千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


絵日記

8月14日 日曜日
すなやまであそんだ。あずちゃんたちとした。ふねをつくったり ひこうきをつくったりしてあそんだ。
あそびおわってから しゃべるで したのほうにおちているすなをうえのほうにのっけたりした。

絵日記

8月15日 月曜日
あしたはしんしゅうへいくので きんぎょがしまないように 水をいっしょうけんめいにとりかえた。ぼくが山田さんのうちにピアノにいっているあいだに みずをぜんぶかいだして おとうさんたちがあたらしい水をいれているところだった。ちいさいこいがだいぶ大きくなっていた。
ピアノ(教室)にあとからいった。


絵日記  

8月13日 土曜日
やまださんのうちにピアノのれんしゅうにいった。かえるとき たるの中にきんぎょとめだかがはいっていた。それはうちであげたきんぎょだった。
その日はピアノに行く日だったが いかなかった。

*山田さんは同じクラスのお嬢さんで、家もすぐ近くだった。ピアノ教室に行く前の練習にピアノを借りに行った。山田さんのお母さんが出してくれた赤いシロップ水が冷たくて美味しかったことを覚えている。
素直な子どもだったぶうわは母親の言うとおりにピアノ教室に通ったが、長続きせずにバイエルまでで終わってしまった。一方、妹は大学生の頃までピアノを続けたし、弟に至っては教わらなかったのに独学で「月光」などを見事に弾きこなすようになった。<イリーナさんが弾く「月光」

絵日記

8月12日 金曜日
ピアノをしてから がっこうへいった。はじめに夏やすみちょうのきょうするところをした。
やきゅうも赤と白のしあいをした。ぼくはピッチャーとセカンドでした。やきゅうはぼくたち赤がかった。
がっこうからかえってから おひるすぎの三じから おとうさんとこいつりにいった。たま川でつった。つったのは二十五cmのこいを一ぴきだけだった。



山中湖
かつて桟橋のあった千葉大の浜
森
今は山野草ばかりが茂っています
山中湖
山中湖
山中湖
山中湖
山中湖
山中湖
月見草がとても多い
山中湖
隣の浜には桟橋とオートキャンプ場があり、家族連れで遊んでいます。
山中湖
山中湖
山中湖
湖岸の道路にはサイクリング用のレーンがあり、花壇もたくさんあります。
対岸の丘の上にはホテルマウント富士。
山中湖と富士山の眺望が素晴らしいので、お茶を飲みによく行きました。
山中湖
ホテルマウント富士のウラ(山中湖の反対側)にある花の都公園。
今の時期は一面に百日草の赤や黄色が。
山中湖
ひまわりの畑も見ものです。


花の都公園に100万本の百日草

千曲川
千曲川
上田付近の千曲川堤防道路は眺望が良くて快適です。
千曲川
村
上流にすすむと古い村落に入ります。
千曲川
大きな岩の上に鉄の杭を発見、
千曲川
この岩は太鼓岩といわれ、かつて吊り橋がかかっていた、その名残だそうです。
千曲川
広い道にでました。海野バイパス。
海野宿
この先にかつての宿場町として有名な海野宿(うんのじゅく)があるようです。


絵日記


8月11日 木曜日
ピアノにいってから氷メロンをたべた。それからすいかをたべた。おひるごはんをたべてから かとうくんのうちにあそびにいったが おばさんが「いのがしらにいったよ」。といったのではいちょをもっていのがしらにあるいていった。いのがしらにつくと かとうくんとおざきくんがいっしょにさかなをつっていた。ぼくはつりのえさのえびがにをとるやくめだった。

*毎日、井の頭公園に行って釣りをしていたんですね……。不思議なことに、よくあそんだ加藤くんがどんな人だったか、まったく記憶にありません。

絵日記


8月10日 水曜日 晴
おとうととばすにのって いのがしらにさかなつりにいった。いのがしらについてから かとうくんにあった。かとうくんは えさはえびがにのしっぽのにくだったが ぼくはみみずだった。みみずがいなくなったので かとうくんにわけてもらった。かとうくんはさかなを三びきつったが二ひきにがして一ぴきしにそうなのでにがした。ぼくは一ぴきもつらなかった。


絵日記

8月9日 火曜日

おとうさんとたまがわへさかなをとりにいくつもりだった。おひるがすぎて三じごろからいくのだ。
ぼくもつりのどうぐをもっていた。るすばんのおばさんがこないのでいけなかった。
一人で ばすでいのがしらへつりにいったがなにもとれなかった。帰りにもばすにのってかえったが うちについたときはくらかった。


黄バラ


わたしの不運は


(詩集『老いたるオルフェの歌』)
静江葬儀
出棺にあたって挨拶する博光

静江葬儀
小熊忠二夫妻と

ダビング
1986年から96年までに撮影したビデオが24巻

以前撮影した8ミリビデオを業者にDVDにダビングしてもらった結果、見られるようになりました。早速静江の葬儀の巻を見たら、貴重な記録がありました。1973年4月の四十九日の会で、静江の叔母(近藤芳子さん)や妹(遠山房江さん)が詳しく話していました。静江は前橋から東京の近藤芳子さんの家に寄宿して紙芝居をつくる仕事をしていて博光と知り合ったのだが、実は前橋である人と婚約し、結納まで交わしていた。それが破談になって、前橋にいられなくなって東京に出てきた。破談していなければ博光と知り合うこともなかった。不思議な縁ですね……。

「親の束縛に反発して、絵を勉強するために東京に出てきた」という本人の話にはウラの事情があったようです。


木



風は木の葉を




この子らに



<『赤旗』1985.2.15 、『大島博光全詩集』>

子ども



絵日記

かとうくんといのがしらへあみでさかなをとりにじてん車にのっていった。はじめにちいさいどじょうを一ぴきとった。そのつぎにろうそくがながれてきたので かとうくんが水の中にはいってろうそくをとりにいったがとれなかった。かとうくんがきしにあがろうとしていたら ぼくのしらないうちに十cmぐらいのなまずをとってきたが、かえるまでにしんでしまった。小さいえびがにもとろうとしたがとれなかった。



わが地獄の季節2


(詩集『老いたるオルフェの歌』)

彫像


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横浜


 45年前の1972年8月、ベトナム戦争のために横浜の埠頭にむかっていた米軍戦車が市民の行動で止められる出来事があり、この時の写真が今朝の新聞に掲載されていました。国道のわきに止まっている戦車を見て、横浜に住んでいた頃の体験を思い出しました。

 この写真より3、4年ほど前になります。下宿していた家は桜木町駅から西走する幹線道路(平戸桜木道路)から2,3建のところでした。夜中の0時ころ、聞いたことのないような大きな轟音が響いてきました。2階の部屋から道路を見ると、大きな戦車が次々とやって来て、前里町4丁目の交差点を左折して磯子方面へ(横須賀街道)去って行きました。街の中を戦車が走る、という日常とかけ離れた情景に衝撃を受けました、戦争に係わっている日本の現実の一断面を見た思いでした。