千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 一九四九年八月には、メキシコでひらかれた平和大会に、ネルーダはエリュアールといっしよに参加する。エリュアールは数年前に愛妻ニューシュを失って、まだ途方にくれているような状態にいた。ネルーダはその旅行の模様を書き残している。
 「メキシコにわれわれはいっしょに旅行したが、そのとき初めてわたしは暗い深淵のふちに立っている彼を見た。
 彼は悄然としていた。わたしはこの中央フランスの男を説得して、この遠い土地に引っぱってきた。ところが、われわれがホセ・クレメンテ・オロスコを埋葬した同じ日に、わたしは危険な静脈炎にかかって、四ヶ月のあいだベッドにくくりつけられた。ポール・エリュアールは孤独を感じていた。盲目の探険家にも似た孤立無援の窮状のなかで、暗澹として孤独を感じていた。彼には知り合いもなければ、扉をひらいて迎えてくれるものもいなかった。彼にはやもめ暮らしが重くのしかかっていた。彼は愛もなくひとりぼっちでいた。彼はわたしに言った。『われわれには、いっしょに人生をみつめ、人生のすべての瞬間(とき)を分ちあうような誰かが必要なのだ。わたしの孤独は非現実的だ、犯罪的だよ」と。
 わたしは友人たちに電話をして、彼を無理矢理に外へ連れ出させた。友人たちは気の進まない彼を連れて、メキシコの道を歩きまわった。ある曲がり角で、彼は恋人にでっくわしたのだ。最後の恋人ドミニックに」

しかし、恋人に出会ったのはエリュアールだけではなかった。ネルーダ自身も新しい愛人に再会したのだ。この大会の会場に、チリの声楽家マチルデ・ウルティアがネルーダを訪ねてきたのである。ネルーダがマチルデと最初に会ったのは一九四六年の春で、サンティアゴにおいてであった。そのときマチルデはメキシコに住んで、音楽の勉強をしていた。ネルーダが平和大会に出席するという新聞記事を読んで、彼女は訪ねてきたのだった……。こうしてここに二人の新しい愛の物語が始まる。
(つづく)
(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

ドミニク
 亡命・ヨーロッパで

 一九四九年二月、アンデスを越えて、アルゼンチン側のサン・マルティンに着いたネルーダは、ブエノス・アイレスを通り、パラグァイに行って、そこから偽のパスポートで空路ヨーロッパへ向かう。

 四月二〇日、パリのプレイエル・ホールで第一回世界平和大会がひらかれた。ピカソの鳩のポスターが初めてパリの街に貼りめぐらされた。この大会は、とつぜん満場の拍手をもって珍客を迎えることになる。──国際的な官憲の追及と監視の眼をくぐって、パブロ・ネルーダが会場に姿をあらわしたのだ。この大会ではまた、ピカソが発言をもとめて、国際警察によるネルーダ追及を非難し、その追及をやめさせ、ネルーダを擁護するように訴えた。ネルーダはそのことを回想して書いている。

 「わたしは数日ホテル・ジョージュ五世に泊ったが、わたしのアンデスの山男のいでたちが、金持ちで優雅なホテルの客たちの間では不釣合いだったことなど、あまり気にもかけなかった。ピカソがひょっこり現われたのはそのときだ。かれの親切はその天才と同じように偉大だった。ピカソは、生涯で最初の演説をしたばかりで、子どものようにうれしそうだった。その演説はわたしの詩やわたしの受けていた迫害やわたしの不在について述べたものだった。いま、現代絵画の天才的ミノトールが、兄弟の優しさをもって、わたしの置かれた困った立場を小さな点まで解決しようと心をくばってくれた……」(『回想録』)
 「困った立場」というのは、ネルーダにはパスポートもビザもなく、そのうえチリ大使館はフランス当局にたいして執拗にネルーダの本国送還を要求していたのである。

 こうして三年五ヶ月にわたるネルーダのヨーロッパ、アジアにかけての亡命の旅が始まる。 六月にはソヴェトへの最初の旅行に出かけ、七月にはポーランド、ハンガリーを訪れる。
(つづく)

新日本新書『パブロ・ネルーダ』

鳩


脱ぎ捨てた

(アラゴン「未完の物語」)

クリスマスローズ


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20回目の長野マラソン。記念館のすぐ近くの道がコースになっています。
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長野自動車道の下をくぐると千曲川の堤防道路に出ます。
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ここが32キロ地点で、あと10Km。がんばれ!
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消防団のブラスバンドも華々しく激励の演奏。
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ちびっこもお年寄りも大声援!
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河川敷の桃が満開
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ゴール=長野オリンピックスタジアムを目指せ!
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最終ランナーが通過すると締めの演奏でお開きに。
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応援していた3人きょうだいが車の中でお弁当。
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毎年応援するのが楽しみだそうです。雨の中を頑張って来ました。
昼食をとりにはなやに入りました。
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マラソンのおかげで大入り満員となりました。
[メキシコ]の続きを読む
 帰国・人民のなかへ

 一九四四年、祖国チリに帰ったネルーダは、政治闘争に参加する。チリ北部の草原地帯をまわって、坑夫や農民や船員たちに語りかけ、詩を朗読する。人民に直接ふれることによって、ネルーダと人民とのむすびつきはいよいよ堅く、深くなってゆく。

    帰国──一九四四年

  わたしは帰ってきた……チリは
  黄色い砂漠の顔でわたしを迎えてくれた
  わたしは苦労を重ねて 不毛の月から
  砂の火口へと辿りついて
  地球の巨大な荒地を見いだした
  ……
  草木もなく 鳥獣の姿もなく 畑もなく
  大地はありのままの赤裸の姿をわたしに見せてくれた
  その彼方で人間たちは 地の果てを掘って
  硬い鉱石を集めていた……

  わたしは砂漠に身を投げこんだ
  鉱滓(かなくそ)のような男が 無言の荒々しさで
  穴のなかから出てきた
  わたしはわがみじめな人民の苦しみを思い知った
  ……

  わたしは警察に追われた だが闘いはつづく
  月は高いが 真実はもっと高い
  鉱山の人びとは夜を見つめたとき
  黒い船の上の人のように月のような真実を見た

  そしてくらやみのなかで わたしの声を
  地上でもっとも頑強な仲間たちが分かち合った     (『大いなる歌』)

 「わたしは砂漠に身を投げこんだ」──一九四五年三月ネルーダは北部の砂漠地帯──タラパカとアントファガスタ地方を地盤に、共産党の指導のもとに上院の選挙戦に参加したのである。
 「数年にわたって、わたしはこれらの砂漠を縦横に歩きまわった。このかさかさに乾燥した広大な地方の住民たちが、わたしを労働者部隊の代表として銅や硝石を掘りだし、カラーやネクタイをつけたことのない人たちの代表として、わたしを上院議員に選んでくれたのである。……

 ある日わたしは、『マリア・エレナ』硝石採掘所の労働者たちと話しあうことになった。わたしたちが集った部屋の床は、水と油と酸で、びしょびしょになっていた。わたしを案内してくれた組合の指導者とわたしは、このじくじくした沼地とわたしたちをへだてる床板のうえを用心深く進んだ。労働者たちがわたしに話した。
 『この床板のために、おれたちは一五回もストライキをぶち、八年間というもの、かずかぎり「なく要求を出し、しかも七人の仲間が殺されたのです』
 つまり、あるストライキのさいちゅう、会社の警備係が、組合の七人の活動家を逮捕した。「活動家たちをロープで数珠つなぎに縛って、徒歩で歩かせ、かれらは馬に乗って出て行った。やがてかれらは、活動家たちを銃弾で穴だらけにして、砂漠に死体を野ざらしのまま、ほったらかしにしたまま帰ってきた。みんなが同志たちの死体を見つけて葬ったのは、やっと数ヶ月あとだった。……
 「わたしは文学賞を──蝶のいのちのようにはかない賞をたくさんもらった。だがわたしはまた、もっとすばらしい賞をももらったのだ……その賞とはこういうものだ──ひとりの男が、ロタの炭坑、あるいは硝石坑や銅坑の奥底から上がってくる。もっと正確にいえば、地獄から抜けだしてくる。ひどく骨の折れる仕事で顔はゆがみ、眼はほこりで血走っている。男は、草原のしるしがひび割れやたことなって刻まれているざらざらした手を、わたしにさしだして、燃えるような眼をして言う。「おら、ずっと前からあんたを知っていただ、兄弟……』。わたしの人生のこういう素朴な瞬間こそ、わたしのすばらしい賞なのだ。草原に掘られた坑道の穴から出てくる労働者にむかって、風が、夜が、チリの星がささやいた。『きみは孤独じゃない。きみの不幸に想いを馳せている詩人がいるのだ』と。これこそわたしの月桂冠なのである。
 一九四五年七月一五日、わたしはチリ共産党に入党した」(『回想録』)
 ここには、その頃のチリの草原の状況、硝石坑の労働者たちの暮らし、そして詩人の対応が生きいきとリアルに描かれている。

 「数年前、わたしにインタヴューしたクルツィオ・マラパルテはいみじくもこう書いた。<わたしは共産党員ではない。だが、もしもわたしがチリの詩人だったら、わたしもパブロ・ネルーダのように共産党員になっただろう。ここチリでは、キャデラックを乗りまわす連中の側に立つか、勉強する学校もない、はく靴もない人びとの側に立つか、どちらかを選ばなければならない。」(『回想録』)

 さて、総選挙につづいて行われた一九四六年の大統領選において、急進党から立候補したがブリエル・ゴンサレス・ヴィデラが、共産党の支持をとりつけて当選した。ヴィデラが、労働者の権利を守り、農地改革を実行すると公約したので、チリ共産党はこれを支持した。ヴィデラの勝利は大半は共産党員の献身によるものであった。
 ところで、銅、硝石、マンガンなど、重要資源にめぐまれたチリは、いつも外国帝国主義に狙われてきた。第一次大戦以後は、北アメリカの帝国主義的大独占資本が、チリのゆたかな資源にたいして支配権をふるうようになった。アメリカ帝国主義は、この支配と利権を維持するために、チリの反動勢力と共謀して、あらゆる手段を弄した。一九三八年、反ファシズム人民戦線が政権をにぎって以来、アメリカ帝国主義は、代々の大統領に圧力を加えて、民主勢力を圧殺しようとした。
 共産党はヴィデラ政府に三人の閣僚をおくりこんで政権に参加した。しかし、アメリカ帝国主義はまたしても大統領ヴィデラに圧力を加えて、フランスやイタリアで行ったと同じように、三人の共産党員閣僚を内閣から追放させる。一九四七年、ヴィデラのアメリカ帝国主義への追従政策はますます露骨なものとなる。民主的な自由はふみにじられ、労働組合は破壊され、共産党は非合法化に追いやられる。「われわれの投票のおかげで当選した共和国大統領は、アメリカ合衆国の庇護のもとに、卑劣で執念深い小吸血鬼へと変貌した」(『回想録』)のである。
 一九四八年一月、ネルーダは上院で、ヴィデラの裏切りを痛烈に告発し、弾劾する。

  そのとき わたしは弾劾した
  希望を締めころした男を
  ……
  するとたちまち裏切者や雇われ者の一群が
  わたしの「反逆」を非難した
  ある夜 彼らはわたしの家を焼きにきた
  (こんにち火は火つけ人の名を書きしるしている)
  裁判官どもは 全員結託して
  わたしを有罪にし わたしを追及した
  ……
  しかし わたしの言葉は元気に生きており
  わたしの心は 自由に弾劾する    (『大いなる歌』──「わたしは弾劾する」)

 ヴィデラは逮捕令状と投獄をもってネルーダに答える。二月五日、最高裁判所はネルーダの上院議員特権を剥奪し、翌日には逮捕令状が出される。ネルーダは地下生活にはいらざるをえない。一年二ヶ月のあいだ、かれは絶えず住居を変えて身をかくし、そのあいだに『大いなる歌』を書きつづける。

  はてしもない夜のなかを 世界のなかを
  あの暗い日日 わたしは歩きつづけた
  涙を紙に書きつらね 身をやつし姿を変えて
  わたしは 警察に追われるお尋ね者だった
  わたしは 町町をよぎり 森を抜け 
  畑のなかを歩き 港町を通り
  戸口から 戸口へと
  ひとの手から手へと 渡り歩いた
  夜はつらいものだ しかし ひとびとは
  兄弟の合図を 送ってくれた
  わたしは 小さな星のような灯(とも)しびに迎えられ
  森のなかの狼に 食われずに残っていた
  ひとかけらのパンに ありついた……(『大いなる歌』ー「お尋ね者」)

 「兄弟の合図」と隠れ家は、ネルーダの行くさきざきで待っていた。ネルーダの地下生活をささえたのは、まさに人民の支持と庇護であった。それはブリキ屋や船員や農民など、貧しい労働者であり、庶民であった。

  お尋ね者のわたしは 敷居から敷居へと行った
  ほかのつつましい家家が ほかの手たちが
  祖国のどの皺のなかでも わたしの足音を待っていた
  犠牲者を続出した炭坑の地方でも
  南極の岬に近い海べの港でも
  澄んだスープの皿がわたしを待っていた
  みんなが言った 「兄弟
  みんなが言った 「兄弟
  よくわしらのむさくるしい家にきてくれました」と
  わたしが会ったのは 小さなブリキ屋
  幼い女の子たちを抱えたお母さん(ママン)
  不恰好な農民
  シャボン作り……...      (『大いなる歌」ー「お尋ね者」)

 「ネルーダは人民の海のなかに身をかくしたのだ。そして自分は人民の一員だという意識を「とうもろこしの人民」というイメージをとおして歌って、「お尋ね者」という詩をしめくくっている。

  わたしは夜のなかでも
  大地のくらやみのなかでも ひとりぼっちではない
  わたしは人民だ 数かぎりない人民だ 
  わたしの声には 純粋な力があるから
  それは 沈黙をやぶり
  くらやみのなかでも 芽を出す
  死や 迫害や 影や 氷が
  とつぜん 種子を覆いかくし
  人民は 土のなかに埋められたかに見える
  しかし とうもろこしは大地にもどり根ざす
  その不屈の手 赤い手は 沈黙をつき破る
  死から われわれはよみがえる

 「この地下生活のなかで書きつづけられた『大いなる歌』は、一九四九年二月に書きあげられる。

  ここに わが『大いなる歌」を書き終える
  祖国の地下の 秘密の翼の下で歌いながら
  迫害のなかで書いた 詩集だ
  きょう一九四九年二月五日
  チリの「ゴトマル・デ・チェナ」で
  わたしはもう数ヶ月で 四五歳になる      (『大いなる歌』)

 これが『大いなる歌』の最後の詩句である。

 翌二月六日、ネルーダはいよいよチリを脱出する。かれは馬に乗って、数人の同志に守られて、チリ南部のリペラ峠を越え、むかし密輸入者たちが歩いた、危険にみちた秘密の通路を通って、アンデス山脈を越え、アルゼンチン側のサン・マルティン・デ・ロス・アンデスに到着する。
 「うち捨てられた一軒の廃屋が、われわれに国境を指さしていた。わたしは自由になった。わたしは小屋の壁に書いた。(さようなら、祖国よ。わたしは出かけてゆく。しかし、おまえをいっしょに連れてゆく」(『回想録』)
 「そのときの写真──顔じゅうひげだらけでフェルト帽をあみだにかぶり、狩猟服を着た、乗馬姿のネルーダの写真はよく知られている。

ネルーダ写真



新日本新書『パブロ・ネルーダ』
出版を祝う会


1985年4月7日、池袋・東方会館で開かれた「ひとを愛するものは」出版と多喜二・百合子賞受賞を祝う会の詳細が『橋』第9号に掲載されていました。長岡昭四郎さんが開会の辞を、鈴木初江と井上千文が司会をつとめ、出席者全員の氏名も載っています。

*赤旗─文化通信「大島博光詩集『ひとを愛するものは』の出版祝賀会開く

祝う会


ここに眠る
「死者たちはここに眠る」Blanca Perez作 1990年

<添付メッセージ>1990年11月5日、サンチアゴにて。 私ブランカ・ペレスが目撃したすべてをお話します。
私は軍部が権力を握った年からの悲しみと苦しみを伝えることができます。私たちは Lonquen という町に行き、生き埋めにされた人々すべての遺体と遺骨を見ました。



政治弾圧
「1986年7月3日の政治弾圧」 Isobel Alarcon 1990年

<添付メッセージ>1986年7月3日、彼らは静かに家にいた多くの無実の人々を拘留しました。虐待して素足で通りの焚き火を消させました。ナイフで髪を切り、裸にして公道に捨てました。 チリの7月は冬の最中です。

元千葉民医連事務局長で、その後全日本民医連事務局長を務めた平嶋善次さんがご逝去されました。
平嶋さんは1970年代、千葉大で学生運動をしていた医学生に熱心に働きかけて民医連運動への参加を呼びかけました。彼の影響で千葉民医連に入職した若手医師たちが青年医師集団を形成して医療構想や医師配置などでリーダーシップを発揮、二つの病院の建設など、その後の発展の原動力となったのです。この面での平嶋さんの功績を忘れることはできません。

大島博光記念館がオープンした2008年の秋に平嶋さんは千葉民医連退職者の会12名で見学にお訪ね下さいました。先輩の方々と懐かしい再会を果たすことが出来ました。そのあと激励のお手紙を達筆で頂きました。それ以来記念館ニュースを送っていたのですが、最近、読めなくなったからとお断りの連絡があったところでした。
平嶋さんの魅力は、説得調でない朴訥とした語り口で高い志を語り、学生の心をつかんだことではないでしょうか。

平嶋
千葉民医連退職者の会の皆さん。前列右端が平嶋善次さん。(2008年11年3日)


マルグリート


<『アラゴン選集3』──未完の物語

アネモネ


『未完の物語』について


 『未完の物語』については、拙著『抵抗と愛の讃歌』より引用することにしよう。『眼と記憶』が主として政治的側面、あるいは社会的側面をうたっているのにたいして、『未完の物語』(一九五六年)は、自叙伝的な性格をもち、主として私的な分野をうたっている。アラゴンはみずから書いている。
 「この詩は、自叙伝的性格をもっているにも拘らず、作者の人生の物語風日記あるいは忘備録というよりは、それらから編み出された一つの物語である。.......こんどは公的な分野よりも私的な分野に重点が置かれている。ここでは、以前にもまして、愛が重要な場所を占めている......」
 『未完の物語』には苦悩の調子、ときには悲壮なひびきが流れている。それは、スターリン批判のおこなわれた断腸の時代―一九五〇年代の苦悩を反映しているからであり、またそこにこそ、『未完の物語』の偉大さがある。
 だが、苦悩と絶望とを混同してはならない。偉大な歴史的前進には、望ましくはないが、矛盾や悲劇が伴わずにはいなかったのである。しかしアラゴンは、「スターリン時代の悲劇」がひとたび暴露されるや、それは自分には関わりのないことだ、と考えるような人びとには与さなかった。かれはその問題を、自分の傷口として受けとめる。アラゴンはフランシス・クレミュにこう語っている。
 「たとえ、かれらが何も知らなかったとしても、たとえ、多くのひとが戦争犯罪について無罪でありうるという意味で、無罪であるとしても、やはりかれらは理解しなかったという事実について、自分にも罪のあることを感じるのだ」
 この問題について、左右から浴びせられる非難にたいして、アラゴンは毅然として答える。

 わたしは いままで いく度となく 道を誤った
 きみらは 懐疑という うしろ向きの美徳を讃え
 石橋を杖でたたいて渡るような 慎重さをほめそやす
 わたしはまさしく人生を誤り 靴まで失くした
 わたしは 穴のなかに落ちて 傷口を数えている
 わたしは 夜の果てまでは 辿りつけないだろう

 ついに夜が裂けて そこに暁があらわれ出で
 夜が白みだそうともう どう でもいいのだ
 この暗い不幸のさなかにも わたしは雄鶏の歌を聞く
 わが災いのさなかにも わたしの手には勝利がある
 きみらは すべての偉人らの眼を扶りとろうというのか
 わがくら闇のなかにも わたしには太陽がある
          (『未完の物語』──「わがモスクワ」)

 『未完の物語』は、少年時代から始まり、第一次大戦後の時代、ついで二〇才代のシュルレアリスム──『大いなる言葉の闇夜』の時代が歌われ、政治的意識にめざめるリフ戦争の時代が歌われる。ついで、プリモ・デ・リベラ治下のスペインとガルシーア・ロルカの死、「黒シャツ」の時代の「わがイタリヤ」が歌われ、そうしてアラゴンの人生に、この詩のなかにも、ついにエルザが現われ、エルザへの愛の歌が、大きなフィナーレをかなでる......

 ところで、シュルレアリスムの時代をうたった詩には、いろいろなニュアンスが感じられる。『わたしは言葉のとりこになった』には、パリの街まちをさまよい歩き、ブルトンやエリュアールたちといっしょに、カフェーに陣どって、イメージ作りにふける姿が、客観的に描かれているが、『ここに言葉の闇夜が始まる』には、つよい自己批判のひびきが流れているように思われる。

 こうして思いつきを追い自分から夢中になり
 何を言っているのか 自分でもわからない
 見たまえ それはこんな風に始まるのだ
 もう言葉が きみたちを引きずってゆく
 屋根も見えなければ 地面も見えない
 こうしてひとは奇妙にも 鳥たちの道を辿るのだ
        (『ここに言葉の闇夜が始まる』)

 しかし、『わたしは あの頃の情熱や.........』に移ると、ここには青春の日の思い出、青春を共にした友らの思い出が、それをなつかしむような調子と美しいイメージによって歌われているように思われる。

 藁くずと言葉だけの 気ちがいじみた世界
 わたしには 錯乱と生活の見さかいがつかなかった
   わたしのたどった 道ばたには
   とっぴな 草ぐさが 生えていた
 われらは みんな離ればなれになろうとも
 おお あの頃の友よ わたしが思い出すのは君らだ
   ふるえる わたしの思い出のなかで
   きみらは むかしながらの眼ざしをしている
             (『わたしは あの頃の情熱や............』)

 さて、「以前にもまして重要な場所」を占めている、愛の詩に移ろう。
                              (つづく)

(『アラゴン選集Ⅲ』 解説)

アラゴン写真
アラゴン 1937年





言葉がわたしの手を


<飯塚書店『アラゴン選集3』──詩集 未完の物語(一九五六年)>

モンマルトル

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政治弾圧
「政治弾圧」 Margarita Moncada作 1990年頃

<添付メッセージ>「私はマルガリータ・モンカダです。クーデターが起こったとき、私は12歳くらいの少女でした。最も強く印象に残っているのは、持っていた本をたくさん焼かなければならなかったことです。 ある時は本を燃やしているとヘリコプターが現れたので、火がついた錫の上に座って、見つけられないようにしなければなりませんでした。」