fc2ブログ
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


ネルーダはスペイン戦争でのファシズムを告発した有名な詩「そのわけを話そう」(詩集『心の中のスペイン』)の中で、

  わたしは マドリードの街に住んでいた
  わたしの家は
  花の家と呼ばれ あたり一面に
  ジェラニュームの花が咲きこぼれ
  それは うつくしい家だった
                    (大島博光訳)

と歌っていますが、この家の様子が海堂尊さんの連載小説『詩聖ネルーダ』の最新回「〈カサ・デ・ラス・フロレス〉(花屋敷)」に書かれています。(『サンデー毎日』4月7日号)

 1934年6月、ネルーダは領事としてマドリッドのチリ大使館に赴任し、ロルカやラファエル・アルベルティ、ガブリエラ・ミストラルらの詩人やパリから来ていた貴婦人デリア・デル・カリルの歓迎を受け、楽しい日々を過ごしていた。そこに身重の妻マルカがバルセロナから来た。そこでラファエル・アルベルティが5階建てのアパートを見つけてくれた。5階の窓からは遠くグアダラマ山脈が見え、ゼラニウムの鉢植えが窓を飾る家は〈カサ・デ・ラス・フロレス〉(花屋敷)と呼ばれた。5階建ての「花屋敷」を気に入ったネルーダは全館を借り上げ、友人たちに部屋を開放した。昼夜分かたず友人がやってきては飲み食いし、本を読む。ある晩などは狭い部屋に客が折り重なって寝ていた。特にロルカは「花屋敷」に勝手気ままに出入りした。そんな状態に我慢の限界となったマルカは4階の部屋を占拠したが、他の全ての部屋はネルーダの社交場と化した。(一部編集)

妻のマルカを別にすれば、詩人たちにとって自由で楽しい屋敷だったのですね。

*「そのわけを話そう
 
ゼラニウム




実践的な立場で

(『詩人会議』1989年9月号──特集「詩のリズム・詩のフォルム」)

3


[大島博光氏に聞く ──(5)実践的な立場でポピュラーな詩を]の続きを読む



4_2


(『詩人会議』 1989年9月号特集 詩のリズム・詩のフォルム)

蘭


[大島博光氏に聞く ──アラゴン、エリュアールから受けつぐもの (4)詩を変えるには人間が変ること]の続きを読む
 


うるわし春の花よ
更にうるわし君
春の夕べに 春の庭にて
君と会う楽しさ
エイ!
春の夕べに 春の庭にて
君と会う楽しさ

若い頃、博光さんと静江さんがよく歌っていたので懐かしい歌です。

蘭
6
7
うたごえ喫茶
月

晴れた宵の空、朝の雪がウソのよう

 

なつかしい反戦フォークソング「500マイル」を竹松えりさんが歌いました。

1
朝からの雪がやんで、暖かくなったなかでの3月のうたごえ喫茶でした。

2
4
3
 

 
1
バラ作業は雪の降る寒い朝
2
3
鉢の土替えは軒の下で
4
石油ストーブでひと息
5
お昼には晴れてきました
6
新しいバラの鉢、シルクロード、サマルカンド、シャルール、シャリマー、ピクシー、マイローズ。
矢野さんが強い品種を選んで購入しました。
9
午後はうってかわって暖かい陽気になりました。
7
8
整枝と剪定
10
13
暖かくなって気持ちいいなー
12



3-1
3-2


(特集 詩のリズム・詩のフォルム)
エリュアール


[大島博光氏に聞く ──アラゴン、エリュアールから受けつぐもの (3)シュルレアリスムとアラゴン、エリュアール]の続きを読む



大島博光氏に聞く2


アラゴン


[大島博光氏に聞く──アラゴン、エリュアールから受けつぐもの (2)]の続きを読む
[大島博光氏に聞く──アラゴン、エリュアールから受けつぐもの (1)]の続きを読む


 
春の声


(自筆原稿)
 
カエル



 
河に飛びこむ


(自筆原稿)
 
河




 
反抗をぬきに


(自筆原稿)
 
ランボオ画像
ジャコメッティ作 「ランボオ」



北診三十年の歩みをふりかえって
                                千葉北部診療所初代所長 須田章

 6 選挙戦

 〈医療と患者の守り手〉
 
 われわれは、保健・予防、生活保護、健康保険改悪、財界本位の政治、核兵器廃絶など、これまでの医療活動と平和・民主主義をまもるたたかいのなかで、真に、「医療の向上と患者の利益をまもるのは誰か」を確かめてきた。その結論から、われわれは日本共産党の候補者を支持し、国政革新と地方政治刷新の事業に協力してきた。

 〈柴田照治氏の立候補〉

 一九六二年(昭和三十七年)四月、診療所の〝生みの親〟ともいうべき、柴田氏が千葉市長選挙に出馬した。つづいて、翌年五月には千葉市議会議員選挙に立候補した。われわれは柴田候補の必勝をめざして全力をつくしたが、残念ながらいづれの選挙でも惜敗した。しかし、この二つの選挙で、われわれはかつてない支持と影響を拡げ、その後の選挙に少くない地歩をきづいた。

 〈市長選と県議選〉

 一九六六年(昭和四十一年)四月におこなわれた、千葉市長選挙は、共産党と社会党が統一候補をたててたたかうことになった。統一市長選挙がおこなわれるようになった背景には、共産党の民主勢力を結集してたたかうという粘り強い努力があった。しかし、残念ながら統一選挙に決まって五時間後には、社会党の裏切り行為によって、統一問題は水泡に帰してしまったのである。
 この年の市長選挙には、私が共産党の予定候補にきまっていたので、急きょ、立候補届けをすませ、私は自社共三つどもえの選挙戦に突入したのである。翌年一九六七年四月、全国一斉地方選挙がおこなわれ、私は千葉県議会議員選挙にのぞむことになった。
 この選挙戦は激烈をきわめた。共産党本部からも直接の指導、援助があった。有力支持者(当時は後援会はなかった)へあてた野坂参三議長(当時)の激励電報がとんだ。民医連も院所をあげて奮闘した。奥山前会長(当時)は大手術後の病軀をおして、患者と住民を激励しながら候補者の私を紹介してまわってくれた。涙ぐましいこのような活動のなかで、有権者の支持と声援はかつてない高まりと拡がりをみせた。
 開票の結果、私は九千四百七〇票を獲得して当選を果した。新聞では『共産宿願の一議席』と報道された。共産党は千葉県議会に初議席を占めたのである。私にとってはまさに、青天の霹靂であった。その直後、行われた千葉市議会議員選挙で、柴田照治候補と今井町診療所事務長の岩品政男氏がそろって当選した。このときから、私は政治家の道を歩み出したのである。
 いま、静かに当時を想起して、共産党といっしょに選挙をたたかってくださった民医連院所の職員、患者、地域住民、支持者に深い感慨をこめて敬意と感謝を送るものである。

 〈私の所信〉

 「なぜ、政治にこころざしたのか」という質問を間々受けるので、このさい、私の所信を披瀝しておきたいとおもう。 科学文明の発達した今日、人類の生存と幸福をねがうならば、核兵器の廃絶は議論の余地がないが、「病人を治す」ことより「病人を出さない」ための、医学、医療、制度を実現することではないだろうか。この課題に接近しようとするならば、現実政治の流れを変えなければ不可能であろう。民医連における活動と経験が、無数の事実をもって示しているように、保守政治を革新政治に変えることによってのみ達成される。
 立候補の問題は、当時の情勢と事情からすれば、誰かが引き受けなければならなかった。とはいえ、私としては再三、再四、「その任に非ず」という理由で拒みつづけてきたのも事実である。私は「大義のまえに承服し、大義のために奮起した」のである。これが私の偽らざる心情であった。

 〈花井先生をむかえて〉

 県議選で当選した私は、県民の期待に応えるべく、いわゆる〝二足のわらじ〟をはいて東奔西走した。文字どおり無我夢中で全力を投球した。
 一期目は、年四回招集される議会開会中の三ヵ月間は、診療活動を休ませてもらった。佐藤先生や岡村先生にずいぶんご迷惑をかけたこととおもう。そのかわり、九ヵ月間は年末・年始も夏期休暇も返上して、診療活動に専念した。それでも、患者・地域の方々から「(須田は)いついってもいない」とおしかりを受けた。「この次は投票してやらないから」とまでいわれた。到底、私個人の努力では、解決のつかない問題であった。
 間もなく、新進気鋭の花井透先生(現・千葉健生病院長)をむかえて、診療体制を固めなおした。病院に活気があふれ、私も安心した。花井先生は、午前の診療のあと、午後は大学病院などへ研修に出かけた。これがまる三年つづいたが、花井先生の努力は目を見はるように結実していった。同時に患者の信頼も次第にひろがっていったのである。
 二期目から私の勤務体制は、議会閉会中でも、週二日診療、宿直一回になった。

 あとがき

 創設からほぼ十周年の診療所活動について、事実を追いながら記述してきたが、あとの二十年については、歴代の所長および事務長、婦長諸氏にバトンを交代し、「診療所三十年史」記録の任をおえることにしたい。
 診療所の今日あるのも、また、未熟な私が大過もなく任務を果すことができたのも、一重に、民医連の指導と運営委員会ならびに患者友の会のご協力、そして苦楽をともにした職員の並々ならぬ奮闘のたまものである。しかし、そこには、私たちの活動をつねに激励してくれた、無数の患者・地域住民が存在していたことを忘れてはならないとおもう。
 ここに、数多くの方々の援助と労苦に報ゆる適切な言葉がみあたらないが、衷心から感謝の意を表明する次第である。
(完)
 
須田 柴田


(『千葉北部診療所の三十年』1985年)




北診三十年の歩みをふりかえって
                                千葉北部診療所初代所長 須田章

 5 医療活動と平和・民主運動

 〈ポリオ闘争〉

 一九五九年(昭和三十四年)六月、青森など東北各地でポリオ(小児麻痺)が発生し、翌年にはたちまち全国にまんえんしていった。幼児をかかえた母親の不安と、国民の予防を要求する声は、日に日に強まっていった。われわれも全国の民医連、県連院所と連帯して、ポリオ予防闘争をたたかった。当時、『アカハタ』(現・赤旗)はポリオ闘争について連日キャンペーンをはった。ポリオの知識、予防ワクチンなどについて、きわめてわかりやすい解説をくわえていた。
 われわれは『アカハタ』の情報をたずさえて、政府・厚生省、県・市当局交渉をくりかえした。ついに政府・厚生省も国民の世論と行動におされ、カナダ製ポリオ・ワクチンの購入にふみきることを言明した。しかし、それは量的にも、質的にも不充分のものであった。『アカハタ』の報道はカナダ製ワクチンは、死・ワクチンであること。社会主義国では副作用のない効果の大きい、生・ワクチンを開発、使用していること。ソ連政府は「日本政府の要請があれば、いつでも輸出する用意がある」といっていることなどを紹介していた。
 われわれのポリオ闘争は、ソ連製の生・ワクチン獲得の方向に広がっていった。政府は「国交回復」がないことを理由に、ソ連ワクチンの輸入を拒みつづけた。しかし、このカベもついに破られる日が来た。政府は一九六一年六月、ソ連ワクチンの緊急輸入をおこなったのである。
 ポリオ闘争のなかで、民医連の院所はワクチン獲得の先頭に立っただけでなく、宣伝、啓蒙活動でも活躍した。私も千葉、四街道、佐倉などで開かれた座談会に、すすんで出かけた。日本列島を震撼させたポリオも、このような民医連院所の奮闘と国民的運動によって、急速に衰退していったのである。

 〈コレラ騒動〉

 一九六〇年夏のことである。まだ旧陸軍習志野練兵場の名残りをとどめていた習志野市で、コレラ患者が発生した。当時『コレラ』といえば、恐ろしい病気の代名詞につかわれていたくらいであったから、習志野はパニック状態をおこした。八千代、船橋、千葉などでも、少くない市民に恐怖をあたえた
 一つの予防対策は、コレラ・ワクチンを接種することであった。大塚事務長はじめ各院所の事務長たちは、一刻も早く厚生省からワクチンを入手するため、県当局や県医師会に要請した。ところが、なかなかラチがあかない。事態は急を要する。大塚さんたちは、直接、厚生省にのりこみ、頭のかたい役人たちを説きふせて、相当量のワクチンを獲得することに成功した。
 そのワクチンは厚生省から県医師会をへて配分されることとなった。さっそくわれわれは予防接種を知らせる貼紙を病院玄関にはりだした。注射受付三十分前、われわれはびっくりした。病院入口から二百メートルにおよぶ〝長蛇の列〟がつづいている。医師会の通知によれば、「医師および看護婦は優先的に接種すること」とあった。医療の第一線で活動しているのだから、それには道理があった。
 しかし、私はこの状況(長蛇の列)からみて、当院に配分されたワクチンの全量を、列に並ぶ住民に接種するよう指示した。ワクチンは不足した。当然、不平、不満がでた。ややもすれば、それらは政府・厚生省ではなく、われわれに向けられた。しかし、われわれの説明には説得力があった。
 今日、「コレラ」は医学・医療の進歩によって、以前ほどおそれられなくなっているが、羽田・成田両国際空港の発展の中で、本県では発生の頻度も高くなっていることを忘れてはならないとおもう。

 〈埋没療法〉

 われわれは診療所時代から埋没療法を積極的に採用してきた。いわゆる〝不治の病〟といわれた、喘息(ぜんそく)、神経痛、悪性湿疹などの治療に使って喜ばれたものである。実は、私が埋没療法にはじめてとりくんだのは、中国人民解放軍・第七航空学校に在職していたころである。ソ連の眼科医フイラトフ博士の研究論文が中国語で紹介されていた。
 埋没療法には、冷蔵庫が必要であった。だが戦後のことで冷蔵庫など、どこにもなかった。そこで、航空学校衛生隊の周隊長に冷蔵庫をつくる上で、援助を求めたがムダであった。思案した揚句、私は日本人の飛行教官の協力で、零下三度前後の定温を確保できる冷蔵庫の開発に成功した。この冷蔵庫を使って材料(くすり)を作り、神経痛、ロイマチス、胃炎、腸炎など慢性病患者の胸上部皮下または上腕部皮下に材料を埋没して、かなりの成果を上げたことがあった。
 顕著な効果のあったなかでも、珍らしい一例を紹介しておこう。
 ある日、M婦人から「亭主のことで寄ってもらいたい」という依頼があった。往診の途中、寄ってみると─なるほど、これでは外にも出れないわけ─である。彼女の頭から、すっかり毛髪が抜けてなくなってしまっている。完全なハゲアタマである。(女のハゲはみられたもんじゃないなあ)と思いながら、「一体、どうしたんですか」ときいてみた。彼女はとうに飽きらめて、かつらも作ってもっていたが、そのかつらも合わないとこぼしていた。そこでわたしは埋没療法をすすめた。だまされたとおもってやってみるようすすめた。彼女はさっそく来院した。それから二、三ヵ月もすると、ひなどりの初毛のような頭髪が生えはじめたのである。それから二回三回、埋没療法をくりかえした。M婦人の頭髪は、「君が黒髪」とまではいかないまでも、束ねることもできるほどになったのである。その経過を写真におさめておかなかったことを、いまでも残念に思っている。

 〈反核・平和運動〉
 
 被爆四十年の今年、史上最初の被爆地、広島・長崎でおこなわれた原水爆禁止世界大会は、総評・「原水禁」の妨害と逆流をのりこえて大きな成功をおさめた。今年はまた、原水爆禁止日本協議会(日本原水協)創立三十周年にあたる。民医連は日本原水協加盟団体として、いま、核戦争阻止、核兵器全面禁止・廃絶を、緊急の課題に位置づけ、『ヒロシマ・ナガサキからのアピール』支持署名と国内署名にとりくんでいる。
 その活動の中で、診療所が中心になっている「西千葉・稲毛反核平和の会」から、今年も世界大会に四名の代表が参加した。診療所設立当時も原水禁運動がとりくまれ、内外製鋼、放医研、新婦人、民商、共産党、診療所などで『地域共闘』が結成された。共闘組織は活発に世界大会に代表を送ってきた。一九六五年(昭和四十年)夏開かれた、第十一回世界大会・国際会議(東京)の救護班を千葉民医連が受け持つことになり、当時、県連会長の私と、現・千葉健生病院秋元幸子総婦長がこれにあたった。
 われわれは基地闘争、平和集会にも積極的に参加してきた。一九六三年(昭和三十八年)春におこなわれた「横田米軍基地撤去」大集会と基地包囲デモにも参加した。その翌年の「原子力潜水艦寄港阻止・横須賀集会」には、千葉港から船で参加したが、職員多数が乗り組んでいたのを記憶している。砂川基地反対闘争、あるいは「松川事件被告の無罪・釈放」を要求する運動なども、長期にわたってたたかわれたが、これらにも積極的にとりくんできたのである。

 〈川鉄優遇条例廃止運動〉

 一九五〇年(昭和二十五年)十一月、千葉市(市長・宮内三郎氏)は千葉県と共同して、川崎製鉄を誘致。一九五二年(昭和二十七年)九月、「千葉市企業誘致条例」を制定して、川鉄千葉工場の固定資産税と法人市民税の免税措置をおこなってきた。この免税額は十七億の巨額にのぼった。
 川鉄優遇措置をとりきめた企業誘致条例の十年間の期限の切れる一九六一年(昭和三十六年)五月、共産党は「企業誘致条例を撤廃し、その財源を市民の福祉にまわせ」と呼びかけ、企業誘致条例廃止の直接請求署名を提起していた。千葉市の民主勢力は、断固、誘致条例を廃止すべく立ち上った。直接請求は同年十一月、市長に提出された。このたたかいによって、宮内市政の川鉄奉仕の一角がくずれていったのである。われわれは、この運動も大きな役割を果した。

(つづく)


横須賀
10.21横須賀集会

(『千葉北部診療所の三十年』1985年)


北診三十年の歩みをふりかえって
                           千葉北部診療所初代所長 須田章

 4 新診療所から病院化まで

 〈新しい診療所〉

 アーチ型風門構えの玄関入口には、『千葉北部診療所』の金箔塗りの七文字がかがやいている。木造二階建、総面積百二十坪の建物である。新診療所は、一九五八年(昭和三十三年)四月一日、きびしい経営事情をはらみながらも、地域住民の期待と信頼をになって、はなやかなスタートを切ったのである。
 職員も三名から六、七名になったので、にぎやかさを加えた。外来がグンとふえ、二階の病室に患者が入ってくると、忙しさは二倍にも三倍にもなっていった。支払いもうんと増えた。建築費、地代などをふくめ、経営はきびしくなった。(この金額は私の給料の五ヵ月分に相当している。)
 借金が増えただけではない。患者の不満も多くなった。「親切でなくなった」「敷居が高くなった」などの苦情が出た。われわれは、住民の声に応えるべく誠心誠意努力した。

 〈佐藤俊次先生をむかえて〉

 それから数ヵ月もたったころ、佐藤俊次先生が船橋の花輪病院を辞められるという話を耳にした。さっそく、大塚事務長と先生のご自宅を訪ねることにした。佐藤先生は、肺結核の権威であった。胸部疾患の診断分野の専門家である。先生がわれわれの再三にわたる要請に応え所長に就任されたのは、一九五八年(昭和三十三年)九月一日であった。
 佐藤先生が就任されて、放射線室の拡張、レントゲン機械の入れ替え、断層装置、間接撮影機などの整備が進んだ。先生の専門的な知識と技術に対応する設備が、逐次ととのっていったのである。また、先生の指導で臨床検査部門が充実していった。
 この間、先生の紹介で岡村シマ子先生が加わり、常勤医師団は三名になった。

 〈学校健診〉

 間接撮影機がはいると、間もなく学校健診が始まった。
 千葉女子高等学校、千葉工業高等学校など四校(生徒数約一万名)の健診を年二回実施してきた。健診の第一日目には、胸部の間接撮影とツベルクリン皮内注射をおこない、第二日目にツベルクリン反応測定と陰性者にはB・C・G接種がおこなわれた。健診は医師一名、事務二名、看護婦二名でチームがつくられ、佐藤先生が指導した。学校健診は数年つづいた。
 地域健診では、穴川「健康友の会」など間接撮影機を地域にはこび、胸部健診をおこなった。

 〈流感と往診〉

 からからに乾いた天気がつづいた一九五八年(昭和三十三年)の冬から翌年の春にかけて、インフルエンザ(流行性感冒)が全国で猛威をふるった。患者はみな、高熱、頭痛、腰痛、咽喉痛を訴えて臥床した。さいわい、肺炎などの併発はほとんどみられなかった。往診は連日三十件をこえた。早朝、診察がはじまるまえに、五、六人の患家をまわる。朝食。ただちに「午前の診療」を始める。この間、往診依頼の電話が鳴りつづける。「まだか、まだか」という催促の電話もジャンジャンくる。受付は「字のごとく」いつも受身である。平身低頭よくつとめてくれたとおもう。
 午後一時過ぎ、午前の診療がやっと終わる。午後一時から「午後の診療」時間である。患者は十人も来て待っている。昼食前、三、四軒往診にでる。帰ってきて昼食。一分の休みもなく午後の診療に移る。午後四時、院長や岡村先生と連絡をとって往診に出かける。それから四、五時間かかって、二十数軒の患者をまわる。このようなパターンが三週も四週もつづいた。日曜日も休日もなかった。

 〈流感往診秘話〉

──その一──

 大晦日、その年最後の往診も終って、「やれやれ」という気分で風呂にはいる。除夜の鐘がラジオから流れだした。
 あわただしかった〝年の暮〟を思い返していると、わが家の入口のガラス格子をたたく音がする。家内が応対に出た。往診依頼である。「よし、引き受けた」私は往診カバンをとって真冬の住宅街を急いだ。
──その二──

 明けて元日。鶏鳴暁を告ぐる午前四時。齢七〇をこえる農家の老人が、入口にしゃがみこむようにして、往診を訴えている。昨夜十時ごろから六才になる孫が、ひどい熱を出している。「夜の明けるのを待って頼みに来たのだ」と言うのである。私はおじいさんから病状をつぶさに聞き、「大丈夫だから、あと、二時間ほど休ませてほしい」と事情をはなしてトンプクをもたせた。
 約束どおり二時間後、私は往診した。熱も下がり元気になっていた。まちがいなく「流感」であった。以来、この農家の家族は、診療所の患者になったのである。

──その三──

 N家から往診依頼があった。天台一丁目の当時の家並みは、いろんな点からよく似ていた。表札でもないと間違いやすかった。夜間はとくにそうであった。N氏の玄関先に立って、私は威勢よく「こんばんわ」というなり、布団の敷いてある座敷の方へズカズカ入っていった。
 挨拶に出てきた若奥さんに、「病人はご主人ですか」とたずねると、「ハイ」と言う。それにしとも、どこかおどおどしている。「若妻だからやむを得ない」と思いこんでしまった。ところが、患者がでてくる気配がない。私は急ぐあまり患家をまちがってしまったのである。N家は隣りであった。

 〈病院体制へ移行〉

 診療所の特徴的な医療活動を発展させるためには、法律的な関係からいって「診療所」ではなく、「病院」にしなければならなかった。そこで、病床をふやし、薬剤師や看護婦を増員して、病院体制をつくり病院化への申請をおこなうこととなった。
 診療所は、一九五九年(昭和三十四年)十月一日、名称を『千葉北部病院』に改め、名実ともに発展的脱皮をはかったのである。院長に佐藤俊次先生、副院長に私須田章、事務長は大塚良一氏が留任することとなった。この三名で〝理事会"を構成し、病院の管理運営にあたった。

 〈経営の状況〉

 医療面では一歩大きくふみだしたが、経営は息がつまるように苦しかった。なにしろ、病院になってからは診療所のときのようなわけにはいかなかった。大体、扱うカネのケタがちがっていた。
 職員に支払う給与もままならなかった。われわれ病院理事の給料は、しばしば分割払いになった。ボーナスも借金してきて、ようやく払ったぐらいだから、われわれ理事は二度に一度は自粛を余儀なくされた。
 こうした悪戦苦闘の日々がつづいていた病院の活動にも直接・間接にかかわり、いろいろご援助をいただいたM氏が、東光堂書店の石内茂吉社長を紹介してくれた。石内社長はいつも現金を用意してくれた。なんでも、七、八年も面倒をみていただいた。「患者友の会」の〝新春のつどい〟や総会、旅行のときなどに、石内氏のお元気な姿に接することがあるが、いつも欠礼している。この機会に、長年の失礼をお詫びし深謝の意を表明したい。
 石内社長や小川先生のご援助、職員の献身的な努力によって、苦しい経営も次第に改善していった。

 〈運営委員会〉

 病院体制になった時期には、すでに「民医連綱領』が定められ、われわれの医連活動に一層の確信をもたせ、展望を示めしていた。その綱領にてらしても、運営委員会の強化は重要な課題のひとつであった。
ところが、事態は逆の方向にすすんでいった。運営委員会を招集しても、だんだん集まりがわるくなっていったのである。どうすれば、以前のように集まってもらえるのか。われわれも運営委員会が重荷になりはじめていた。
 大塚さんも私も、運営委員の一人ひとりに会って、ご意見を聞くために足をはこんだ。「(あなた方も)もうヨチヨチ歩きでなくなった」、「(私たちの)出る幕ではなくなった」。そういう意見が多かった。
 地域の人の中には、「そろそろ先生も一人立ちしてはどうかね」、「加勢するよ」。そんな話もでたことがあった。「そんなことしたら身の破滅になる」である。
 時もとき、歴史的六十年安保闘争が国中をゆるがしていた。われわれは「民医連綱領』の旗のもと、革新統一戦線に結集し、自民党政府に安保廃棄をせまっていった。日米安保条約の売国性、反動性は、対米追随の自民党政治、とりわけ、好核・中曽根内閣の不沈空母化、軍拡臨調、医療制度の大改悪、国家機密法のねらいなど、日米軍事同盟国家体制づくりの反国民的政治をみれば、一目瞭然であろう。
 安保闘争は、民医連院所の旗印を鮮明に示す契機となっていった。また、安保反対のたたかいは、地域住民の保守と革新の立場を色取りしていった。
 そのような経過をたどりながら、運営委員会は自然解散していった。今日にしておもえば、解散させてしまったことはまことに遺憾であった。

(つづく)

病院
かつての千葉北部病院

(『千葉北部診療所の三十年』1985年)


北診三十年の歩みをふりかえって
                                千葉北部診療所初代所長 須田章

 3 診療所の拡張・移転まで

 〈拡張の動機〉

 二年も経過すると、四畳半の患者待合室ではどうしようもなくなった。診療所の建築にあたってくれた槇さんが、その後採光のいい〝雨よけ〟を、入口の敷地に作ってくれた。なんでも七、八人は入れた。それから一年もたった時期には、患者数の増加で、その効果も空しくなっていた。雨天の日には、十人二十人がカサをさして道路にはみだしている。気の毒で見ておれない。運営委員会からもとうとう苦情がでてしまった。
 レントゲン機械を置く場所もない。検査室もとれない。救急ベッドの二つか三つ欲しいが、どうにもならなかった。これでは「親切で良い医療」がまっとうできない。まさに、公約違反である。運営委員会でもたびたび問題になった。検討の結果、「拡張以外に解決の道なし」と断定された。そこで、診療所の向い側の空地─関東財務局千葉管理部の管理していた国有地─を払い下げてもらおうということになった。

 〈土地払い下げ運動〉

 建設予定地払い下げの署名・陳情運動が始まった。将来を展望して三百坪を要求した。運営委員会はこの運動の先頭にたったのである。関東財務局長あての陳情書には、運営委員の肩書と氏名が連判状のように連ねられた。世間でよくいわれているように、「関財」という役所は、なかなか首をタテにふらないところである。当時、この役所の権威は、どうして、どうして、今日の比ではなかった。われわれ(三十代の若僧)では課長も相手にしてくれなかったが、連判状がモノをいった。また、運営委員が一緒に交渉してくれたので助かった。
 しかし一番困ったのは「法人格」をもっていなかったことである。診療所は法的には「人格なき法人」と呼ばれ、事実上、個人開業扱いになっていた。関財は個人には払い下げなかったからである。
 土地払い下げが認められるまで半年もかかった。しかし聞くところによれば、この種の業務は一年も二年もかかるとのことであった。払い下げの面積は約百坪ということになったが、建設予定地の獲得運動は、運営委員会のなみなみならぬ努力によって成功した。まさに、これは統一と団結のたまものである。

 〈青写真〉

 移転後の新診療所をどんな規模にするのか。内容はどの程度にするのか。青写真がまだできていなかった。この間、運営委員会でも真剣な議論がおこなわれてきた。が、なにしろ素人である。結局、「先生にまかせる」ということで一任されてしまった。
 有床診療所をつくるのは、県民医連としても初めての仕事である。任かされてしまった私も困ったが、さいわい、大塚事務長が千葉大学附属病院医局にコネをもっていた。S先生、Y先生、N先生を、"をざわ"の二階に招いて、医療情勢とか有床化の問題とか、いろいろご意見をうかがった。今後の協力と援助の方もお願いした。「ボクがいってあげるから、外科をおいてはどうか」。S先生の発言であった。当時、S先生は河合外科に席があった。先生の指導で手術室がもうけられた。虫垂炎など開腹手術や気管支鏡検査など、かなりのことをしてきた。わたしも、たびたびアシスタントを引き受けたものである。S先生は現在、千葉県立がんセンター呼吸器科部長をしておられる。
 Y先生にもいろいろお世話になった。先生はその後、千葉大学医学部の教授になられた。N先生は結婚のため信州に帰られたと聞いている。これらの先生ばかりではない。G先生にも、H先生、I先生にもひとかたならないご援助をいただいた。
 また土地の測量は千葉県庁のY氏が友人を手伝わせてやってくれた。これも自主的な行為であった。
 診療所は、こうして多くの方々の積極的な協力によって、いま、鉄筋二階建の診療所が建っている土地に木造二階建、十八床のベッドをもつ有床診療所に発展していったのである。

 〈恩師〉

 開設以来二年、いや、その後もふくめて十年余にわたり、親身になってご援助くださった先生がおられる。わたしにとっては、臨床面での恩師である。しかし、私個人だけの問題ではなく、診療所にとっても忘れてはならない先生である。それは小川幸之輔先生、このひとである。先生は、現在と同じように、道場南町に、産婦人科と内科を開いておられる。小川先生との出合いは─最近中国から帰国し先生がおられる─大塚事務長の情報によるものであった。そしてある日、(多分、開所後半年も経ってからだったと思う)わたしはご指導をおねがいに、小川先生をたずねた。それ以来、ずっとご懇意にねがうこととなった。
 先生に患者のことで相談すると、いつもスクーターでとんでこられてご教示をいただいた。それも二度や三度ではない。患者を紹介しても、診断の結果、必ず逆紹介してよこされた。
 むろん、民医連会長の奥山先生にも相談をしてきた。が、なにしろ、お互いにいそがしかった。それに幕張からでは遠すぎた。そんなこともあって、小川先生にはなにかとご指導いただいたのである。正月などお邪魔すると、大変よろこばれて、よもやま話などしながら、ご馳走になったものである。そんなとき、たまたま、銀行融資のことで、困っている話までしてしまった。先生もそれは意外にとられたようで、「あなたならば……」とおっしゃってくださって、保証人を引き受けていただいた。それから十年余にわたって、銀行融資の保証人になってくださったのである。

 〈落成祝賀会〉

 落成祝賀会のことはトンと覚えがない。主催者だから「所長あいさつ」をのべたにちがいないのである。ただ、覚えているのは、あざやかな白い天井と横壁の新館待合室と廊下に、入りきれない参加者でごったがえしていた状況である。その中に、小川先生や奥山先生の姿が見えたが、失礼してしまった。月賦で自転車を売ってくれた斉藤老が、その日も元気でふるまっているのを覚えている。記憶にあるのはそれぐらいである。
 これには理由があった。診療所から百メートルとはなれていないところに住んでいるO氏の夫人が「白血球減少症」で生死の境目にあった。名前は忘れたが東京から通っていた、見るからにピチピチした看護婦さんがいた。わたしは彼女を看護にあたらせ、三十分おきに往診した。それは、患者が祝賀会の前日夜半から、病状が急変したためである。なんでも、脈拍は百四十前後を数え、血圧は最高が六十から八十ミリ(水銀柱)に下降していた。絶対安静である。当時は救急車もなかった時代である。わたしは、会場と患家のあいだをコマネズミのように走りまわった。祝盃どころのさわぎではなかった。昼食もろくろくとれなかった。わたしの〝出番〟のときに留守したこともあるらしく、一会者(運営委員)から小言をちょうだいした。

 〈記念演芸会〉

 新診療所のたった東側は空地であった。そこに格好の舞台ができた。紅白の幕も張りめぐらされた。盛大な演芸会がとりおこなわれ、参加者は一千人にのぼった。運営委員会は、一ヵ月も前から、それぞれの自治会、町内会に〝だしもの"を要請していた。どこの自治会、町内会でも、婦人会がはしゃぎだしていた。もう、この時期には〝アカ攻撃〟はなくなっていたのである。
 穴川の踊りのグループは、「舞台を独占しょう」と張り切っていた。わたしは往診のついでに、彼女たちが練習しているところをひやかし半分のぞいてまわった。ところがある日、突然風向きが変ってしまった。「わたしにも踊れ」というのである。彼女たちのいい分はこうだった。「先生はずるい」「わたしらにやらせて、先生はやらねぇ」「先生がやんなけりゃ、わたしらもやらねえ」
 運営委員もとりもってくれない。四面楚歌である。仕方がない。わたしは意を決した。それにしても、あと何日もない。
 ご近所に若い女性の舞踊の師匠さんがおられた。わたしは毎晩、夜間診療が終ってから、この師匠の特訓を受けることになった。稽古はきびしかったが、それでも楽しかった。ホントかお世辞か知らないが、K先生は「上達がはやい」などともいってくれた。ともあれ、K先生のご指導よろしきを得て無事、黒田節の舞踊と川中島の剣舞を披露した。拍手喝采がわきおこった。「アンコール」の観客の声をあとにして、わたしは患家に走った。
 O夫人の病状は、その日がヤマであった。翌朝から徐々に快方に向っていった。あれから二十七年の歳月が流れたが、いまでもお達者のようである。

(つづく)

祝賀会

(『千葉北部診療所の三十年』1985年)
北診三十年の歩みをふりかえって
                           千葉北部診療所初代所長 須田章

 2 診療所設立から改築・移転まで

 〈赤い診療所〉

 診療所は開設後、間もなく〝赤い診療所〟のレッテルがはられ、アカ攻撃に遭遇した。診療所のクスリを飲んだら赤くなるとか、銀行は敬遠して融資をしないとか、薬局も即金でないと売ってくれないとか、さまざまないやがらせを受けた。こういう状況がしばらくつづいた。
 三、四年もあとになって、K婦人から聞いたアカ攻撃の事実もあった。診療所と同じ自治会の婦人会の役員─K婦人は役員のひとりであった─のあいだで、「赤い診療所を追い出そう」という策謀がねられていたというのである。
 有形無形のアカ攻撃は、われわれを鍛え奮い立たせた。われわれは、戦前の無産者診療所の伝統を受けついで日々、意気軒昂であった。

 〈個人融資を募る〉

 銀行融資はシャット・アウトされたので、個人から融資をつのった。大塚事務長は、毎日毎日、すりへったカバンをかかえてカネの工面に歩いた。運営委員のところを訪ねては、融資をしてくれそうな人を紹介してもらう。根気よく二百円、三百円という小口融資をあつめて回った。どちらかというと、短気でペコペコするのが嫌いな大塚さんが、腰を低くし礼をつくして集めて歩いたのだから、並大抵の苦労ではなかったとおもう。
 大塚さんが熱意をこめて訴えても「いまどき、そんな殊勝なお医者さんがいるんですかねえ」とやられてしまう。大塚さんも「箸にも棒にもかからねえ」とこぼしていた。
 無理もなかった。当初は地域住民の中でも労働組合でも、われわれの医療方針が徹底していなかった。それに、われわれの仕事ぶりも見てもらっていなかった。だから信用もなかった。大体、世間では医者は金持だと思っているのだから。それでも、たまに千円、二千円の大口融資(?)があった。そんなとき、大塚事務長は大変なご機嫌であったことを覚えている。

 〈つわものたち〉

 当時、内外製鋼労組には、提信一氏(元・全金千葉地方本部委員長、現・今井町診療所事務長)中村昇氏(元・全金千葉地方本部委員長)ら、若手の有能な幹部がいて、陰に陽になにかとご援助をいただいた。内外製鋼の労働者の中では〝資本家〟といわれていた正木孫四郎氏を口説き落して「一金五万円也」を借りてくれた。正木さんにはその後、長く運営委員を引き受けていただき家族ぐるみご懇意にねがった。
 ある年のくれ、正木さんは、労働組合の忘年会でひどく泥酔して事故をおこしたことがある。「頭蓋骨骨折」であった。近所の外科医は「耳から出血しているから助からぬ」といい放って帰ってしまったという。
 連絡をうけて往診した。本人は人事不省のまま、もがいている。恩人を殺してはならない。提信一さんが指揮にあたっていた。わたしは屈強の青年を二人づつ昼夜交替で配置してもらい、ありったけの力をふりしぼって頑張った。正木さんは、労働組合の友人の誠意で一命をとりとめたのである。内外製鋼労組の団結は見事であった。
 日本バルブ闘争に終止符がうたれ、盛大な「勝利宣言祝賀会」が開かれて、わたしも招かれた。診療所は予防ワクチンの無料接種や家族の医療費の半額負担(当時は五割自己負担であった)を免除するなど、闘争勝利に積極的に貢献した。それらの活動が報いられて、勝利資金の中から一万円、二万円の超大口融資が寄せられた。運営委員の佐々木東四郎氏のほか、当時、同労組書記長の秋元豊三郎氏(現・秋元孔版社長)、根本良美氏らに大変お世話になった。根本さんには、そのときから「五万円」をずっと借用している。三十年前の五万円は、まさに千金に値した。
 内外製鋼と日本バルブの両労組の、ここに名前をあげさせていただいた〝つわものたち〟にあらためて敬意を表したい。

 〈くすり〉

 当時では千葉市内でも一か二かといわれた○○薬局と△△薬局から薬を仕入れていた。現金でないと配達してくれなかったので、毎日少しずつ注文した。医者からミッテル(薬)をとりあげてしまったらなにもできない。いくら名医でも患者を治すことはできないであろう。このにがい思い出はいまでも残っている。
 〝消費は美徳〟の今日とちがって、当時は再診の患者に薬瓶や薬袋を持参してもらったものである。ところが、「節約」というクスリが効きすぎて、かなりよごれた薬包紙まで大事そうにもってきてくれる患者もいた。ありがたいことであった。わたしは心の中で感謝した。
 薬のことでは一言、いわせてもらいたい。残念ながら、わたしの処方したクスリで身体があ・か・くなった患者は一人もいない。それどころか、全身まっ赤になったジンマシンの患者が、わたしの投与したクスリと注射で、よくなっている。馬鹿なことは寝言の中でもいうべきでない。

 〈往診の道具〉

 外来が増えるにつれて往診も多くなっていった。歩きではどうしようもないので、自転車を買うことになった。運営委員が斎藤自転車店(現・斎藤リング)を教えてくれた。「自転車を買いたいがカネがない。月賦にしてくれ」と頼むと、酒豪の斉藤義太郎氏(故人)も目をパチクリさせて、「お宅、ほんとにお医者かい」と聞きかえした。
 だんだん往診の区域も拡がり、自転車では限界がきた。そこで内外製鋼労組の"つわものたち〟に相談した。彼らはさっそく、友人のオートバイを安い価格であっせんしてくれた。
 ところが、オートバイになってから注射器は壊れるやら、アンプルも底がぬけるやらで大損害。これを防ぐために、オートバイの荷台をラーメン店の出前のときのようなものに改造した。鉛筆より太目の鉄棒でつくった枠型のものに往診カバンを下げるようにしたのである。格好はともかく、これは成功した。堤信一さんの考案であった。
 当時は、みんながカネもチエもチカラも出し合って診療所をささえてくれた。まことに感謝にたえない。

 〈給料の支払〉

 「今晩のおかず代ください」「いくら」「二百円ほど」
 「明日のお米も買いたいので」「どのくらい」「四百円ほしい」
 診療所には給料表がなかった。半月分、一ヵ月分、まとめて払うことができなかったので、医師も事務長も看護婦も、毎日、その日その日の生活費を受けとっていたのである。
 最近、わたしは妻からこんな苦労話を聞いた。─あのころは二日おき三日おきにお米を買いに行った。だんだん恥かしくなって、近くのお店ばかりにいけなくなった。それで、遠くのお店を、こっちの店、あっちの店と歩きまわった─というのである。いわれてみると、なるほど、それは真実である。大塚さんのお宅でも同様であった。われわれは家族ぐるみ頑張ったのである。
 月々の給料がそんな状態だったので、われわれには「ボーナス」という言葉は縁の無いものであった。それでもみんなの努力がむくいられて、三年目の終りに給料の一ヵ月分が支払われた。あのときの喜びは、生涯忘れることができない。

 〈家主と店子〉

 当時わたしが住んでいた家屋は、「家主」が所長の私で、「店子」が医師の私という妙な関係であった。だから、世間からは須田章の個人開業にとられていたのも無理はなかった。ある患者は、わたしをつかまえて「ホクブ先生」と呼んだが、そのことからも想像してもらえるとおもう。
 このウチがまた凄かった。雷雨やにわか雨の土砂降りのときなどは大変だった。七畳半(六畳に板の間がついていた)の家中、あっちにバケツ、こっちにタライを持って歩く始末であった。
 暴風雨のときには、そんな程度ではおさまらなかった。屋根は瓦ぶきでもトタンぶきでもない。「ルーフィング」という黒い厚紙が張ってあった。だから、いつ屋根ごと飛ばされるかも知れなかった。そういう晩は、気が気でない。おちおちねむれなかったこともしばしばである。
 ある寒い冬の晩、熱燗で一杯始めていたところ、家内が天井の隅を指して「あそこから星がのぞいている」というのである。まさかと思ったが、その方角を見上げると、本当だった。星がまたたいている。なるほど、このウチは寒いはずである。

〈紙芝居〉

 当時は、野菜の肥料に人糞が使われていたので、回虫、條虫、十二指腸虫など寄生虫がまんえんしていた。わたしの記憶でも、回虫卵の検出率は、小児で八割強、成人でも三割程度に達していた。われわれはここに着目して、積極的に寄生虫の予防・駆除対策にとりくんだ。かなりの成果があったと自負している。
 あのころは幻灯も映写機もなかった時代である。保健所から「寄生虫予防」の紙芝居を借りてきて、それを自転車につんで、大塚さんと農村をまわった。広い農家の庭先でヤブ蚊にすわれながら、紙芝居をみてもらった。何回もやっているうちにじょうずになった。子どもたちや主婦の中で人気がでた。これが診療所のP・Rになっていったのである。

 〈医是為仁〉

 当時は国民健康保険がなかったので、農家や小売業者などの医療費はまるまる自己負担であった。田畑があるというだけで医療保護の適用からもはずされていたので、貧しき農家の人たちは医療費が払えなかった。われわれも楽ではなかったが、貧困な農家からは医療費(現金)の代りに、米や野菜で払ってもらった。大変よろこんでくれた。その「お礼」にといって、毎年秋祭りに招待してくれた。いまではこれらの人たちも、土地を売って家屋を建てかえ、一応のくらしをしている。
 診療所も三年をむかえるころになると、医療圏もひろがり患者も増えた。患者数は一日平均百三十人をこえた。「門前市をなす」状況をみて、「先生、蔵が建ちますね」といわれた。わたしは「あなたほんとうにそう思っているの」「大体、診療費をいくら払っている?」こう聞きかえしたものである。すると誰もが間違いなくうなずいてくれた。説明すればわかってもらえた。

 〈労組支援〉

 どこどこでストが始まったという情報がはいると、応援に行った。
 日本バルブや内外製鋼の労働組合の闘いばかりではない。診療所のそば(現・西千葉ハイツ敷地)で日本製薬のストもあった。千葉新聞、千葉銀行のストもかなり長かった。日患同盟の県庁前「坐り込み」には、夜露にぬれて翌朝まで、結核患者の方々と一緒に闘かったことを憶えている。
 わたしの支援は労働者の健康状態に気をくばることである。組合幹部の要請で、ビタミンB1注射液を打ってまわった。多分、千葉新聞のストのときである。「疲労回復にビタミンを注射してくれ」と求められたのがきっかけであった。「一本二本注射したからといって効くものではない」といっても、なかなか解ってもらえない。士気が鼓舞されるというなら、それもよかろう。わたしはビタミンB1を注射することにした。〝疲労がとれる〟というので、たちまち評判になった。感謝もされた。千葉銀のストのときも、闘争本部が陣取っていた千葉公園のところの○○旅館に日参した。赤い鉢巻姿の美女たちも大勢いた。わたしは彼女たちの白い上腕に、必勝をこめて(ビタミンB1を)注射した。以来、ビタミン注射はストライキに欠かせられない〝激励剤〟になったのである。もっとも、いまでこそなくなったが、「脚気」というビタミンB1不足からくる疾患が少なくなかった時代であった。
 支援運動で知り合いになった仲間たちが、診療所に受診してくれるようになっていった。
 
 〈レントゲン購入問題〉

 一応、診療所で医療器機とよべるのは、顕微鏡と血圧計ぐらいのものであった。いくら当時でも、これでは医療機関として不十分なことはこのうえもない。そこでレントゲンを入れることになった。おそらく、開所後二年ぐらい過ぎていたころとおもう。
 ところが、いざレントゲン機械を入れることになると、困ったことがおきた。第一置く場所がない。現像室にあてる部屋もない。「あと一年待とうじゃないか」とわたしは意見をだした。あとから述べる〝拡張〟のことを考えていたからである。
 わたしの反対した理由に、もう一つある。このほうが医師として、まじめで大事な理由であった。戦後、わたしは中国人民解放軍に参加し、一九五三年(昭和二十八年)八月帰国したばかりで、レントゲンフィルムの読影には自信がもてなかったからである。
 日時が経つうちに、レントゲン機械が診察室の窓際にドカッと置かれてしまった。わたしの意見は完全に無視されたのである。ところがこのレントゲン機械は、胸部写真がやっと撮れるぐらいのシロモノで、胃腸や骨関節の撮影はまったく不可能であった。いずれにしても、この機械は診療所の邪魔物になってしまったのである。
 一体、誰がレントゲンを入れたのか。責任の所在が問われるのは当然であろう。だが、いまさらその責任をまくしたてることはしたくない。
 なぜなら診療所の建設と発展の過程で、功と罪を問わず多くの人々の名前が浮んでくる。しかし診療所の活動に寄与された方々のうちにも、「(名前を)出してもらいたくない」とおっしゃる方も少くない。─だからまして─という考え方である。くどいようだが、その責任はわたしにも大塚さんにもない。

(つづく)

北部診療所
創立時の千葉北部診療所

(『千葉北部診療所の三十年』1985年)
千葉北部診療所の初代所長であった須田章さんが開設から10年間の診療所の歩みを30年記念誌に詳しく書いています。

(内容)
1 診療所開設に至るまで
2 診療所設立から改築・移転まで
3 診療所の拡張・移転まで
4 新診療所から病院化まで
5 医療活動と平和・民主運動
6 選挙戦

      ◇      ◇      ◇      ◇      ◇
北診三十年の歩みをふりかえって
                           千葉北部診療所初代所長 須田章

須田章
 はじめに
 旧軍歩兵学校跡地のここ、千葉市作草部町九三八番地(現・天台一、三丁目)には、二千戸をこえる平屋二軒一棟の国鉄官舎と引き揚げ者のために建てられた、粗末な二軒長屋が並んでいた。
 その引揚者住宅の一角で、毎週土曜日になると「診療所建設委員会」が夜おそくまで開かれてきた。
 猫の額ほどの土地に増築された診療室にも電灯がつき、議論がわいた。診療所の名称も、『千葉北部診療所』にきまり、あとは保健所へ開設届を出すだけになった。その晩の建設委員会では誰もが口々に「よくここまでこぎつけたものだ」と、感慨ぶかそうに話し合っていた。
 千葉北部診療所は、「患者の立場にたった良い医療」のスローガンを高くかかげ、一九五五年(昭和三十年)三月七日、地域住民の期待をになって発足した。
 所長には私須田章、事務長には大塚良一氏が就任した。

 1 診療所開設に至るまで

 〈民医連の院所をふやそう〉
 当時、千葉市の中心街から北の方の地域にあたる作草部、椿森、轟、穴川など四つの住宅地と、その背後の萩台、殿台、東寺山、源、愛生、園生など六つの農村部落を含めた地域には、国立千葉病院と三医院が存在していたが、夜間の診療・往診では、長いあいだ困りぬいているということを耳にした。
 その実情を千葉県民主医療機関連合会(以下民医連と略す)で当時の会長の奥山順三先生に訴え善処を求められたのが共産党の看板をかかげその地域で活動しておられた柴田照治氏(元・千葉市議会議員、現・北診友の会副会長)その人であった。
 そのころ、わたしは川鉄工場を眼下に見おろす台地につくられた民医連・今井町診療所(現・所長 小田島光男先生)の宿直室に居を移して毎晩宿直─無論手当などなかった─をしながら、幕張の奥山医院にも一日おきに通っていた。
 ある日、時間をつくって柴田照治さんのお宅を訪ねることにした。柴田さんの診療所設立の意見に、わたしも少なからず心を動かされて帰ってきた。しかし、日曜・休日もなく、夜間も働いていたわたしに、一体、なにができるというのだろうか。正直いって途方にくれたものである。
 さっそく、民医連の会議で検討した結果、日曜・休日の午前の診療が終ってから、「出張健診」をやろうということになった。結局、いい出しっぺのわたしが担当することになった。
 柴田さんの口ききで葛原工場(工場長・杉本啓治氏)の事務所を借りて健診をはじめた。一般健診、血圧測定、検尿と虫卵検査をやることにした。当時は寄生虫がまんえんしていたからである。
 「小判のような形をしているのが蛔虫卵」「銀色に光っているのが十二指腸虫卵」などと、一人ひとりに顕微鏡をのぞかせた。みんな面白がって顕微鏡をのぞいた。希望する者には駆虫剤を投与した。次第に評判がひろがり多忙をきわめた。

 〈診療所建設委員会〉
 出張健診が始まってから数ヵ月も経つと、診療所設立の声が高まった。地域住民の中から、「一肌脱ごう」という方々がでてきた。これらの人たちを中心に「診療所建設委員会」が発足した。
 当時、穴川町には労働運動で知られた全金内外製鋼労組があり、稲毛町でも日本バルブ労組が長期のたたかいをすすめていた。これらの労働組合も建設委員会に代表を送って、積極的な支援をしてくれた。建設委員会は、主に、宣伝面と融資面でご協力をいただくことになった。診療所の建築工事にあたってくれたのは、槇正八氏(現・建修社社長、千葉土建書記長)である。槇さんがほんそうし、誠心誠意、建築を完成してくれたのである。当時を想起して、ご尽力をねがったこれらの多数の方々に、衷心から感謝の意を表明したい。
 建設委員会は、診療所設立によって、「運営委員会」に改組され、人事権をのぞいた診療所運営にご協力をねがうことになった。

 建設委員会(運営委員会)委員芳名
 山崎紀雄氏 作草部町交正会会長
 平田戦太郎氏 同 副会長
 鈴木民三氏 作草部町親交会会長
 片岡武夫氏 同 副会長
 石橋吉之助氏 穴川町内会会長
 柴田照治氏 同 副会長
 内田大次郎氏 草野町内会会長
 長谷川春治氏 内外製鋼労組委員会
 正木孫四郎氏 同 労組執行委員
 竹内繁次氏 同 労組執行委員
 佐々木東四郎氏 日本バルブ労組執行委員

(つづく)

(『千葉北部診療所の三十年』 1985年)
 
作草部団地
作草部団地








 
悪酔いして


(自筆原稿)
 
デモ



 
わたしは歌ってきた

(自筆原稿)
 
崖



 
わたしは夜明けを夢み


(自筆原稿 「断片」)
 
レガッタ



わたしは書きたかった
 


(自筆原稿 断片)

桃
 


 
片方の翼を


(自筆原稿)
 
紅梅




[片方の翼をもがれたように]の続きを読む

 
生と死の弁証法



花壇




 
チャーリー




冬のさなかにも

(自筆原稿)

バラ

北部診療所の創設期に診療所建設委員会に参加して奮闘した柴田照治さん(元千葉市議会議員)が診療所の30年記念誌の冒頭に30年の歩みの概括を書いています。

発行にあたって
              友の会副会長
              設立当時の建設委員  柴田照治

 「私たちの診療所」「親切で気もちのよい診療所」などと、天台、穴川、作草部、千草台団地をはじめ森、椿森等の地域の人たちから信頼され親まれている北部診療所が、開設後三十周年を迎えた。
 北部診療所は一九五五年(昭和三十年)三月七日、この地域の人達の要望に応えて、それらの人達の物心両面の協力の下に、千葉民医連(千葉県民主医療機関連合会)の一翼をになう診療所として建設されたわけである。
 終戦後、日本の政治経済の混乱が続き、国民の生活と健康が極度におびやかされていたその当時はとくに医療施設がおくれていて、天台、穴川、作草部地域でも深夜や急病の場合の診療、往診してくれる医院(病院)がほとんどなく、また周辺の農村地域は無医村に等しかったことから「いつでも診てくれる、いつでも往診してくれる医者」を強く求めていた。したがって、天台町(当時は作草部町)の一角に北部診療所が開設されたことは、地域の人たちにとっては貴重な存在であった。
 北部診療所の建設やその後の医療活動等にかかわりをもつ私どもにとっては、この三十年の長い歳月はまことに短く感じられ、開所までの苦労や開所当時の初代所長須田章先生や大塚良一事務長、看護婦さん達の文字通りの開拓者的苦難に耐えながら地域の人たちへの献身的な医療奉仕、それに応える地域の人たちの診療所に対する温い支え等々の姿が昨日のように瞼に浮んでくる。
 しかし三十年の歳月は長い。この長い北部診療所の“三十年の歩み"をふりかえって見るとき、「よくぞここまで来たものだ」との感概と感激ひとしおのものがある。診療所職員でない私がそうであるから、診療所(病院―一九五九年(昭和三十四年)に病院となった―が一九七六年《昭和五十一年》千葉民医連による院所統一経営およびセンター病院設置の方針により北部病院は診療所となる)の歴代職員の皆さんの感概、想い出はなおさらと思う。
 開所から三十年の北部診療所の歴史は、民医連の綱領「われわれの病院、診療所は働くひとびとの医療機関である」との自覚の下に「患者の立場に立って親切でよい治療を行い、力をあわせて働くひとびとの生命と健康を守る」という綱領実践の試練に耐えての光栄ある苦闘の歴史であると思う。
 おこがましいがこの三十年間の歴史を三期に分けてみると、最初の十年間は北部診療所の基盤開拓という建設期であり、次の十年は医療基盤の定着と医療施設等の整備期であり、次の十年間は事業の発と基盤拡大期でなかったかと思われる。この三期間の活動は、それぞれがいずれも歴史的重要な段階における活動であった。地域住民のなかにしっかりと根をおろし、その信頼と期待に応えながら患者の立場に立っての医療活動を展開し、併せて、その医療を守るための県・市行政とのいろいろな闘いや政治的な諸活動を地域の人びとと手を組んでとり組み、今やこの地域での民主勢力の要の役割を果すまでになってきている。一方患者や協力者を組織して「健康を守る友の会」を設立し、その自主的自覚的活動を援助してその組織と活動の発展に努めてきた。
 このように活動のなかから立派な政治家や医師が誕生している。初代所長の須田章先生は千葉県議会で日本共産党の議員として一九六七年から四期十六年にわたり自民党県政と対決して県民のために闘ってきた。二代目院長の佐藤俊次先生は日本医学界で呼吸器関係の権威として知られ現在幕張町健生病院の顧問医であり、佐藤院長当時の副院長花井透先生は循環器関係の権威で現在健生病院の院長である。三代目の所長坪内弘行先生は病理解剖の権威で現在船橋二和病院の副院長であり、四代目の所長河村浩一先生は消化器関係の権威で現在健生病院の副院長である。五代目の現所長大島朋光先生は循環器関係の権威として知られている。
 これからの北部診療所には、以下のような住民の生命と健康を守る医療機関としての基本的な活動の伝統と歴史を受けつぎ、一層これを発展させる責任と任務が果せられている。したがって創立三十周年目を一つの節目とし、これまでの長い活動と経験を整理総括して教訓と問題点を明らかにして今後の活動に資すべきであるし、また北部診療所の三十年間の苦闘の歴史を記録保存する必要があると思う。このことは千葉民医連の貴重な財産にもなることで、この「千葉北部診療所三十年の歩み」の発行を心からよろこぶものである。同時に民医連傘下の各院所の職員や北部診療所を信頼し期待し支持協力して下さる多くの方々の御一読を是非お願いしたい。
 政府自民党が「戦後政治の総決算」として押し進めている「行革、軍拡」路線は、国家機密法制定で戦前の暗黒政治再現への途をたどっており、医療の上でも再編合理化、企業化が進められている。これらの反動的悪政と対決し、これを阻止しないわけにはいかない。北部診療所三十年の歩みは私たちの闘いの方向を示していると思う。

柴田照治
北部診療所 />
創立時の千葉北部診療所

(『千葉北部診療所三十年』1985年)
 
北部診療所

『千葉北部診療所の三十年』は1985年に発行された記念誌で、初代の所長・須田章氏はじめ診療所の建設や運営にかかわった12名の人が執筆し、あとがきを石塚節子事務長が書いています。当時の社会状況のなかで先輩の方々が奮闘した姿が描かれていて興味深い記録です。
 
もくじ


 あとがき
 このたび、北部診療所、創立三十周年を記念し、創立者や地域の人びとから、当時の記述などをいただき「千葉北部診療所の三十年」を発行することができました。
 この小誌はそれぞれの立場から当時の貴い苦労も「地域の民主診療所」として、今後も強く、大きく育ってほしいという愛情と今後に期待をこめて執筆されています。
 本年二月頃、友の会幹事会の席上、柴田照治副会長より「今年は診療所創立三十年であり診療所は記念行事を計画しては。」と呼びかけをいただきました。
 診療所としては、まず「三十年の記録誌」をつくりたい、と決めながらも、多忙をきわめており、歴代の医師たちへの原稿書きは並々ならない苦労でありました。どこまでも患者さんを中心とした医療活動の姿がリアルにつづられ、「歴史」をつづること、同時に民医連職員の教育にも大いに役立つものとして作成しました。
 私は「千葉北部診療所の三十年」の編集にたずさわる中で諸先輩の奮闘と三十年の歴史の重みを学び、この仕事に参加できた事をたいへん光栄に思っております。
 編集にあたり、柴田照治氏・須田章先生、大塚良一氏には細部にわたり教えをいただきました。
 また略年表の資料集収には千葉民医連事務局、千葉勤医協本部の手をわずらわせた事を附記いたします。
 一九八五年十月十日   石塚節子

 
石塚

北部診療所事務長を歴任した石塚節子さんが2月24日逝去されました。85歳。
私が千葉民医連の初期研修を終えて最初に赴任したのが北部診療所でした。(1983年7月から1986年4月まで)
石塚さんは診療所を牽引する鉄の女でした。
入院ベッドを備え、研修医を含めて二十数名の職員を抱える大型診療所でしたが、医療活動から様々な地域活動まで、職員や友の会の協力者を巻き込んで活発に展開しました。
鉄の女と言っても、筋が通ったなかで柔軟で心が広く、人が来るとすぐにお茶を出して愛想よく応対します。それぞれ力のある友の会の幹部7〜8人に囲まれてにぎやかに活動していたのが印象的でした。

診療所創立30年を記念して「千葉北部診療所の三十年」を出版しました。1950年代から多くの地域住民や医療人の努力で歩んできた歴史を記録した貴重な資料になっています。石塚さんは「どこまでも患者さんを中心とした医療活動の姿がリアルにつづられ、「歴史」をつづること、同時に民医連職員の教育にも大いに役立つものとして作成しました。私は「千葉北部診療所の三十年」の編集にたずさわる中で諸先輩の奮闘と三十年の歴史の重みを学び、この仕事に参加できた事をたいへん光栄に思っております」とあとがきに記しています。
 
北部診療所



 

いつも秋には.


りんご



1
2



*アポリネール『愛の歌

花



[大島博光編『ひとつの愛の詞華集』の 詩人たち(1)]の続きを読む


愛の歌


(大島博光編『ひとつの愛の詞華集』)

サビーヌ
サビーヌの女たちの略奪  ピエトロ・ダ・コルトーナ画



 
1
2月のうたごえ喫茶、寒さの中大勢の皆さんが集まり、春の歌を歌いました。


竹松えりさんが「忘れな草をあなたに」

2
4
身振り手振りで歌う「にじ」
3
5

 1
東京から高橋みよ子さんが来館されました。中央合唱団の研究生を経験され、
チリ人民連帯運動で行われたキラパジュン全国公演に協力したそうです。

3
チリ連のパンフレットやうたごえ新聞など、貴重な資料を提供して下さいました。

2
大島博光とは詩人会議で会ったことがあるそうです。

4
寒い風のなかをありがとうございました。
 
表紙

長野詩人会議機関誌『狼煙』103号が発行されました。

巻頭


もくじ1

もくじ2

後記1

後記2






吉祥寺は高校へのバスの通学路にあったので『エル・シド』や『スパルタカス』なども見ました。
──虐げられた者には革命を起こす権利がある──の字幕が記憶に鮮烈に残る『スパルタカス』を見たのは水道道路(井の頭通り)の井の頭公園側の映画館でした。調べてみると、オデヲン座ではなく吉祥寺スバル座だったことがわかりました。

スバル興業の社史によれば
【吉祥寺スバル座の歴史】
1956〔昭和31〕年12月31日に地域の発展を願う地主の協力のもと、吉祥寺スバル座が開館した。井の頭公園を控える当時の国鉄(現JR)吉祥駅南口周辺は、樹木が目立ち開発が待たれたが、当館は担当者の努力と作品にも恵ぐまれ好評を博し、地域の活性化に貢献した。しかしながら、昭和40年代に入ると業績は下火となり、再開発により1973〔昭和48〕年12月に閉館し、同地には、1978〔昭和53〕年4月に吉祥寺スバルビルが建設された。
 スバル座
南口にあった映画館スバル座、その先に井の頭線の高架橋が見える

井の頭



泉麻人の散歩エッセー「ぐるり東京 町喫茶さんぽ」(東京新聞)、今回は武蔵野市・吉祥寺。
博光が行った焼き鳥「いせや」や映画館「吉祥寺オデヲン」が出てきました。(博光の愛した吉祥寺・井の頭公園

オデヲン座でむかし見たフランス映画『輪舞』のブルーレイディスクを最近購入し、見たところでした。
ジェーン・フォンダ、アンナ・カリーナら5人の美女が織りなす恋模様が楽しめました。
エンディングは老女が若い姿に戻って夜の公園で踊り、モーツアルトの協奏曲風の美しい曲が流れるのですが、
何故か、曲が置き換わったかのように昔聞いた甘い雰囲気がでていませんでした。

輪舞

吉祥寺


ギュヴィック略年譜および主要詩集目録

1907年 8月5日、フランスのブルターニュ、カルナックに生れる。
1909年 舟乗りであった父親が憲兵となり、一家はフランス北部のジュモンに移る。
1912年 ふたたびカルナックに近いサン・ジャン・ブレブレーに移る。
1919年 スウィスとの国境に近いフレットに移る。
1920年―25年、フレットより往復四時間の汽車に乗ってアルトキルシの高校に通い、基礎数学科に学ぶ。この頃、アルザスの詩人ナタン・カッツ、ついでジャン・ポール・ダデルセンを識る。
1926年 国家試験をパスして、アルザス、アルデンヌの登記所に勤務する。
1935年 パリに出て、大蔵省に勤務。その後パリに住む。
1967年 国家会計検査官を退官。
  スペイン戦争以来、共産主義に共鳴し、第二次大戦中、フランス共産党に入党。

1942年 最初の詩集『水陸 Terraqué』の刊行。
1947年 『執行命令 Exécutoire』の刊行。この詩集はポール・エリュアールに献じられている。エリュアールは大戦中よりかれの尊敬する親友となる。
1949年 『獲得 Gagner』『アントナン・ブロンドの歌』
1950年 『壁』
1952年 『幸福のある大地 Terreà Bonheur』
1954年 『三十一のソネット』
1961年 『カルナック』
1953年 『領域 Sphère』

(『ギュビィック詩集』  1970年11月)  Eugène Guillvic


ギュビック詩集




詩法


(『ギュビィック詩集』  1970年11月)

31

[詩法    ギュビック]の続きを読む



イン・メモリアム


(『ギュビィック詩集』  1970年11月)

ススキ


[IN MEMORIAM (死者たちの思い出に)   ギュビック]の続きを読む


 
場末


(『ギュビィック詩集』  1970年11月)
 
路地





わんぱく小僧1

わんぱく小僧2



(『ギュビィック詩集』  1970年11月)

こども


[わんぱく小僧   ギュビック]の続きを読む



実物教育


(『ギュビィック詩集』  1970年11月)


なdrしこ




物語



(『ギュビィック詩集』  1970年11月)
 
馬


[物語   ギュビック]の続きを読む

岩1

岩2


(『ギュビィック詩集』 飯塚書店 1970年11月)

岩


[岩    ギュビック]の続きを読む
1
レストランはなやで新婦人長野支部の新年会
2
和田さんが挨拶
3
スライドで各班の紹介
4
5
ピアノ演奏
6
合唱
8
7
9
10
お楽しみ
13
さいごに昼食会
14
13
15
昼過ぎに千葉から坂本直子さんが見えました。15年ぶりです



 
カルナック


(『ギュビィック詩集』 1970年11月) 

*カルナックはギュビックの生まれた土地。フランス北西部、ブルターニュの大西洋に面しており、巨石遺構が有名。
 
メネク列石群
カルナックのメネク列石群 (Wikipedia)

[カルナック   ギュビック]の続きを読む



夜

 


(『ギュビィック詩集』 1970年11月) 

夜
 


 
皮を剥がれた牡牛


(『ギュビィック詩集』 1970年11月) 
 
ミノトールマシー
ピカソ 「ミノトールマシー」

[皮を剥がれた牡牛   ギュビック]の続きを読む

 
ステファヌ・マラルメへ



(『ギュビィック詩集』 1970年11月)
 
谷津干潟

[ステファヌ・マラルメへ   ギュビック]の続きを読む