千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


三鷹のお宅におじゃましたころ
                           中島荒太

 私が三鷹の大島博光さんのお宅を訪ねるようになったのは大島さんが詩集『ひとを愛するものは』で多喜二百合子賞を受賞されて以降のことであったと思う。それまでにももちろん詩人・翻訳家大島博光の名前は承知していたし、詩人会議の講演などでお会いしたこともあったが、しばしばお会いするようになったのは第十七回同賞受賞の一九八五年以降、つまり大島さん晩年の二十年ほどであった。
 当時私は「しんぶん赤旗」日曜版編集部所属の記者であった。受賞のインタビューのためにカメラマンとともに三鷹市下連雀のお宅に伺ったのが始まりである。編集部在職中はもちろんのこと、退職後もよくお訪ねした。
 大島さんはラグビーと釣りにことのほか関心を示されたが、私はスポーツも釣りも興味を持たなかったので、主としては時節の政治、社会の動きが話題になった。ネルーダ、マチャード、アルベルティ、ゴーシュロンの名前もしばしば耳にしたが、新聞の読者欄の投稿などをよく話題にされたのを覚えている。作りたての自作の詩を見せて感想や意見を求められることもあった。大島さんは誰よりもわれわれ素人の率直な感想を大事にされていたのではなかろうか。
 大島さんのお宅は三鷹駅からバスで二つ目の停留所で降りて二百メートルほどのところにあった。タ刻になると私たちは三鷹の駅の近くまで歩いて出かけた。特に決まった店があったわけではない。駅前のデパートの三階だったか、大衆的なレストランなどに入った。大島さんはそこで銚子を傾けながらタ食をとり、私はもっぱら酒の相手をした。
 「午後六時の男だよ、オイ」─大島さんは前歯の欠けた人なつっこい笑顔をつくりながら、そのように外食をされていたところをみると、奥さんの静江さんを亡くされてすでにかなりの年月が経ったころではなかったかと思う。静江さんを亡くされた当初は、まるで魂が抜けたような落ち込みようであった。ようやく気力も回復して『老いたるオルフェの歌』などまとめておられたころであったのだろう。
 レストランでの晩的、タ飯をすませた私たちは、また下連雀の家への道を戻って行った。ほろ酔い加減の大島さんは道路わきの喫茶店の中に若い女性たちを見かけると、ガラス越しに「ボン・ソワール」と挨拶の真似ごとをしたりして、上機嫌だった。『ひとを愛するものは』の出版記念会の二次会でのこと、詩人の土井大助氏が「今日も若い女性がいっぱいだったなあ。大島さんはどうして若い女性にあんなにモテるのかなあ」と羨ましそうにつぶやいていたが、大島さんの作品を読むと、その青年のような詩魂の若々しさが一つの魅力だ。海外の大詩人たちの詩法なども貪欲に吸収して独自の韻律の言葉が展開される。私もまた詩人のそうしたみずみずしい若さにひかれてあのころ三鷹のお宅へと向かったのであった。

(大島博光記念館ニュース40号)

二人
1985年春 多喜二・百合子賞を受賞した頃
青い空の

今月も盛り上がりました。うたごえのフィナーレ





明るさ いつまでも
ちいさな ぼくたちだけど

あの青い空のように
すみきった心になるように



一本の鉛筆

竹松さんが歌う「一本の鉛筆」
美空ひばりが広島平和音楽祭で平和を願って歌いました


一本の鉛筆があれば
私は あなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば
戦争はいやだと 私は書く

一本の鉛筆があれば
八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば
人間のいのちと 私は書く


生と死が地つづきの




(『詩人会議』1992年9月号)



みずからをはげます歌


みずからをはげます歌

(『詩人会議』1995年3月号)

ピンクバラ

高原学舎

高原学舎

高原学舎


(『狼煙』82号 2017年3月)

浅間山





冨森

冨森



(『狼煙』82号 2017年3月)

のろし

のろし
のろし

のろし

のろし

昨日行われた第70回解放運動無名戦士合葬追悼会(東京都港区・青山葬儀場)で、大野貞純さんが合葬されました。
治安維持法の犠牲になった貞純さんのことを本「九十歳のつぶやき」に書き、講演している妹の大野英子さんが「一生の仕事が終わった」と喜んでおられました。昨日は95才のご高齢ながら一人で会場に行かれたそうです。

皆目わからなかった事件が、支援された方の尽力でだいぶ分かってきたそうです。
昭和12年(1937年)9月、逓信省の雑役夫をしていた大野さんの家が特高の家宅捜索受けた。特高が探したのは大野さんが持ちだした文士たちの反戦の書類だったらしい。文士たち20〜30人くらいを一網打尽にするため。しかし見つからなかった。

埼玉県児玉で僧侶をしていた父親は、帰ってきた大野さんに家中の金をかき集めて5円わたし、長野の山へ逃げろといった。大野さんが送った荷を穴を掘って待っていて、荷がつくと全部燃やし、証拠隠滅した。
大野さんが命がけで持ちだした書類が見つからなかったため、文士たちは無傷だった。
大野さんはつかまれば拷問を受けて殺されると考え、軽井沢の霧積山で仲間の少女と自殺した。
大野貞純さんは合葬される治安維持法犠牲者の最後になるようです。

共謀罪が出されようとして緊迫している現在、大野英子さんは講演会にひっぱりだこだそうです。

*大野英子「兄を抹殺した治安維持法

合葬
博光が合葬された第60回合葬追悼式(2007年3月18日 日本青年館)


 誠実で、寛大で、お人好しのコミューンがぐずぐずしているあいだに、ティエールとヴェルサイユ政府は、コミューンを圧しつぶすために、陰険で、憎悪にみちた準備を着々とすすめていた。四月一日、ティエールは全国の知事や師団長や警務部長にあてて打電した。
 「パリでは、コミューンはすでに分裂し、いたる所にデマをまき散らし、公金を奪って濫費し、無能で動揺している。コミューンを忌み嫌うパリ市民は、一日も早く解放されることを待ち望んでいる。
 政府のまわりに結集した国民議会は、平穏裡にヴェルサイユで開会中である。ヴュルサイユには、フランスがかつてもった、もっとも立派な軍隊の一つが組織を完了している。」
 やがて労働者のパリに襲いかかる、この’立派’な軍隊は、ビスマルクの援助によるものであった。ビスマルクは、休戦条約の条項を破って、捕虜にしていたフランス兵をティエールに返してやる。四万に制限されていたパリの軍隊──ヴェルサイユ軍は十万を突破する。
 (第二次大戦においても、ヒトラーは多くの捕虜を、売国奴ペタンのもとに返してやった。返された捕虜たちは、ペタンの手先となって、レジスタンスの愛国者たちを追及し、弾圧する役割をひきうけたのである。)

 こうして四月二日、ヴェルサイユ軍のパリ進撃は、その火ぶたを切っておとし、フランスのブルジョアジーは、フランス人民にたいして、史上まれにみる残虐な弾圧戦争を始めたのである。とりわけ、五月二十二日から二十八日にいたる最後の七日間は、「血の週間」として知られている。パリケードの上で大量虐殺がおこなわれ、コミューンの多数の連盟兵(フェデレ)たちが銃殺されたペール・ラシェーズ墓地の壁は、「連盟兵(フェデレ)の壁」として有名である。
(この項おわり)

(『パリ・コミューンの詩人たち』)

あまバラ
 三月二十六日のコミューン選挙によって選ばれた国民議会の構成は、雑多なものであった。議員となったブルジョアおよび小ブルジョアの共和主義者たちは、初めはコミューンを支持していたが、コミューンがプロレタリアートに依拠した、まったく新しい政治形態をとりはじめるやいなや、コミューンから離れてゆく。
 「コミューンは、知性に富み、勇気にあふれ、信じられぬような誠実さをもった人々によって構成されていた。かれらは大衆のために、あらゆる生命の安全を守ることに心をくだき、それを自分たちの義務とした。」とリッシャール・ブロックは書いている。
 しかし、その「信じられぬような誠実さ」のゆえに、コミューンは決定的なあやまちを犯すことになる。

 マルクスは、クーゲルマンに宛てた一八七一年四月十二日付の手紙のなかに書いている。
 「……もし彼らが敗れるとすれば、それは彼らの『お人よし』のためにすぎない。まずヴィノアが、つぎにはパリの国民軍の反動的部分が自分で逃亡したあとでは、すぐにヴェルサイユへ進撃すべきであった。だが、せっかくの好機は、いらぬ遠慮のためにとりにがされてしまった。……第二の誤りは、(国民軍)中央委員会が、その権力を放棄してコミューンに席を譲るのが、早すぎたことである」(国民文庫版『フランスにおける内乱」一六七ページ)

 もう一つの決定的な誤りは、フランス銀行を接収せずに、これまた「誠実に」、そのまま手をつけずに放置しておいたことである。
 レーニンは『コミューンの教訓』のなかに書いている。
 「しかし二つの誤りが、輝かしい勝利の成果を、すっかり台なしにしてしまった。プロレタリアートは、中途で立ちどまった。すなわち、『収奪者の収奪』に着手するかわりに、彼らは、全民族的任務によって統一される最高の正義を国内に確立するという空想に心酔した。たとえば、銀行のような機関が奪取されないで、「公正な交換」などというプルードン主義者の理論が、まだ社会主義者のあいだで支配していたのである。第二の誤りは、プロレタリアートが寛大すぎたことである。すなわち、自分たちの敵を全滅すべきであったのに、彼らは、精神的に敵に影響をあたえようと努力し、内乱で純軍事的な行動がもっている意義を軽視し、断固としてヴェルサイユを攻撃してパリの勝利に栄冠をかざるかわりに、彼らはぐずぐずしていて、暗黒勢力を結集して五月の血の一週間を準備する時間をヴェルサイユ政府にあたえてしまったのである。
 だが、そのすべての誤りにもかかわらず、コンミューンは、十九世紀のもっとも偉大なプロレタリア運動の、もっとも偉大な模範である」(大月版『レーニン全集』第十三巻四九〇ページ)

 しかし、コミューンは、その七十二日間の存命ちゅうに、すばらしい事業を実行する。マルクスは書いている。
 「コミューンの偉大な社会的方策は、行動するコミューンそのものの存在であった。コミューンの個別的な諸方策は、人民による人民の政府のすすむべき方向を示すことしかできなかった……」(国民文庫版『フランスにおける内乱』九二ページ)
 レーニンは、マルクスの分析をさらに発展させていった。
 「コミューンは、プロレタリア革命によって『ついに発見された』、労働の経済的解放をなしとげるための形態である。」(国民文庫版『国家と革命』七四ページ)
(つづく)

(『パリ・コミューンの詩人たち』)

噴水

 三月二十八日、市庁正面の演壇を飾ったのは、赤旗であった。このことは、コミューンがプロレタリア革命の性格をもっていたことを、あらためて示している。一八四八年の「二月革命」においては、赤旗はまだ第二共和制のシンボルとはならなかったのである。
 まさに、赤旗はコミューンの象徴であった。コミューンの敗北後も、コミューンの思い出は、赤旗とともに人びとの記憶に残る。追放で、スイスにのがれたポール・ブルースはつぎのように赤旗をうたっている。

赤旗



(つづく)

(『パリ・コミューンの詩人たち』)

赤バラ




一八七一年三月一八日を


注 
(*1)『三〇スー』──連盟兵(フェデレ)たちの日給は三〇スーだった。
(*2)中央委員会──国民軍 Garde nationale 中央委員会は、一八七一年一月に創設された。 そのためにドイツ軍は、パリに入城するも、シャン・ゼリゼ通りまで来て引き返した。
(*3)『芽月(ジェルミナール)』──フランス共和暦第七月──三月二十一日から四月十八日までを指す。 ポティエが「芽月」という共和暦をここで使用したのは、『コミューン』の宣言が三月二十八日だったからである。
 
「パリは まるで子供のように うれしそうに/いまや 『コミューン』を宣言した」 というポティエの詩句は、歓呼をもってコミューンを迎えた人民の歓喜を、目に見えるように描いている。
(つづく)

(『パリ・コミューンの詩人たち』)

バラ園


[短い春 ──コミューンの蜂起(3)一八七一年三月一八日を記念する]の続きを読む
 三月二十六日、コミューンの選挙がおこなわれる。
 三月二十八日火曜日、市庁前の広場で、パリ・コミューンの成立を宣言する人民集会がひらかれる。市庁舎の正面には、大きな演壇が設けられ、演壇のうしろにある「共和制の胸像」も、赤いたすきで飾られ、林立した赤旗が風にはためいていた。コミューンを支持する国民軍の兵士や群衆が、広場を埋め、あたりの家々の窓や屋根のうえや、バリケードのうえにまで溢れていた。
 午後四時、大砲が鳴り、太鼓が広場にとどろいた。正面の演壇に、国民軍中央委員たちと、新たに選ばれたコミューン議員が姿を現わした。中央委員会を代表して、ランヴィエが、コミューンの新議員の名前をひとりひとり読みあげた。しかしその声は、群衆の歓呼の声にかき消された。つづいて「パリ・コミューンは宣言されました!」という声とともに、「コミューン万歳!」の叫びがわきあがり、「マルセイエーズ」の合唱が鳴りどよもした。銃剣の先に、赤いフリジア帽がおどり、ハンカチが振られた。
 ジュール・ヴァレスは「ル・クリ・ド・プープル」(人民の叫び)に、この日の光景をつぎのように書いている。

 「なんというすばらしい日だろう! 大砲の日を金色に染めている、すがすがしくて明るい太陽。この花束の匂い。この林立する旗のはためき。青い川のように、静かに美しく流れる、この革命のざわめき。このわくわくするうれしさ。この明るい光り。この金管楽器のファンファーレ。この銅像の照り返し。この希望の明るい炎。この光栄のこころよい雰囲気。そこには、勝利した共和主義者たちの軍隊を、誇りと歓喜で酔わせるに足る何ものかがあった。
 おお、偉大なパリよ。
 なんとおれたちは臆病だったことか。おれたちはすでに、おまえを見棄て、おまえの場末町(フォーブール)から遠のこうと話していたのだ。おまえの場末町はもうだめだと、思い込んでいたのだ。
 ゆるしてくれ! 名誉ある祖国よ、救いの都市よ、革命の基地よ!
 これから何が起ころうと、おれたちがふたたび敗れ、明日は死なねばならぬとしても、おれたちの世代は慰められた。おれたちの、二十年にわたる敗北と苦悩は報われたのだ。
 ラッパよ、風に鳴りひびけ! 太鼓よ、広場にとどろき渡れ!
 おれを抱きしめてくれ、同志よ。きみの髪の毛も、おれのと同じように、灰色になった。バリケードのうしろで、玉遊びをしている子供よ、おいで、おまえを抱きしめてやる!
 子供よ、三月十八日はやっとおまえを救い出したのだ。おまえもおれたちのように、一寸先も見えない霧の中で大きくなり、泥のなかを這いずりまわり、血のなかをころげまわり、汚辱にまみれ、卑しめられた者の、言うに言われぬ苦しみをなめたかも知れないのだ。
 そんなことはもうおしまいになった!
 おれたちはおまえのために血を流し、涙を流してきた。おまえは、おれたちの遺産を継ぐがいい。
 うちひしがれた者たちの息子よ、おまえは自由な人間となるだろう!」

 また詩人ポティエは、コミューンから十六年後の一八八七年に、『一八七一年三月十八日を記念する』という詩で、コミューンをつぎのように回想している。
(つづく)

(『パリ・コミューンの詩人たち』)

*『一八七一年三月十八日を記念する

けやき

 短い春 ──コミューンの蜂起

 一八七一年三月十八日午前三時、ティエールの憲兵隊、警官隊、歩兵部隊がひそかに行動を起こした。部隊は、ビュット・ショーモン、ベルヴィル、フォーブール・ド・タンプル、バスティーユ、市庁、サン・ミッシェル広場、リュクサンブール、廃兵院(アンヴァリド)をめざして前進した。それらの街や広場には、人民の拠金でつくった国民軍の大砲が備えつけてあった。ティエールは不意討ちをかけて、それらの大砲を奪取し、パリを武装解除しようとしたのである。
 ルコント将軍の指揮する部隊は、モンマルトルの丘へ向った。部隊は、モンマルトルを警備していた国民軍の兵士たちを追い散らして、大砲を奪いとった。しかし、奪いとった大砲を、廃兵院(アンヴァリド)前の広場まで運ばなければならなかったのに、大砲を曳く馬や馬具がなかった。用意してくるのを忘れていたのである。そこで馬や馬具を探すのに手間どって、事態は思わぬ方向に発展することになる。

 手間どっているあいだに夜が明けた。逃げおおせた国民軍の兵士が急を告げた。十八区の監視委員会は警鐘を鳴らして、国民軍の兵士たちに武器をとるように呼びかけた。群衆が、大砲を運びさろうとする兵隊のまわりに集まってきた。朝の八時頃には、モンマルトルを占拠した部隊は、群衆にすっかりとり巻かれてしまったのである。こうして、身近に面と向いあった兵隊と群衆のあいだには、だんだんと交流がはじまり、交歓がはじまる。「おまえさんたちは、自分の兄弟たちに鉄砲を向けられるのかい?」とつめよる女たちに、兵隊たちは銃を逆さにかついで答える。群衆は叫ぶ「戦列部隊万歳! ティエールを倒せ!」──歴史家エドモン・ルペルティエは、その模様をつぎのように描いている。

 「ルコント将軍は、自分の部下たちが手に負えなくなっているのに気がついた。示威運動や大集会にあっては、人民と兵隊のあいだには、つねに一定の距離を置かなければならない。ルコントには歩兵部隊しかなかった。兵隊と群衆との接触はますます親密なものとなり、ますます危険なものとなった。そこでルコントは、実力を行使することに決めた。群衆にむかって解散命令を出し、兵隊には銃を構えるように命令した。
 女たちは、わあわあわめきながら、あとじさりした。けれども、この高台では銃声ひとつ鳴らなかった。歩兵たちは発砲しなかった。ルコント将軍は、さっと駆けおりて、高台の下の部隊に、発砲の命令をくりかえした。第八八部隊の兵隊たちは知らん顔をしていた。ルコントはもう一度、命令をくり返した。兵隊たちは聞こえない振りをしていた。かれらは身を動かそうともせず、銃を置いたまま休んでいた。とつぜん、隊列のなかにざわめきが起こった。新しい部隊が姿を現わしたのである。それは正規軍の兵隊をまじえた国民軍の兵士たちであった。かれらは、集合太鼓の音をきいて、『丘(ビュット)』の東側の後方にあるクリニヤンクールのデゥドーヴィル街に集合していた。かれらはシャトー・ルージュをめざして、オルナノ大通りを登ってきたのである。かれらの通り道のドゥジャン街に、作戦中の第八八部隊の出した前哨隊がいた。国民軍の兵士たちは、隊列をとくと兵隊たちの所へ行って、話しかけ、国民軍に合流するように働きかけた。かれらは兵隊たちを説得して、いっしょに連れてきたのである。

 第八八部隊の兵隊たちは、自分たちの同僚が国民軍といっしょにやってくるのを見て、かれらに合流し、同じように連合しようかどうしようかと迷っているように見えた。ルコント将軍は、兵隊たちのためらいを見てとると、かれの指名した数名の反逆兵たちを逮捕するように、かん高い声で、警官たちに命令した。命令は実行された。『ソルフェリノの塔に連れて行って、ぶち込んでおけ。おれがあとで、締めあげてやる!』とルコントは叫んだ。警官が連行しようとする、服従しない兵隊たちをにらみつけて、かれはつけ加えた。『この下郎ども、いまに見ていろ!』そのとき、高台のうえにいた兵隊たちの隊列から、どよめきの声が上った。ルコントはかれらの方へ取って返すと、狂ったようにおどしつけて、怒鳴った。『最初に反抗した奴は、脳天をぶち抜いてやるぞ!』しかし、ひとつの銃声も起こらず、一丁の銃も動かなかった。ルコント将軍は逆上して、部隊の前へ、ぶるぶる顫えながら進み出ると、怒り狂って言った。
 『きさまたち、戦いたくないなら、さっさと降伏しろ、この下郎どもめ!……』
 隊列のなかから声が上った。それは、ヴェルダゲ軍曹の声だった。かれはのちにサトリで処刑されたが、その理由は、ロジェ街の事件よりは、このときの反抗によるものであった。ルコントに答えるかのように、その声はこう呼びかけたのである。「同志たち、武器を棄てよう!」
 たちまち、数人の兵隊たちが銃を前に投げ出した。がらがらと、大砲がひっくり返える金属音がきこえた。この騒ぎに答えて、歓喜の叫びがあがった。国民軍の兵士たちは、銃を逆さに振りあげながら叫んだ。『戦列兵万歳!』女たちは、兵隊たちの所にわっと押しよせて、兵隊たちに抱きついたり、抱きしめたりした。どこでもかしこでも、みんなが銃や軍帽を振りざし、手を握り合った。国民軍の兵士たちは、まだ銃を手にしている戦列兵に、自分たちの嗅ぎ煙草を渡して、かれらのシャスポー銃をうけ取った。将校たちは、みんなに包囲されて、もみくちゃにされ、武装を解除された。」
 けっきょく、群衆に発砲を命じたルコント将軍は群衆に捉えられる。そして、一八四八年の「六月蜂起」にたいする虐殺者のひとりであったクレマン・トマ将軍とともに、ルコント将軍も、ロジェ街で処刑される。

 このモンマルトルの出来事は、大きな劇の一幕にすぎなかった。ほかの作戦地点でも、ティエールの軍隊は撤退し、ティエールは馬車を駆ってヴェルサイユに逃げた。
 これが、プロレタリア革命の合図となり、パリ・コミューンの始まりとなった。この革命においては、売国奴たるヴェルサイユ議会およびティエール政府にたいする憎悪と、民族的屈辱感と、労働者階級の革命的情熱とが結びついていた。こうしてプロレタリアートは、初めてじぶんの運命をじぶんの手に握り、権力をじぶんの手に握ったのである。

 三月十八日に蜂起した人たちを、ポティエはのちに「蜂起者」と題する詩のなかに歌っている。

(続く)

(『パリ・コミューンの詩人たち』)

*「蜂起者

パリ・コミューン