パブロ・ネルーダ Pablo Neruda

ここでは、「パブロ・ネルーダ Pablo Neruda」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 アジアの旅・滞在

 一九二七年、ネルーダは友人の紹介でラングーン(ビルマ)駐在名誉領事に任命され、外交官生活に入る。外交官になった事情について、かれはこう語っている。「チリ人はみんな旅行好きで、航海好きだ。チリでは、みんなが外国へ行きたがる。わたしも外国へ出かけて行くうまい方法はないものかと探した。金がなかったからである。そのときわたしは、領事になったらいい、と教えられた。そこでわたしは外務省に出かけて行って、どこか、ポストをあたえてくれるように頼みこんだ。ある日、ある人がわたしに言った。
 ──領事になりたいというのはきみか? やさしいことだ。いっしょにきたまえ。──
 外務省のその事務室には世界地図が掛けてあった。わたしが赴任するように命じられた場所には、まさしく一つの穴がしるしてあった。わたしはあまりうれしくなって、それがどこなのか、尋ねることも忘れてしまった。──その穴のしるしてあった場所は、ビルマのラングーンだったのだ。
 一九二七年六月一四日、ネルーダはラングーンに向けてサンティアゴを発ち、ブェノス・アイレス経由でリスボンまで「バーデン」号に乗船する。七月一六日マドリードに着き、二○日にはパリを訪れ、それからマルセイユへ行き、そこからふたたび船に乗ってラングーンへの旅に出る。初めて訪れたパリについてはつぎのように歌われる。

  パリ 魅惑的な薔薇
  蜘蛛の巣のような古い建物が
  銀色に輝いてそこにあった
  流れる河の時間と
  ノートル・ダムにひざまずく時間のあいだに
  さまよう密蜂の群
  人類家族にひらかれた都市(みやこ)……      (『イスラ・ネグラの思い出』)
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』

パリ
オペラ・コミック座

 アルベルト・ロハス・ヒメネス

 「クラリダド」をとおし、また学生詩人たちのボへミヤン生活をとおして、ネルーダはたくさんのすぐれた若者たちと知り合いになった。そのなかから、詩人アルベルト・ロハス・ヒメネスの肖像を選んでみよう。ネルーダは書いている。
 「わたしが政治的にも文学的にも戦闘的活動家として参加していた雑誌『クラリダド』では、ほとんどすべてがアルベルト・ロハス・ヒメネスによって指導されていた。彼はやがてわたしの同世代のもっとも親しい仲間のひとりとなった。彼はつば広の帽子をかむり、大貴族のようにもみあげを長く伸ばしていた。彼は貧乏のなかで金の鳥のように踊っているように見えたが、その貧乏にもかかわらず、彼はおしゃれで美少年で、その尊大な態度、多くの紛争についての即座の理解力、あらゆる重大な事柄についての意欲にみちた楽しい知識などによって、新しいダンディスムのあらゆる資質を身につけていた。本や若い娘のこと、酒や船のこと、旅程や群島のことなど、彼はあらゆることを知っていて、ごく小さな点までそれを利用した。彼は永遠の浮浪少年としての、「自分の才能や魅力を浪費する専門家としての、不遜な態度で文学界を動きまわった。彼のネクタイは、全体的な貧乏のなかで、つねに輝かしい豪奢の見本だった。彼は絶えず家や町を変え、この流儀で、彼ののんきな陽気さ、根づよい自然なボへミヤン振りは数週間のあいだ、ランカグアやクリコ、ヴァルディヴィアやコンセプションやヴァルパライソの不意をつかれた住民たちを喜ばせた。彼は行きつく先に詩やデッサンやネクタイや、愛や友情を残して、やってきたようにまた立ち去った。……
 彼はアポリネールやスペインの極端派(ウルトライスタ)の理論にしたがって、最新流行の詩を書いた。彼は「アグ」という新しい詩の流派をつくったが、その名は彼によれば、人間の最初の叫び、生まれたばかりの赤子の最初の詩句だという。……
 ……数年後、チリでももっとも雨の多い冬、ロハス・ヒメネスは死んだ。彼はサンティアゴのまんなかのある酒場にいつものように上着を残してきた。あの南極のような冬のなかを、彼はシャツひとつで町を横切って、姉の住んでいたキンタ・ノルマル公園まで辿り着いた。二日後、気管支肺炎がわたしの知っていたもっとも魅惑的な人間のひとりをこの世から連れさった……」

 ネルーダはこのようにロハス・ヒメネス像を描きながら、その早い死などをのぞいて、そのいくらかはネルーダ自身の自画像をもそこに描いたのではないか──わたしにはそう思われてしかたがない。
 ネルーダがロハス・ヒメネスの死を知ったとき、彼はバルセロナにいた。さっそく彼はヒメネスへの挽歌を書く。

   いまアルベルト・ロハス・ヒメネスが飛んでくる

  ひとをびっくりさせるペンのなか
  夜のなか もくれんのなか 電報のなか
  南東の海風のなかを
     きみはいま飛んでくる

  墓の下 灰の下を
  凍った貝殻の下を
  最後の地上の水の下を·
     きみはいま飛んでくる

  血を越え 骨を越えて
  パンを越え 葡萄酒を越えて
  火を越えて
     きみはいま飛んでくる

  …………
 
  おお 海のヒナゲシよ わが兄弟よ
  おお蜜蜂に蔽われたわがギター作りよ
  きみの髪のなかの多くの影をわたしは拒む
     きみはいま飛んでくる

  …………
   きみの翼と静かな飛翔がきこえる
  死者たちの波がわたしにうちよせる
  湿った盲目の鳩たちのように
     きみはいま飛んでくる

  きみはいま飛んでくる たったひとりで
  死者たちのなかをひとりで 永遠にひとりで
  きみはいま飛んでくる 影もなく名もなく
  砂糖もなく 口もなく バラの木もなく
     きみはいま飛んでくる        (『地上の住みか』)

新日本新書『パブロ・ネルーダ』

ヒメネス
Alberto Rojas Jiménez (1900 - 1934)


 当時、サシティアゴの学生連合では、毎年、謝肉祭(カーニバル)にも似た春祭りが行われていた。祭りは詩人による詩の朗読によって幕を切って落すことになっていた。その詩人を選ぶために詩のコンクールが行われた。一九二一年一〇月、ネルーダはコンクールに「祭りの歌」という詩を送って、みごとに一等に選ばれ「春祭り賞」と賞金を手にする。ネルーダは祭りの模様をこう書く。

  祭りの歌……十月
  春の授賞
  ひとりのピエロがおごそかな声で
  わたしの詩を狂気じみたしぐさで解きほぐす
  そしてジャスミンと仮面たちのなかの
  黒い剣の刃のように痩せたわたしは
  またしてもひとりぼんやりと
  南風の憂愁を抱いて群衆をよぎってゆく
  鈴が鳴り色テープのとぶ下を
  それから詩から詩へ
  行から行へと 家のなかで街なかで
  新しい詩集が芽ばえる
  女と海の二○の波のような
  塩の味がする二○の詩
  ……
  そして愛からもぎとられたばかりの
  くちづけと孤独のあいだで
  ゆっくりと眼ざめた木のように
  葉を一枚また一枚と重ねて
  荒れ狂う嵐のような小さな詩集が生まれた……
         (「一九二一年」─『イスラ・ネグラの思い出』)

 「祭りの歌……十月」というのは、南極圏に近いサンティアゴでは、九月、十月が春の季節なのである。この詩には、つづいて書かれる『二○の愛の詩』の生成が語られている。
(この項おわり)

新日本新書『パブロ・ネルーダ』

クラリラド
ネルーダが18〜20歳にかけて多数の詩やエッセイを発表した学生連合の機関紙『クラリダド』
(学生連合主催の詩のコンクールで1位になった『祭りの歌』が掲載されている)
 「……一九二○年、テムコにもたらされたニュースはわたしの世代に血なまぐさい傷跡を残した。寡頭制の息子たちの『黄金の青年』団は、学生連合の事務所を襲撃して破壊した。植民地時代から金持に奉仕してきた警察は、襲撃者を投獄せずに、襲撃された者を投獄した。チリの詩の若い希望であったドミンゴ・ゴメス・ロハスは拷問をうけて独房で発狂し死んだ。このような犯罪の反響は、小さな国の国内的状況においては、のちにグラナダにおけるフェデリコ・ガルシア・ロルカの暗殺がもつことになる反響と同じほど深く、同じほど広いものであった……」(「回想绿」)
 この悲劇は、その時代のチリにおける政治的状況の鋭さを端的に物語っている。一九世紀末から、ラテン・アメリカには、ヨーロッパ資本にかわって、アメリカ帝国主義の影が重くのしかかってきた。チリにおいても、アメリカ独占資本と、人口の一○パーセントにもみたない、ひとにぎりの特権グループ(寡頭制)とが、国民所得の半分を獅子の分け前として分けあっていた。他方、スペインの植民地時代の封建的遺制である古い大土地所有制のために「大農場でたらふく満腹している」(ネルーダ)少数の大地主にたいして、一方では何十万という農民が土地をもたず、何万という自作農もまた十分な土地をもたないという鋭い矛盾は、人民の貧困と悲惨をつくりだし、人民の闘争を呼びおこさずにはいなかった。一九二〇年になると、立ちあがるラテン・アメリカ人民の数はふえるとともに、独立・解放をめざす闘争はいよいよ激しさを加える。一九二一年、メキシコではミチョアカーン州にソヴェトが結成される。キューバでは、アメリカ帝国主義の干渉に反対して、スト、デモ、蜂起が行われる。チリ、ブラジル、ニカラグアにおいても、アメリカの干渉と圧力にたいして、人民のあいだに抵抗、闘争が強まってゆく。……
 このような歴史的状況のなかに、サンティアゴの学生連合とその「クラリダド」は位置していた。
 「学生連合の事務所には、反抗的学生のもっとも有名な面々が出入りしていた。彼らはイデオロギー的には、その頃の強力なアナーキスム運動にむすびついていた。……
 おなじ頃、すばらしい活動的な指導者ルイス・エミリオ・レカバレンはプロレタリアートを組織し、労働組合連合をつくり、国じゅうに九つか一〇の労働者新聞を創刊した。雪崩のように続発するストライキが体制をゆさぶった。わたしは毎週「クラリダド」に書いていた。「われわれ学生は人民の要求を支持し、サンティアゴの街頭で警官の警棒になぐられた。首都にはクビを切られたばかりの、数千の硝石と銅の労働者たちがやってきていた。デモとそれにつづく弾圧とが、国民生活を悲劇的にいろどっていた。
 その頃から、断続的に、政治がわたしの詩と生活のなかに入ってきた。わたしの詩のなかで、街頭に扉を閉ざすことはできなかったし、同じように、若い詩人のわたしの心のなかでは、愛や生活、悦びや悲しみに扉を閉ざすことはできなかった」(『回想録』)
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

花

 学生連合と『クラリダド』

 こうしてサンティアゴにおけるネルーダの学生生活が始まる。つば広の帽子をかむり、マントを身につけた、その頃のネルーダの写真は、学生詩人のボへミヤン姿をよくしめしている。彼は多くの学生詩人たちといっしょに、夜どおし酒場で詩を論じたり歌ったりした。
 その頃、ネルーダはフランスの象徴派の詩人アルベール・サマンを読み、ボードレールやランボオの詩に熱中する。
 「……そのころ、うつくしいフランス詩の詞華集(アントロジー)が出て流行となり、みんなが争うようにして手に入れた。わたしは貧乏で買えなかったので、ひとから借りて書きうつした。……大学における文学生活はわたしを圧倒した。わたしのような田舎者にとって、フランスの詩人をよく知っていて、ボードレールを語るような人たちに会うことは、大きな魅力だった。わたしたちは夜を徹してフランスの詩人たちを論じあった……」

 しかし、ネルーダはフランスの詩にばかり傾倒していたのでなく、スペイン語の詩人、とりわけニカラグアの詩人ルベン・ダリーオなどにも傾倒していたのである。
 ルべン・ダリーオは、ラテン・アメリカにおけるモダニスムの詩運動の旗手であり、このモダニスムの時代は、ダリーオの『青空』が刊行された一八八八年から、かれの死んだ一九一六年の間とされている。自由主義の文学上の子であるダリーオのモダニスムは、卑俗化したロマンティスムの無趣味、粗野に反対して、繊細な手法、豊かな形式、新しい韻律、魅力ある大胆さ、これまで表現されたことのない感動などをもたらした。このモダニスムは、フランスの高踏派(パルナシアン)や象徴主義から影響をうけると同時に、スペインの詩的伝統からも霊感をうけていた。たとえば、ゴンゴラと一七世紀バロック、一九世紀のグスターボ・アドルフ・ベッケルなどの伝統をうけつぎ、復活させた。その特徴は貴族的であり、世紀末的な、芸術のための芸術の追求であった。しかし、このモダニスムの構築物も第一次大戦によって粉砕され、その紋切型のスタイルは次第に衰えてゆく。
 他方、第一次大戦後のヨーロッパでは、モラル、思想、文学芸術上の混乱と危機の時代を迎え、この混乱と危機を反映して、立体主義、未来主義、ダダイスムなどの前衛的な運動が相ついでおこり、一九二四年にはブルトン、アラゴン、エリュアールなどによるシュールレアリスムの運動がおこってくる。これらの運動は、戦前のブルジョワ的なモラル、思想、文学芸術にたいする反抗、否定としておこったものである。他方、同じ頃、フランスの共産主義者アンリ・パルビュスは『クラルテ』(光明)誌に拠って、自由、反戦平和をめざす社会主義的ヒュマニスムの運動を展開し、つよい影響を与えていた。アルゼンチンやチリで発行された『クラリダド」はその影響によるもので、新しい革命的な運動を展開していた。ネルーダはすでにテムコの中学生だった時、「クラリダド」の通信員で、その二、三〇部を仲間たちに配布していた。一九二○年に起った学生連合の悲劇をネルーダは回想して書いている。
(つづく)

新日本新書『パブロ・ネルーダ』

ネルーダ
サンティアゴの学生時代のネルーダ

 サンティアゴへ

 一九二一年三月、ネルーダは教育学院でフランス語教師の課程をとる決意をかためて、夜汽車でサンティアゴに向かう。

  おお長い夜汽車よ
  たびたび 南から北へ
  濡れたポンチョや穀類や
  泥で固くなった長靴のあいだを
  三等車で おまえは
  地図をくりひろげて行った
  きっとそのときだ ぼくが
  大地のべージをめくり始め
  数キロの煙や沈黙のひろがりを知ったのは

  ぼくらはロータロを通り過ぎ
  柏の樹々や小麦畑を通り
  ……
  突然 明るい鉄のヴァイオリンのように繊細な
  マイエコの高い鉄橋が現われ
  それから夜になっても なお
  夜汽車は走り 走りつづける
  葡萄畑のあいだを
  
  世界はずっと穏やかになり
  うしろを振り返ってみると
  雨が降っていて
  ぼくの少年時代は消えうせていた
  汽車は金切声をあげて
  首都のサンティアゴ・デ・チリに入った
  そのときぼくは樹々を失ったのだ
  ……
  ぼくも儲けたり損をしたりする群衆の中に入り
  ぼくを迎えてくれないべッドに横たわって
  くたびれて根株のようにぐっすり眠った
  眼が覚めると
  雨の悲しい音を感じた
  何かがぼくをぼくの血からひき離した
  びくびくおびえながら街通りに出たとき
  ぼくから血が流れていたので 知ったのだ
  ぼくの根っこが断ち切られたことを   (「夜汽車」─『イスラ・ネグラの思い出』)

 ここには、夜汽車に乗って故郷のテムコからサンティアゴに出てきた一七歳のネルーダの離郷の思いが歌われている。テムコの森や樹々や雨との別離、故郷から「根っこが断ち切られた」という思いは、その身から「血が流れてい」るようにも思われた。しかし、ネルーダにおけるテムコの森や雨の原体験、原風景はむろん消えさることはなく、生涯ネルーダの心から離れることはなかった。それは、ずっと後年になってもくりかえしテムコの森や雨や、そこでの少年時代の思い出を詩にうたい、「回想録」に書いていることからもうかがわれる。……
 サンティァゴに着いたネルーダは、ひとまずマルーリ街五一三番地の下宿に落ちつく。
 「マルーリ街──わたしはバルコンに座って、毎日、日ぐれの断末魔の色を見ていた。空は緑と紅に飾られ、悲しげな郊外の家々の屋根は天の火事で不気味に染められていた。
 その数年間、学生下宿に住むことは、まったく死ぬような空腹をかかえていることだった。わたしは以前にもましてたくさん書いたが、ほんの少ししか食べなかった……」
 マルーリ街で見たたそがれ、タ映えは、一九二三年に刊行される詩集『たそがれ』へと結晶してゆく。

  それから わたしはサンティアゴに着いた
  ちょっとばかり霧や雨に濡れて
  なんという街通りだったろう
  ガスや煉瓦やコーヒーのひどい匂いのなかに
  二一年の流行がはびこっていた
  学生たちのあいだを わたしは何も分らずに通って行った
  自分のなかの壁を高くしながら
  自分の哀れな詩のなかに 失われた木の枝や
  水滴や 消えさった月を探しながら
  ……

  炎のなかで歌いながら
  わたしは大人の年頃になった
  みんながわたしを迎えてくれた
  わたしの仲間たちは 夜のもてなし役で
  わたしといっしょに居酒屋で歌った
  わたしは彼らのおかげで 優しさ以上のもの
  春以上のものをもらった……  (「旅の仲間たち」〈一九二一年〉─『大いなる歌』)

(この項おわり)

新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

森

 ミストラルとネルーダと

 二〇世紀のチリは二人のノーベル賞詩人を生んだ。一人は一九四五年に受賞した女流詩人ガブリエラ・ミストラルであり、もう一人は一九七一年に受賞したパブロ・ネルーダである。
 少年のネルーダは、テムコに教師として赴任してきたミストラルに会っている。一八八九年生まれのミストラルはネルーダより一五歳としうえであった。
「そのころ、テムコに、一人の背の高い婦人がやってきた。とても長い服を着、踵の低い靴をはいてきた。女学校の新しい校長だった。南部の町から、マゼラン海峡の雪のなかからやってきたのだ。名前はガプリエラ・ミストラルといった。
 彼女が町の通りを裾を引きずるような長いドレスを着て通るのをわたしはよく見かけたが、わたしには彼女が恐かった。だが、彼女を訪問しに連れて行かれたとき、彼女が親切ないい人だということがわかった。アラウコ族の美しい壺のようにインディオの血の勝った赤銅色の顔のうえに真っ白な歯からやさしい微笑みがこぼれると、部屋中がばっと明るくなるのだった。
 彼女の友人になるには、わたしはあまりに若かったし、あまりに内気で、あまりに引っ込み思案だった。ごくたまにしか彼女には会わなかったが、それでもけっこう、そのたびに彼女から贈られた数冊の本をかかえてきた。それはいつも、彼女が世界文学のなかでもっともすばらしいものだと考えていたロシアの小説だった。わたしは言ってもいい、ガブリエラこそがロシアの小説家たちのあの恐るべき小説世界のなかにわたしをみちびき入れ、トルストイ、ドストエーフスキー、チェーホフはわたしのもっとも愛読する作家たちになった。彼らはいまもわたしの伴侶である。」(『回想録』)
 後年、この二人の詩人はよき友だちとなる。
 ミストラルもまたチリ北部の人民のなかから出てきた。彼女の詩は人民の現実生活とむすびついたメッセージであった。「分けあう」という有名な詩で彼女はこう書いている。

  もしもほかのひとが自分の腕を
  ばらばらに もぎとられたなら
  どうか わたしの腕を取って下さい
  その渇き 飢えがわたしに分るように

 奪いとられた人たちに、詩人は自分の眼、耳、脚、腕を与えようと言っているのである。ここにミストラルの人民的な連帯の精神がみごとに歌われている。
 のちにネルーダがゴンサレス・ヴィデラのチリ政権から追跡されていた頃、彼は亡命してイタリアにいたことがある。そのとき領事になっていたミストラルは、ネルーダをかくまわないようにという勧告を受けとった。彼女はそれを拒絶したのである。「スペイン語を話す最大の詩人にたいして、友人にたいして、迫害されている最後のチリ人にたいして、どうしてわたしの家の扉を閉ざすことができましょう……」
 こうして、世界平和のためにたたかい歌った彼女もまた追放されることになる。チリの雑誌、新聞、とりわけ北米系新聞『エル・メルクリオ』紙から締め出されることになる。
 また一九五二年、ネルーダが亡命先から祖国へ帰ることを妨害しないようにと、政府に嘆願した最初のひとこそミストラルであった。
 一九六四年、ネルーダはミストラルを追想して書く。
「……チリの女流詩人ガブリエラ・ミストラルがその死の数年前にノーべル文学賞を獲得したことは、全世界に知れわたっている。
 この賞は一人の世界的なすぐれた文筆家の存在を認めたのだが、八○○万人のチリ人にとっては、詩人は他の多くの意味あいをもっていた。
 まず第一に、民衆のなかの一人の女性がとりあげられ、そのことがこの共和国について語るには十分なことであることを、わたしたちは知らなければならない。……
 一世紀以上も前から、ラテン・アメリカの保守的な強大な勢力は、下層の民衆を暗い地下室におしこめておくよう尽力した。大勢の文盲がいる。小学校にすら子供を通わせることは、ここの人びとにとっては難題である。……
 ガブリエラ・ミストラルは地下からはい出すことができた。膨大な数にのぼる貧民のなかで無知のままでいるには、彼女はあまりにも才にひいでていた……。
 重要なのは、民衆のなかのこの少女が、わたしたちの時代の意識のなかに詩の形をとってはいりこみ、その死後もチリ人の生活に中心的な役割をはたし続けているということである……チリでは彼女は民衆に膠着する人物なのだ……」(M・アギレ、松田忠徳訳『パプロ・ネルーダの生涯』新日本出版社)
 多くのことがミストラルとネルーダを結びつけた。こうして一九五七年、ミストラルの死に際して、迫害されたこの詩人の死に、ネルーダは万感をこめて「一○○の愛のソネット」のひとつをささげている。

    第五九番めの歌─G・Mに

  生と死との おんなじ執拗な影に
  追いたてられた 哀れな詩人たち
  彼らはいま 冷たい豪華さに包まれて
  儀式に葬儀の歯にひき渡される

  いまや 石ころのように哀れなものとなり
  彼らは 華やかな馬のうしろに横たわり
  ついに出しゃばりどもに みちびかれて
  仲間たちの間の 安らぎのない眠りへと赴く

  昔も今も 死者は死んだと信じて
  人びとは 葬儀をみじめな宴会(うたげ)に変える
  七面鳥や豚や追悼演説者でもって

  彼らは彼女の死を待ち伏せ それから侮辱した
  彼女はもう口を閉じていたから その歌で
  彼女はもう答えることができないから     (『一○○の愛のソネット』)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)


ピース

新日本新書『パブロ・ネルーダ』

 目 次 

1. 詩人は遠くからやってきた
2. テムコの森と雨と
3. 最初の詩
4. ミストラルとネルーダと
5. サンティアゴへ
6. 学生連合と『クラリダド』
7. アルべルト・ロハス・ヒメネス
8. 『二○の愛の詩と一つの絶望の歌』
9. アジアの旅・滞在
10. 心のなかのスペイン
  ・スペイン共和国
  ・ケヴェード
  ・緑の馬
  ・スペイン戦争
  ・「そのわけを話そう」
  ・「ロルカの思い出」
  ・帰国
11. メキシコ
12. 帰国・人民のなかへ
13. 『大いなる歌」
  ・アステカ
  ・マヤ・チチェン・イッツア
  ・インカ
  ・「マチュ・ピチュの高み」
  ・征服者たち・インカの最期
  ・「解放者たち」
  ・「裏切られた砂」
  ・「きこりよ めざめよ」
14. 亡命・ヨーロッパで
15. 『基本的なもののオード集』
  ・原子へのオード
  ・夫婦へのオード
  ・単純素朴な人間のオード
  ・春のオード
16. 『とりとめのない放浪』
17. 『一○○の愛のソネット』
18. 『ホアキン・ムリエタの栄光と死』
19. 『世界の終り』『炎の剣』
20. 駐仏大使・ノーベル文学賞受賞
21. 『ニクソンサイドのすすめとチリ革命の賛歌』
22. アジェンデの死とネルーダの死と
  心のなかのチリ
23. あとがき


表紙
1996年11月 初版
 あとがき

 この春ごろ、『イル・ポスティーノ』(郵便配達人)というイタリア映画が封切られた。ネルーダ(フィリップ・ノワレ扮する)が──つまり共産党員詩人が主役の一人を演じる、めずらしい映画である。ヨーロッパに亡命中のネルーダはイタリアの小さな島に安住の地を求めてやってくる(じっさい、一九五一年、彼はイタリアのカプリ島に滞在している)。そして島の郵便配達人マリオ(マッシモ・トロイージ扮する)との交友が始まる。大詩人と素朴な若者との間の師弟としての友情、暗喩の講義による詩の手ほどき、画面にひびく詩と波の音、マリオの恋、共産党員となったマリオの死……すべてが美しい海を背景に詩情ゆたかに、繰りひろげられる。いわば、詩と友情と愛がこの映画のモチーフであり、素朴な若者が詩人にみちびかれて共産党員へと成長してゆく、これがこの映画の主題(テーマ)である(チリの作家アントニオ・スカルメタの原作では、物語は、チリの太平洋岸にあるネルーダの家「イスラ・ネグラ」で展開するが、映画では、舞台はイタリアの小さな島に移されている)。
 さて、この映画はたくさんのひとびとの支持を獲得して、ロングランを重ねたという。ソヴェト体制の崩壊後、反動側によって「社会主義」の破産が叫ばれているなかで、この映画が多くのひとびとの支持を得たことは極めて意味深い。氾濫する暴力、犯罪、虐殺の映画にうんざりした観衆にとって、この映画はいわば人間回復の場でもあったろう。そしてそれは、ネルーダをとおして、社会主義の精神、思想、詩芸術の力づよい生命力、魅力にみちた有効性が再確認されたということでもあろう。

 スペイン市民戦争の火と血のなかで書かれた『心のなかのスペイン』から、アメリカ大陸の歴史と闘いをうたった『大いなる歌』を経て、最後の悲壮な『チリ革命の賛歌』にいたるまで、ネルーダは一貫して人民のなかに立った、人民のたたかいの歌い手であった。その長い道のうえには、またたくさんの薔薇の花花、ヒナゲシの花花──愛の詩が敷かれている。かれは革命詩人としてよりは、むしろ愛の詩人として広い読者をもっているかも知れない。しかし、ネルーダにおいては、愛と革命とはひきはなしがたく結びついている。他者へのまなざし、思いやりなしには、愛もなければ、革命もないからである。

  そのためだ わたしがきみと連れだってここにいるのは
  何ものにもましてすばらしいチリのためだ

  太平洋のためだ 太平洋にいるすべての漁師たちのためだ
  鴬のような子どもたちのパンのためだ

  よき飲み友だちのためだ 女友だちのためだ
  すべての国の すべての人民のためだ

 軍部ファシストによるクーデターと闘いながら、詩人は無念にもたたかい倒れた。しかし、その力づよい直接的な詩は、世界じゅうの人びとに呼びかけ、ひとびとを励ましつづけるだろう。
       一九九六年十一月

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

ネルーダ新書カバー

人民の詩人ネルーダ──没後10年に際して
                              大島博光

 常にチリ人民に想いを馳せ
 一九七三年九月十一日、ファシスト・ピノチェットがチリ人民を血の海に投げこんで、人民連合政府を圧殺してからもう十年になる。しかし、ふたたび立ち上がったチリ人民は早くもピノチェットのアメリカ製の台座を激しく揺さぶっている。
 パブロ・ネルーダは、ピノチェットの権力奪取からまもない、九月二十四日に死んだ。彼もまた、アジェンデのように、ヴィクトル・ハラのように、死んだと言っていい。ネルーダは最後まで詩を武器にして、ファシストに痛撃を加えた。彼はファシストの暴虐暴行を眼の前にして、怒りと苦悩によって悶絶した。ネルーダは、おのれのことしか語らない詩人としてではなく、つねにチリ人民に想いを馳せ、チリ人民とともにたたかった詩人として死んだ。ネルーダの生がチリ人民に結びついていたように、彼の死もまたチリ人民に結びついていたのである。
 過日ひらかれたチリ人民支援集会で、チリ人民運帯日本委員会の作成した映画「ベンセレモス」をわたしは見た。そのなかにネルーダの葬式の場面が映し出された。ファシストどもの銃剣の前で、集まった参列者の群のなかから、期せずして「インターナショナル」の歌ごえが湧き起こるシーンである。それはわたしにとってたいへん感動的だった。わたしはその歌の由来を思い出した。およそ百年前、パリ・コミューヌを血の海に沈めたベルサイユ反動軍が、さらにパリの街の一軒一軒をしらみつぶしにして、コミューヌ戦士を追求し狩りたてていた時、詩人ウージェヌ・ポチエは隠れ家にかくれて「インターナショナル」を書き、コミューヌの再起を呼びかけたのだった。その歌が、ここネルーダの葬式の場面にうたわれたのは、やはり感動的だった。そして「インターナショナル」がこれほど感動的に歌われた場面もめずらしいであろう。

 労働者への友愛のやさしさ
 わたしはさいきん、「大いなる歌」のなかの「遺言」という詩を読みなおしてみた。

 わたしは残していこう
 銅山と 炭坑と 硝石工場の労働組合に
 イズラ・ネグラの海べにあるわたしの家を
 しいたげられた息子たちが
 そこで その身をやすめてくれるように
 傷ついた ひとたちが
 わたしの寝床で 眠ってくれるように
 ……
 わたしは 残していこう
 アメリカの 新しい人たちに
 わたしが世界の隅ずみで集めて 愛読した
 印刷もりっぱな古い本を
 新しい詩人たちは いつか
 過去のとぎれた しわがれた詩法の上に
 明日の意義をつむぎあわせてくれるだろう
 そうして新しい詩人たちが
 マヤコフスキーのなかに
 のぼってゆく星を見いだしてくれるように
  (角川書店版『ネルーダ詩集』)

 おのれのことしか語らない詩人だったら、どうしてこんなやさしい友愛のことばを銅山労働者におくり、新しい詩人たちに「のぼってゆく星」をうたうように呼びかけることができよう。

 消しさることのできない火
 ところで、このイズラ・ネグラの家は、ファシストの兵隊どもの土足に踏み荒され、ゴンゴーラやケヴェードなどのスペイン古典を始めとする多くの蔵書は持ちさられ、あるいは焼き払われたのである。しかし、ネルーダの鳴りひびく歌と愛を焼き払うことはできない。ネルーダがチリ人民におくった励ましと火は、だれもこれを消しさることはできない。
 ネルーダが死んだ時、スペインの大詩人、ラファエル・アルベルティは、「心のなかのチリ」を書いて、ネルーダに贈った。この題名には、スペイン戦争の時ネルーダが書いた詩集「心のなかのスペイン」にたいする返礼がこめられているように思われる。

 おまえらは眠れぬだろう 剣をもった悪党ども
 血まみれの爪をした夜の鴉ども
 おまえらは眠れぬだろう なぜなら
 ネルーダの気高い歌 愛情にみちた情熱
 山の峯をも越える あの高邁(こうまい)さは
 いつか チリ人民とひとつになって
 おまえらの息の根を止めるだろう
 おまえらは眠れぬだろう なせなら
 だれひとりとして 眠らないから
 おまえらは眠れぬだろう なぜなら
 ただ死だけが おまえらの勝利だから

 このアルベルティの予見、予言は、十年後のこんにち早くもあかしだてられつつある。そしてネルーダは守護神のようにチリ人民のなかに生きつづけるであろう。   (詩人)

(『赤旗』1983.10.17)

*「心のなかのチリ

ネルーダ


    逃亡者 Ⅴ


  またあるとき ある夜
  おれはずっと遠くへ行った
  海沿いの山なみを越え
  ひろい海べをとおって 太平洋岸に出て
  曲りくねった道をとおり
  細い路地や行きどまりの道をとおって
  裏通りや袋小路をとおって
  ヴァルパライソまで行った
  おれは ある舟乗りの家にはいった
  舟乗りの母親がおれを待っていた
  「わしはきのうまで何んにも知らなかったす」
  と母親はおれに言った
  「せがれに言われて ネルーダという
  名まえをきいて わしはぶるっと身ぶるいしたす
  わしはせがれに言ったす──わしらに
  どんなもてなしができるべ?──
  <あのひとは おれたち貧乏人の味方だよ>
  と せがれは答えたです
  <あのひとは おれたちの貧乏ぐらしを
  見さげたり さげすんだりなんかしないさ
  あのひとは おれたちの暮らしをよくするために
  たたかっているんだ>
  わしはせがれに言ったです それじゃ
  この家はもう その方の家も同然じゃと」

  その家のなかで おれになじみなものは何もなかった
  おれは さっぱりとしたテーブル掛けを見た
  水差しは ここの人たちの生活のように曇りがなかった
  そのひとたちは 暗い夜のなかから
  水晶の翼のような腕をひろげて
  おれをむかえてくれたのだ
  窓べによると ヴァルパライソが
  ふるえる千のまぶたを開いていて
  夜の潮風が口にあふれた
  丘には たくさん灯(ともしび)がともり
  海べの月のひかりが波まに揺れ
  くらやみは みどりのダイヤモンドをちりばめたように
  すばらしかった
  おれはやっと ひと息いれて
  身を休めることができた
  テーブルには パンやナプキン
  ぶどう酒や水が しつらえられ
  やさしい心のこもった
  よい匂いのする地の幸(さち)に
  したたかなおれの眼にも涙がにじんだ

  このヴァルパライソの窓べで
  おれはいく日かの昼と夜をすごした
  おれの世話になった この家の舟乗りたちは
  航海にでる船をさがしに行ったが
  たいてい裏切られて帰ってきた
  アトメナ号にも スルタナ号にも
  乗りくむことができなかったのだ
  かれらはそのわけをこう話した
  「おれたちが 親方どもに袖の下をつかっても
  ほかの連中は もっともっと握らせるんです……」
  サンチアゴの宮廷のように
  すべてが腐っていた
  ここでは 署長や小役人の財布が
  口をあけていた
  大統領の財布ほどには大きくなかったといえ
  それは 貧乏なひとたちの骨のずいまでしゃぶっていた
  哀れな共和国よ おまえは
  ビデラの盗(ぬす)っとどもにむちうたれ
  おまわりに ひっぱたかれて
  道をひとり吠えてゆく牝犬(めすいぬ)のようだ
  ゴンザレス化された 哀れな国民よ
  おまえは ぺてん師どものべてんにかけられ
  密告者どもの汚れた手におちて
  街角で たたき売られた
  哀れな共和国よ
  ひとりの男が おのれの娘を売りはらい
  おのれの祖国を傷つけ 唖(おし)にし 手錠をかけて
  外国人の手に売りわたしてしまった
  二人の舟乗りは帰ってくると
  バナナや食糧をつめこんだ麻袋をかついで
  また出かけていった
  波のしぶきや 海でたべるめしや
  ひろびろとした沖の空などをなつかしみながら

  ひとりぼっちの日 海は遠のいた
  そんなときは 丘にくりひろげられている
  生活の光景を眺(なが)めた
  どの家もどの家も 丘にしがみついていて
  そこにヴァルパライソが脈うっていた
  たくさんの人口で
  あふれんばかりの高い丘の斜面
  青や赤や ばら色に塗られた扉
  すりへった鋸(のこぎり)の歯のような階段
  重なりあった貧しい軒
  いまにも崩れ落ちそうな家家
  すべてのものを塩からい網でつつむ霧や煙
  谷あいにやっとしがみついている木木
  あばらやの軒下につるされた下着類
  船から鳴りひびくしゃがれた汽笛の音
  息吹く潮風 流れる霧
  船の騒音やぎわめきのいりまじった海の声
  それらすべてが 新しい着物のように
  おれのからだを包んだ
  おれは 濃い霧と
  丘のうえの貧しい村に見入っていた

  (『ネルーダ詩集』角川書店 S47)

海

 アルメリア

司教のまえの料理皿 ひび割れた苦(にが)い皿
鉄のかけらや 灰や 涙にみちた皿
うめき声や 崩れ落ちた壁のかけらでいっぱいの皿
司教のまえの料理皿 アルメリアの血のついた皿

銀行家のまえの料理皿 幸福な南部の
子どもたちの頬をのせた皿
大水と廃虚と恐怖にみちた ぎらぎらした皿
断ちきられた光明と 踏みつぶされた頭をのせた皿
黒い皿 アルメリアの血のついた皿


毎朝──きみら生涯 おびえおののく朝ごと
食卓の上に湯気をたてる熱いその皿を見るだろう
きみらは 華奢(きゃしゃ)な指でちょいと皿を遠のけ
もう二度と見まいとし気にかけまいとするだろう
     
きみらは パンと葡萄(ぶどう)のあいだから皿を遠ざけるだろう
だが その血のついた皿は声もたてず
毎朝 そこにあるだろう
まいあさ
隊長と隊長夫人のとる皿もある
守備隊の祭り日に ほかの祭り日ごとに
忠誠と勲章による皿だ 葡萄酒色の明け方の光をたたえた皿だ
それはきみらがこの世で身も凍えて 顛(ふる)えながら
その皿を見るためだ

そうだ きみらみんなに皿がある
ここや向うの金持たち
大使よ 大臣よ むごい客人よ
心地よい茶会の 地位も揺ぎない 貴婦人たちよ
貧しい人たちの血でさびつき けがれ よごれた皿がある
きみらのまえには 毎朝 毎週 永遠に
アルメリアの
血のついた皿がある

(角川書店『ネルーダ詩集』──「心のなかのスペイン」)

夕焼け
『オード集』─自然との対話

 「テムコの自然は、強烈なウイスキーのようにわたしを酔わせた。やっと十歳になったばかりだったが、わたしはもう詩人だった。」
 こういうネルーダは、少年時代と同じように今日も、自然、大地、人類との対話・交感をつづけている。一九五四年から書かれる四巻の『オード集』においても、かれは、声明、現実、物との情熱的な対話を続け、そこから発見をとりだしている。これらの歌はすべて、この世の物、物質、元素的なもの──パン、レモン、月、猫、象、ピアノ、人間、生活、詩にたいする愛の歌となっている。(角川書店『ネルーダ詩集』)

 基本的なもののオード集(訳出したもの)
  海へのオード
  パンヘのオード
  原子へのオード
  夫婦へのオード
  単純素朴な人間のオード
  人民軍の輝かしいオード
  春のオード

*オード Ode:頌(しょう)、賦(ふ)。特定の人または物に寄せた調子の高い叙情詩(三省堂クラウン英和辞典)
**四巻の『オード集』:
 『基本的なもののオード集(Odas elementales)』(1954年)
 『新・基本的なもののオード集(Nuevas odas elementales)』(1956年)
 『第三のオード集(Tercer libro de las odas)』(1957年)
 『Navegaciones y regresos(航海と帰郷)』(1959年)

ネルーダ詩集

 ネルーダ詩集 目次

   ◇たそがれの書(1923年)
      橋

   ◇廿の愛の詩と一つの絶望の歌(1924年)
      女の肉体……
      おれは詩を書くことができる……

   ◇指輪(1925年)
      少年時代の田舎

   ◇無限なる人間の試み(1926年)
      六月

   ◇地上の住みか 第一巻(1935年)
      フェデリコ・ガルシーア・ロルカへのオード

   ◇講演(1937年)
      フェデリコ・ガルシーア・ロルカの思い出

   ◇心のなかのスペイン(1938年)
      そのわけを話そう
      死んだ義勇兵の母親たちに捧げる歌
      アルメリア

   ◇地上の住みか 第三巻(1942年)
      スターリングラードにささげる新しい愛の歌

   ◇大いなる歌 第一巻(1950年)
    マチュ・ピチュの頂き
      マチュ・ピチュよ(第六の歌 そのときわたしは大地の梯子を
      兄弟よ 立ちあがって来い
    征服者たち
      インカの最期
    解放者たち
      解放者たち
      ソコッロの蜂起着たち
      マニュエル・ロドリゲス

   ◇大いなる歌 第二巻
    寡頭政治
      天上の詩人たち
      ユナイテッド・フルーツCo.
      乞食たち

    ラ・プラサの死者たち
      ラ・プラサの死者たち
      虐殺
      どのようにして旗は生れたか
      エイプラハム・イエズス・ブリトオ

    きこりよ  めざめよ
      I
      IV
      V
      VI
    逃亡者
      I
      III
      V

   ◇大いなる歌 第三巻
    歌の河
      スペインの刑場で殺されたミゲル・エルナンデスヘ
      ラファエル・アルベルティへ
      わが来歴
      辺境
      家
      ぶどう酒
      大きな悦び
      死
      遺言(1)
      遺言(2)
      手筈
      わたしの党に

   ◇ぶどう畑と風
    ぶどう畑と風
      歌い手のおれは さまよった……
      ああ いつ ああ いつ いつ……

    ユリウス・フチークとの対話
      1 わが街あるきの友
      2 きっとそんな風だったろう
      3 もしもおれが きみらに話すなら

    エレメンタールなオード
      海へのオード
      パンへのオード

   ◇愛についての百のソネット
      マチルドよ…… (一番)
      くちづけに辿りつくまで……(二番)
      おれの意地悪さん……(二〇番)
      おまえは 貧乏な……(二九番)
      しあわせな二人の恋びとたちは……(四八番)
      おまえの笑いは……(五一番)
      苦悩から苦悩へと……(七一番)
      おれが死んだら…… (八九番)
      たとえいつか…… (九六番)
      そのとき どこへ……(九七番)

   解説
   年譜

ネルーダ詩集

(角川書店 昭和47年10月初版)




ネルーダ


(「婦人通信」1973年11月号)