千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。



豚をはこぶ看守


(『ベトナム詩集』飯塚書店 1968年)

白い花


ジアン川の娘──若い舟乗りの物語より──
                          ルウ・チョン・ル

戦闘は ひる頃
ひときわ はげしくなった
見張台の上で
ひどくやられたおれは
村の病舎にかつぎこまれた

息ぐるしい夏の夜
おれのからだから血が流れつづける
苦しい発作のあいまに
ふと眼をあげておれは見た
ひと影が 若い娘が
おれの寝床のわきに坐って
おやみなくおれを扇いでいるのを
銃が枕もとにたてかけてある
年頃は 十五か十六
髪が肩までたれている

きみは誰なの?
どこの舟着場で出合った娘さんだろうか
ミン・カムだったか カイン・ホアだったか
トウ・ゴアか トォン・バイだったか
おれにはもう思い出せない……
    *
とある四月の朝
おれたちは朝めしをたべていた
そこへ強盗どもの飛行機が
編隊で ひっきりなしにやってきて
おれたちの川を爆撃した
爆風が カムフラージの木の枝を焼き
爆音が 村の竹林をめちゃめちゃにした……
ジアンの流れは赤い波でさかまいた

おれたちの舟は
両岸をたよりに
レソンからバンフヘと行った
まるで 十里の流れのうえに
しっかりと身をささえた火の竜のように
おれたちの舟は 最初から
敵をさんざんにやっつけた
川のまんなかに
赤い血が流れたとき
怒りは 焼ける砲口からほとばしり出た
砲弾はとぼしかったが 英雄たちはたくさんいた……

そのとき 両岸には
いくつもの小隊が
部署について
敵をねらっていた
弾薬がなくなっても
手は銃をはなさなかった
両岸沿いの
十里もの路上では
年とったおばあさんや子供たちが
たえずおれたちの舟をはげましていた

そこに 十六か十五の娘がいた
庭から惜しげもなく折ってきた蜜柑の枝で
彼女は舟にみごとなカムフラージをした
彼女が愛する船体をおおい包んだのは
たんに蜜柑の枝だけではなかった
彼女の青春と
彼女の若いからだでおおったのだ!
誰かが彼女をよんで言った
「強盗どもがおまえさんの家を焼いているぞ」
彼女はたちどころに答えた
「家なんか燃えても また建てられます
戦士のいのちと舟の運命があぶないのに
家なんかなんでしょう」
爆弾をものともせず
血走った眼で 彼女は前進をつづけた
強盗どもが追い散らされ
夕ぐれが戦場にやってきたが
舟着場は相変らずごったがえしていた
負傷者の面倒をみたのはきみだったんだ?……
おれをその軽やかな手で起してくれたのも
きみだったんだね?

いまおれは思い出す あれはきみだったんだ
銃を肩にかつぎ
髪を風になびかせて
昼は 強盗どもを追い散らし
夜は こうしておれを扇いでくれている

……にわとりが村のなかで鳴いた
二度目に おれは目をさまして
きみがそこに相変らず坐っているのを見た
寝床のかたわらに 銑といっしょに
きみの針もつ指の下で
縫目が軽やかに波うつ

その火薬で黒くこげた上着は誰れの?
きみは手をとめ 眼がばっと輝やく
何を探すのか きみはあたりを見廻す
そしてまたおれは扇ぐ音をきく
夢のなかで 神の声をきくように……
眠れ 小さな妹よ 清らかに眠れ
おれたちの舟が勝利したように
おれは負傷にうちかつだろう
寝床の足もとに
朝の太陽が 金いろの光りをそそぐ
眠れ 小さな妹よ
    *
おれの傷はなおった
おれはふとぼろぼろになった手帳をひらいて
誰が書いたのか つぎのような文句に気づいた
「兄弟 あなたは多くの試練に耐えてきました
わたしたち妹は それを分けあわねばなりません
今夜 あなたのそばでわたしはねずに看病しました
もう帰らねばなりません さようなら」
字もみごとだ なぜきみは名まえを書かないのか
どの舟着場へ きみはもどって行ったのだろう?
トウ・ゴアか チャン・バイか
それとも ミン・カムか カイン・ホアか?
うつくしい人民の娘たちは
まるで天女のようにここへやってきて
白鳥の羽根ひとつ残さず 行ってしまう……

おれがいつも着ているこの古い上衣には
あの十六か十五の娘がかがってくれた
縫い目と継ぎあてが残っている
あの娘のいるのは ミン・カムか カン・ホアか
それともチョオ・ゴアか チャン・バイか
あのあたり水は鏡のようだ
おれたちの舟は曲りくねった流れを進む
おれはまた見張台にもどる
川のうえ
青空には 銀色の雲
波うった うつくしい髪……
きみはどこにいるのだろう
ラジオで放送でもしているのか それとも働いているのだろうか
戦火のなかで おれはいつもきみを探しつづけるのだ

(『ベトナム詩集』飯塚書店 1968年)

ベトナム
射撃訓練をするハノイ機会整備工場の女性自警団員 1967年 ハノイ マイ・ナム(ベトナム写真展 2006年)

絵日記

8月25日 木曜日
おとうさんがかえってきたので るすばんをしないですんだ。べんきょうをすませて山田さんのうちにピアノのれんしゅうにいってから、ピアノの先生のところにピアノをしにいった。
それからのりちゃんやほかりくんたちとくちくすいらいをした。ぼくはすいらいだった。

*夏休み絵日記(小学3年生・昭和30年)最後のページに担任の外川先生のコメントが書いてありました。子どもの頃の絵はユニークでいいですね。文章は事実の羅列で面白くないですが。
静江の奮闘のおかげで子どもたちが楽しい日々を過ごしたことがわかりました。

ひまわり




絵日記

8月23日 火曜日
おかあさんがいちばにいくので もも子とるすばんをした。
おかあさんがはんこうをおいて「うんそうやさんがしんしゅうのりんごをもってきてくれるから きたらこのはんこうをわたしなさい。」といいました。でも その日はりんごはとうとうきませんでした。

*静江は休むまもなく生花市場に仕入れに行き、花屋の仕事を再開しました。この頃はお店を構えていました。「あんなに働く人は見たことがない」と近所の人が語っていました。<生花商の組合から表彰

絵日記

8月24日 水曜日
きょうも もも子とるすばんをした。その日もおかあさんがはんこうをわたしてくれた。その日 うちの中であそんでいると うんそうやさんがりんごばこをもってきてくれた。あとからおみそのたるをもってきてくれたので はんこうをわたした。
夕方おとうさんと弟をがかえってきた。

*博光が家で療養しながら詩を書き、静江が10分ほど離れた店で花屋をする日常でしたが、博光がいない2日間、子供は遊びに行かないで留守番する役でした。

家族
信州の高原にて


空

絵日記

8月22日 月曜日
おかあさんと妹としんしゅうからかえった。おとうさんと弟は二日めの夜いっしょにかえってくるのだ。おとうさんがつりをするから二日おそくくるのだ。はじめ ばすのていりゅうじょうへおとうととおばあさんがおくってくれた。えき(松代駅)におじいさんもおくってくれた。ようちゃんちのおばさんが きしゃのえき(屋代)まででんしゃ(長野電鉄)にのってきておくってくれた。うちにつくとごくらくそうの花がさいていた。

*蒸気機関車の煙の匂いが大好きでした。汽車で食べるアイスクリームは薄い木の折箱に入っていて素晴らしく美味しかった。トンネルに入るときは窓を閉めないと大変です、ススが飛んできて眼に入ってしまうのです。

*今回の帰省について博光は「ふるさとへ行く」というエッセイを書いています。5年ぶりといいますから、三鷹に引っ越してから初めての帰省で、地元の人たちが歓迎してくれ、子どもたちが楽しい経験をしたのでした。博光が長野市で長工詩話会の会合に出席したのが8月18日と判ります。
うたごえ
今回は5人が伴奏に入り、迫力あるうたごえになりました


竹松恵理さんが歌う「アンジェラスの鐘」
<私の街 長崎 消さないで愛の灯
アンジェラスの鐘よ 歌うなら平和を>


勝利をわれらに -We shall overcome-


さいごは輪になって「あの青い空のように」
蛍

作家の早乙女勝元さん(東京大空襲・戦災資料センター館長)が来館されました。
「念願だった大島博光記念館に来られて良かった、大島さんにいろいろ教えてもらった」と思い出話をしてくださいました。

早乙女
早乙女

夫人の直枝さん(故人)について書いた『もしも君に会わなかったら』は、博光『老いたるオルフェの歌』の詩で結んでいます。
早乙女直枝さんのこと




えるざ


(『フランスの起床ラッパ』)

 また、地下生活のきびしさは、しかし詩人につぎのような美しい詩をも書かせている。
 ・・・
 ここでは閉ざされた小宇宙がうたわれているが、そこにも絶えず外部世界が侵入し、映し出されている。エルザの身ぶりひとつひとつが、たたかいと希望とに結びつけられている。鏡のなかに、はるかに、英雄たちとその闘いの映像をくりひろげるという手法は、この詩をいっそう深いものにしている。「鏡」と「火」という二つの映像は、その後もアラゴンの愛の詩にしばしばあらわれてくる。
(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)




パリ


 ついに解放の希いはかなえられてパリは解放される。一九四四年八月二十四日、暑い夜の十一時ごろ、突然、狂ったようにノートル・ダムの大鐘が鳴り出した。それにこたえるように、対岸のサン・ジェルヴェ寺院の鐘が鳴りだし、つづいてパリじゅうの鐘という鐘が鳴りだした。またたく星空の下、燈火のない暗いパリは夢のような歓喜の大合奏につつまれた。市民は外に飛びだし、街や大通りを埋めた。──自由になったぞ!
 アラゴンは解放の歓びをつぎのように歌う。(新日本新書『アラゴン』)

絵日記  


8月21日 日曜日
まつしろのはたさんのうちにいった。おひるごはんをたべてからかえろうとすると雨がふってきた。かえるとき ばすでかえった。
うちでわたちゃんや弟とどろあそびをした。いちばんふかくほったのが一ばんだ。わたちゃんが一ばんで弟が3ばんだった。おばあさんにおこられたのでやめた。



絵日記

8月20日 土曜日
しがこうげんへおとうさんやおかあさんと弟と妹といった。はじめに あるいてまつしろの駅にいった。でんしゃでちくま川のはしがよく見えた。
すざかでのりかえた。ゆだ中でおりた。まるいけまでばすにのった。とちゅうでやまをのぼった。まるいけでボートにのった。かえりかけたが またまるいけをとうってほっぽへいっておんせんにはいったりしてかえった。(おわり)

*初めて家族で志賀高原に行った時のことが懐かしく思い出されます。険しい山の道路をバスで登ったのは少し怖かった。丸池は大勢の人で賑わっていました。発哺の熊の湯では旅館の人に「お泊りですか、休憩ですか?」と訊かれ、「休憩です」と親が返事して部屋で休みました。ボートに乗ったり温泉に入ったりして楽しんだのに、残念なことに絵は描いてありません。志賀高原へはその後もスキーやハイキング、学校行事などで東京からよく行きました。当時は一番人気のある高原だったのかもしれません。

志賀高原



梁
久しぶりに静江の弟の利二さんにお会いしました。

梁
お墓参りをしたあと、利根川の梁へ案内していただきました。
梁
梁
梁
川風が心地よい簗の席
梁
河原に降りてみると、ヤナの跡がありますが、今は使われていないようです。
梁
としじさん
静江の影響でクラシック音楽が好きになった、
映画「ここに泉あり」で有名な群馬交響楽団の定期演奏をよく聞きに行ったそうです。
あゆ
標準コース(松)で、塩焼きが3本、フライ、味噌かけが1本づつで食べきれないほどです。

榛名
正面におぼろげに見える榛名山。晴れれば見事だそうです。
梁
前橋市内の隆興寺にある鈴木家のお墓