千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。



ベルガモ



 ベルガモ記

 イタリー側の村に降りたところで、アオスタ行きのバスを待っていたわたしたちは、外国婦人と連れだった、日本の青年T君にめぐり会った。ミラノ近くのベルガモの町まで車で帰るところだから、いっしょに乗せて行ってくれるという。T君の親切のおかげで、わたしたちはフォルクスワーゲンに乗ってアルプスのイタリー側の谷間──アオスタの谷間をくだることになった。
 クルマを運転するのはT君の奥さんでスイス婦人のコリエンさんである。T君夫妻ははためにも仲むつまじく、スペイン語で話しあっている。T君はスペインのバルセロナで、建築関係の仕事についていて、いまバカンスで、コリエンさんの両親の住んでいるベルガモの町に来ているのだという。
 車はアオスタの谷間を疾走する。モン・ブラン山塊がとてつもなくスケールが大きいだけあって、この谷間もひろく大きい。舗装した道路が、ゆるやかな傾斜で、谷のまんなかを、ロンバルディア平原めざして伸びている。ときおり、アルプスの雪どけ水をはこぶ、水量のゆたかなバルテオ川が見える。モン・ブランに通ずるこの幹線道路が、ほとんどがらがらである。観光バスや貸切バス、自家用車などで数珠つなぎに埋まっている日本アルプスの幹線道路をわたしは思い出した。ときたま先行するトラックなどを追い越して、車は快適に走る。谷の両側からせり出した小高い丘というか、尾根尻とでもいうか、そういうところには、中世のものらしい古い城趾が立っている。もう崩れさって、塔だけがわずかに残っているものもあれば、まだみごとな城砦の姿をとどめているものもある。国はちがうが、ウイリアム・テルの物語などがおのずと思い浮んでくる。

(自筆原稿 1974年頃)

モンブラン2
 アラゴンは、一九二八年二月五日にマヤコフスキーとめぐり会い、その翌日、おなじクーポールの酒場で、エルザ・トリオレとめぐり会う。その時から、アラゴンはエルザから離れることなく、生涯、エルザへの愛をうたいつづけることになる。
 エルザは、少女時代からすでにマヤコフスキーの友人であり、エルザの姉リーリャ・ブリックはマヤコフスキーの恋びとであった。したがって、アラゴンにとって、マヤコフスキーは義兄ともいえる。
 マヤコフスキーは、一九三○年四月十四日、ピストルでじぶんの心臓をうって自殺した。それから五ヵ月後、ソヴェトを訪問したアラゴンとエルザは、モスクワのゲンドリコフ小路のマヤコフスキーの住家を訪ねている。その家はこんにち、マヤコフスキー博物館となっている。その訪問の模様を、アラゴンはつぎのように書いている。

 ゲンドリコフ通りの 客間のテーブルをかこんで
 わたしたちは いっしょに腰をおろしていた
 まるで いまにも扉口があいて あの大男が
 窓に射す陽のように ばっと現われそうだった

 五ヵ月たてば もうやすやすと彼の死にも慣れてしまう
 彼の声が聞(き)けなくなると すぐに過去形で彼のことを話すのだ
 きみにまつわりつく彼は もう観念であり記億の仕業(しわざ)なのだ
 だが 隣り部屋の 洋服だんすの扉があいていて
 彼のネクタイが 二つ折れに ぶらさがっているのを見ると
 誰でもふと マヤコフスキーがうしろを通るような気がするのだ

 彼はそこで 煙草をふかして トランプ遊びをしている
 彼の詩が どこか 上着のポケットで歌っている
 彼はちょっと伸びをする それをきみは転地旅行と呼んだものだ
 彼のような肩なら 地平も軽(かる)がると 持ちあがる
 彼の詩が船出の支度をするには 海のひろさが必要だ
 耳にひびく脚韻のために 彼には車輪とレールが必要だ
 だが そんなことを言ってみても いまではもうむだなのだ

 彼は言ったものだ 明日(あす)どこかわからないが 出かけるよ
 パリか パミールか それともペルーか ペルシャへ
 彼には 世界は玉突き台だ 頭のなかの赤玉の言葉が
 緑いろの絨毯(じゅうたん)の上をころがって とつぜんキャノンするのだ

 ああ 彼はほんとに行ってしまった そのわけは永遠にわからぬだろう
 そのわけを訊(たず)ねるのは ほんとに彼を愛していた人たちにとって むごかろう
 あんなに何度も 彼は地獄から抜け出てみせると約束した
 それは暗喩だったようだ 少くとも奇妙なことだった
 いまそれを読みかえすと 心はひっくりかえるようだ
 いつか 彼がもどってきたら きみはどうか黙っていてくれ おねがいだ
 ネバ河は もうこの世捨て人を放すまいと その氷のなかに彼を閉じこめている
 彼はもう銅像でしかない 通りの名 広場の名でしかない
 したしげに鳥が飛んできて その腕のうえで羽根をやすめる
 青銅(ブロンズ)の服のなかで ふるえおののくのは もう風だけなのだ
                           (『末完の物語』)

 ここには、マヤコフスキーの死にたいするアラゴンの哀惜の情があふれていると同時に、マヤコフスキーの人間像が端的にうたわれている。マヤコフスキーはじっさいに玉突きが好きだった。

  この世では死ぬことは新しくない
  だが 生きることもむろん新しくない

 というエセーニンの詩にたいして、マヤコフスキーはつぎの詩句を対置した。

  この世では 死ぬことはやさしい
  生活を築く方がずっとむずかしい

 マヤコフスキーは死んだが、かれの偉大な生への肯定のことばは、この人生に残ったのである。
(おわり)

(『詩人会議』1973年10月 特集マヤコーフスキイ)

(注)本稿は未発表の紀行「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」の一つの章となっている。

枯枝

 マヤコフスキーとめぐり合ってから五年後にこう書いたアラゴンは、それからほぼ二十年後の一九五四年、第二回ソヴェト作家大会でも、マヤコフスキーをほめたたえている。
 「詩となるすべてのものは、現在の歴史から、現実の人口の生活から、これらの人々の直面する疑問への回答から、その力を汲みとっている。詩──それはかれらのたたかいの武器であり、そして詩人はこのたたかいにおいて、ただ彼の言葉と歌のもつ力と威力によって、他の人々とことなっているにすぎない。今世紀の絶頂に立ち、全世界の詩人たちの注意を一身に集めている詩人の例──それはヴラジミル・マヤコフスキーである。
 ヴラジミル・マヤコフスキーは、生活の行手を照らすみちびきの星である。マヤコフスキーの光に照して、われわれは自身の冨を再評価し、われわれの源とわれわれの運動をよりよく理解する。マヤコフスキーの光に照して、われわれは世界のすべての詩人たちの共通の道が前途にひらけているのを眼にし、新しいソヴェトの人間と、そのソヴェトの人間によく似た、全世界で勝利を収めるであろう明日の人間を知り、彼らとともに行こうとするのである。
 そして事実、同志諸君、明日の日の人間の勝利をいわずして、いったい何を語ることがあろう。社会主義リアリズムはけっして自己目的ではなく、これは、われわれの芸術がその全力をあげてすべての人々とともにわれわれがめざしている最終目的の達成を促進できるようにするための創作方法である。
 真の詩──それは人間の精神の光であり、われわれはそれを消し去ることを許さない。詩について語りながら、私は最後に、我が国の詩人ギョーム・アポリネールの言葉を引用したいと思う。これは、四十年前に書かれた彼のピカソ論の末尾にあるものである。
 『この地上において人々は何よりも光を愛する、彼らが火を発明したのだ』
 おそらく、わが国の詩はまだ光とはなっていないだろう。しかし、ここ、プーシキン、レールモントフ、マヤコフスキーの国で、われわれはすでにこう言うことができる、──詩人たちは何よりも光を愛する、なぜなら、彼らはその火によって末来を照らすような作品をつくっているから、人類の幸福のためのたたかいにおいてその武器となり、その行手を照らすみちびきの星となっている作品をつくっているから、と。
 たしかに、あなた方の国の詩人たちの詩を読んで、われわれは言うことができる──彼らが火を発明したのだ! と。」 (『第二回ソヴェト作家大会』四一五べージ)
(つづく)

(『詩人会議』1973年10月 特集マヤコーフスキイ)

アラゴン
演説するアラゴン




明かる澄んだヴァイオリンの響き、幸せなひととき

アイスバーグ

10月29日の文化祭で神野優子さんと宮林陽子さんが「庭の千草」を演奏しました。

ヴァイオリニスト
外
あいにく秋の雨となってしまいました。
正面
矢野
矢野さんのバラのお話にバラ愛好家の方が熱心に聞き入りました。
食事
お昼はおやきと押しずし、芋煮とおでんをいただきました。
外
子供
午後からの文化祭、最初はピアノ教室の子どもたちが元気に歌いました。
文化祭
リメーク
リメークの会の皆さんが自作の服のファッションショー
リメーク
玉木
服
自作の服はユニークでいいですね。
服
ハングル
ハングル講座はハングルであいさつ
矢野
矢野さんがバラ友の会の紹介
合唱
光の種子まく合唱団が灯と泉のほとりを合唱。泉のほとりは変わった歌詞「里山に春が来たよ……」でちょっと変?
宮林
神野優子さんと宮林優子さんが特別出演。美しいバイオリン曲をたくさん聴くことが出来て感激!
宮林
はなや
大勢の方が参加されて色々な演し物を楽しみました。美しいヴァイオリンもたっぷり聴けて素晴らしい文化祭でした。皆さんありがとうございました。



懐かしいフォークソング「花はどこへ行った」を歌いました。

花はどこへ行った
 アラゴンがフランス共産党に入党したのは、マヤコフスキーと出合った前年の、一九二七年であった。その年、ブルトン、エリュアール、ユニック、ブニュエル、サドゥールなどのシュルレアリストたちも入党したが、ある者は数週間で離党した。しかしアラゴンは、無器用にではあったが、党生活を追求した。シュルレアリスムの詩的手法から新しいレアリスムの詩に移る実作上の苦渋、新しい思想と私的な生活感情との矛盾など、アラゴンは苦悩にみちた自己変革の過程にふみこんだところであった。党生活を忠実につづけることは、かれをシュルレアリストたちから遠のかせ、かれは孤立させることにもなる。混乱と絶望のあまり、一九二八年、すでに一五○○頁に達していた長編小説『無限の防衛』を、かれはマドリッドで焼きはらったのであった。──これが、マヤコフスキーと出合った時のアラゴンの精神状況の、おおまかな素描である。

 マヤコフスキーとの出合いから、アラゴンが受けとった決定的なものは、ブルジョワ社会の虚偽と醜悪を意識するということではなかった。アラゴンにとって、シュルレアリスムはすでに、このブルジョワ社会の虚偽と醜悪にたいする抗議でもあった。マヤコフスキーとの出合いがアラゴンに与えたものは、新しい世界との接触であった。マヤコフスキーの模範はアラゴンをはげまし、「詩における新しい世界の創設に全力をあげて反対する」ひとびとに、アラゴンを立ち向わせることになる。
 一九三三年、マヤコフスキーの詩『声をかぎりに』を、アラゴンはエルザと共訳で、フランス語に訳したが、その序文でこう書いている。
 「マヤコフスキーの場合のように、翻訳というものの役割が、かくもドラマティックだったことはかつてなかった。それはまさに、偉大な社会革命の時代におけるもっとも高い詩的形容に到達し、その天才を革命に奉仕させた人間にかかわっているからである。ソヴェト同盟以外の国ぐにで、共産主義革命にたいして、さぐるような、いぶかしげな眼ざしを食いいるように向けているすべての詩人たちにとって、マヤコフスキーの模範は無類の価値と効力とをもっている。かれらはマヤコフスキーに期待している──資本主義の濃霧をつらぬいて、かれらの理性のうえに、かれら詩人たちのもとに、射しこんでくるあの稲妻を、期待している。そしてかれらは、自分たちの行動の基準ともし、つねにとは言わないまでも、作品の基準ともしようとしている革命的発展をうらぎらない詩人たろうとしているのである。」 
(つづく)

(『詩人会議』1973年10月 特集マヤコーフスキイ)

マヤコフスキー
若き日のマヤコフスキー(1912年)

 
マヤコフスキーとアラゴン
                           大島博光

 誰かが言っているように、アラゴンとエリュアールは、シュルレアリスムのなかで追求した反抗を、党のなかで、さらに哲学的に、思想的に追求し、発展させた、ということができる。しかしながら、アラゴンの場合、シュルレアレスムから社会主義的レアリスムへの移行は、きわめて苦悩にみちた、長い闘いだった。
 シュルレアリスムから社会主義レアリスムへの移行と書いたのは、一九三五年の『社会主義レアリスムのために』以来、アラゴンは資本主義の国においても、社会主義レアリスムを採用することができると、主張しつづけているからである。一九五四年十二月にひらかれた第二回ソヴェト作家大会においても、アラゴンはつぎのように発言しているのである。
 「ここ二十年前、そしてほんのつい最近まで、私たちの国では、社会主義レアリスムを正しい方法と考えていた人たちさえ、何か気がねのようなものから、レアリスムはまぎれもなく進歩的文学の法則だが、しかし、社会主義のないフランスでは、ほんとうの社会主義レアリスムを問題にすることはできないというように考えがちであった。しかし、私自身は、芸術家・作家が、発展しつつある労働者階級のイデオロギーを受けいれ、社会主義の見とおしのうえに立って、自国民、自民族の歴史的、科学的な認識にもとづいたリアリスチックな芸術を創造していくことができさえすれば、社会主義レアリスムは資本主義の国でも可能である、といつも主張してきた。何か国民的気がねといったような訳のわからぬものにとらわれて、これとちがった風に考えることは──つまりは、損失を招くことであり、ヒュマニスムの文学の発展をさまたげることである。」 (『第二回ソヴェト作家大会』四一○頁)

 アラゴンの、このような社会主義レアリスムへの移行と追求にあたって、マヤコフスキーとの出合いは、きわめて象徴的な影響を与えたのであった。
 アラゴンがマヤコフスキーに出合ったのは、一九二八年一月であった。この出合いについて、アラゴンはこう語っている。

 「それはモンパルナスの或るカフェのことだった。ある秋のタ方、わたしはみんなと同じように時間をつぶしていた。カフェは明るく、女たちがさざめき、腰掛のうえには白と黒の小犬が一匹、まるでおもちゃのように座っていた。とつぜん、誰かがわたしの名を呼んで言った。『詩人ウラジミール・マヤコフスキーがあなたを呼んでいます。」そこにはマヤコフスキーがいて、手で合図をしていた。かれはフランス語を話すことができなかったからである。
 この瞬間こそ、わたしの人生をまったく変えてしまうことになった。詩をひとつの武器に変えることのできた詩人、革命の下手にいてはならぬことを知っていた詩人、マヤコフスキーは、世界とわたしとを結びつけるきずなとなった。それは、わたしが自分の手くびにうけとり、こんにちすべての人びとにさし示している鎖の最初の一環であった。このきずなは、わたしをあらたに外部世界へ結びつけている。御用哲学者たちは、この外部世界を否定するようにと、いままでわたしに教えこんできたのである。それ以来、唯物論者としてわれわれが変革しうるこの外部世界のなかに、わたしは醜悪な敵の顔を見いだすだけでなく、数百万の男女の深い眼を見いだすのである。詩人マヤコフスキーは、これらのひとびとにこそ語りかけるべきであり、語りかけうるということを、わたしに率直に教えてくれたのである。これらのひとびとこそが、この世界を変革し、こわれた鎖のぶらさがっている傷ついた拳をこの世界のうえ高くさしあげているからである。」(『社会主義レアリスムのために』)
(つづく)

マヤコフスキー


(『詩人会議』1973年10月 特集マヤコーフスキイ)

 アントニオ・マチャドの墓

 わたしたちはグラナダからまた二○時間も超鈍行列車にゆられて、ヴァルセロナに着き、そこで、ピカソ美術館やガウディの「サグラ・ダ・ファミリヤ」の奇妙な尖塔群を見たりした。ここのピカソ美術館には、ピカソの少年時代からごく初期の絵画やデッサンが集めてあって、それらの初期の作品のなかに、すでに後年の大ピカソへと発展・展開してゆく萌芽を見ることができて、感銘深かった。
 それからわたしたちは、地中海の絶妙海崖(コート・ド・メルベイニ)に沿って走り、スペインとフランスの国境を越えてまもない小さな町コリウールに降りた。ここの墓地に眠るアントニオ・マチャドの墓に花束をささげるために。
 コリウールは小さな漁港でもあるが、夏には押しよせる海水浴客で賑わう地中海岸の町である。だが十一月ともなれば季節はずれで、たくさんのホテルや別荘はみんな閉ざしていた。一軒だけ、ホテル・タンプリエというのがひらいていて、もう避寒にきているらしい数組の老夫婦が泊っていた。このホテルの壁という壁は、絵で埋まっている。見るからに 下手くそな画や、しかし楽しい画が、ぎっしりとかけてある。このホテルに泊った画学生や日曜画家が置いていったのにちがいない。「絵がたくさん、たくさんある」といって、ホテルのおやじはそれを自慢していた。食事のとき、下のレストランに坐って、ひょいと前の壁をみると、なんとそこには、ピカソの署名入りの絵や例の鳩のデッサンなど四、五点が飾ってあるではないか。どうやらピカソもこのホテルに泊ったことがあるのかもしれない……。
 翌朝早く、八百屋で、百日草のような菊の花束を買って、墓地へむかった。ひとかかえもある鈴かけの大木のある、だんだら坂の道を少しばかり登ってゆくと、もうそこに墓地があった。海は見えなかったが、やはり海べの墓地にちがいなかった。門をはいると、そのとっつきのところに、マチャドの墓は、幾鉢もの鉢植えの菊の花ばなに飾られて、ずんぐりとした西洋杉の木かげにあった。大きな寝棺大の石を横たえたような墓石には、「スペインの詩人、アントニオ・マチャド/一八七五年七月二六日セヴィリャに生まれ/一九三九年十一月二二日コリウールに没す」と刻まれてあった。くしくも、わたしたちが訪れたその日も十一月二二日で、ちょうど命日にあたっていた。墓石のうえには、人民戦線の旗と思われる、赤・黄・紫の旗が覆いかけてあって、追悼と讃辞(オマージュ)を書いた紙きれが三、四枚、小さな石で押えて、供えられていた。多くはスペイン語で書いてあって、雨風にさらされてインキの色もにじんだりして色褪せていた……。そこに来あわせた七十歳近い老婆が、墓を指さしながら、また身ぶりをまじえて話してくれたところによると、この土の下に、死んだマチャドが葬られたとき、かれのからだは引き裂(デジレ)かれていたとのことだ。四十年むかしには、この老婆もまだ娘の頃で、マチャドの死はひとびとの話題ともなったのにちがい 。──ロルカが銃殺されたとき、いち早く「虐殺はグラナダで行われた」を書いて、ファシストどもの犯罪をあばいたマチャドは、その後フランコ軍の追撃をのがれてピレネーを越え、ここコリウールに辿りついたが、ここで非業の死をとげたのであった……
 マチャドの死から数年後の一九四一年十二月、第二次大戦下のレジスタンスで、「パリの虐殺」の作者ジャン・カッスーは、南仏のトゥールーズで捕えられて、軍事刑務所の独房にぶち込まれた。かれはそこで「独房で作られた三三のソネット」をつくった。その二一番めのソネットは、かれの敬愛するマチャドにささげられている。
 スペインの人たちは国境を越え、ここコリウールの墓地にまで詣でるのである。
(おわり)

(『詩人会議』 1979年4月)

マチャードの墓
マチャドの墓にて

 さらに、そのフェンテ・ヴァケーロス村の白い砂地のひろい広場で、一九七六年六月五日、ロルカ生誕七十八周年記念集会が、六○○○人の参加者たちによって、ひらかれたのであった。この集会は、官憲の監視のもとに、三○分だけ許され、それ以上は一分たりとも超過してはならなかったといわれる。この集会でロルカの詩が朗読され、アルベルティの「歳月は過ぎ去らなかった」が朗読された。その一部分をここに掲げておこう。

  ……
  「フェデリコと 叫ぶ声がおれに聞こえる
  屋根のうえから フェデリコ
  庭のなかから フェデリコ
  崩れ落ちた塔から フェデリコ
  消えた泉から フェデリコ
  凍(い)てつく山から フェデリコ
  暗い川から フェデリコ
  掘り返えされた大地から フェデリコ」
  ──なんだ なにが起きたのだ?
  ──なんでもないさ
  ──そんな風に騒がずにそっとしといてくれ
  ──よし わかった
  心臓はひとりぼっちで この世から出て行った
  ──ああ ああ かわいそうなおれ! フェデリコ!

  彼は いまもまだ立っている
  ひとは いまも 彼について
  語ることができる
  平然とした 彼の顔を描くことができる
  彼の葬式の 倒れて硬くなった 大理石の顔を
  なぜなら 彼はずっと あそこに
  血の海のなかに 漬(つか)りつづけ
  あそこに 根をおろしているからだ
  彼は 血にまみれた鏡の水銀に面と向かい
  自分の詩のなかの自分を見つめ
  自分の哀れなスペインを
  蛆虫どもに食い荒された
  死んだスペインを 見守っているからだ 
  カルロ・クァトラッチが* ローマで彼を描いた
  画家は そのように彼を描くことができた
  なぜなら 三〇年後のいまも
  歳月は過ぎ去らなかったからだ
  そうだ 歳月は過ぎ去らなかったのだ

    *訳注 この詩は、画家カルロ・クァトラッチの挿画入りで発表された。

 この詩が六○○○人の聴衆のまえで朗読された集会をおもいみて、わたしはひろい広場にしばし立ちつくしていた……。
(つづく)

(『詩人会議』 1979年4月)

ロルカ
 犯罪はグラナダで行われた

 ところで、この自由で甘美な詩人は、周知のように、一九三六年八月十九日、フランコ一派のファシストたちによって、このグラナダ郊外、ビスナルのオリーブ畑で銃殺されたのだった。その一カ月前、スペイン共和国に襲いかかったフランコ・ファシストは、まるでその出撃の合図ででもあるかのように、いち早くロルカを血祭りにあげた。なによりもロルカの自由の精神が、ファシストたちの怒りと憎しみを買ったのである。先輩老詩人アントニオ・マチャドは、いち早くロルカの死を詩に書いた。この詩は数年前すでに「文化評論」に発表されたが、もう一度ここに引用しておこう。

    犯罪はグラナダで行われた
                        アントニオ・マチャド

  かれは銃にかこまれ/長い道を とぼとぼと歩き
  まだ 星の残っている朝まだき/寒い野っ原に 姿を現わした
  やつらは フェデリコを殺した/そのとき 朝日が昇った
  死刑執行人(ひとごろし)の一隊は/かれをまともに見ることができなかった
  やつらは みんな眼を閉じて祈った/──神さえも救えはしない!
  かれ フェデリコは倒れ死んだ/──額から血を流し 腹に鉛をぶち込まれて
  虐殺は グラナダで行われた/知ってるか──哀れなグラナダよ
  フェデリコのグラナダよ

  ……/とぼとぼと歩いてゆく二人の姿が見えた

  友よ わたしのために建ててくれ /石と夢の墓を──詩人のために
  アランブラの/すすり泣く 泉のほとりに/そうして 永遠に伝えてくれ
  虐殺は グラナダで行われた と/かれのふるさと グラナダで行われた と

 はじめてこの詩を訳したとき、わたしはまだアランブラ宮殿のことはよく知らなかった。そのアランブラを見てみると、「アランブラの/すすり泣く泉のほとりに」という詩句が、遠いむかしの悲劇と現代のそれとを結びつけて、言いようもなく美しく適切なものに思えるのであった。
(つづく)

(『詩人会議』 1979年4月)

アランブラ

ロルカの家

 翌日の朝、ロルカの家を訪ねるべく、グラナダ郊外のフェンテ・ヴァケーロス村へとタクシーを走らせた。ちょっとした工場地帯を抜けると、オリーヴ畑があったり、丈の高いポプラ林のあいだに農地が広がっている。行手に、禿山が、やわらかい線を描いて現われる。ずんぐりとして太い大根を満載したトラックと、何回もすれちがう。恐らく砂糖大根を工場へ運ぶのにちがいない。ギュヴィックが砂糖大根のことを詩にかいていたのを思い出した。やがて街道から左に折れてしばらく行くと、白い家々をつらねた、フェンテ・ヴアケーロスの村にはいる。ひろい広場があって、小さな木がそこここに立っている。陽の輝く午前なのに、村の人々が三々五々、連れ立って、この広場でおしゃべりをしている。タクシーの運転手が、ロルカの家をきき出してくれた。広場から左にちょっとはいったところに、やはり白い家がひとかたまりつづき、そのひとつの家に、「フェデリコ・ガルシア・ロルカの家」としるした銅版がかかっていた。わたしたちが写真に撮っていると、この家の現在の住人らしい老人が出てきて、黙って向うの方へ歩いてゆく。「わたしらをそっとして置いてくれ」と言いたげに。そこへ、ぼろをまとった、大柄で赤ら顔のジプシー女が出てきて、大声で何かまくしたてた。わたしはとっさに、そのジプシー女をカメラに収めた。すると、そばに立っていた、やはりジプシーらしい二人の若者といっしょになって、そのジプシー女が、わたしたちに手のひらを差し出してきた。カメラに撮った、そのモデル代を出せ、というのだ。わたしたちは何がしかのペセタをその手のひらにのせてやった……ジプシーたちは、働く仕事もなく、貧しいままに、村の広場に集って、おしゃべりなどをしているのかも知れない。そういえば、アランブラ宮殿の近くで、来かかった二人の若い男に道をきいたら、たちどころに、かくし持っていた靴みがき台を出して、靴をみがき始めた。あっけにとられているわたしたちに、しかも二○○ペセタを要求してくる。……この二人もジプシーだったのだ。こうしてみると、ロルカが「ジプシーの歌」を書いた、その源泉が肌に感じられるような思いであった。
 ロルカは「栗色の歌」という詩で、栗色の女をうたっているが、あるいは彼女もまたジプシー女だったのかも知れない。

   栗色の歌
         フェデリコ・ガルシア・ロルカ

  わたしはふみ迷い 消え入る
  栗色の おまえの 大陸に
  マリア・デル・カルメンよ

  ほかのものに見とれて うつろな
  おまえの眼の中に わたしは消え入る

  おまえの腕の中に わたしは消え入る
  空気までも 栗色に染めて

  そよ風が なぶっている
  おまえの肌の そのうぶ毛を

  わたしは 滑りこみ 消え入る
  むっちりと 息づき はずむ
  おまえの ニつの乳房のあいだから
  おまえの甘いからだの 暗い深みへ

(つづく)

(『詩人会議』 1979年4月)

ロルカの家


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コンサート
10月29日(日)午後

大島博光記念館文化祭に特別出演して演奏されます