千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。




絵日記

8月20日 土曜日
しがこうげんへおとうさんやおかあさんと弟と妹といった。はじめに あるいてまつしろの駅にいった。でんしゃでちくま川のはしがよく見えた。
すざかでのりかえた。ゆだ中でおりた。まるいけまでばすにのった。とちゅうでやまをのぼった。まるいけでボートにのった。かえりかけたが またまるいけをとうってほっぽへいっておんせんにはいったりしてかえった。(おわり)

*初めて家族で志賀高原に行った時のことが懐かしく思い出されます。険しい山の道路をバスで登ったのは少し怖かった。丸池は大勢の人で賑わっていました。発哺の熊の湯では旅館の人に「お泊りですか、休憩ですか?」と訊かれ、「休憩です」と親が返事して部屋で休みました。ボートに乗ったり温泉に入ったりして楽しんだのに、残念なことに絵は描いてありません。志賀高原へはその後もスキーやハイキング、学校行事などで東京からよく行きました。当時は一番人気のある高原だったのかもしれません。

志賀高原



梁
久しぶりに静江の弟の利二さんにお会いしました。

梁
お墓参りをしたあと、利根川の梁へ案内していただきました。
梁
梁
梁
川風が心地よい簗の席
梁
河原に降りてみると、ヤナの跡がありますが、今は使われていないようです。
梁
としじさん
静江の影響でクラシック音楽が好きになった、
映画「ここに泉あり」で有名な群馬交響楽団の定期演奏をよく聞きに行ったそうです。
あゆ
標準コース(松)で、塩焼きが3本、フライ、味噌かけが1本づつで食べきれないほどです。

榛名
正面におぼろげに見える榛名山。晴れれば見事だそうです。
梁
前橋市内の隆興寺にある鈴木家のお墓

絵日記

8月19日 金曜日
ちくま川のはしをわたっておとうさんのいもうとのうちへいった。たんぼの中をとうって そのうちのりんごばたけにいった。とちゅうに学校があった。りんごをとってたべた。すいかもよさそうなのをとって わってみたが 中がだいぶ白くておいしくなかった。そこのうちにかえっておふろにはいってからリヤカーで帰った。ちくま川のはしをわたったら雨がふってきた。うちについたらびっしょりになった。

*博光の妹・小枝さん(大正4年生まれ)は千曲川の対岸の丸山家に嫁いでいました。
田んぼの畦道の脇の流れにフナやドジョウがたくさんいて嬉しかったが、スイカが美味しくなかったことは覚えていません。
絵日記

8月18日
みのちゃんとりんごばたけのほうへ なすをとりにいった。大きいなすやいろいろのなすがとれたが東京のほうのなすとかたちがちがっていた。ひるすぎにちくま川の土手にくさかりにいった。やぎにあげたりした。
その日もおとうさんが川へさかなつりにいった。
おかあさんが、「長の市にいったから あしたの夜かえってくるといった。」
駅

8月16日 火曜日
しんしゅうにいった。
しんしゅうでえにっきをつけたりするので にっきとなつやすみのテキストももっていった。
へんでんしょのばすのていりゅうじょうから乗っていった。おとなりのおばさんもていりゅうじょうまでむかえに(見送りに)きてくれた。いくとき きゅうこうのきしゃでいった。
上のからのって高さきをすぎたとき かんのんさまがみえた。よこ川で電気きかんしゃつけかえているひまにアプトしきのもけいをえきにおりて見た。このさきは山にのぼったり さかのところをいくので はぐるまのついたレールになるのです とおかあさんがゆった。
とんねんるを二十三もくぐった。あさまやまもみえた。やしろで まつしろへいくでんしゃにのりかえた。えきについたらのぼちゃんたちがむかえにきていた。

千曲川

8月17日 水曜日
のぼちゃんと もろこしをはたけへとりにいった。ぼくはじてん車のうしろに乗っけてもらった。もろこしをざるにいれてかえった。うちでもろこしをふかしてもらった。
すこしたってから おとうさんがさかなをちくま川につりにいくから ちいさいすいかをもってきてといったので みのちゃんともらいにいった。

*当時、西寺尾の実家は尚行さん(博光の弟)が継いでいました。男の子が4人いて、のぼちゃん(昇さん)は次男でぶうわより2〜3才年上、みのちゃん(稔さん)は長男、3男がアキちゃん(晃さん)、4男がわたちゃん(亘さん)で秋光と同学年。
絵日記

8月14日 日曜日
すなやまであそんだ。あずちゃんたちとした。ふねをつくったり ひこうきをつくったりしてあそんだ。
あそびおわってから しゃべるで したのほうにおちているすなをうえのほうにのっけたりした。

絵日記

8月15日 月曜日
あしたはしんしゅうへいくので きんぎょがしまないように 水をいっしょうけんめいにとりかえた。ぼくが山田さんのうちにピアノにいっているあいだに みずをぜんぶかいだして おとうさんたちがあたらしい水をいれているところだった。ちいさいこいがだいぶ大きくなっていた。
ピアノ(教室)にあとからいった。


絵日記  

8月13日 土曜日
やまださんのうちにピアノのれんしゅうにいった。かえるとき たるの中にきんぎょとめだかがはいっていた。それはうちであげたきんぎょだった。
その日はピアノに行く日だったが いかなかった。

*山田さんは同じクラスのお嬢さんで、家もすぐ近くだった。ピアノ教室に行く前の練習にピアノを借りに行った。山田さんのお母さんが出してくれた赤いシロップ水が冷たくて美味しかったことを覚えている。
素直な子どもだったぶうわは母親の言うとおりにピアノ教室に通ったが、長続きせずにバイエルまでで終わってしまった。一方、妹は大学生の頃までピアノを続けたし、弟に至っては教わらなかったのに独学で「月光」などを見事に弾きこなすようになった。<イリーナさんが弾く「月光」

絵日記

8月12日 金曜日
ピアノをしてから がっこうへいった。はじめに夏やすみちょうのきょうするところをした。
やきゅうも赤と白のしあいをした。ぼくはピッチャーとセカンドでした。やきゅうはぼくたち赤がかった。
がっこうからかえってから おひるすぎの三じから おとうさんとこいつりにいった。たま川でつった。つったのは二十五cmのこいを一ぴきだけだった。



山中湖
かつて桟橋のあった千葉大の浜
森
今は山野草ばかりが茂っています
山中湖
山中湖
山中湖
山中湖
山中湖
山中湖
月見草がとても多い
山中湖
隣の浜には桟橋とオートキャンプ場があり、家族連れで遊んでいます。
山中湖
山中湖
山中湖
湖岸の道路にはサイクリング用のレーンがあり、花壇もたくさんあります。
対岸の丘の上にはホテルマウント富士。
山中湖と富士山の眺望が素晴らしいので、お茶を飲みによく行きました。
山中湖
ホテルマウント富士のウラ(山中湖の反対側)にある花の都公園。
今の時期は一面に百日草の赤や黄色が。
山中湖
ひまわりの畑も見ものです。


花の都公園に100万本の百日草

千曲川
千曲川
上田付近の千曲川堤防道路は眺望が良くて快適です。
千曲川
村
上流にすすむと古い村落に入ります。
千曲川
大きな岩の上に鉄の杭を発見、
千曲川
この岩は太鼓岩といわれ、かつて吊り橋がかかっていた、その名残だそうです。
千曲川
広い道にでました。海野バイパス。
海野宿
この先にかつての宿場町として有名な海野宿(うんのじゅく)があるようです。


絵日記


8月11日 木曜日
ピアノにいってから氷メロンをたべた。それからすいかをたべた。おひるごはんをたべてから かとうくんのうちにあそびにいったが おばさんが「いのがしらにいったよ」。といったのではいちょをもっていのがしらにあるいていった。いのがしらにつくと かとうくんとおざきくんがいっしょにさかなをつっていた。ぼくはつりのえさのえびがにをとるやくめだった。

*毎日、井の頭公園に行って釣りをしていたんですね……。不思議なことに、よくあそんだ加藤くんがどんな人だったか、まったく記憶にありません。

絵日記


8月10日 水曜日 晴
おとうととばすにのって いのがしらにさかなつりにいった。いのがしらについてから かとうくんにあった。かとうくんは えさはえびがにのしっぽのにくだったが ぼくはみみずだった。みみずがいなくなったので かとうくんにわけてもらった。かとうくんはさかなを三びきつったが二ひきにがして一ぴきしにそうなのでにがした。ぼくは一ぴきもつらなかった。


絵日記

8月9日 火曜日

おとうさんとたまがわへさかなをとりにいくつもりだった。おひるがすぎて三じごろからいくのだ。
ぼくもつりのどうぐをもっていた。るすばんのおばさんがこないのでいけなかった。
一人で ばすでいのがしらへつりにいったがなにもとれなかった。帰りにもばすにのってかえったが うちについたときはくらかった。


黄バラ


わたしの不運は


(詩集『老いたるオルフェの歌』)
静江葬儀
出棺にあたって挨拶する博光

静江葬儀
小熊忠二夫妻と

ダビング
1986年から96年までに撮影したビデオが24巻

以前撮影した8ミリビデオを業者にDVDにダビングしてもらった結果、見られるようになりました。早速静江の葬儀の巻を見たら、貴重な記録がありました。1973年4月の四十九日の会で、静江の叔母(近藤芳子さん)や妹(遠山房江さん)が詳しく話していました。静江は前橋から東京の近藤芳子さんの家に寄宿して紙芝居をつくる仕事をしていて博光と知り合ったのだが、実は前橋である人と婚約し、結納まで交わしていた。それが破談になって、前橋にいられなくなって東京に出てきた。破談していなければ博光と知り合うこともなかった。不思議な縁ですね……。

「親の束縛に反発して、絵を勉強するために東京に出てきた」という本人の話にはウラの事情があったようです。