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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


テレビ


8月11日 日曜日
夜 えいちゃんのうちにテレビを見に行った。

*テレビのある家に近所の子供たちが集まって、窓の外からテレビを見させてもらいました。もちろん白黒のブラウン管テレビです。

花火
 
夜 花火をした。
ことしも やねにのって見たかったが だめだといったので 
共立農機の横の道で のりちゃんたちと見た。
ことしも、のりちゃんと、花火に名前をつけて おもしろがった。

*井の頭公園の花火、少し遠いのですがよく見えました。


灯の歌

夜

[灯の歌]の続きを読む
日記810
8月10日 土曜日
ひきだしの中のはちのすを見たら 一ぴき すからでようとしていた。
はちの家を作って、でようとしていたのをひっぱって、だしてあげた。
はじめ足で ひげやせなかをふいていた。
弟がはちのすを見つけたのでおとした。すの六かくの大きさや うまれたはちは 前のより大きい。

日記89

8月9日 金曜日 くもり
駅前にとりもちを買いに行った。
おとうさんに いらなくなったつりざおのさきをもらって、そこにとりもちをぬった。
ずいぶん とりもちがあまった。
森に行くと ひぐらしを一ぴき見つけると とった。
せなかに なんかのよう虫がいたので かわいそうだ。


一九四四年(昭和十九年)三十四歳

 二月、「秋の歌」(詩)を「蝋人形」に発表。この号に龍野咲人による書評「詩人の位置――ルネヴィル「詩的体験」について」が掲載される。なお同号をもって「蝋人形」廃刊となる。同月、『近代名詩選集』(千歳書房 山田岩三郎編集代表)に「生命を変へる」、「竪琴」、「微風に寄す」の詩三編を収録。同月、茨城県下館(現在の筑西市)に疎開していた西條八十を訪ねる。この時西條を訪問していた新川和江を知る。
「肩巾の広い、堂々とした体格の小父様、というのが最初の印象だった。少女の目にはぐんと年嵩の中年紳士と見えたものの、今思えば大島さんは、まだ三四歳で、独身の青年でいらしたのだ。(中略)西條先生は、目を通されていた私のノートを大島さんに示され、「現代詩の悪い影響を受けていないところが、いいね。それに、ボキャブラリーがとても豊富だ」と、同意を求められた。大島さんもひと通り読まれて、「そうですね」、と相槌を打ってくださった。〈現代詩〉も〈ボキャブラリー〉も、はじめて耳にする言葉であったので、私は途方に暮れ、ますます固くなって坐っていた。そんな私に大島さんは、先生と同様、優しいまなざしを向け幾度も頷いてくださった。」(新川和江 「少女の日に出会った詩人――大島博光さん・追慕」 「詩人会議」 二〇〇六年八月)
四月、龍野咲人の斡旋で長野県軽井沢高等女学校への就職が内定し、軽井沢で待機するも教育委員会から辞令がおりず内定取り消しとなる。後日、その理由を思想の故である旨、龍野から知らされる。
「貴方が女学校へ任命されなかったのは 思想のためだと校長が昨日申しました。/貴方の思想を西條先生なり 文学報告会なりに証明してもらって 然るべき人とお逢ひになるがよいでせう/大へんな誤解が 私たちの友情に暗影を投げてをります/昨日は私に不参を命じて学校職員の秘密会議がありました/じつに残念です/この誤解が明白に滅し去るまで 私に逢はないでゐてください/ますます疑を深めるのがよいことではありません/私も苦しい立場となりました/詩の友情が 思想の同志かなんどのやうに校長は考へております/どうか よき解決をして下さい/特高の人にお逢ひになり 貴方がどんな思想かを明白に申し立てられるが一番いいと存じます」(二九日付大島博光宛龍野咲人書簡)
また大島自身は後年次のように回想している。
「雑誌(蝋人形)の編集を手伝っていて 戦争中紙の配給が無くなって いよいよ出せなくなって こっちは失業だから軽井沢の女学校の先生の話があって 荷物も送って行ったら 校長はいいって言ったんだけど あいつは赤だからだめだって そこから二~三時間だから松代に帰って(療養した) でもそれが良かったんだね」(尾池和子「博光語録」)
五月以降、故郷松代で療養しつつ、軽井沢や追分へ頻繁に出かけ思索に没頭する様子が当時の日記から知られる。
「軽井沢沓掛の宿にて/永遠と時間、人間の偉大さと惨めさ、有限と無限……――これら両極のあひだを動揺することによって、わが日日は流れ去る。このやうなイデエたちが友のごとくわれに語りかける。不可見が可視的に身近かに感じられる。光りと闇がだんだん溶けてくる……しかしわれ自ら、わが内なる深淵に溺れはせぬか、それが怖ろしい。しかしまたその時には、翼が役立たう。そのやうな時には、わが深淵を天空に投げかへさう。」(五月七日付日記)
「夜、暗たんとして強き風あり。宿を出でて、追分への道を彷徨す。嵐の夜の底より天空に叫べど、叫び声はただ風に運び去られ、死せる暗黒の天体(ほし)にひとり佇み立てるもののごとし。パスカルの「永遠の沈黙」を想へり。知性の疲れはて、黙する時、心臓が不安に戦くならむ。これは一個の心理学的問題たるべし。──暗黒の夜の天空の彼方になほ永遠の光彩を描き見るは精神の操作のみ。」(五月十一日付日記)
「夕ぐれの微風がさはやかに吹き、全身をゆあみするやうに、立っていると、殆んど恍惚を覚える。そよぐ麦の穂波の音、草葉の微かな音……しばらく陶然として微風に聴き、ゆあみしている……あの伊太利の落日の中で、「生はよきかな!」と晩年の偉大な肯定の幸福に歓喜の声を挙げたニイチエを想はないではいられぬ。緑の風とこの酩酊!このやうな詩を書きたい。苦悩も絶望も忘却せしめ、大地の涯なさを夢みさせ、まるで「不可見」を皮膚の感覚に囁いてくれるやうな微風を創造しなければならぬ。しかし詩では、また苦悩や絶望が深く秘められていなければならぬ。詩では、爽快それ自体といふやうなもののみでは決して深い感動を喚起することができぬ。さはやかな微風でさへ、その対照をもたねば、詩の中を吹くわけにはゆかない。してみれば、この自然の微風のこの魅惑(?)──むしろ心地よさは、如何なる秘密の故に、かくもわれわれを感激させるのであらう……」(六月七日付日記)
「田舎の静けさを今度の隠栖ほど深く味はひ、その静かな時間を瞑想をもって埋めたことはない。空しい都会での彷徨を、今は空しく追想するばかりである。私の彷徨の時代も終わったらしい。いやもう終わらさねばならぬ。それにもう二度と都会へ出ない方が、私にはよいことにちがひない。ピレネエの山の中に引きこもったまま、殆んど巴里に出なかったフランシス・ジャムの聡明さを学ばねばならぬ。プルウストも、社交界より退いて後に、「失ひし時」を求め得たのであった。/東京での青春の浪費と彷徨を──失ひし時を、私も今こそ回復し、とりもどさねばならぬ。田舎で朽ち果てるなら、それは田舎のゆえではなく、自分の想像力の弱さにかかっている。自己を試みるにもかへって田舎はよき荒野であらう。空しい時間の浪費と、神経の消耗と──自己の分散よりは、どんなに倦怠の方が好ましく、自己の集中への道となることだらう。」(七月六日付日記)
「今朝、浅間が爆発した。入道雲のやうな爆煙が、雲一つない麻の蒼穹にそそり立って、朝の太陽に、まるで薔薇のやうに輝いてゐた。やがてこの爆煙は風に流れて、沓掛一帯に灰となって降りつもった。緑の樹木も屋根も、時ならぬ白灰色の雪に覆はれて、陽光に鈍く光って、かへって暑さうに見えた。髪の毛に降りそそいだ灰を、白髪を払ふやうにして歩いて行く外国人もゐた。」(八月十三日付日記)
「千曲河畔にて/この頃は、詩人の見るべき二つの薄明──黎明と黄昏のそれを釣などによって過ごしてゐる。今朝も四時に起きて千曲川へ向ふ。東の空にオリオンが懸ってゐたが、蒼白く瞬きながら、薄っすらとやがて消えて行った。四囲の山々のうへに、空が紅に明けはなれて行くと、まるで巨大な薔薇の花びらの中に立ってゐるやうであった。かうして、素朴な期待にみちて糸を垂れてゐると、時の流れるのも忘れはててゐる。素朴な忘却に浸ってゐると、生も軽やかである。」(八月二九日日記)
「ヴァレリイ の『海辺の墓地』を訳したり、キエルケゴールの『饗宴』(*)を訳してゐながら、絶えずわが脳裡に去来するのは詩と詩人の場所の問題である。詩人の位置といふべきか。」(九月九日付日記)
 十月、詩人の楊明文が平壌へ帰国の途中松代に大島を訪ねる。この時、東京で知り合った鈴木静江(後の大島静江。群馬県前橋市出身。上京して画塾へ通っていた。四四年春に帰郷。この時二十歳。)の住所を知り、手紙を書く。
「その後どうしています?/いつか、ヴァレリイの拙訳を読んで下さったあなたの声を ときどき想い出してゐます。(過日楊君が突然訪ねてきてくれ、その節あなたのことを話しあひ、あなたのアドレスを教へてもらったのです。)/五月、私はこの信州の田舎へ帰ってきましたが、田舎の単調にはやりきれません。七月頃までは、勉強もできましたが、九月・十月は、もう釣ばかりしてゐて、読書もせず、筆ももたないやうな日々です。ゴオガンがタヒチへ逃れたやうに、私は釣の中へ逃れてゐるのです。しかし、釣などには如何なる芸術的収穫もないやうです。完全な忘却─―素朴な期待による時間の意識の喪失があるばかりです。詩の方へ戻って行かねばなりませんが、その詩が私にはもう袋路のやうに行きつまってしまってゐるのです。尤も、この袋路を突き破って進むことが、いつでも芸術の道なのですが、今はその情熱も湧いてきません。癒しがたい倦怠が、どうしても払えないで、釣に走るといふわけです。七月頃作った詩を一篇同封します。一度あなたに朗読してもらひたいと希っています。都合よろしかったら、遊びにきて下さい。電報下されば長野駅まで出てゐます。/美神の恩寵、あなたのうへに厚からむことを。」(十月二十日付鈴木静江宛)
「お手紙とクロッキイありがたう存じました。久しぶりに線の魅惑に接しました。線がそこに描かれていない触感をさへ抱きかかえていることに驚きました。あなたのクロッキイは、私にマイヨオルの或る彫刻を連想させました。今度はあなたの自画像のそれを見せて下さい。/あなたが、豊富な色彩感とプラスティクに対する感覚をもちながら、さらにあの利根川の風景描写の中には音楽的律動を捉えていることは、驚異を私に与へます。ヴァレリイは、コロオの風景画を批評して、たしか「歌っている」と言っていました。あなたの風景画も歌っているに相違ない。あなたはそれをムウヴマンと言っているやうですが。──実を言へば、いつも私に想ひ浮んでくるのは、貴方の声なのです。それは、もう美しいソナタの小楽節、それもピアニッシモでつづくアンダンテのやうに、私の耳に残っているのです。ソプラノには堪えられない私の耳が、どんなにあなたの静かなアルトに憩ふたか、私は今も阿佐ヶ谷の夜を想ひうかべることができます。このやうな音調(タンブル)、音色(トオン)は、またあなたの画面に現れているかも知れない。それはジョン系の色彩と、ブルウ・グレエなどに対するあなたの偏愛が物語っているやうにおもはれます。しかし詩には、かういふ微妙な色彩や音感を盛ることは至難であるのみか、殆ど不可能なのです。ただコレスポンダンスによって、類推によって、近似値を創造するよりほかないのです。しかし、詩もそこまで行けばもう傑作たらざるを得ませんが、とてもいきがたいところです。/もう寒く、フィッシングにも行けず、久しぶりに家に閉じこめられていますと、もう何から手をつけてよいか分りません。あまり永いこと原始人の幸福に浸っていたので、思索することが、迷宮の道を辿るやうに、難事に見えて、一向に進みません。昨日は一日中、プルウストの小説を読み耽って、意識過剰、分析癖、神経の綾織、などに自己を移し入れてみました。しかし、それも倦怠に色どられています。早くマラルメかヴァレリイに戻って行かねばならないのですが、時に、このやうな高度な純粋さは恐怖を与へます。それは、大きな自己集中と努力を要求するからです。しかし、美しい秋を忘却のうちに過ごしたのですから、この冬は何か獲得しなければなりません。精神は何ものかを発見するでせう。/御精進を祈ります。」(十一月十九日付鈴木静江宛)
「光のなかで制作の歓びに浸っているあなたが見えるやうです。あなたの「若き芸術家の肖像」が完成されるやう祈ります。さうしてそのクロッキイの一つを送って下さい。(中略)/もう寒くなって、釣もできないとおもっていましたら、今度は冬の釣を教へられて、また水のほとりへ通っています。これではまた/輝かに、いと澄める芸術(たくみ)の季節、冬の日を…(マラルメ)/空しく釣りに捧げてしまひさうです。 暗い冬籠りの中から生れてくる内なる光は、空しく外光の中に放散されてしまひませう/(中略)音楽に飢えて、来月の日響を聴きに上京しようと思っていましたが、帝都ボムビングで、もう出かける勇気を失ひさうです。それに、プログラムも、余り魅力あるといふほどでもありませんから。/御健筆を祈ります。」(十一月二八日付鈴木静江宛)

*註 キルケゴールに『饗宴』と題する(または仏訳されている)著作があるか不詳であるが、この時期に大島が翻訳していたことが確認できるキルケゴールの著作に『反復』がある。

(『狼煙』84号 重田暁輝編集 2017年12月) 

少女


大島博光年譜(4−1)1942-43年

一九四二年(昭和十七年)三十二歳
二月、「偉大なる追憶のために」(詩)を「蝋人形」に発表。三月、「愛国詩について」を「少女画報」に発表。
「暗き夜のうちにひとり坐する詩人よ/われまた夜の詩人 わが夜の歌 第四の歌を書きて/われも夜に訣別を告げむとおもふ/友よ われら大なる朝を 充実の真晝を迎へむかな 真晝と夜とを綜合せむかな/新緑のうちに生の賛歌を見むかな」(四月二十三日付松本隆晴宛)
五月、「わが夜の歌――第四の歌」(詩)、「自然と詩人」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。ヴァレリー「コロオをめぐつて(Ⅱ)」を「生活美術」に発表。六月、「詩についてのノート(1)」を「蝋人形」に発表(八月、十月連載)。六月、『国民詩 第一集』(第一書房 中山省三郎編)に「わが夜の歌」を収録。七月、「微風に寄す」(詩)を「蝋人形」に、ヴァレリー「音楽・建築・劇 ――「アムツィオ」の来歴」を「音楽之友」に発表。また同号の座談会「詩と音楽の交流」に参加。他の出席者は勝承夫、藤浦洸、菊岡久利、深井史郎、吉本明光、堀内敬三、黒崎義英。
「松本隆晴よ/君が朝にはいかなる風の吹く?/君が夕べにはいかなる星のささやくか?/友よ、すこやかなれよ/「肉体は悲し!」われは絶えず痛みて生きるは苦し」(七月十一日付松本隆晴宛書簡)
八月、「真珠」(詩)、「吉田一穂著『黒潮回帰』について」(書評)を「蝋人形」に発表。九月、「天空について」(散文詩)を「知性」に発表。
「松本隆晴よ/近代とは倦怠の時代にあらずや/ヴェルギリウス、オヴィディウスら古代の詩人らは倦怠を知らず/神々を讃へて偉大なるかな/泥にはらばえる近代の人間獣は はや空翔ぶ翼を失へり/神々は讃むべきかな」(九月一日付松本隆晴宛)
「松本隆晴よ/とく病ひより癒え、秋風に髪なびかせよ。/われもまた《ポセイドンよ、わが友に恙がなき航路を与へよ》と祈らむものを。――/ラケダイモンの野に立つシモニデスのごと立ち上がれよ。/汝はまたオルプェウスあり。/ヘブラスの河より蘇へれよ。レスボスの浜辺に――」(九月二八日付松本隆晴宛)
十一月、「ルヴェルディの言葉」(翻訳)を「蝋人形」に、「詩と音楽について」(評論)を「音楽之友」に発表。
「朽葉こがねいろに窓を染め、/太陽は影の秘密を射しつらぬくに、/『秋の嗟嘆』は蒼穹に昇る!/黄金色なる朽葉の林、この頽廃のひとときの畫廊、ま晝に燈れる木の葉のともし火、/その空に黄金なる幻つくりなし/明晰を証さんと、/『秋の嗟嘆』は蒼穹に昇る!」(十一月四日付松本隆晴宛)
「われは朽葉に憑かれたり/「朽葉」――この黄色はマラルメを想はせ、グリスブコフの『八つの道の一隅』の林で瞑想するキエルケガアルを想はせる……/黄金色の朽葉――この言葉のうちに、ヴァルヴァンの秋、ロオマの頽廃期、そしてまだわがうちに結晶せざる『沈黙の酩酊』が隠されてゐる。しかし、これほどのものを如何に歌ひえよう。この原因小さく、内包無限なるわが朽葉を!」(十一月十一日付松本隆晴宛)
十二月、ルヴェルディ「美しき星」(散文詩)を「蝋人形」に発表。

一九四三年(昭和十八年)三十三歳
一月、「音楽に寄す」(詩)を「蝋人形」に、「日本の季節と美」を「生活美術」に発表。この稿にマラルメの詩「嗟嘆」(Soupir)への言及がある。同月、『海軍献納愛国詩謡集』(興亜日本社)に「聴け、神々の聲を」(詩)を発表。二月、「詩と音楽について」(四二年十一月「音楽之友」に発表のものの転載)を「蝋人形」に発表。三月、ルネヴィル「詩人と神秘家」を「蝋人形」に発表(五月まで)。同月、『国民詩 第二集』(第一書房)に「音楽に寄す」を収録。四月、「夜の歌」(詩)を「蝋人形」に発表。五月、『国民詩選』(興亜書房 岡本潤編集代表)に「夜の歌」を収録。六月、ルネヴィル「詩と神話」を「蝋人形」に、(九・十月合併号まで計四回)、「神秘的体験と美的体験――「金棺出現図」にふれて――」を「生活美術」に発表。十月、ルネヴィル『詩的体験』を文明社より刊行。十一月、「藤村詩集にふれて」を「蝋人形」に発表。この号に片山敏彦の初寄稿(「エルネスト・エローのことなど」)がある。

(『狼煙』84号 重田暁輝編集 2017年12月)

少女




方向性


(『歌ごえ』創刊号 昭和二十三年)

クリムト

 詩の前進のために     壺井繁治 

 終戦後の民主主義革命の進行に応じて、職場の中から詩を書く人が非常にたくさん現われて来たし、現にますます多く現われて来つつある。方々の労働組合には文化部というものがあって、そこからいろいろな雑誌が発行されているが、それらの雑誌には労働者の詩が満載されている。また組合とは直接の関係をもたぬ文化サークルもあって、それが自主的に文学雑誌を出しているのもあるが、そのような雑誌にも、俳句や短歌などと並んで、詩がたくさん発表されている。それらの詩には、大体において、一つの傾向が認められる。すなわち第一は、詩というものを自分たちの実生活とは関係のない、何か特別の世界と考える傾向であり、したがってそこには徒らに内容のない美辞麗句が並べられ、それが「詩」であるというふうに考えられている。これらの詩には自分の眼で観察し、自分のこころで感動したところから生れた自分の言葉の代りに、多くはありきたりの、または人々によって使い古された生気のない言葉がイージーに使われている。第二は、詩を自分の実生活の中からつかみ出そうとする傾向であって、そこには詩の言葉がまだ詩の言葉として充分みがきあげられてはいないが、ともかく自分の生活経験を土台とし、その経験が生み出す感動の中から新らしい詩の言葉を創り出そうと努力していることである。
 これらの人たちがいわゆる近代詩をどのように見ているか、あるいはそれとどのような交渉をもっているかということは興味のある問題であるが、私の見るところでは、第一の傾向の人も、第二の傾向の人も、ほとんど大部分の人が、それとあまり交渉をもっていないということである。それは、ある場合にはその詩人の発展のためにプラスともなり、またある場合はマイナスともなっている。第一の傾向の詩人の、近代詩との交渉をもたない詩の現われ方は、詩が人間の内面的自覚の追求というきびしい道へは通ぜずに、それが単なる趣味として安易にもてあそばれているということである。したがってそれらは多く甘いロマンティシズムに堕し、現実に体する批判というようなものは微塵もなく、思想的には封建制の固い殻をかぶったままの感情が歌われている場合が多い。ここからは絶体に新らしい詩の生れてくることは期待できない。これに反して第二の傾向の詩人の、近代詩との交渉をもたない現われ方は、いわゆる近代詩の病弊である意識過剰的傾向から免れているということである。彼らは自我の追究というようなところから詩を出発させる代りに、まず彼等のおかれている社会的位置・境遇・環境、そういうものと自分との摩擦・矛盾、それらに伴って起こるさまざまの感情をまず歌おうとしている。それは彼らの人間としての個人的自覚がそのまま社会的自覚であるような現われ方をしているという点で、一つの特徴的な現われ方である。そして自分の個人的な悩みをいわゆる自我の内部に追いこんで悩むという行き方の代りに、もっとひろい社会的現実の矛盾の解決に結びつけて解決して行こうとする感情の方向が見られる。彼等の人間的自覚が労働者の集団生活の中で形成され、発展させられようとしているというのが、新らしい職場の詩人の間に見られる一つの特色であり、これはこれからの新らしい文学の発展にとって一つの重要な問題を提出している。

 職場の詩人だけの間題ではなく、日本の詩人全体の前に横たわっている大きな問題の一つは、日本の現代詩は、新体詩以来まだ形成の過程にあるということであり、したがってそこにはきまった形式がまだ確立されていないということである。新体詩時代には、一定の数律による定型が一応確立されたが、明治四十年代の口語詩運動あるいは自由詩の運動によって、これまでの新体詩的定型詩は否定されて、今日のような自由詩が詩壇を支配することとなった。そして極端にいえば、散文を行わけしても、詩として通用するというような時代となった。しかしそこから一方においての安易化の道もひらかれた。この安易化を如何にして打破するかというところからこれからの詩の困難な道がきりひらかれてゆくのである。
 
 詩は韻文ではない、というのが、今日の日本の詩壇では一つの常識となっている。事実、新体詩のような韻文詩は、最早、前時代的なものであることはまちがいない。それでは、現代詩は散文の一ジャンル(一種目)であるか、といえば、そうだといいきるものもあるし、そうではないと反体するものもあって、これはまだ論議の余地があるが、今日の日本の詩が散文的傾向にかたむいているという事実は否定できない。職場の詩人の詩を見ても、散文的なのが非常に多い。ただそれは意識的に散文的な詩を書こうとしているのではなくて、出来あがった結果としての作品が非常に散文的であるのである。しかもそれが悪い意味での散文である場合がしばしばあるというところに、大きな問題がある。それは散文的であるということが、詩の安易化の道と通じているという点で特に問題があると思う。
 現代詩が散文の一ジャンルであるかどうかは、ここでしばらく間題外として、いづれにしても詩には精神の集中的表現ということが必要である。集中による立体感、重量感(ポリュウム)がなければならない。もちろん、ある詩人の詩には、一見、精神の集中的表現とは反体の感情の流露や奔騰が見られる場合がしばしばあるが、それが集中や抑制を経た上での流露感や奔騰でなければ、それらの感情の流露や奔騰は空虚なものとなるであろう。
 職場の詩人たちが、自分の実生活からかけはなれたところに詩を見出そうとする代りに、自分の身のまわりから詩をつかみ出そうとする態度は、いちばん正しい行き方であると私は思う。しかしそこから一つの弊害が生れて来つつあるということも事実である。それは現実を変革しようとする強い精神によって、現実を観察したり把握したりする代りに、それを受身に描描写する傾向に流されているということである。そこから詩が平板な思い散文に傾いている。そこには集中された精神の燃焼があまり見られない。現実に体するレアリステイックな、冷徹な追究が、その迫究の究極において火花を散らすところに、新らしい詩の韻律が創造されると思う。水に一定の熱度を加えるとき、水は沸騰して泡立ち溢れる。それがいわばわれわれのめざすところの詩である。反体に水を一定の温度に冷却するとき、それは刃のような鋭い稜角をもった氷となる。そこにもわれわれの詩がある。そのように現実の変化乃至変革の過程における律動をとらえることが詩人の任務であり、それをとらえるための感覚が鋭敏であればあるほど、そこからすぐれた詩が生れてくる。
 われわれの詩は、抒情がそのまま批評となるような高い知性と思想性によって裏ずけられていなければならない。抒情が批評となるためには、われわれの精神の内部において、その精神が物凄い熱度に燃焼しなければならぬ場合もあるし、また物凄い冷酷さをもつて氷結しなければならぬ場合もある。われわれの精神における抒情と批評との矛盾と統一、これこそが今後の新らしい詩を生みだすための格闘である。現実を熱っぽく感ずることの出来ぬ詩人は、現実を冷酷にレアリステイックに批評することは出来ない。また現実の最も冷たい部分を、その冷たさにおいて感知することの出来るものにして、はじめてみずからの精神の内部に現実を焼き払う熱度の高い火を燃やすことが出来るのである。いづれにしても、詩人は傍観者であってはいけない。現実に対する傍観的立場からは、自然主義的レアリズムは生れてくるかも知れぬが、現実を変革しようとする強い意欲をもった人々の精神をゆすぶる韻律は生れて来ない。民主主義的詩人は現実の変革の過程に鳴りひびいている律動をとらえてそれを詩の韻律としなければならない。それは現実社会の中で崩壊して行くものの響きと建設されて行くもの、新らしく生れ出るものの響きとを正しくとらえ、それを詩の構造の中に織りこんで行くことを意味する。そのような詩として、われわれは大きな構想と組立てをもった叙事詩の出現を期待する。それはこれまでの日本のいわゆる近代詩の、意識過剰的な神經衰弱的なものとは縁の薄い、全く新らしい詩のジャンルである。それは近代詩ではないかも知れぬが、それよりもさらに新らしい一つの建築物である。それは容易には現われぬであろう。それが現われるまでには、民主主義的詩人は、現実生活の上でも詩の技術的錬磨の点からも、非常に苦しいたたかいをしなければならぬであろう。一行一行がすぐれた抒情であると同時に、全体が壮大な構想によって組み立てられたような叙事詩、それを私は期待するし、私自身としてもそういう詩を書きたいと思っている。
(一九四八年一月二十四日)

(『歌ごえ』創刊号 昭和23年3月)

壺井




8_8

8月8日木曜日 雨
やどかりを買いに行った。四ひきかったが弟が二ひきにがしてしまった。せんめんきにいれて、わりばしのはしごをいれた。おがら(*)をつなげてのぼらせた。

*おがら:花屋で扱うお彼岸の供え物の材料。木の枝をさらして白くした細い棒で、きゅうりやナスに4本足のように刺して牛や馬にします。また、さいごにお供えを燃やすときに使います。

8:7

8月7日(水)──1958年 小5
やねにのって はちのすをとった。
みんなのうちがよく見える。
はちのすを一つとって、おりた。みのるちゃんの家のやねにも大きなのがあったので、あみをつなげてとった。
はちの子がはいっていたので二、三ことって池に入れて金魚にあげた。
あとは前みたいにかえすつもりだ。
 
*8月5日「まわり将棋」の続きです。「みのるちゃんの家」とは西隣りの加藤さんの家で二階屋でした。



 一八七一・三・一八の巴里

  叙事詩「巴里コムミュン」第一章
                             上田進
  
鐘だ!…… 鐘だ!……
めちゃくちゃに打鳴らす警鐘!
おい! 起きろ! 支度をしろ!
銃だ! 劍だ! 旗だ! ラッパだ!
さあ、行こう
お父つあん、おつ母さん、姉さん
小っちゃなジャン、お前もだ!
ほら、銃声がきこえる
狼の様なチェールの軍が攻めて来たんだ
おれたちは、殺されるか、自由になるか
だがおれたちは勝つ!
見ろ! 見ろ!
──出て来る ──出て来る!
歪んだ戸口から、破れた窓から
じめじめした地下室から……
おれたちの仲間だ!
ボロボロの服を着た労働者達
髮を振乱した裸足の若い女達
煤と埃にまみれた子供達……
みんな同志だ!
ナポレオン以末の圧制と搾取と
屈辱と苦痛とに対する
不満、憤怒が、反抗が
今こそ一気に戸外に飛び出したのだ
広場に集ったのだ
巴里の大道を埋めたのだ
積年の敵に向って進軍を初めたのだ
ラッパを吹け! 太鼓を叩け! 足音を高く踏みならせ!
おれたちの憤りの爆発だ!
銃を握った拳の固さを見ろ! おれたちの力だ!
旗を振っている腕の太さを見ろ! おれたちの力だ!

何?やつらの軍勢は三万だと?
よし、おれたちはここに数万居る
何を恐れることがあろう!
その上、国内に数百万の仲間!
ドイツの数千万の同志もおれたちを支持している
イギリスにも、スペインにも……、そうだ世界中に
後押をする無数の同志!
何? やつらには精鋭の武器があると?
よし、おれたちにもある
二十サンチの大砲から鋳びた短銃まで…….
だが、おれたちの最大の武器は団結だ!
かがやけるブロレタリアの魂だ!
進め! この赤旗につゞけ!
おお、赤旗、おれたちの勝利、おれたちの自由のシムボル!
進め! モンマルトルへ
(巴里の夜明けだ!)
やつらがねらっているのは二百五十門の大砲だ
おれたちの武器を渡してはならない
モンマルトルへ、よし、モンマルトルへ……
女達は大砲を守って立った.
胸を叩いて叫んだ――「打て!この胸を」
銃……三発……五発……
おい同志をころすな!
やつらの銃を叩き折れ!
進め! この赤旗につゞけ!
朝だ!
敵の士官は気狂の様に軍刀を振りまわした
だが、おい、見ろ! 兵士達は動かない
おお兵士諸君! そうだ、それでいいのだ
君達の真実の敵は君達の背後にあることが
わかったか! ともだちよ
よし、君達の武器を君達の指揮者にむけろ!
ブルジョアの走狗──將軍ルコントを打倒せ!
群集の前に引出された將軍ルコントよ
泣きわめいたとて何になるか?
おまえの心臓を打拔いた彈丸の数は
お前が俺達に向って放った彈丸の数の幾万分の一か?

おれたちの進軍を妨げる奴をおれたちは容捨しない!
腕を組め!
突き進め! 巴里の混乱の中に……
邪魔ものは踏みころせ!
奪われた大砲を奪い返せ!
三色旗を焼棄てろ!
プロレタリアの旗と並んで
労働者の都、おれたちの巴里を攻める旗だ!
おれたちの呪もその旗を塗りつぶせ!
一色に──一色でいいのだ
そして全世界が……
.
おれたちの進む足音が銃声を消した!
おれたちの喚声が兵士達の限かくしを取った
おれたちの波がかれらをまき込んで流れた
みんなの手と手が、心と心とが、固く結ばれ……
俺達は暴風──やつらをヴェルサイユまで吹き飛ばした
おれたちは春風──赤い花片を巴里に撒き散らした
赤旗に飾られた三・一八の巴里よ! おれたちの巴里!
おれたちの行列は市庁前の広場へ……
同志の屍骸を越え、街上に流れた血潮を踏んで……
おお、屍よ! 見てくれ!
市庁の円屋根に今日こそ、俺達の旗が翻っているのだ!
微風・太陽は中天に、柔かい熱と光……
君たちの血潮もて彩られた何と輝かしき旗!

市庁のバルコンから、コムミュンが宣言された。
広場に集まった群衆──おれたちだ! おれたちみんなだ! おれたちだけだ!
乱舞する……乱舞する……
旗が躍る
帽子が飛ぶ
歌が……
笑が……
今まで搾取されしめつけられていたおれたちが
勝ったんだ! 自由になったんだ
おれたちのものがおれたちに帰って来たんだ!

この喜びを全世界の同志と分けよう
この力を全世界の同志に自覚させよう
この確信を全世界にぶちまけよう
──パリ・コムミュン万歳!
──パリ・コムミュン万歳!
躍れ!歌え!
だが、銃を放すな
戰は継続する

おい! 第二の戦に備えるんだ!
おれたちは組織されねばならないのだ!
全世界の同志よ!
輝かしきブロレタリアの旗の下に!
最後の勝利はおれたちのもの!
だが、その道は険しいのだ!
              ── 一九二八・三 ──

(『日本解放詩集』飯塚書店 1950年)

パリ・コミューン


上田進の逝去のおりに、新日本文学会青森県支部で上田と同志であった沙和宋一が追悼文を書いています。

人間 上田進について

人間肯定       沙和宋一

 赤旗と党員証で飾った同志上田進の枕辺に、三十冊にあまる著書を並べた。日本共産党葬をおわった翌日に、しらべてみると、そのほかに深く隠れていた作品が発見された。

 上田進が早大露文科を卒業したのは昭和六年で、同時にプロレタリア作家同盟に入ったのだが、爾来十四年にしとげた文学的業績は、秋田雨雀氏もいうとおり、『精力的な作家が一生かかってやる仕事を短い歳月で完成』したものであった。机にばかりへばりついて、個の殻にこもる文学の虫ではなかったはずなのに、上田進の驚くべきエネルギーは、どこから生まれたのだろうかと、私は、おびただしい著書の前に頭をさげた。

 上田進は、人民のなかからうまれる文学を育てるために努力を惜しまなかった。労働者農民のよい友であり、その文学のにない手であった。長野県の農村青年のルポルタージュ集『農村青年報告』四冊は、彼の献身なくては存在しえかった。この本は、歴史を客観的に真実として描きうる階級の文学の健在な萌芽であり、われわれにあたえる教訓は大きい。
 ゴーゴリ、プーシュキン、ゴーリキイ、トルストイと翻訳の仕事も大きいが、とくにソヴェートになってからのショーロホフの『開かれた処女地』『静かなドン』、イリフ・ペトロフの『黄金の仔牛』は不朽の作品であろう。上田進は、とおり一遍の翻訳家ではなかった。その作家的資質が訳文に生かされ、たとえば郷里信州の方言を、ウクライナの方言の翻訳として生かすなどの配慮が行われ、行き届いた日本の文章としての  が隈なく配せられ、他のおなじ翻訳と比較すると、いかに抜群の名訳であるかがわかる。
 翻訳家としての上田進は、作家上田進をある程度  にしたといえるのではないかとさえ思われる。私は、昭和十年ころの『文学評論』で『はげしい空』という短編をよんでから、上田進の短編をよんできた。平明で、水のような滋味をもつ恬淡たるスタイルが、上田文学の身上であった。否定と懐疑と自己分裂の、近来の日本文学に、これはまた、特筆すべき肯定的な全人間像の把握があった。この世界観の優位が、そうさせたのはいうまでもないが、上田進の  な、明るく、希望多く、おおらかな人柄にも因しているのは、うたがいない。
 長編『佐久間象山』第一部八百枚が、ちかく刊行される。上田進は象山と格闘して、数年の戦時下に、ひそかな大野心をもやしていた。その本が出ぬうちに、倒れた口惜しさは、もはや、上田進ひとりの問題ではない。
 なお多くの未来をもった作家であった。
(「月刊東奥」22年3・4月合併号)

*沙和宋一(昭和43年1月没)は作家、元「月刊東奥」編集長、初代の新日本文学会青森県支部長)

あじさい

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長野合唱団の小川さんが歌いました。


1.果てもなき荒野原
  息たゆる馭者あわれ
  息たゆる馭者あわれ

2.うるむ目に 馬みつめ
  言い残す その言葉
  言い残す その言葉

3.わが友よ いざさらば
  ここ荒野に われ眠らん
  ここ荒野に われ眠らん

4.わが馬よ 運びゆけ
  わが思いを 父母に
  わが思いを 父母に

5.伝えてよ わが妻に
  とわのわかれ この指輪
  とわのわかれ この指輪

6.荒野にて こごゆるも
  なが面影 いだきゆく
  なが面影 いだきゆく

(訳詞 井上頼豊)

うたごえ