千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。



わたしのうち1

わたしの2
わたしのうち3
わたしのうち4
わたしのうち6


(『文学界』1955年10月号、『ひとを愛するものは』)

千曲川



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千曲川のほとり

(『民主長野』1985年3月17日)

*「千曲川べりの村で
*「絵はがき

ひとを愛するものは
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三鷹のお宅におじゃましたころ
                           中島荒太

 私が三鷹の大島博光さんのお宅を訪ねるようになったのは大島さんが詩集『ひとを愛するものは』で多喜二百合子賞を受賞されて以降のことであったと思う。それまでにももちろん詩人・翻訳家大島博光の名前は承知していたし、詩人会議の講演などでお会いしたこともあったが、しばしばお会いするようになったのは第十七回同賞受賞の一九八五年以降、つまり大島さん晩年の二十年ほどであった。
 当時私は「しんぶん赤旗」日曜版編集部所属の記者であった。受賞のインタビューのためにカメラマンとともに三鷹市下連雀のお宅に伺ったのが始まりである。編集部在職中はもちろんのこと、退職後もよくお訪ねした。
 大島さんはラグビーと釣りにことのほか関心を示されたが、私はスポーツも釣りも興味を持たなかったので、主としては時節の政治、社会の動きが話題になった。ネルーダ、マチャード、アルベルティ、ゴーシュロンの名前もしばしば耳にしたが、新聞の読者欄の投稿などをよく話題にされたのを覚えている。作りたての自作の詩を見せて感想や意見を求められることもあった。大島さんは誰よりもわれわれ素人の率直な感想を大事にされていたのではなかろうか。
 大島さんのお宅は三鷹駅からバスで二つ目の停留所で降りて二百メートルほどのところにあった。タ刻になると私たちは三鷹の駅の近くまで歩いて出かけた。特に決まった店があったわけではない。駅前のデパートの三階だったか、大衆的なレストランなどに入った。大島さんはそこで銚子を傾けながらタ食をとり、私はもっぱら酒の相手をした。
 「午後六時の男だよ、オイ」─大島さんは前歯の欠けた人なつっこい笑顔をつくりながら、そのように外食をされていたところをみると、奥さんの静江さんを亡くされてすでにかなりの年月が経ったころではなかったかと思う。静江さんを亡くされた当初は、まるで魂が抜けたような落ち込みようであった。ようやく気力も回復して『老いたるオルフェの歌』などまとめておられたころであったのだろう。
 レストランでの晩的、タ飯をすませた私たちは、また下連雀の家への道を戻って行った。ほろ酔い加減の大島さんは道路わきの喫茶店の中に若い女性たちを見かけると、ガラス越しに「ボン・ソワール」と挨拶の真似ごとをしたりして、上機嫌だった。『ひとを愛するものは』の出版記念会の二次会でのこと、詩人の土井大助氏が「今日も若い女性がいっぱいだったなあ。大島さんはどうして若い女性にあんなにモテるのかなあ」と羨ましそうにつぶやいていたが、大島さんの作品を読むと、その青年のような詩魂の若々しさが一つの魅力だ。海外の大詩人たちの詩法なども貪欲に吸収して独自の韻律の言葉が展開される。私もまた詩人のそうしたみずみずしい若さにひかれてあのころ三鷹のお宅へと向かったのであった。

(大島博光記念館ニュース40号)

二人
1985年春 多喜二・百合子賞を受賞した頃
青い空の

今月も盛り上がりました。うたごえのフィナーレ





明るさ いつまでも
ちいさな ぼくたちだけど

あの青い空のように
すみきった心になるように



一本の鉛筆

竹松さんが歌う「一本の鉛筆」
美空ひばりが広島平和音楽祭で平和を願って歌いました


一本の鉛筆があれば
私は あなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば
戦争はいやだと 私は書く

一本の鉛筆があれば
八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば
人間のいのちと 私は書く


生と死が地つづきの




(『詩人会議』1992年9月号)



みずからをはげます歌


みずからをはげます歌

(『詩人会議』1995年3月号)

ピンクバラ

高原学舎

高原学舎

高原学舎


(『狼煙』82号 2017年3月)

浅間山





冨森

冨森



(『狼煙』82号 2017年3月)

のろし

のろし
のろし

のろし

のろし

昨日行われた第70回解放運動無名戦士合葬追悼会(東京都港区・青山葬儀場)で、大野貞純さんが合葬されました。
治安維持法の犠牲になった貞純さんのことを本「九十歳のつぶやき」に書き、講演している妹の大野英子さんが「一生の仕事が終わった」と喜んでおられました。昨日は95才のご高齢ながら一人で会場に行かれたそうです。

皆目わからなかった事件が、支援された方の尽力でだいぶ分かってきたそうです。
昭和12年(1937年)9月、逓信省の雑役夫をしていた大野さんの家が特高の家宅捜索受けた。特高が探したのは大野さんが持ちだした文士たちの反戦の書類だったらしい。文士たち20〜30人くらいを一網打尽にするため。しかし見つからなかった。

埼玉県児玉で僧侶をしていた父親は、帰ってきた大野さんに家中の金をかき集めて5円わたし、長野の山へ逃げろといった。大野さんが送った荷を穴を掘って待っていて、荷がつくと全部燃やし、証拠隠滅した。
大野さんが命がけで持ちだした書類が見つからなかったため、文士たちは無傷だった。
大野さんはつかまれば拷問を受けて殺されると考え、軽井沢の霧積山で仲間の少女と自殺した。
大野貞純さんは合葬される治安維持法犠牲者の最後になるようです。

共謀罪が出されようとして緊迫している現在、大野英子さんは講演会にひっぱりだこだそうです。

*大野英子「兄を抹殺した治安維持法

合葬
博光が合葬された第60回合葬追悼式(2007年3月18日 日本青年館)


 誠実で、寛大で、お人好しのコミューンがぐずぐずしているあいだに、ティエールとヴェルサイユ政府は、コミューンを圧しつぶすために、陰険で、憎悪にみちた準備を着々とすすめていた。四月一日、ティエールは全国の知事や師団長や警務部長にあてて打電した。
 「パリでは、コミューンはすでに分裂し、いたる所にデマをまき散らし、公金を奪って濫費し、無能で動揺している。コミューンを忌み嫌うパリ市民は、一日も早く解放されることを待ち望んでいる。
 政府のまわりに結集した国民議会は、平穏裡にヴェルサイユで開会中である。ヴュルサイユには、フランスがかつてもった、もっとも立派な軍隊の一つが組織を完了している。」
 やがて労働者のパリに襲いかかる、この’立派’な軍隊は、ビスマルクの援助によるものであった。ビスマルクは、休戦条約の条項を破って、捕虜にしていたフランス兵をティエールに返してやる。四万に制限されていたパリの軍隊──ヴェルサイユ軍は十万を突破する。
 (第二次大戦においても、ヒトラーは多くの捕虜を、売国奴ペタンのもとに返してやった。返された捕虜たちは、ペタンの手先となって、レジスタンスの愛国者たちを追及し、弾圧する役割をひきうけたのである。)

 こうして四月二日、ヴェルサイユ軍のパリ進撃は、その火ぶたを切っておとし、フランスのブルジョアジーは、フランス人民にたいして、史上まれにみる残虐な弾圧戦争を始めたのである。とりわけ、五月二十二日から二十八日にいたる最後の七日間は、「血の週間」として知られている。パリケードの上で大量虐殺がおこなわれ、コミューンの多数の連盟兵(フェデレ)たちが銃殺されたペール・ラシェーズ墓地の壁は、「連盟兵(フェデレ)の壁」として有名である。
(この項おわり)

(『パリ・コミューンの詩人たち』)

あまバラ
 三月二十六日のコミューン選挙によって選ばれた国民議会の構成は、雑多なものであった。議員となったブルジョアおよび小ブルジョアの共和主義者たちは、初めはコミューンを支持していたが、コミューンがプロレタリアートに依拠した、まったく新しい政治形態をとりはじめるやいなや、コミューンから離れてゆく。
 「コミューンは、知性に富み、勇気にあふれ、信じられぬような誠実さをもった人々によって構成されていた。かれらは大衆のために、あらゆる生命の安全を守ることに心をくだき、それを自分たちの義務とした。」とリッシャール・ブロックは書いている。
 しかし、その「信じられぬような誠実さ」のゆえに、コミューンは決定的なあやまちを犯すことになる。

 マルクスは、クーゲルマンに宛てた一八七一年四月十二日付の手紙のなかに書いている。
 「……もし彼らが敗れるとすれば、それは彼らの『お人よし』のためにすぎない。まずヴィノアが、つぎにはパリの国民軍の反動的部分が自分で逃亡したあとでは、すぐにヴェルサイユへ進撃すべきであった。だが、せっかくの好機は、いらぬ遠慮のためにとりにがされてしまった。……第二の誤りは、(国民軍)中央委員会が、その権力を放棄してコミューンに席を譲るのが、早すぎたことである」(国民文庫版『フランスにおける内乱」一六七ページ)

 もう一つの決定的な誤りは、フランス銀行を接収せずに、これまた「誠実に」、そのまま手をつけずに放置しておいたことである。
 レーニンは『コミューンの教訓』のなかに書いている。
 「しかし二つの誤りが、輝かしい勝利の成果を、すっかり台なしにしてしまった。プロレタリアートは、中途で立ちどまった。すなわち、『収奪者の収奪』に着手するかわりに、彼らは、全民族的任務によって統一される最高の正義を国内に確立するという空想に心酔した。たとえば、銀行のような機関が奪取されないで、「公正な交換」などというプルードン主義者の理論が、まだ社会主義者のあいだで支配していたのである。第二の誤りは、プロレタリアートが寛大すぎたことである。すなわち、自分たちの敵を全滅すべきであったのに、彼らは、精神的に敵に影響をあたえようと努力し、内乱で純軍事的な行動がもっている意義を軽視し、断固としてヴェルサイユを攻撃してパリの勝利に栄冠をかざるかわりに、彼らはぐずぐずしていて、暗黒勢力を結集して五月の血の一週間を準備する時間をヴェルサイユ政府にあたえてしまったのである。
 だが、そのすべての誤りにもかかわらず、コンミューンは、十九世紀のもっとも偉大なプロレタリア運動の、もっとも偉大な模範である」(大月版『レーニン全集』第十三巻四九〇ページ)

 しかし、コミューンは、その七十二日間の存命ちゅうに、すばらしい事業を実行する。マルクスは書いている。
 「コミューンの偉大な社会的方策は、行動するコミューンそのものの存在であった。コミューンの個別的な諸方策は、人民による人民の政府のすすむべき方向を示すことしかできなかった……」(国民文庫版『フランスにおける内乱』九二ページ)
 レーニンは、マルクスの分析をさらに発展させていった。
 「コミューンは、プロレタリア革命によって『ついに発見された』、労働の経済的解放をなしとげるための形態である。」(国民文庫版『国家と革命』七四ページ)
(つづく)

(『パリ・コミューンの詩人たち』)

噴水

 三月二十八日、市庁正面の演壇を飾ったのは、赤旗であった。このことは、コミューンがプロレタリア革命の性格をもっていたことを、あらためて示している。一八四八年の「二月革命」においては、赤旗はまだ第二共和制のシンボルとはならなかったのである。
 まさに、赤旗はコミューンの象徴であった。コミューンの敗北後も、コミューンの思い出は、赤旗とともに人びとの記憶に残る。追放で、スイスにのがれたポール・ブルースはつぎのように赤旗をうたっている。

赤旗



(つづく)

(『パリ・コミューンの詩人たち』)

赤バラ




一八七一年三月一八日を


注 
(*1)『三〇スー』──連盟兵(フェデレ)たちの日給は三〇スーだった。
(*2)中央委員会──国民軍 Garde nationale 中央委員会は、一八七一年一月に創設された。 そのためにドイツ軍は、パリに入城するも、シャン・ゼリゼ通りまで来て引き返した。
(*3)『芽月(ジェルミナール)』──フランス共和暦第七月──三月二十一日から四月十八日までを指す。 ポティエが「芽月」という共和暦をここで使用したのは、『コミューン』の宣言が三月二十八日だったからである。
 
「パリは まるで子供のように うれしそうに/いまや 『コミューン』を宣言した」 というポティエの詩句は、歓呼をもってコミューンを迎えた人民の歓喜を、目に見えるように描いている。
(つづく)

(『パリ・コミューンの詩人たち』)

バラ園


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