思いました。
この詩の初出とある『民主文学」1989年8月号を国会図書館オンラインで調べたら、「冬の歌」の題で載っていました。
内容は同一です。題だけを「不幸は忍び足で」に変えて詩集に載せたことがわかりました。
最後まで希望を太陽を抱いてゆくことだ
それが冬にうち勝つ きみの冬の歌だ
を思い出して、この詩のことかも知れないと思いました。
この詩の初出とある『民主文学」1989年8月号を国会図書館オンラインで調べたら、「冬の歌」の題で載っていました。
内容は同一です。題だけを「不幸は忍び足で」に変えて詩集に載せたことがわかりました。
寝室の机上の青と灰色の花瓶
その花瓶大切なものだからね 割らないでね 編集の仕事をしていた時 何しろ
当時僕の給料が百五十円の時代に 四十円もしたんだから あとは全部飲んで
銀座の画廊何て言ったけ 日動? そうそうそこで 買ったんだから これだけが
残っているよ 青春のね
西條先生の一番弟子が私 その次が彼なんだよ 会合で会うとね 彼は顔を見ないんだよ
私は資本主義に迎合するようなものは作らない
散歩中公園の銀杏の木の下まで歩かれ 木に寄りかかられて 青いコートで
あぁ しあわせだ bonheur(ボヌール)だよ 太陽を浴びて
soleil(ソレイユ)だ
(尾池和子「博光語録1」)
その花瓶大切なものだからね 割らないでね 編集の仕事をしていた時 何しろ
当時僕の給料が百五十円の時代に 四十円もしたんだから あとは全部飲んで
銀座の画廊何て言ったけ 日動? そうそうそこで 買ったんだから これだけが
残っているよ 青春のね
西條先生の一番弟子が私 その次が彼なんだよ 会合で会うとね 彼は顔を見ないんだよ
私は資本主義に迎合するようなものは作らない
散歩中公園の銀杏の木の下まで歩かれ 木に寄りかかられて 青いコートで
あぁ しあわせだ bonheur(ボヌール)だよ 太陽を浴びて
soleil(ソレイユ)だ
(尾池和子「博光語録1」)
わたしたちは歌いたい
千曲川 その水に──大島博光『冬の歌』刊行記念のつどい
A わたしは歌おう
※ わたしたちは歌おう
B 生を変え
C 世界を変え
※ 生を変え 世界を変え
D たたかい生きるのは
E もっと美しいのだと
※ たたかい生きるのは もっと美しいのだと
(※は参加者全員で)
つどいに参加した全員が声を合わせる。
美しい詩の言葉とリズムが、自分のものとなり、仲間のものとなり、心がふくらんでいく、つながっていく…。
第一部の最後、「わたしは歌いたい」の群読が終わっても気持ちは残り、席を立ち去りかねる。「もっと歌いたい、わたしは歌いたい」という気持ちがあふれてくる。普段、詩を読む人も、読まない人も。
十一月二十三日、夜、長野市松代町のサンホール・マツシロで、「千曲川 その水に─大島博光『冬の歌』刊行記念のつどい」が開かれました。
昨年、同じ会場での、板倉弘実詩集『松代大本営』出版記念「詩と絵と音楽のつどい」につづく二回めのとりくみです。
「うまく書けるようになりたい」という長野詩人会議会員の願いは、詩を読む人、求める人がふえることなしにはささえられない、という思いから、詩を書く力量を高めることと同時に、詩を愛する人々をふやしていくことを常に思う私たちは、このつどいのために、「"愛と革命の詩人”大島博光さん、故郷(松代)に帰る」のちらし四〇〇〇枚、案内状三〇〇枚、返信用はがき二〇〇枚(感想・メッセージ要請を含む)、実行委員会ニュース三回(四〇〇枚)を配布しました。
寄せられたメッセージ・感想文は、パンフレットにまとめて参加者にお配りし、欠席者に送りました。
大島博光さんの旧知人をはじめ、神戸、愛知、千葉からの詩人、県労連議長、県高教組委員長、長野合唱団指揮者など、多彩な方々、七十四名が参加されました。
計画の当初は、大島先生に来ていただくのは無理と思っていたのですが、先生から「行こうか」と言っていただいた時は、天にも昇る気持ち。
しかし、結核を患われた大島先生には、十一月末は"地獄の季節"。風邪のために来ていただくことができないことが分かったのは前日。"つどい"のなかみを再検討。せっかく来てくださるみなさんに満足していただけるようにと、前夜おそくまでの準備となりました。
プログラムは、大きなスクリーンに、美しい松代・千曲川の映像(篠ノ井旭高校、中川正巳先生製作)を映しながら、『春がきたら』(大島博光全詩集)の朗読ではじまりました。
ついで、開会のあいさつにかえて、長野詩人会議の中川、荒井、上原の三人が構成詩(『狼煙』一号~四号の作品の中から、十人の作品で。構成、中川あき子)の朗読で、長野詩人会議の紹介を行いました。
『ひとを愛するものは」で始まった詩の朗読。
『不幸はしのび足で』、『君はやってきた』、『わたしは眠ろう 君といっしょに』と続くと、会場は大島博光の詩の世界にひきこまれていく。
ハンカチで涙を拭う人もいました。
「詩集で知っていた言葉が、朗読を通してまったく異質の立体的な言葉となって、私の心の底に落ちてきたのです。すばらしい朗読は詩に生命を吹きこむことだ」と感想文に書いてくださったKさんは、その日、会員になってくれました。
『ヒロシマ・ナガサキから吹く風は』、『夜のサバンナ』、『それは党のおかげだ」そして『千曲川 その水に』とすすむと、会場の雰囲気が高揚して、よい演劇をみる時のような雰囲気が生じて、「朝まで聞いていたかった」ともらす人も。
朗読は青年劇場・勝山春子さんと長野合唱団・古沢望さん。
勝山さんは、前日から来てくださって、朗読の指導をしてくださいました。
寸暇を惜しんで、練習に打ち込む勝山さんの姿に、プロのすごさを見ました。
練習を繰り返す中で、古沢さんは飛躍的に成長。会場から、「青年劇場の人?」と声が出るほど。古沢さんにはこの日、長野詩人会議の会員になっていただきました。
長野合唱団指揮者・渡辺亨則さんが徹夜で選曲し、同じく徹夜に近い状況で小林啓子さん(会員)が編集してくださった井上頼豊のチェロの音楽と、松代中学校演劇班(小林啓子先生指導)の生徒の照明が、効果を盛り上げました。
「あの音楽は、勝山さんと組んでいらっしゃる専門家の方がなさったんでしょ?」という声もあったほど。
大島先生欠席にいたる"つどい"の取り組みの経過を、小林その事務局長が報告。
「ほんとうに行きたいんだよ」と繰り返しおっしゃっていた大島先生の言葉と、ひたすら詩に打ち込む先生の生活を報告、了承をお願いしました。
大島先生に代わって、長野詩人会議の板倉弘実代表から、大島先生の「年譜」、「巨(おお)きな人」、「その詩」などのレジメにしたがって、三十分ほどお話を聞きました。
芸術至上主義から社会主義レアリスムへの苦闘をへての大島先生の巨(おお)きさ、そして謙虚で誠実、あたたかな人柄にふれ、詩に対する大島先生の情熱に圧倒されたと話す板倉代表の言葉にあふれる真情から、参加者はそれぞれ大島先生の人柄を感じとっているようでした。
また板倉代表は、大島先生が今回無理をしても松代に来られようとした(二十余年ぶりだそうです)お気持ちの中には、たんにふるさとに対する思いだけでなく、長野詩人会議やその仲間に対する大きな期待があったからではなかったか。
八十年をかけて"愛と革命の詩"に挑んでこられた、そのすべてを伝え、さらに発展させてほしいとされる大島先生から学びつくし、それを発展させていこう、と訴えました。
このことに関連して、板倉代表は、「長野の仲間の中に"大島先生を超える"可能性をもった詩人がいる」という感想文があった。大島先生は、長野の会員に「行動・実践する詩人」がいることを一番喜び、期待しておられる、と報告。
最後に、大島先生に、春あるいは夏、かならず松代に来ていただいて、『冬の歌』からさらに、『春の歌』、『夏の歌』、『実りの秋の歌』をうたっていただきたい、と結びました。
参加者からは、「大島先生にお会いできなかったことは本当に残念だったけれど、反面、大島先生ご自身の口からは聞くことのできない姿を知ることができた。会場に大島先生がいらっしゃるように感じた」、との声がありました。
第二部では、四十余名が盃をかわしながら懇親、交流を深めました。
松代平和歌う会の仲間が、「たたかいの中に」、「ノーパッサラン」、「泉のほとり」などの美しいコーラスを披露。
多忙な中を参加してくださった県高教組の中沢憲一委員長から、「"愛と革命"の詩のすばらしいひと時をもつことができた。"指導者"には詩心が必要です」とあいさつをいただき、愛知から駆けつた長谷川節子さん、千葉の武力也さんらの詩人、新保五一さん、長谷川健さんら大島先生の旧知の人たちなどからも、あいさつをいただきました。
すばらしい"つどい"をもつことができて、長野詩人会議はこれを機会にいっそう確信を深め、前進していくことができます。
ご協力いただいた皆さんに心から御礼申し上げます。
《付記》
「12・8平和集会」の実行委員会から、長野詩人会議あて、「平和集会のための"群読"の詩をつくってほしいとの要請がきています。
(小林その)
(『狼煙』5号 1991年12月)
千曲川 その水に──大島博光『冬の歌』刊行記念のつどい
A わたしは歌おう
※ わたしたちは歌おう
B 生を変え
C 世界を変え
※ 生を変え 世界を変え
D たたかい生きるのは
E もっと美しいのだと
※ たたかい生きるのは もっと美しいのだと
(※は参加者全員で)
つどいに参加した全員が声を合わせる。
美しい詩の言葉とリズムが、自分のものとなり、仲間のものとなり、心がふくらんでいく、つながっていく…。
第一部の最後、「わたしは歌いたい」の群読が終わっても気持ちは残り、席を立ち去りかねる。「もっと歌いたい、わたしは歌いたい」という気持ちがあふれてくる。普段、詩を読む人も、読まない人も。
十一月二十三日、夜、長野市松代町のサンホール・マツシロで、「千曲川 その水に─大島博光『冬の歌』刊行記念のつどい」が開かれました。
昨年、同じ会場での、板倉弘実詩集『松代大本営』出版記念「詩と絵と音楽のつどい」につづく二回めのとりくみです。
「うまく書けるようになりたい」という長野詩人会議会員の願いは、詩を読む人、求める人がふえることなしにはささえられない、という思いから、詩を書く力量を高めることと同時に、詩を愛する人々をふやしていくことを常に思う私たちは、このつどいのために、「"愛と革命の詩人”大島博光さん、故郷(松代)に帰る」のちらし四〇〇〇枚、案内状三〇〇枚、返信用はがき二〇〇枚(感想・メッセージ要請を含む)、実行委員会ニュース三回(四〇〇枚)を配布しました。
寄せられたメッセージ・感想文は、パンフレットにまとめて参加者にお配りし、欠席者に送りました。
大島博光さんの旧知人をはじめ、神戸、愛知、千葉からの詩人、県労連議長、県高教組委員長、長野合唱団指揮者など、多彩な方々、七十四名が参加されました。
計画の当初は、大島先生に来ていただくのは無理と思っていたのですが、先生から「行こうか」と言っていただいた時は、天にも昇る気持ち。
しかし、結核を患われた大島先生には、十一月末は"地獄の季節"。風邪のために来ていただくことができないことが分かったのは前日。"つどい"のなかみを再検討。せっかく来てくださるみなさんに満足していただけるようにと、前夜おそくまでの準備となりました。
プログラムは、大きなスクリーンに、美しい松代・千曲川の映像(篠ノ井旭高校、中川正巳先生製作)を映しながら、『春がきたら』(大島博光全詩集)の朗読ではじまりました。
ついで、開会のあいさつにかえて、長野詩人会議の中川、荒井、上原の三人が構成詩(『狼煙』一号~四号の作品の中から、十人の作品で。構成、中川あき子)の朗読で、長野詩人会議の紹介を行いました。
『ひとを愛するものは」で始まった詩の朗読。
『不幸はしのび足で』、『君はやってきた』、『わたしは眠ろう 君といっしょに』と続くと、会場は大島博光の詩の世界にひきこまれていく。
ハンカチで涙を拭う人もいました。
「詩集で知っていた言葉が、朗読を通してまったく異質の立体的な言葉となって、私の心の底に落ちてきたのです。すばらしい朗読は詩に生命を吹きこむことだ」と感想文に書いてくださったKさんは、その日、会員になってくれました。
『ヒロシマ・ナガサキから吹く風は』、『夜のサバンナ』、『それは党のおかげだ」そして『千曲川 その水に』とすすむと、会場の雰囲気が高揚して、よい演劇をみる時のような雰囲気が生じて、「朝まで聞いていたかった」ともらす人も。
朗読は青年劇場・勝山春子さんと長野合唱団・古沢望さん。
勝山さんは、前日から来てくださって、朗読の指導をしてくださいました。
寸暇を惜しんで、練習に打ち込む勝山さんの姿に、プロのすごさを見ました。
練習を繰り返す中で、古沢さんは飛躍的に成長。会場から、「青年劇場の人?」と声が出るほど。古沢さんにはこの日、長野詩人会議の会員になっていただきました。
長野合唱団指揮者・渡辺亨則さんが徹夜で選曲し、同じく徹夜に近い状況で小林啓子さん(会員)が編集してくださった井上頼豊のチェロの音楽と、松代中学校演劇班(小林啓子先生指導)の生徒の照明が、効果を盛り上げました。
「あの音楽は、勝山さんと組んでいらっしゃる専門家の方がなさったんでしょ?」という声もあったほど。
大島先生欠席にいたる"つどい"の取り組みの経過を、小林その事務局長が報告。
「ほんとうに行きたいんだよ」と繰り返しおっしゃっていた大島先生の言葉と、ひたすら詩に打ち込む先生の生活を報告、了承をお願いしました。
大島先生に代わって、長野詩人会議の板倉弘実代表から、大島先生の「年譜」、「巨(おお)きな人」、「その詩」などのレジメにしたがって、三十分ほどお話を聞きました。
芸術至上主義から社会主義レアリスムへの苦闘をへての大島先生の巨(おお)きさ、そして謙虚で誠実、あたたかな人柄にふれ、詩に対する大島先生の情熱に圧倒されたと話す板倉代表の言葉にあふれる真情から、参加者はそれぞれ大島先生の人柄を感じとっているようでした。
また板倉代表は、大島先生が今回無理をしても松代に来られようとした(二十余年ぶりだそうです)お気持ちの中には、たんにふるさとに対する思いだけでなく、長野詩人会議やその仲間に対する大きな期待があったからではなかったか。
八十年をかけて"愛と革命の詩"に挑んでこられた、そのすべてを伝え、さらに発展させてほしいとされる大島先生から学びつくし、それを発展させていこう、と訴えました。
このことに関連して、板倉代表は、「長野の仲間の中に"大島先生を超える"可能性をもった詩人がいる」という感想文があった。大島先生は、長野の会員に「行動・実践する詩人」がいることを一番喜び、期待しておられる、と報告。
最後に、大島先生に、春あるいは夏、かならず松代に来ていただいて、『冬の歌』からさらに、『春の歌』、『夏の歌』、『実りの秋の歌』をうたっていただきたい、と結びました。
参加者からは、「大島先生にお会いできなかったことは本当に残念だったけれど、反面、大島先生ご自身の口からは聞くことのできない姿を知ることができた。会場に大島先生がいらっしゃるように感じた」、との声がありました。
第二部では、四十余名が盃をかわしながら懇親、交流を深めました。
松代平和歌う会の仲間が、「たたかいの中に」、「ノーパッサラン」、「泉のほとり」などの美しいコーラスを披露。
多忙な中を参加してくださった県高教組の中沢憲一委員長から、「"愛と革命"の詩のすばらしいひと時をもつことができた。"指導者"には詩心が必要です」とあいさつをいただき、愛知から駆けつた長谷川節子さん、千葉の武力也さんらの詩人、新保五一さん、長谷川健さんら大島先生の旧知の人たちなどからも、あいさつをいただきました。
すばらしい"つどい"をもつことができて、長野詩人会議はこれを機会にいっそう確信を深め、前進していくことができます。
ご協力いただいた皆さんに心から御礼申し上げます。
《付記》
「12・8平和集会」の実行委員会から、長野詩人会議あて、「平和集会のための"群読"の詩をつくってほしいとの要請がきています。
(小林その)
(『狼煙』5号 1991年12月)
1月14日、大島博光記念館運営委員会を開きました。
昨年1年間の活動のまとめと今年の活動方針を論議しました。
1)今年はチリ・軍事クーデターから50年、アルピジェラ展開始から10年であり、関連したシンポジウムを9月に開催する
2)3年間お休みしていたヴァイオリンコンサートを7月に開催する
などを決めました。