千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


見学
上田市塩田中学校の同窓の4人が見学してくださいました。

見学
「アルピジェラを初めて知った、チリの軍事クーデター(1973.9.11)のことも知らなかった」

見学
取材に来ていた朝日新聞の記者が感想をうかがいました。
「説明があったので理解でき、良かった。説明がないと分からない」
「アルピジェラを縫うことで女性たちは悲しみを癒やしたのだと思います」
「普通の人の素朴な手芸だからこそ、心が伝わってきます」

見学
熱心に見てくださってありがとうございました。

(『グレヴァン博物館』と状況の詩)

 『グレヴァン博物館』は、ヒトラー、ムッソリーニ、ペタンらの、怖るべき醜怪な姿を、ロボット人形の影像で痛烈に風刺している。この人形どもの行先は、もはや歴史の博物館──グレヴァン博物館こそがふさわしい。
 この詩集の序文『黒い魚──あるいは詩の現実について』のなかで、「状況の詩」にふれてアラゴンは書いている。

 「わたしはいま『グレヴァン博物館』を読みかえしてみた。そうして

  ひとつの歌を わたしはつくった 死ぬばかりの悲しみで
  どうして どのようにして つくったかわからない
  なぜなら よるもひるも タぐれも朝がたも
  わたしは 自分の心も想いも 抑えられぬのだから

 とうたったペイル・ヴィダールのように、わたしもまた、じぶんの詩について語りたくなるのだ……
 ……わたしは、自分がつくったほかのどの詩にもまして、この『グレヴァン博物館』が、どうして、どのようにして書かれたか、語ることができない。その秘密は、わたしの秘密ではなく、あまりにも長くしかも過ぎさりやすい一時期、フランスの心臓が狂おしく高鳴っていた一時期の秘密なのである。それは一九四三年、せいかくに言えば一九四三年の夏である。四二年には、あるいは四四年にも、これらの詩句の一行も書かれ得なかっただろう。四二年には、あるいは四四年にも、この詩の表現は承認されがたく、不当なものだったろう。四二年の打撃はまだ充分ではなかったし、四四年には希望はちがった形をとっていた。そうだ、『グレヴァン博物館』は状況の詩である。そして未来の歴史家たちが、この詩にすこしばかり心をとめたとしても、あの(ヴァレリイの)『海べの墓地』や『蛇』がいつか彼らに与えるだろうあの困惑、あのとまどいを、この詩についてはもたぬだろう。『海べの墓』や『蛇』は、ひとのいうところによれば、永遠のひとかけらだということだ。その失われた日付けは、多くの議論の後にも、見つけだすことはむづかしかろう。……多くの若者たちがパルチザンにくわわった、あの一九四三年の夏に、叙事詩的感情がよみがえるのである。その根は、数年来の土壌にねざしている。というのは、四二年には、ポリッツエル、ドクール、ソモロン、デュダック、フェルドマンたちが仆れ、四一年には不滅のペリイとシャトーブリアンの二七人が死んでいた。そして四○年、三九年には、あの虚偽不正をゆるさぬひとびとの英雄的な生活があり、三六年来のスペイン戦争があった……まさに、この流された血、これらの犠牲者たちから、フランスの歌はわきあがらずにはいなかったのだ」

 ここでアラゴンはまず、『グレヴァン博物館』の書かれた歴史的状況を述べ、状況の詩──叙事詩──フランスの歌、民族の歌がわきあがらないではいない歴史的条件を指摘している。それはほかならぬナチスの侵略とそのやばんな圧制によるフランスの危機、その危機に際してフランス人民の民族意識・民族感情がよみがえったことである。この民族意識のよみがえりは、一九三六年、フランス労働者階級における民族意識復活の序曲をなしたスペイン戦争以来、準備されてきたものだった。この民族感情は、フランス人民のなかに、叙事詩的感情となってみなぎり、叙事詩となって湧きあがらずにはいなかったのである。そうして叙事詩こそ、民族の詩の主要な側面となった。民族的な共同の感情があり、共同の行動があり、共同の闘いがあり、そうして新しい「武勲」があるとき、それは叙事詩として歌われずにはいないからである。

 アラゴンはさらに書いている。
 「叙事詩の本質は、叙事詩の長さにあるのではなくて、叙事詩的感情のはげしさにある。それは、たとえばつぎのような詩句に要約される。「おお 見ろ オーヴェルニュよ 敵がやって来たぞ!」おなじく、ユゴーのみじかい詩の、つぎのような結びの詩句「おーい友よ とギリシャの子供が言った 青い眼の子供が言った──おれは爆薬がほしい 弾丸がほしいんだ」これらの詩句は、あらゆる冷笑にもかかわらず、圧制の思い出がこの地上からぬぐいさられぬかぎり、壮重なものとして残るだろう。たとえ、フランスの生活状況が、叙事詩的であることをやめたときにも……」
 「詩を叙事詩たらしめるものは、状況である。ということは、明らかに、叙事詩はつねに状況の詩であることを意味する、このことは、恐らく、最初の原型では意味していないことだが、奇妙なことを強調することになっている。つまり、叙事詩は、こんにちの通用語では、詩の「高貴な」一形式とされているが、それなのに、「状況の詩」ということばは、下等なジャンルの詩にたいする言い分として、ある種の侮蔑をもって用いる表現なのである…… 叙事詩的感情とは、民族感情の詩における名まえ以外のものではない……」

 アラゴンは、このように状況の詩、叙事詩を擁護しながら、ふたたび、ヴァレリイ風な「永遠の詩」や「詩的な神秘」の愛好者たちに批判を向けている。「永遠のひとかけら」と言われるヴァレリイの純粋詩、あの「いやはてのダイヤモンド」や、あるいは「リルケ風」は、現実の状況を侮蔑する。だが、これらの架空のオペラは、「子供が死のうとしている時には、黙りこんでしまう」のだ。
(つづく)
(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

池

   わたしは書くのだ……

わたしは書くのだ 黒死病(ペスト)に喰い荒された国で
あのゴヤの悪夢の 再来したような国で
犬どもが 「精神の糧(かて)」ばかりをつけねらい
白い骸骨が 大豆畑をたがやしている国で

人相のわるい大男が あたりをうろつきまわり
鞭(むち)をふるって 家畜を追いたててゆく国で
怖るべきわざわいの日々の 非情の空の下
野獣や猛禽(もうきん)どもが 爪で獲物を奪いあう国で

傀儡(かいらい)どもの足に踏みつけられて 息もつけず
車の轍(わだち)で 国の奥まで掘られ抉(えぐ)られ
ペトーシュ王の名で しぼりとられる国で
人間面(づら)した狼どもの餌食となる 恐怖の国で

わたしは書くのだ 人びとが汚物と渇きの中に
沈黙と飢えの中に 閉じこめられている国で
ラバールの統治下 まるでヘロデ王の治世のように
母親の目の前で 息子がひったてられてゆく国で

わたしは書くのだ 流れる血で顔かたちもゆがみ
傷だらけ痛みだらけで 呻めいている国で
押し入るにまかせ 雹にうたれる市場のような国で
死神が 骨のかけらでお手玉をする 廃墟の国で

わたしは書くのだ 警官が 夜(よる)の夜ふけに
家々に踏みこんできて 人びとをひっ捕え
刑事どもが 愛国者たちに口を割らせようと
その傷(いた)めつけた手足に くさび打ちこむ国で

わたしは書くのだ 山なす死者たちにじっと耐え
その赤紫いろの傷口を 人眼にさらしている国で
猟犬の群が むらがってその上に咬みつき
下僕が角笛吹いて 獲物の分け前を分けあたえる国で

わたしは書くのだ 屠殺者どもに皮剥(は)ぎとられる国で
そのむき出しになった神経 臓腑 骨が見える
またわたしは見る 松明(たいまつ)のように燃えあがる森を
燃える麦畑のうえを 逃げまどう小鳥たちを

わたしは書くのだ 身の毛もよだつ非道が横行し
外国の兵隊たちの 寝息がきこえる深夜のなかで
遠いトンネルのなかで 列車が悲鳴をあげる
抜け出られるかどうかは だれにもわからぬ

わたしは書くのだ 二人の敵手が闘かう決闘場で
一方は 飾り馬にまたがり 鎧(よろい)かぶとに身を包み
片方は 敵の剣に 見るも無残に切りきざまれ
身にまとうものとては ただ勇気と正義だけ

わたしは書くのだ 予言者ばかりか国民ぜんぶが
獣(けもの)なみに つき落されている この穴のなかで
誰か叫んでくれ この辱しめを忘れるな
とうぜん食う権利のある肉を 奪い返えせと

わたしは書くのだ 俳優たちがその花道も幕間も
楽屋も失(な)くしてしまった 悲劇の書割のなかで
侵略者たちが わずかばかりの無知なやからに向って
大言壮語をもぐもぐと読み上げる 空(から)っぽの劇場で

わたしは書くのだ 怨嗟の声がおうおうとみなぎる
巨大な徒刑囚船(ガリー)の中で またわたしは書くのだ
拳(こぶし)で壁をうちたたく合図の音が 年獄じゅうにひびき
看守たちを面くらわせる タぐれの地下牢で

これでも君らは わたしに花を歌えと言うのか
もう 叫び声などを歌ってはならぬ というのか
あの七色の虹のうち 今わたしの愛するのは三つの色だけだ
しかもわたしの好きな歌を君らはもう禁じてしまったのだ

どうして我慢できよう 泡杓子(あわすくい)のように穴だらけのこの世界に
そこにのさばる不法と あの呪わしい怪物どもに
そして わたしは 消えた「楽園」の思い出を呼び起こし
そのしらべに わたしの歌を結びつけずにはいられぬのだ

わたしは歌おう 心なき がらくたの言葉で
こんこんと降る雪よりも もっとさり気なく
新聞で読むような ざらざらとした言葉で
そうして みんなの言い廻わしで 語るのだ

ふと アスファルトに落ちた 銅貨の音に
ひとが 歩きながらも 振り返えるように
不幸の噂は 誰いうとなしに 伝わってくる
それは降って湧いたような言葉 立ち去らぬ言葉だ

フランスの言葉は 二重の意味の希望をひめる
雨の降ったことを 忘れやらぬ牧場のように
もっとも単純な言葉が もっとも強い力をもち
その協和音で 長い余韻を残して ひびくのだ

鳥たちを歌おうと えびら萩の茂みのなかで
色あせてゆく八月の その移ろいを歌おうと
また風について歌い 薔薇について歌おうと
わたしの歌はちぎれて すすり泣きに変わるのだ

野に花が散るや わが人民は鎖につながれる
わたしの眼の中に べつの詩が燃えあがる
この空模様では なにもかも地獄の匂いがする
シレジアの塩坑にたちこめているあの匂いだ

おろかなことだ 口に出さずに黙っていようと
たれもかれも 知ってることを 詩に歌うとは
だが このドイツの牢獄を フランスの調べで歌うなら
かれらの悪事は 羽根が生(は)えて 忽ち知れわたろう

わたしがなお歌うのは 憎しみの太鼓をうち鳴らし
歌の調べのなかに その教訓をきざみこむためだ
ポーランドの国ざかいには 拷問地獄がある
その怖ろしい名を 口笛や指笛が吹き鳴らす

人間の力のぎりぎりの世界 ぎりぎりの飢え
キリストも こんな怖ろしい目には会わなかった
こんな果てしもない 胸えぐる非情の世界に
人間の魂が投げこまれるとは 知らなかった·

アウシュヴィッツ アウシュヴィッツ 血のしたたる音綴り(おんつづり)よ
ここにひとは生き 火の消えるように死んでゆく
ひとはこれを なぶり殺しの刑と呼んでいる
われらの同胞が ここで徐々に死んでゆくのだ

ここに繰りひろげられるのは 苦痛のオリンピックだ
恐怖が 死にもの狂いで 死とたたかうのだ
しかもそこに フランスの選手団がいるのだ
わが国の 百人の女たちが そこにいるのだ

見るがいい 栄光にみちた百の花たちが
この不幸な祖国の名誉を その血で守りぬいたのを
残酷無残な学校における その百の教訓から
われらは学びとろう 愛とは 憎むことだと

息子や 兄弟や 夫たちに 聞くもなつかしい
その百の名を いまは告げるわけにはゆかぬから
せめてこの不幸のどん底で あなたたちに挨拶を送ろう
マリー・クロードの名を呼んで マリーよと

そして『自由』の絵図で 最初の叫びをあげてる女のように
最初に夜(くらやみ)のなかへと逝き はるか墓の彼方で
光りと化したマリー・ルイズ・フルーリよ
わたしは あなたに挨拶をおくる マリーよ

  ああ 怖るべき種まきが
  この長い夏を 血で色どる
  あまりにひどすぎる 聞けば
  ダニエルもマイユも殺(や)られたという

  奴らは ひと切れひと切れ 切り刻むのか
  連れ去った わが優しいフランスを
  噂をきけば 悲惨なわれらの野に
  暗闇は いよいよ濃くなるばかり

  言葉は無力で うまく伝えてくれぬ
  マイユよ ダニエルよ わたしには自信がない
  わたしの胸と歌とを ひきちぎる
  この物語を どう語り終えるか

百の顔をもったフランスのマリーたちに 挨拶をおくる
あなたたちの或る者は 人質を殺した人殺しどもの
ぬぐいとれぬ悪名を 永久に 告発するのだ
愛した仲間たちのあとに ただ生き残ることで

生き残ってるあなたたちを 男たちは待ちこがれている
奴らのむごい仕打ちを知って 身ぶるいしている
様子を知ろうにも 手がかりは風の便りの噂ばかり
もう その怖ろしい重荷に うちひしがれているのだ

それでも彼らは 遠いあなたたちの真相がわかるような気がして
も一つのむごい不幸が降りかからぬかとおののくのだ
あなたたちが帰えってくれば 彼らは生れ変わる
だがどうしたら 奪い去られたあの人に会えよう

しかし 愛から生れるのにさえ 苦しみがあるのだ
帰ってきたら どんな暗い話をすることかと
彼らは 夜もねずに 昼はぼんやりと思いふける
あなたたちの徴笑みさえ見れば すべてはまた始まるのだが

あなたたちがめでたく帰ってくる その時には
おのぞみどおりの花々を飾って 迎えよう
かがやく 未来の色をした花々で 迎えよう
どうしても 帰ってくれなければならぬのだ

あなたたちの席は 優しい光に照されよう
子供たちは 拷問された手にくちづけしよう
あなたたちの疲れた足もとで すべては柔い苔となり
音楽があなたたちの心を慰め 部屋を和らげよう

夜がやってくると 庭は生きいきと 息づこう
夏の茂みはそよぎ 野は深(ふか)ぶかと広がろう
たちまち 燕が窓にやってきて 告げるだろう
マリーよ ようこそ お帰えり マリーよと

おお 怪物どもの手から奪い返えされ 平和にもどった
わがフランスよ 難破をまぬかれた船よ 換拶をおくる
オルレアンを ボージャンシーを ヴァンドームをほめ讃える祖国よ
鐘楼の鐘よ 鳥たちのために アンジェラスをうち鳴らせ

雉子鳩の眼をしたわがフランスよ 挨拶をおくる
わたしの苦しみも わたしの愛も むだではなかった
わが古くて新しい葛藤の国 わがフランスよ
英雄たちの眠っている大地よ 雀のむれとぶ空よ

嵐もさって 風も凪(な)いだわがフランスよ
地図を見れば 海風に向って掌(てのひら)のように開き
遠い沖の鳥たちが飛んできて 羽根をやすめる
わが永遠のフランスよ あなたに挨拶をおくる

リールからロンスボーへ ブレストからモン・スニへと
渡り鳥は 飛びまわって 初めて学びとったのだ
自分の巣を棄てて 飛びまわるに 価いするものを
わがフランスよ わたしはあなたに挨拶をおくる

鳩の祖国であるとともに 鷲の祖国でもある祖国よ
ごり押しの厚顔と 湧き起る歌声とが 同居している祖国よ
小麦と 毒麦とが 気まぐれな太陽のひかりで
ともに実(みの)るわがフランスよ あなたに挨拶をおくる

あの驚嘆すべき日日 民衆がめざましい働きぶりを
発揮した わがフランスよ あなたに挨拶をおく
人びとは歓呼の声をあげて はるばる首都にやってくる
パリ 三年の蹂躙(じゅうりん)に耐えぬいた なつかしいパリよ

幸いなるかな 偉大なるかな 勝利の虹をかかげ飾るものは
虹がかかったからには もう雷鳴はとどろかぬだろう
かちとった自由に 鳴りをひそめていた竪琴(ハープ)もまた鳴り出す
おお 栄えあれ 大洪水をくぐりぬけた わがフランスよ
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

池



5)グレヴァン博物館

    われらの黙示録が始まって……

われらの黙示録が始まって 四度めの夏
ふしぎな うすら明りが地平線に現われた

いまや くらい日蝕も 終りに近づいたのか
あかるい希望が 牢獄の藁のなかにも脈うつ

きくがいい 風にきしむ戸のように呻く夜を
あけぼのが 人殺しどもを青ざめさせるのだ

おびえた王侯たちが護衛をつれてご帰館になる
血まみれの服を洗っている 奥方のところへ

いままでの彼らの領地 恐怖の帝国に
せきをきったように ちがった話声が流れる

はじめて 殺すためでない 人間らしい言葉が
暴君どもの くちびるを ひらかせる

彼らは免罪権を云々し 気が狂っていたんだという
きょうもどこかで 子どもが死んでゆくときに

これからは 恋の歌を甘くささやくがいい
その偉大な胸ははり裂けると 世に証(あか)すがいい

だがついに 隈(くま)どりをした道化顔の下に 素顔はのぞく
彼らの人殺しは数えられ 帳簿は閉ぢられたのだ

彼らは 犯罪をもって犯罪の口実としながら
ひとびとの呻き怨む声に うち興じていたのだ

かつてわれらは 彼らの馬どもの秣(まぐさ)集め隊だったが
彼らの戦車隊や陰惨な仕打ちにも毅然として立っていた

権力は掟となって 精神を辱しめふみにじった
彼らはおのれの法律を拒むものを気違いだと笑った

彼らの形面上学では すべてが変るためには
見せかけの光りが作られるだけで 十分だった

彼らの哲学では すべてが変るためには
音楽をちょっと変えるだけで 十分だった

なんと奇妙な時代の 奇妙な季節だろう 
狼が森の中を 説教してまわりたいというのだ

まるでぼろぼろに裂けて 綿のはみでた座布団だ
誰の眼にも その腹と秘密がまる見えなのだ

ヨーロッパの四辻で 演説をぶってる男たち
だが 事業をしくじった絶望はかくしきれない

博愛家の燕尾服をきた 案山子(かがし)たちも
夜明けには 首を吊ったようなふりをしている

敗北は彼らの頭上にあるのに 信じようともせず
彼らは 折れた剣を 風に向かってふりまわす

しかし、彼らをとりまいた群衆は 生きた鏡だ 
彼はもう首を切り落とされた姿で映っているのだ

むだなことだ 大言壮語でひとをあざむこうと
夜明けは 恐(おそ)ろしいものだと言いふらそうと

むだなことだ いまさらいつくしみの手袋をはめようと
天命をうけてやってきたなどと 言いはろうと

むだなことだ 無知を美徳の列に祭りあげようと
くらやみを 光りだなどと 言いくるめようと

おのれの葬式の重い足どりをわれらにおしつけようと
異国の神々を われらの銅像にとって代えようと

臆病であれと教えようと 奴隷根性を吹きこもうと
いたるところに 恐怖の風をあふりたてようと

男を牢獄に 女をやもめ暮らしに おとしいれようと
すべてを汚し 台なしにし 辱しめようと

むだなことだ いまなおおのれの憲兵に命令しようと
むだなことだ 戦利品に腰かけて眠りこけようと

彼らは じぶんの涙の色をかくすことができない
まちがいなく 夜のあとには朝がやってくる

あけぼのはその赤銅の手をさしこんで焼きつくすのだ
あのくらやみの王どもと その腐った合唱隊とを

あのにせの十字軍 妖怪変化のぺてん師どもから
怒りに燃える大地は 解き放たれねばならない

彼らには恐ろしいのだ 息づくすべてのものが
ゆりかごのほとりの子守り歌が 夏の小鳥さえが

脈うつ心臓の音にもおびえて 身をかくす
すべてが物の化に 鎖に 幽霊屋敷に見えるのだ

眠りの中できく足音も 見張りにやってくるようだ
いったいどんな夢をみて あんなに寝がえりをうつのか

彼らの思い出は火の中 こころには棘(とげ)だらけ
こんどは彼らの番だ 誰かが彼らを責め殺すのだ

誰の眼にも見える 白い鳥について語っている
その地獄の口から 毒蛇が這いだしてゆくのが

誰の眼にも見える 彼らのうしろで殉難者たちが
親指をそらして 血まみれの合図をしているのが

誰の眼にも見える 裏切者たちの暗い眼ざめが
太陽にあばき出されて あわてふためくその姿が

誰の眼にも見える 牧師が彼らのわきで悲劇的に
くちづけするようにと 十字架をさしだす姿が

誰の眼にも見える 未来におびえおののく彼らの姿が
誰の眼にも見える 刑車(くるま)が彼らの上をまわるのが

誰の眼にも見える これら死刑囚どもの姿が
そして弾丸(たま)にぶちぬかれて 黒い血の吹き出すのが

彼らは やがてやってくる判決の 恐ろしい焼印を
その肉に焼きつけられて もう塗りかくすこともできぬ

ロボットたちの額を照らす 蠟燭明りのなか
彼らはもう集合しているのだ グレヴァン博物館に向かって

☆グレヴァン博物館 一八八二年に漫画家アルフレッド・グレヴァンによってパリのモンマルトルに設立された蠟人形の陳列館。アラゴンはこの詩集で、ナチスの協力者たちを蠟人形館行きのロボットとして痛烈に風刺している。
(つづく)
(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

池

4)サン・ドナの村へ

 ところで、このリヨンのモンシャの隠れ家も安全ではなくなったので、一九四三年七月には、ドローム県の寒村サン・ドナに移る。その頃の一枚の写真をみると、ちょうど日本の農村の、壁のはげ落ちた土蔵のような家から、アラゴンが降りてくる。下には、村の子供がなかば裸かで立っているところが写されていて、地下生活のきびしさが思いやられるのである。サン・ドナの思い出をエルザはこう書いている。
 「わたしたちにとっても、活動にとっても、リヨンはいたずらに危険の多いことが分った。そこで、必要な外出のできる静かな場所に、わたしたちはかくまわれることになった。こんどは信用できる偽証明書をもって、わたしたちはドローム県のサン・ドナへ向った。むろんそこでは「北部地帯」からの多くの避難者のように、おとなしく、仕事のない閑人らしく装って暮らさねばならなかった。よく組織された非合法活動のきびしさが、すべてについてまわった。
 わたしたちは、「解放」の日までそこにとどまった。ヴァランスやリヨンやパリへしげしげと旅行をしながら。(リヨンのブロンに、わたしたちはついに月ぎめの部屋を借りることにした)村のひとたちは、ひんぴんと行ったり来たりするわたしたちをよく見ていたが、見て見ぬふりをしていた。まもなくわたしたちは、村びとのなかに、口の堅い協力者を見つけだした。その人たちは、口には出さなかったが、この地域に避難していたパリっ子たちをとおして、わたしたちが何者なのか知っていた。またある村びとたちはわたしたちの素性を知らぬながらも、「感づいて」いたし、ほかの村びとたちは、わたしたちを何かうさんくさいと思っていた。わたしたちは、サン・ドナにとどまることに決めた。結局、運は天にまかせるよりほかなかった。私たちにとって、安全であるような場所はどこにもなかったのである」
(『交錯小説集第五卷序文』)

 ラヴァル、ペタン、アウシュヴィッツなどの名まえを公然と挙げているような詩は、一九四三年〜四四年頃に合法的に発表することはとてもできなかった。アラゴンの詩にとって、いつそうきびしい非合法の時代がやってくる。こうして非合法出版が始められる。
 その頃、知識人の抵抗組織は大きくなっていた。知識人は五人で一つの地下細胞をつくり、それは「星」と名づけられ、非合法活動の規律にしたがって、他の地下細胞とは厳格に区切られていた。この組織を通じて「星」と題するタイプ刷りの小冊子がひろめられることになる。五人組から、この小冊子をうけとった読者は、この小冊子を四枚のカーボン紙で複写して、新しい五部を流布する。こうして「雪だるま」の方法でつづけてゆくのである。
 アラゴンの仲間はまた「フランス書房」Bibliothèque Française の名義で地下出版を始める。この出版所名で最初に出版されたのが『グレヴァン博物館』であった。この詩は、「怒れるフランス人」という名前で出版され、まもなくパリの「深夜厳書」によって再版される。
 この詩は、リヨンで書き始められて、サン・ドナの村で書きあげられた。

  われらの黙示録が始まって 四度めの夏
  ふしぎな うすら明りが地平線に現われた

  いまや 暗い日蝕も 終りに近づいたのか
  あかるい希望が 牛獄の藁のなかにも脈うつ

 という詩句で、この五五六行の大きな詩は始まっている。ナチスの侵略がはじまって、すでに四年めの夏を迎えていた。この年の二月二日、ドイツ軍九万がスターリングラードで降服し、ナチス・ドイツの敗北は早くも避けられぬものと見られていた。しかし、フランスを占領していたドイツ軍は、いよいよファシストとしての野蛮な虐殺、略奪、弾圧をふるっていた。この詩は、その血なまぐさい状況のなかで、その血なまぐさい状況そのものを書いた叙事詩(エピック)であり、ファシストたちにたいする痛烈な調刺詩である。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

地下抵抗の時代のアラゴン 1944年

地下抵抗の時代のアラゴン 1944年

3)ドロームの隠れ家「天国」とリヨンの別荘

     *
 一九四二年十一月十一日、イタリア軍がニースに侵入してきたため、エルザとアラゴンは、最後の列車でニースを離れて、地下にもぐることになる。かれらはディニュで下車し、そこから自動車でアヴィニョンに行き、ピエール・セゲールスに会う。そこから、前もって借りてあったドロームの家へ行って、そこで二カ月を過す。このドロームの家について、エルザはこう書いている。
 「隠れ家は、ディウルフィの上方の、山の中にあって、そこへ辿りつくには、歩いてゆくよりほかなかった。わたしたちはこの隠れ家を、陰謀めかしく「天国」と呼んだ。それは、三つの村をむすぶ四つ辻に、ぽつんと立った廃屋(あばらや)だった。だから、三つの村のどれに属するのか、はっきりとはわからなかった。まるで、だれも気にとめないような家だった。
 一九四二年の、冬の雪のなかに埋まって、世間から切り離されて、誰にも見つからず、どんな連絡もじっさいに不可能だった……だが、こんな状態をつづけるわけにはいかなかった。早急に、このうつろで奇妙な天国から降りて公然とは生きられないにもせよ、占領された下界を見つけねばならなかった。偽の身分証明書を手に入れるために、わたしはリヨンへ向った。
 書類をつくるに必要な時間(とき)をすごしたのち、わたしは、歩いたり、自動車(くるま)に乗ったり、汽車に乗ったり、ホテルや駅で夜を過ごしたり、骨の折れる辛(つら)い旅をして、白い孤独のなかへもどってきた。あなたは天国のふもとでわたしを待っていた。クリスマスの夜のなかを、長いこと、よじ登って、やっと辿りついたのは、三本の大きなポプラに守られたこのあばら家だった。あなたは、炉のなかで杜松(ねず)の薪を燃やした」

 この「天国」は、安全な隠れ家ではあっても、山の中にあったために地下活動をつづけるには不便でもあり、不可能でもあった。そこでかれらは、リヨンのモンシャにある「confluences」誌の編集者ルネ・タヴェルニェの家の屋根裏部屋を借りて住むことになる。そこに、一九四三年一月の始めから、七月末まで滞在する。この頃の思い出を、サドゥールはこう書いている。

 「わたしは連絡のためにしばしばリヨンへ行って、このモンシャの別荘の屋根裏部屋を訪れた。そこでエルザは、『白い馬』や『アヴィニョンの恋びとたち』の原稿をよんでくれた。アラゴンは、その頃マキ団(パルチザン)を組織した人たちを讃えて、『百の村の壮丁』をそこで書いた。
 リヨンの町を見おろすモンシャの小さな辻公園で、かれはわたしに、「しあわせな愛はどこにもない」を読んでくれ、それを聞いてわたしは泣いてしまった。この詩がひどく絶望的に思えて、わたしはかれに、この詩を発表しないように頼んだ。(その頼みはむだでもあり、まちがってもいた)
 わたしたちが、アウシュヴィッツの存在を知り、この収容所で友人のダニエル・カザノヴァとマイユ・ボリッツェルが死んだことを知ったのも、またこの町においてであった。八月の始めで、アラゴンとエルザが非合法にパリへ向って出発する時だった。列車のなかで、ルイ(アラゴン)は膝のうえで、もう書き終えたと思っていた長詩(「グレヴァン博物館」)に、つぎの八行の詩句を書き加えたのである。

  ああ 怖るべき種子(たね)まきが
  この長い夏を 血で色どる
  あまりにひどすぎる 聞けば
  ダニエルもマイユも殺(や)られたという

  奴らはひと切れひと切れ 切り刻むのか
  連れ去った わが優しいフランスを

  噂をきけば 悲惨なわれらの野に
  暗闇は 濃くなるばかり
                    (サドゥール『アラゴン』)

 つまり、のちに『フランスの起床ラッパ』に収められる詩のいくつかが書かれ、『グレヴァン博物館』が書かれたのは、この頃である。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

カサノヴァ
Danielle Casanova
ダニエル・カサノヴァ、その顔は、人間の兄弟愛を永遠に象徴しています。
アウシュヴィッツの収容所で仲間を介抱した後、チフスで亡くなりました。
(マックス・ポル・フーシェ「レジスタンス」)


2)『ブロセリアンドの森』

 『ブロセリアンドの森』(一九四二年)もこの頃の情勢をよく反映している。その序文は言う。
 「一九四一年にもまして一九四二年には、フランスじゅうがブロセリアンドの森に似ていた。森のなかで、ヴィシーの魔法使いたちとゲルマニアの竜騎兵どもが、すべての言葉に、呪文めいた、ゆがめた意味あいを与えていた。もはや何ものも、その本来の名まえで呼ばれなかった。あらゆる偉大さが卑(いや)しめられ、美徳が嘲笑され追害された。ああ、それは、奥方たちが魔法にかけられ、姫君たちが囚われる時代であった。いたるところの路上で遭遇戦が起こった。突如として現われた騎士たちが、年寄りや子どもたちを助けた。墜格子を揚げた城からは、不審(ふしん)な呻めき声が聞こえてきた。時が進むにつれて、ますます多くの、無名の騎士たちが武器を手にとって立ち上った。かれらの名は、ロジェやピエールであり、ダニエルやジャンであった。ますます多くの勇士たちが現われ、かれらの武勲は、武装した兵隊や首切り人や、鬼どもや大男どもの眼をかすめて、口から口へと、フランスの森じゅうに伝えられたのだ」(『詩における歴史的正確さについて』)
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

森




 地下生活と『グレヴァン博物館』

1)『詩法』とドクールの死

 トゥールの兵営から幸運にも釈放されたアラゴンとエルザは、パリに潜入する。そこで作家の抵抗組織として「作家全国委員会」を創設するために、ポリッツェルやドクールと協議し、またジャン・ポーランと協力する。こうして、「作家全国委員会」の機関紙として「レットル・フランセーズ」が、ドクールの編集のもとに発行されることになる。しかし、一九四二年一月、まさにその第一号が印刷されているとき、ドクールは、ボリツェル、デュダック、ソロモンらとともに逮捕された。かれらは、残虐な拷問をうけたのち、一九四二年五月、モン・ヴァレリアンでナチによって銃殺される。
 このニュースを知って、アラゴンは『詩法』を書く。

 「五月」の死者たち わが友らのために
 いまよりは ただ かれらのために

 わたしの詩韻(うた)が あの武器のうえに
 流される涙のような魅力をもってくれるように

 そうして 吹き狂う風とともに
 変りゆく生けるひとびとのために

 わたしの歌が 死者たちの名において
 悔恨の白い刃を 研ぎすましてくれるように

 絡(から)みあう言葉たち 傷ついた言葉たち
 そこで罪人が叫んでいるような詩韻(うた)

 言葉は 詩韻(うた)は 悲劇のさなかで
 水をうつ艪のように二重の響きを奏でる

 ありふれた言葉よ 韻よ 雨のような
 かがやく 窓硝子のような

 ふと行きずりに見る 鏡のような
 胴着のうえの 萎れた花のような

 輪を廻わして遊ぶ 子供たちのような
 小川のなかにきらめく 月のような

 戸棚のなかの ねなしかずらのような
 思い出のなかの 匂いのような

 韻よ 韻よ そこにわたしは
 高鳴る赤い血の ぬくみを聴く

 思い出させてくれ われらもまた
 あの人たちのように 勇猛なのだと

 そしてわれらの心の 崩折れるとき
 忘却から われらを呼び覚ましてくれ

 虚(うつ)ろな火屋(ほや)が 音立てる
 消えたランプに 火を点(とも)してくれ

 わたしは歌う いつまでも
 「五月」の死者たち わが友らのなかで
                     (『原文におけるフランス語で』)

 この詩は、スイスの「Curieux」誌(一九四二年八月)に掲載されて、「自由地帯」に合法的にひろめられた。ここで歌われている「五月」が、あのドクールたちの銃殺された怖るべき四二年五月であったことを知らなかった人たちには、一九四○年五月のダンケルクの死者たちを歌ったものと思われたかも知れない。さらにまた、それは一八七一年のパリ・コミューンの五月の死者たちをも思い出させるだろう。ここに、歴史的事実にたいするふくみに富んだ詩的表現の問題がある。これら「五月の死者たち」の英雄的な肖像は、『殉難者たちの証人』のなかに描かれている。ドクールは死にのぞんで、つぎのような手紙を書き残した。
 「お察しのように、ぼくは、今朝(けさ)じぶんの身に起ることを二ヶ月前から予期していました。だから、それにたいする心がまえをする時間もあったのです。しかし、ぼくには宗教などなかったので、死についての瞑想に沈むということもなかったのです。ぼくはちょっとばかし、自分が木から落ちて腐葉土となる、一枚の木の葉のようなものだと思っています。腐葉土の質は、木の葉の質にかかっているのです。ぼくが話したいのはフランスの若者たちのことで、ぼくはかれらに希望のすべてを託しているのです」
(つづく)
(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

森



DSCF5047宮林


ムリエタ


ムリエタ



子供


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ドアノー

フランスの写真家ロベール・ドアノーの人生を描いたドキュメンタリー映画が公開されました。孫娘のクレモンティーヌが監督。
2012年の生誕100年記念写真展でドアノーのことを知りました。人々への優しい眼差しが印象的でした。

戦前、ルノー社にカメラマンとして入社。労働者の大闘争を空から撮りたいと思うが、立場上むつかしかった。
自宅アパートの浴室が暗室として使われたので、家族が入浴できるのは日曜だけだった。
アパートの管理人のババ(ポール・バルべ)はゲシュタポからレジスタンス活動家の住人を守った。(ドアノーも第2次大戦で招集されるが体調を崩して除隊、レジスタンス運動に参加した。)
「ポール・バルべは、戦時中から暗室やファイリングの助手、配達人、時にはモデルとして、父を助けていた人物で、私たちは、血のつながらない祖父のような存在であるバルベ氏が大好きだった。」(フランシーヌ・ドルディール「日常のロベール・ドアノー」=写真集『ロベール・ドアノー』)

詩人のプレヴェールは親友で、一緒に散歩し、彼の写真をたくさん撮った。昼の友人プレヴェールにたいして、夜の友人が作家のロベール・ジローだった。
女優のサビーヌ・アゼマも親友で、最初に握手した瞬間から心がつながったと語っている。
「写真家に必要なものは不服従、好奇心、忍耐力だ」とドアノーは語っています。好奇心と忍耐力はなるほどその通り、とわかりますが、不服従とはどういうことか、考えてしまいます。いろいろな圧力や干渉に屈しない独立の精神で物事を見るということでしょうか。
沢山の写真が登場しますが、彼の写真は人間が中心で、ユーモアに満ちた写真には子どもや大人の生きる歓びがあふれています。

ドアノー
ダンス
ドアノー

アルピジェラ展ちらし
アルピジェラ展
4年ぶり、2回めのアルピジェラ展。

アルピジェラ展
今回はポブラシオンの日常生活を描いたものを中心に展示します。

戦車
アルピジェラ展
上は「収容所と化した国立競技場」。ここでビクトル・ハラが虐殺されました。
下は「アメリコ・ヴェスプシオ通りの戦車」。住民弾圧のために戦車まで出動した?

失業
右上は「彼らはどこに?:プラカード」、行方不明者の写真を貼ったもの。
右下は「収監者・行方不明者のために真実と正義を」プラカードを掲げてアピールしています。
中央は失業対策事業で働く様子。上が「道路工事」、下が「車の窓ふき」
左上「ポブラシオンを視察する電気会社」住民が盗電するのを摘発する。
左下「若年層に広がる麻薬」

アルピジェラ展
右が「パン焼き所」と「ポブラシオンの洗濯所と共同なべ」
中央が「ポブラシオンの日常:政治集会への呼びかけ」
左が「警察監視のもとの共同なべ」と「アルピジェラの作業所」

アルピジェラ展

アルピジェラ展

アルピジェラ展
解説パネル「アルピジェラの誕生」と「ポブラシオンとは何か」。高橋正明氏の『チリ 嵐にざわめく民衆の木よ』をもとに作成しました。
軍政による抑圧と貧困に対して非常に多くの互助組織、住民組織が作られ、活動したことがわかります。これらの住民の力が軍政を倒す原動力の一つになったのでしょう。

アルピジェラ展
1枚1枚にストーリーがあり、女性たちの声が込められています。
・アラゴンとの再会

 一九四二年の末頃、抵抗詩人として有名になったエリュアールは、敵の追及をのがれるために地下にもぐる。シャペル街の住居を離れて、エリュアールとニューシュはリュクサンブール公園に近いトゥルノン街に匿名で住む。ほかにジャン・タルディウなど数人の友人の家が隠れ家となった。地下にもぐった彼は、非合法出版の作製と配布に専念する。また占領地帯──北部地帯に「全国作家委員会」を創設するために、対独協力を拒否している作家・詩人たちと連
絡をとり、その糾合につとめる。

 この「全国作家委員会」は、アラゴン、エルザ・トリオレ、ジャン・ポーラン等の発案で、まず南部地帯に創設されたものである。当時、ニースに滞在して活動していたアラゴンは、南部地帯と北部地帯における「全国作家委員会」の活動を統一し強化するために、一九四三年の初め、パリに出てエリュアールと話しあおうと決意する。二人はもう十年来、会っていなかった。長い絶交のあとの最初の再会について、アラゴンは書いている。
 「木の葉や人びとを吹き散らす風は、一九三〇年代、われわれのあいだを引き裂いた。この歴史(ものがたり)はひとりわれわれの歴史(ものがたり)にとどまらず、それは『歴史』だった。われわれをひき離したものは、ついに、永久に、ふたたびわれわれを結びつけずにはおかなかった……。
 一九四三年の初めだった。われわれはリヨン駅で初めて再会した。エルザとわたしは南部地帯から偽の通行証をもって到着する。ビエル・ヴィヨンと仕事で会うために。なんとそこに、夜のほの暗い光のなかに、彼ら二人が花束をもっているではないか。ニューシュとポールが。まるで当りまえのように。そしてニューシュのつくったケーキ。ああ、ポールよ、どうしてあんなに長いこと会わずにいたのだろう。まったく失われた時間だ、あの数年は……」(『共産主義的人間』第二卷)
 まことに「われわれをひき離したもの」──状況の詩、革命、共産主義は、ふたたび二人の詩人を兄弟として、同志として結びつけたのである。
(この項おわり)

新日本新書『エリュアール』

若葉