千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。




雪の夜


(『狼煙』82号 2017年3月)

石切場


成功させる会

毎年初夏に行っている神野・宮林ヴァイオリンコンサート
今年は6月17日(土)に松代文化ホールで開催します。
ショスタコーヴィッチの小品やロシア民謡は初めての演奏、
早川正昭氏のバロック風「日本の四季」は今回のために作られた曲です。

成功させる会

コンサートを成功させる会の初会合が開かれ、
会長に今井先生、事務局長に玉木さんが就きました。

成功させる会

美しいヴァイオリン演奏を多くの皆様に聴いていただくために
広く宣伝していくことを決めました。

大島博光年譜(1910年―1935年)

1910年(明治43年)
 11月18日、長野県更級郡西寺尾村(現在の長野市松代町西寺尾)954番地に生まれる。父確光、母きよ(きゃう・小杏)の長男。生家は農業、養蚕を営む自作小地主。

1922年(大正12年)12歳
 県立屋代中学校(現在の長野県屋代高校)に一期生として入学。

1924年(大正13年)14歳
 春、母きよ死去(享年39歳)。強いショックを受け、メタフィジックとペシミズムの傾向を抱くようになる。「(13歳の)そんな小さな胸でだよ、人は何ぞやとかね、生きているのは、とかさ、そういう疑問が出て来るのだよ。それがやはり言葉は知らなくても、それがメタフィジックスなのだよ。つまり唯物論も何も知らず、観念論も知らないけれども、それはメタフィジックスにそういうことを、提起をして疑問に思っているわけだよ。それで一種のペシミズムになって、それから世をはかなんで、それで小説を読み漁るというわけだ。」(稲木信夫「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」1999年)「詩は悲しみからはじまった。13歳の時にママンが死んでからだ。」(尾池和子『大島博光語録Ⅰ』)
 9月末日、中学の作文ノートに詩「夏の夕」を書く。

  燃え下りる強烈な陽光
  黒赤い光線
  お丶この恐ろしいものに
  焼きに焼かれる總て
  併し衰はくる
  夕はくる
  日は落ちる
  判然と
  燃かれる總ては
  透明な夕空──夕焼を含んだ赤い空の下に
  影をうすて(ママ)ゐる
  夕風はそよぐ
  向ふ屋敷の向ふに
  そっと並んで聳へてゐるポプラに
  そして梢のをちこちに
  淡い光が見える
  星も懶く瞬き始める
  小守唄も幽かに
  夕風を流れて聞えてくる

 10月、作文「母 暑中休暇中で一番印象の深かった事」を書く。
 「夏休中は自分の家で一番多忙な時だ。/養蚕で自分は毎日父と桑を採りに行った。畠で何日も父は自分に、今年の春逝った母の事から、勇気を付けて下さるやうに色々とさとして下さった。自分は何日も涙で有難く受けた。そして追憶に沈むのであった。/ある時などはこんな夢を見た。/母が盛装をして、突然帰ってきた。病が全治したので退院したのだと。にこにこして言ふのではないか。自分は天に上ったやうな心持で見た。ふと目が醒めた。相変らず、自分は床の中に居るのだった。自分は悄然として、起きる元気もなく、自分の不幸を亦々考へ込んだ。そして、限りなく自分を悲しく憐に思った。/こんな事で一寸の事でも母の事を思い浮べる。そして、陰気な心持になる。/おヽこの夏休!!悲しく過ごせし休!!/自分は如何にしてこの印象深き休暇を忘れ得よう。母の逝きし日と同じく。」

1928年(昭和3年)18歳
 3月、屋代中学校卒業。この頃、芥川龍之介、ドストエフスキー、トルストイ、アナトール・フランスなどを耽読。フランス映画「レ・ミゼラブル」を長野市の映画館で観て深い感銘を受ける。10月上京。文京区春日町に下宿、駿河台予備校に通う。この頃ニコライ堂下の神田図書館でロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を耽読する。

1929年(昭和4年)19歳
 4月、早稲田大学第二高等学院に入学。
「わたしが早稲田第二高等学院仏文科に入学したのは1929年(昭和4年)の春だった。/それは嵐を前ぶれする稲妻がひらめくと同時に、一瞬陽光がまぶしく射すような時代だった。世界恐慌が始まっていた…しかしその当時、わたしはそんなことに気がつかなかった。/その頃、わたしは小石川区第六天町に下宿していた。切支丹坂を登って、関口台町の灰色の表通りを歩き、坂をくだって江戸橋に降り、江戸川公園の樹木の下を歩いて、学校へ通った。公園のわきの小川にはまだ水車が残っていた。/公園のなかで写生をしていた若い女の画家と、知ったかぶりをして、ヴァンドンゲンの話をしたことを覚えている。その頃、ヴァンドンゲンの嵐の絵などに感動していたせいかも知れない。」(「ワセダの思い出」 『早稲田昭和断念志』)

 この頃、ロシア革命、社会主義の存在を知り、ルナチャルスキーの『革命と文学』やエンゲルス『空想より科学へ』、『共産党宣言』を読む。
 「その頃、第二高等学院は、道路をへだてて、安部球場の南側に建っていた。学院の正門の前に、二階建てのクラブ・ハウスがあって、その二階に「新興文学研究会」という表札をかかげた部屋があった。ロマンティクな新しい文学を夢みていたわたしは、そういう文学の研究会だと思って、そこに入ることにした。入ってみると、そこでは、ルナチャルスキーの『革命と文学』とか、エンゲルスの『空想より科学へ』といった本がテクストに使われていて、わたしはびっくりした。田舎の文学青年だったわたしは、革命という言葉もその意味も知らなかったのである…」(同前)

1930年(昭和5年)20歳
 6月、落合のゴム工場にビラ配りに行き帰途つかまり、高田馬場警察に29日間留置された。9月、学校より退学処分の通告があったが以後運動をしないという一札を入れて学校に留まる。「そのときは、学校へ、ブタ箱にぶち込まれて、今で言えば民青同盟の下っ端ぐらいにいて、もうどこにもまだ登録されていないから、ブタ箱へぶち込まれても僕は上へ行かないで済んだわけだよ。」(稲木信夫前掲文)
 9月9日、松本城を友人らと訪れ写真の裏に次のことを書く。
 「封建主義ノ化石ノナカデ、オレハ歴史ニツイテ感傷デアッタラウカ。ソコデ、タンナル、エトランヂェトシテ 封建主義ノ建築ヲ視覚シテキタニ過ギナイダロウカ。/白晝ノ不眠症ニ、オレハ、恐迫サレテイル。オレハ毛髪ノ陰ニ逃避スル、憂鬱ナ黄色ヲ把握スル。」
 12月、田村泰次郎を中心とした雑誌「東京派」創刊号に「アキレス」(短編)、「マックス・ジャコブ抄」を発表。他の同人には秋田滋、河田誠一、滝口俊吉(滝口修造の甥)等がおり、後の号には春山行夫、安西冬衛、神西清、宗瑛(歌人片山廣子の娘片山聡子の筆名)等も寄稿している。「当時パリやニューヨークで新しい実験的文学を推進しているグループがあり、前衛雑誌をだしていたが、それに呼応する意気込みで、東京グループという意味で「東京派」を名乗った。」(田村泰次郎『わが文壇青春期』)

1931年(昭和6年)21歳
 1月、「肥厚性鼻炎」(短編)、ルイ・アラゴン「巴里の農夫」(抄)を「東京派」第2号に発表。4月、早稲田大学文学部フランス文学科に進学。同級生に秋田滋、田村泰次郎、一級下に楠田一郎、村上菊一郎等がいた。フランス文学科の教授陣は吉江喬松、西條八十、山内義雄(助教授)、英文科の教授には日夏耿之介がいた。
 「1931年の春、わたしが学院から文学部へ進んだ時、高田牧舎の前の門から入って、芝生の広場をへだてて、四階建てのショウシャな文学部の新館が完成した。屋根には、校歌にうたわれている「イラカ」を配していた。(いまは文学部ではないらしい。)そして道路ぎわの杉木立のかげには、坪内逍遥や片上伸などの伝説にみちた、緑色の木造の二階建ての古い校舎が建っていたが、それはまもなくとり拂われた。/その頃、吉江喬松先生のフランス文学史や文学概論の講義が評判で、大きな教室がいつもいっぱいだった。それから西條八十教授の、校門近くの喫茶店での講義は、その後やはり伝説ともなった。」(「ワセダの思い出」)
 同月「遂げず」(短編)、ルネ・クルヴェル「死と疾患と文学と」、サルヴァドル・ダリ「腐敗した驢馬」、ジャック・プレヴェール「一つの整理 或ひは海馬の歴史」、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール「人間」を「東京派」第3号「若き仏蘭西文学号」に、ステファン・プリアセル「露西亜演劇の生命」(田村泰次郎との共訳)を「新文学研究」第2号に発表。6月、ピエール・オーダル「ロオトレアモン 虚無の犠牲」を「東京派」第4号「ロオトレアモン特輯」に発表。8月、「ヴァリエテ―或ひはUn Vagabond―」(短編)、ハッベル「スタインへの書簡」を「東京派」第5号「特輯アメリカ文学」に発表。

1933年(昭和8年)23歳
 9月、西條八十主宰詩誌「蝋人形」に「アルチウル・ランボオ伝」の連載を始める。(昭和9年6月まで計9回)

1934年(昭和9年)24歳
 3月、早稲田大学文学部フランス文学科を卒業。卒業論文は「アルチュル・ランボオ論」。主査西條八十、副査吉江喬松。「西條八十先生がね、そのとき早稲田の仏文の先生で、僕の卒業論文の審査をしてくれて、そして私の卒論を評価してもらって。私がランボオをやって先生もランボオ専門家だから、そういう関係で。」(稲木信夫前掲文)「(西條)先生はランボオを研究していてね、僕がランボオを卒論にしたら吉江先生がほめてくれたんだよ。西條先生の先生が吉江孤雁先生だからね。それで西條先生も評価してくれたわけだ。」(尾池和子前掲文)
 4月、「ランボウの精神的発展」(研究論文)を「仏蘭西文芸」(吉江喬松の門下生を中心とした学術誌)に発表。(5月、6月にわたり連載。)7月、「現代の古典的性格への一瞥」を「仏蘭西文芸」に発表。9月、カルロ・シュアレス「Autarchie」(エッセイ)を「仏蘭西文芸」に発表。11月、召集令状を受けたが、結核の為即日帰郷。この頃中野区江古田に住む。

1935年(昭和10年)25歳
 1月、アラゴン「Imaginationの対話」を「JANGLE」(アルクイユのクラブ 北園克衛編集)第1号に発表。3月、西條八十のすすめで「蝋人形」の編集に携わる。編集室は柏木町にあった西條低の茶の間。同月「革命的神秘家ロオトレアモン」を「蝋人形」に発表。(4月まで)6月、「スウルレアリズムの精神」(評論)を「蝋人形」に発表。7月、「ヴァシエの手紙 1918・8・17」(翻訳)を「VOU」(北園克衛主宰)第1号に発表。8月、「壁―星に」、「敗北」(詩)を「蝋人形」に、「スウルレアリストの抗議」(翻訳)を「文芸汎論」(城左門・岩佐東一郎 1931年創刊)に発表。12月、「自殺せる詩人たち ネルヴァル リガオ クルヴエル」(エッセイ)を「蝋人形」に発表。この頃杉並区馬橋(現在の杉並区阿佐ヶ谷)に住む。
                   (重田暁輝編集・大島朋光監修)

参考文献
『大島博光全詩集』 青磁社 1986年
『西條八十全集 18巻 別巻 著作目録・年譜』 国書刊行会 2014年
田村泰次郎『わが文壇青春期』 1962年 新潮社
紅野敏郎「逍遥・文学誌7・8「東京派」田村泰次郎・大島博光・河田誠一ら」 上・下 「国文学 解釈と教材の研究」 1992年1月・2月
腰原哲朗「大島博光の青春時代―田村泰次郎との交友」 「狼煙」 2014年9月
稲木信夫 「インタビュー 大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」 『詩人中野鈴子を追う 稲木信夫評論集』 コールサック社 2014年
尾池和子 『大島博光語録 Ⅰ・Ⅱ』(私家版) 2007年

(『狼煙』81号 2016年11月)

博光写真
尋常小学校の頃。母、弟(?)と

  ひとつの国民詩のために

アランよ きみは息つくひまもない 
八月のさなかに 見かける雪で
どこからともなく 降ってくる雪で
羊の群から飛び散る 羊毛のように 
鯨が吹きあげる 潮(しお)しぶきのように

きみはわたしに思い出させるのだ きみの名によく似た あのベルトラン・ド・ボルン(1)と名のった 人を

アラン・ボルヌよ きみの詩はまるで 
あの遠いむかしの 国にも似ている
えりぬきの娘たちが 待っているのだ 
一角獣(2)のいた 美しい時代のように
ベルトラン・ド・ボルンが歌ってくれるのを

生き甲斐と愛し甲斐とを 愛し甲斐と愛に殉ずる死に甲斐とを 歌ってくれるのを そのことを忘れないでくれ

ベルトランは シェへラザードにもまして
時をかせぐ すベてを知っていた
次第に若者たちは 立ち上ってゆく
どうして心くじかれてなどいられよう 
ほかの人たちが 十字軍に出かけてゆくのに

わが金髪の愛人が チール(3)ではなくてフランスにいる時 しかもサルタンが枕を高くして安穏と暮らしている時

わが秋の 霜のおりた巻毛のなかに
うっくしかった わたしの夏を失っても 
もう かまわぬ 忘却の河 レテの河水(4)は 
愛の注いだ 血の味をたたえているのだ
そして接吻(くちづけ)(5)は いつもわたしの心をゆさぶるのだ

口の中で描きながら 描き終らぬ前に 崩れてしまった 金いろの輝かしい面影どうように
だがまさに 電が降ったそのとき
ベルトランのうたう歌声が聞こえたのだ
その危険は また別種のものだった
それともあれは きりぎりすの歌だったのか
フランスは 石蹴り遊びの夜ではないのだ

小石をほかの流れに蹴りやるように わが人民とわが心とを天国から地獄 へ突き落とすとは

生き甲斐と 愛し甲斐とは
うつろう季節のように 変わるのだ
われらがいま酔っている 青い言葉も
いっか われらを酔わせなくなる
フリュートもラッパの音に消されてしまう

ああ 茫洋としたわれらの地平線の その広さにふさわしい調ベが 戦いの中から湧き起こるだろうか

不幸は フランドルでわたしを捉え
ルーシオンまで 胸をしめつけて離れぬ
戦火をくぐり抜けて われらは叫ぶ
われらの歌を 火とかげの歌を
だが誰が この叫びをまた叫んでくれよう

死んだ人たちにも 生きてる人たちにも声をあげさせ 灰の中から火を掘りおこし そこに蟋蟀(こおろぎ)をとき放とう

大地も しゃベる舌をもつがいい
壁も 舗道も くちびるをもつがいい
みんなが話せ 語れ よく知ってる君たち
恐ろしい秘密を見とどけた 君たち
血は 黙りこんでいることを許さぬのだ

ついにフランスが その長い珠数をつまぐって すさまじいパーテルの祈りを すさまじいアベ・マリアの 祈りをあげてくれるように

波のなかに ひそんでいる海獣が
雑木林のなかを うろつく狼が
その序曲をきいて 身ぶるいした
歌手たち 鼻をふくらませて高く歌え
アレキザンドルの調ベで

一本の草の芽もひとつの息吹きも 一瞬のためらいもなく その胸の「ハ音」を祖国にささげねばならぬ

アランよ きみは息つくひまもない
八月のさなかに 見かける雪で
どこからともなく 降ってくる雪で
羊の群から飛び散る 羊毛のように
鯨が吹きあげる 潮しぶきのように

きみは わたしに思い出させるのだ きみの名によく似た あのベルトラン・ド・ボルンと名のった詩人を

(1) ベルトラン・ド・ボルン──十二世紀の有名な吟遊詩人たちのひとり。
(2) 一角獣──神話の怪獣。からだは馬で、頭は鹿だが角は一本しかない。
(3) チール──フェニキアの都。三世紀頃、アレキサンダー大王の軍勢に包囲されたが、抗戦したことで有名。 
(4) レテの河──ギリシア神話にある冥界の河。
(5) 口吻──ここでは、祖国へのくちづけの意味で、愛国者たちの献身的な犠牲の意味がこめられている。

(この項おわり)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

花々

 五月の夜

妖怪(1)どもは わたしの通った道を見張っていた
だが 野に立ちこめた深い霧が その警戒の眼を遮った
夜は 軽やかな足どりで 野のうえにやってきた
そこでわれらは ラ・バッセ(2)の城壁を後にした

百姓家の火が 人影もない野の奥で燃えている
溝の草の茂みに ひっそりとうずくまった
飛行機が一機 念仏のような唸りをあげて飛び
アブラン・サン・ナゼール(3)の上空で ロケット砲がその翼を揺る

うろつく妖怪どもは 足どりももうめちゃくちゃだ
同じ処をぐるぐる廻って 頭もふらふらしている
恐怖の羽根飾り(4)が 地平線にせり上る
戦車にふみにじられた アラース(5)の家々の上に

わたしは見る 二つの大戦が出会い重なりあうのを
見るがいい この共同墓地を あの殉難の丘を
ここでは夜が 墓の中の孤児たちの夜に重なりあう
むかしの亡霊が きょうの亡霊といっしょになる

おれたちは花環もない草の中で どんなに夢みたことか
地上を 自分の墓穴を 墓碑銘のない日附と名前を
だからおれたちは おまえらの神話(6)の中に生き返えってやろう
もう古戦場案内人の 歯の浮くような声もきこえてはこぬ

二十年たっても死にきれぬ ビミイ(7)の蒼い幽霊たち
おれは 夜明けへ通ずる道だ 突破口だ
尖塔のまわりを廻わる風見だ そしておれは危険に身をさらすのだ 
「眠れぬ者たち」「死にきれぬ者たち」よ 君らのさまよう場所で

思い出のパノラマよ 苦しむのは もうたくさんだ
あれは終ったのだ 静かにお休み だが再びとどろく大砲に向って
君らの誰かは反対(ノン)と叫んだ このえせトリアノン宮殿(8)は
白い十字架と緑の芝生を敷きつめても まさしく殉難の丘なのだ

もしも怒りに身を震わせるなら 生者も死者もおんなじだ
生きていても寝床で眠ってる者は 死者と変りがない
こよいは 生きてる者が その墓穴から這い出し
眼をさました死者たちが 身を震わせて生者のまねをするのだ

かつてこんなに敵意にみちた夜があったろうか
ミュッセ(9)よ 君の美神と執念とは何処へ行ってしまったのか
どこかに えにしだの香りがただよっている
いまはまさに 一九四○年の 「五月」の夜なのだ

(1) 妖怪──ドイツ軍を指す。
(2) ラ・バッセ──フランスのノール県の町。ラ・バッセ運河の中心点。
(3) アブラン・サン・ナゼール──ノール県の南境に近い、パ・ド・カレー県の町。
(4) 恐怖の羽根飾り──フランス軍(連合軍をふくめて)の軍帽の羽根飾りが地平線にちらちら見えるの意。つまりそれはドイツ軍にとって恐怖を意味していた。
(5) アラース──パ・ド・カレ県の町。第一次大戦でドイツ軍の砲撃によって破壊されたが、ドイツ軍はついに占領することができなかった。
(6) おまえらの神話──ナチの神話。ここでは、その神話によってひき起した第二次大戦そのものを指す。
(7) ビミイ──アラースの北にある町。第一次大戦の激戦地。
(8) トリアノン宮殿──ルイ十四世によってヴェルサイユに建てられた豪華で有名な宮殿。
(9) ミュッセ──十九世紀のフランスの詩人。詩集『夜々』の詩人として、ここで暗喩的に用いている。

(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

夕やけ



砧公園(東京新聞2017/4/2より)

息子が祖師ヶ谷大蔵に下宿していた頃、砧公園脇の環八道路をよく通りました。写真左手前の首都高速用賀を下りて、砧公園を左に見て環八を右(北)に進むと小田急小田原線に当たります。小田急線に沿って上(西)に進むと祖師ヶ谷大蔵に出ます。すぐ隣が成城で、西條八十の屋敷もあった高級住宅街です。街々に桜が多くて、桜の咲く時期はとても美しい風情でした。
写真中央、公園の一画にあるのが世田谷美術館で、3年前にロシア・アヴァンギャルドのポスター展を見に行きました。(ユートピアを求めて ポスターに見るロシア・アヴァンギャルドとソヴィエト・モダニズム
意欲的な企画や美術館友の会があり、魅力的な美術館だと思いました。

写真上(西)が狛江市になります。多摩川沿いに土井大助さんのお宅があり、車だと10分ほどで行けました。
ちょうど狛江側から逆に撮った航空写真が2月に掲載されていました。(土井大助さんと狛江

砧公園の桜も今週には満開になり、さぞかし賑やかになることでしょう。


1995年9月に信越放送で放送されたラジオ番組のテープが見つかりました。
信越放送ラジオ番組「かるいさわいろ」
聞き手・朗読 岩崎信子さん
15分の放送が2回ありました。



博光写真

(朝日新聞が取材した時の写真)



六 エルザ・ワルツ

どこへ行くのか もの想いよ どこへ行くのか強情なものよ
スフィンクスは じっと 燃える砂のうえに膝まずき
「勝利の女神」は 身じろぎもせず 色褪せて
  石壁のなかに 閉じ込められ
古代のはしけから 飛び立つこともかなわぬ

なんと心魅く 魔法のような 未知のワルツが
狂おしい思いのように いやおうなしに おれを捉えることか 
おれは足もとに感じる この痛ましい時代の ながれ行くのを
  エルザよ この音楽は何んだろう 
もう踊っているのはおれではない 足もただ誘われるまま

このワルツは ソーミュールの葡萄酒にも似た 一杯の酒 
このワルツは おまえの腕の中で 飲みほした あの酒だ 
おまえの髪は 金色に輝やき おれの歌は 顫え高鳴る 
  さあ このワルツを踊ろう 壁をとび越えるように 
おまえの名がつぶやかれる エルザは踊り 踊りつづける

ワルツの中に 青春がきらめく おれたちの若い日は 短かかった 
泣いたことを まぎらわしに おれたちは モンマルトルへ行った 
おれたちの夜は あの小窓の 秘密も 失くしてしまった 
  しかも 愛までも忘れてしまったというのか 
あんなに重い愛までも エルザは踊り 踊りつづける
 
それから人生は 夢のかかとで ぐるっと廻った
おれは多くの友を失った ある者は目先の富籤(とみくじ)を引いた
眠りながら 海綿への愛などを語ったものもいた
  暗闇に蝕まれた 奇妙な連中
誤ちだらけのほら吹きたちが 英雄たちをあざ笑っていた

覚えているか お白粉をつけた つややかなネグロ女が 
ま夜なかに おれたちのために 歌ってくれた あの歌を
夜明け前に 家に帰って おれたちは ひと息いれた 
  そんな夜夜が 飛ぶように過ぎ去った
おお 怒ることもなかった時代よ エルザは踊る 踊りつづける

月賦で 買った タイプライターの おかげで 
おれたちは 毎月 ひどい 苦労をした 
愛するにも 金が要るのに おれたちは 一文なしだった
  おれの気遣いは おまえが微笑んでくれることだった 
だからおれには言えたのだ エルザは踊る 踊りつづけると

それから人生は 硝子のかかとで ぐるっと廻った 
運命のジプシー楽師は ヴァイオリンを替えた
おれたちは きびしい世界をよぎって 旅をした 
  世界は 頭をのけぞらせて 
陽気なアコーデオンにまじえて 息苦しげな呻めきを挙げていた

おまえは 町と夜のために 宝石をつくった 
おまえの手の オペラの中で すべてが廻って 頸飾りになった 
ぼろの 小ぎれや こわれた鏡の かけらなどが 
  後光のように美しい 頸飾りになった 
信じられぬほどに美しい頸飾り エルザは踊る 踊りつづける

おれは売りに行った ニューヨークの商人へ それから 
べルリンや リオや ミラノや アンカラの商人へ 
おまえの指が 砂金を採るように がらくたから作った その宝石を 
  花花にも似て おまえの色を帯びた 
その小石たちを エルザは踊る 踊りつづける

それから人生は 激動のかかとで ぐるっと廻った
閃めく稲妻が ネオンサインを さっとよぎった
黒雲の馬どもが 嵐の馬車を曳きまわし
  いななき叫ぶ声が 聞こえた
ジャズは アコーデオンを 太鼓に替えた

つぎに来る者は もう思うままには 踊れまい 
シーザーが 金狼の群を 野に放って 君らを喰い散らす時 
だが ラザロの墓の上に 湧き上るのは 何んの歌だろう
  おまえに聞こえるか あの時ならぬリズムが 
一か八かの舞踏会で エルザは踊る 踊りつづける

荒れ狂う嵐と 運命のなかを おれたちは よぎってきた 
地獄は 地上にあるのだ そして天国も 地上に落ちてくるだろう
だがいまや 恐怖のあとに あけぼのが やってくる
  そうして愛は 死に打ち勝つのだ
エルザはまだ踊っている エルザは踊る 踊りつづける

そして生活は 藁のかかとで ぐるっと廻った
君たちはその眼を見たか それは子供の眼だ
大地は戦さのない ひとつの太陽を生みだすだろう
  戦争は 終らねばならぬ
だが 勝利者として出てくるのは 人間でなければならぬ

わが愛の名はただひとつ その名は若き希望
おれはそこから いつも新しい交響楽を聞きとるのだ 
  そして苦しみのどん底で それを聞きとる君たち
  眼を上げよ フランスのよき息子たち
わが愛の名はただひとつ おれの讃歌は終わる

(1) おまえの手のオペラの中で──エルザはその頃のことをこう書いている。「ああ、こうして生活は困難になり、わたしたちの生活の手だては一挙に崩れさった。そこでわたしは、高級装師店向きの頸師りを作ることを思いついた。それをあなた(アラゴン)は貿易商のところへ売りに行った……」(『交錯小説集』一巻序文)

(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

彫像


五 ランセの眼なざし

ランプのまわりにむらがって 羽音をたてる蚊の群が
炎につれて渦巻きながら 天井へと昇ってゆくように
不幸のどん底より この讃歌はふたたび始まり
  この世ならぬ ファンダンゴ踊り(*1)の狂う中
ひとつの合唱 わき起こり おまえの声に答える

すべての恋びとたちは この人生を信じたように
彼らはまた ただ一つの愛だけを抱いていたのだ
あの匕首や 流刑や また絞首台などが
  ちょうど詩を終らせる 最後の詩句のように
彼らの狂わんばかりの心に とどめを刺す時まで

もしも 情熱の偉大さや 伝説や その不滅の思い出が
死を賭けた 情熱の挫折に 由来するとすれば
殉難者が倒れた日こそは 彼のための祭り日だ
  そうすれば 情熱の曲線は完成するだろう
いちども 乳を飲ませたことのない 乳房のように

いつも おんなじ言葉が 愛の歌の終りを告げる
ちょうど おんなじ言葉で それが始ったように
おんなじ眼のかぐろい隈(くま)が はてしない苦悩を語っているのだ
  かつては それが狂おしい愛を告げたように
そうしてランセの物語こそは 永遠の物語なのだ

彼はもう思い浮べる あのモンパゾン公爵夫人の
長い髪と優しい眼を かの女の姿が見えるようだ
声もきこえる 少なくとも聞こえるような気がするのだ
  いつもお待ちしていましたのよ と嘆く声が
そうしてかの女は 気も遠くなる裸(あら)わな腕を差しのべる

忍(しの)び梯子をのぼって 扉をあければ もう寝室だ
思いはやる指で カーテンもまだ引き終らずに
彼はその眼で見たのだ 断末魔の苦しみで
  紫いろになった眼を 朽葉色の巻き毛を 口を
銀の盆のうえの 切り落された首を

薔薇の花ばなをひき裂く こころない外科医たち
美しい肉体の横たわる 深いべッドのまわりで
死体に香をぬる者どもが 解剖学を論じている
  そこに 恋に身を焼く 恋人はすがりつく
大きなパンのそばの ちぎった白いパン屑のように

いまや ランセは 修道院へと消えさるがいい
われらにとって大事なのは この瞬間だけだ
胸もはりさけんばかりの 嘆き悲しみをこめて
  彼が 恋人に投げた あの眼(ま)なざしだけだ
盗んだ天の火は そこに 永遠に燃えているのだ

部屋の戸口に立った時の ランセのあの瞬間を
とある夜 漠然と経験しなかったものがあろうか
十二月のような凍りつく身震いが 自分の身ぬちと心の中を
  走りぬけるのを 感じなかったものがあろうか
自分はほんとに愛していたのか それとも夢でもみていたのか

ある夜 おれはもう おまえを失うかと思った
消えうせた幸福の名残りを おれは鏡の中に読んだ
ここにおまえは坐っていた ここがおまえの席だったと
  では おまえはそんなに生活に疲れていたのか
街をゆくひとの 吹き鳴らす口笛が 聞こえていた

ある夜 もうおまえを失うかと思った その夜からおれは
奇跡がつづくようにと 悲壮な希望を抱きつづけているのだ
しかし 恐怖は刺(とげ)のように おれに突きささる
  おまえの手首を握っていると それだけ
おまえの血の逃げてゆくのが遅れるような気がするのだ

ある夜 もうおまえを失うかと思った わが不滅のエルザよ
その大きな眼が 星のように輝やいた 聖金曜日の夜
あの不吉な夜は どうしてもおれから消えぬのだ
  死にもまた生のように あの酔いごこちにも似た
魅力があるのか おお わが美酒あふれる酒盃(さかづき)よ

消えては現われる悪夢 つきまとう恐ろしい思い出は
おれの心に 二人の地下生活を 思い起こさせる
ほかの夜夜とほかの恐怖とが こだまのように
  それに声を合わせて 鳴りどよもしてくる
それは 歌ってはならぬ小唄の リフレーンなのだ

ひき裂かれた美しい肉体(からだ)が 家に横たわっていた
低くすすり泣く声が 壕(ごう)の中から聞こえていた
香を塗る者どもの 高い話し声が聞こえていた
  わが祖国よ おまえは死なねばならぬのか
そしてすべての人民が あのランセの眼なざしをしていた

生き抜いてくれ おれたちはいま狩から帰ったばかりだ
家じゅうを埋めたすすり泣きは もうたくさんだ
だがそれも促していたのだ おれたちの手で おまえを揺り起こせと
  おお すでに聖体櫃(ひつ)に収まった聖女よ
どうか おれから遠ざけてくれ 「悪魔(デーモン)」(3)を 「類推」を

おれがこの胸に 狐のように隠している 喪(も)の悲しみ
そんなものは 当節 流行(はや)らないと 言いたければ言うがいい
おれの歌の意味が 知れわたってもかまわない
  いまは 斧が支配しているご時勢だから
いったい 君たちは理性の名で 何んと言ったのか

(1)ランセ──Aramand Rancé(一六二二〜一七○○)宗教改革家。恋人モンパゾン公爵夫人の死後、修道院にこもる。-
(2)ファンダンゴ踊り──ギターとカスターネットを伴奏とする、情熱的なスペイン舞踊。ナチと売国奴たちの狂暴さを指す。
(3)悪魔を 類推を──象徴派の詩人マラルメの言葉である「類推の魔」をもじったもの。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

エーデルワイス


エルザは言う1
エルザは言う2
エルザは言う3
エルザは言う4


(*1) わたしが望んだほど難解ではない……──当時、ナチの検閲の眼をくらますために、できるだけ彼らにわからないような詩が要求されていた。
(*2) イゾルデやヴィヴィアンヌやエスクラルモンド──中世の悲恋物語の主人公たち。 
(*3) 澄みきった空──ドイツの空軍機の飛ばない空を意味している。
(*4) 万雷の交響楽──ナチの暴虐を指す。

(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

赤と黄色



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雪の下に1

雪の下に2
雪の下に3

(詩集『ひとを愛するものは』)

西寺尾



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大島博光の詩とこころ

(『赤旗』1985年3月23日)

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わたしのうち1

わたしの2
わたしのうち3
わたしのうち4
わたしのうち6


(『文学界』1955年10月号、『ひとを愛するものは』)

千曲川



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千曲川のほとり

(『民主長野』1985年3月17日)

*「千曲川べりの村で
*「絵はがき

ひとを愛するものは
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三鷹のお宅におじゃましたころ
                           中島荒太

 私が三鷹の大島博光さんのお宅を訪ねるようになったのは大島さんが詩集『ひとを愛するものは』で多喜二百合子賞を受賞されて以降のことであったと思う。それまでにももちろん詩人・翻訳家大島博光の名前は承知していたし、詩人会議の講演などでお会いしたこともあったが、しばしばお会いするようになったのは第十七回同賞受賞の一九八五年以降、つまり大島さん晩年の二十年ほどであった。
 当時私は「しんぶん赤旗」日曜版編集部所属の記者であった。受賞のインタビューのためにカメラマンとともに三鷹市下連雀のお宅に伺ったのが始まりである。編集部在職中はもちろんのこと、退職後もよくお訪ねした。
 大島さんはラグビーと釣りにことのほか関心を示されたが、私はスポーツも釣りも興味を持たなかったので、主としては時節の政治、社会の動きが話題になった。ネルーダ、マチャード、アルベルティ、ゴーシュロンの名前もしばしば耳にしたが、新聞の読者欄の投稿などをよく話題にされたのを覚えている。作りたての自作の詩を見せて感想や意見を求められることもあった。大島さんは誰よりもわれわれ素人の率直な感想を大事にされていたのではなかろうか。
 大島さんのお宅は三鷹駅からバスで二つ目の停留所で降りて二百メートルほどのところにあった。タ刻になると私たちは三鷹の駅の近くまで歩いて出かけた。特に決まった店があったわけではない。駅前のデパートの三階だったか、大衆的なレストランなどに入った。大島さんはそこで銚子を傾けながらタ食をとり、私はもっぱら酒の相手をした。
 「午後六時の男だよ、オイ」─大島さんは前歯の欠けた人なつっこい笑顔をつくりながら、そのように外食をされていたところをみると、奥さんの静江さんを亡くされてすでにかなりの年月が経ったころではなかったかと思う。静江さんを亡くされた当初は、まるで魂が抜けたような落ち込みようであった。ようやく気力も回復して『老いたるオルフェの歌』などまとめておられたころであったのだろう。
 レストランでの晩的、タ飯をすませた私たちは、また下連雀の家への道を戻って行った。ほろ酔い加減の大島さんは道路わきの喫茶店の中に若い女性たちを見かけると、ガラス越しに「ボン・ソワール」と挨拶の真似ごとをしたりして、上機嫌だった。『ひとを愛するものは』の出版記念会の二次会でのこと、詩人の土井大助氏が「今日も若い女性がいっぱいだったなあ。大島さんはどうして若い女性にあんなにモテるのかなあ」と羨ましそうにつぶやいていたが、大島さんの作品を読むと、その青年のような詩魂の若々しさが一つの魅力だ。海外の大詩人たちの詩法なども貪欲に吸収して独自の韻律の言葉が展開される。私もまた詩人のそうしたみずみずしい若さにひかれてあのころ三鷹のお宅へと向かったのであった。

(大島博光記念館ニュース40号)

二人
1985年春 多喜二・百合子賞を受賞した頃