アラゴンとエルザ

ここでは、「アラゴンとエルザ」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


                     ☆今日の記念日「ルイ・アラゴン氏死去
 
   リラと薔薇

  おお 花の咲く月 虫の姿をかえる月
  雲のなかった五月と 匕首を突き刺された六月と
  おれはけっして忘れまい リラと薔薇とを
  春が その襞(ひだ)のなかで まもった人たちを

  おれは忘れまい 恐ろしい悲劇の幻(まぼろし)を
  長い行列や叫び声や むらがる群衆や太陽を
  愛を積み込んだ戦車や ベルギーの贈り物を
  わなわな顫える大気や 蜜蜂の唸るような街道を
  論議にうち勝った 得(とく)とくとした入城を
  くちづけの紅(べに)が 赤く描いた血の色を
  熱狂した民衆が リラで飾った砲塔(2)に
  つっ立ったまま 死ににゆく ひとたちを

  おれは忘れまい 消えうせた数世紀の
  ミサの祈祷書にも似た フランスの庭を
  夜な夜なの騒ぎと なぞを秘めた沈黙を
  長く伸びた道ぞいに 咲きでた薔薇を
  恐怖をまき散らして 通り過ぎる兵士どもに

  狂った自転車部隊に 皮肉な大砲に
  野宿者(キャンパー)まがいの 身なりも哀れな兵隊どもに
  そして恐怖の嵐に 雄雄しく立ち向った花花を

  なぜか知らぬが これらの光景の渦巻きは
  わたしをいつも同じ停留所へと連れてゆくのだ
  サントマルトへ 黒い花模様をつけた将軍へ
  森のほとりの ノルマンディ風な別荘へと
  みんなが黙りこんで 敵は闇の中でひと休み
  こん夜きけば パリはついに陥ちたという
  おれはけっして忘れまい リラと薔薇とを
  そうしてわれらがうしなった 二つの愛を

  最初の日の花束はリラ フランドルのリラよ
  死者の頬を色どる そのやさしい影よ
  そしてきみたち隠れ家の花束 やさしい薔薇たち
  はるか遠い戦火の色をした アウジウの薔薇たち

(1)「六月」──四○年六月、ダンケルクの敗北につづいて、六月十四日にはパリが陥落し、十八日には独仏休戦条約が調印される。
(2)「砲塔」──戦車の砲塔を指す

(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

朱色


      春

  エスコー河(1)をゆく艀(はしけ)の長い叫びが聞こえていた
  夜は 恋に狂った娘のように 眼覚めていた
  ラジオが歌っていた そのありふれた歌を
  さまよう愛の歌をきいて ひとの心は痛むのだ

  娘がひとり 船の甲板で夢みていた
  横になった男のそばで いやおれが夢みていたのか
  ひとつの声が言った そのうち逢えるわね
  ほかの声がつぶやいた ノルウェー(2)で死ぬかも知れない

  おお 国境をゆく人たち きみたちの郷愁は
  運河のように 異国の土地へ 行ってしまう
  ここにフランスは終わり ここにベルギーが始まる
  空は変らぬのに ひるがえる旗は変わるのだ

  ことし おれたちはずっと待ちこがれていた
  みんなの眼が 菫(すみれ)のようにひらく美しい月を
  へとへとに疲れた血管のなかに 酒が流れ
  林檎の花かげで 陽(ひ)をよける美しい月を

  おれたちは待っていた あの救世主のよみがえるのを
  草刈りの前に 愛ゆえに死んでゆく あの神を
  おれたちは長いこと待っていた こん度こそはと
  待ちくたびれて もう牢獄の中とも思えなかった

  おれたちは鉄兜や防毒マスクで身を固め 革帯で
  兵隊の心を締めつけて 世の物音には耳をふさぎ
  土色の顔で 現代の怪獣どもを覗(うかが)っていたのだ
  冬じゅう 立て銃(つつ)で 重い軍装に背を曲げながら

  片足スケートで遊ぶ子供たちや すっ裸かで
  寝る連中のことを考えて やっと笑ったものだ
  ああ 遊星の不等性ということを研究したのは
  まさに 盲目(めくら)になってからのオイラー(3)だった

  だが おれたちは眼もなく 愛もなく 脳味噌もなく
  自分自身からさえ引きさかれて生きている幽霊だ
  おれたちは むなしく春の準備をしていたのだ
  むかしながらの罵詈雑言(ばりぞうごん)ばかりを吐き散らして

  おれたち にせの亡者も も一度よみがえろう
  なぜなら いつかきっと 地獄の扉もひらくだろう
  いつかきっと 春がやってきて 春の香りは
  愛撫のように 風をゆすり起こしてくれよう

  だが 愛するおまえのほか 誰に花束をおくろう
  美しい春も おまえなしでは どうしようもない
  美しい四月も 優しい五月も おまえなしでは
  喪でしかない おまえなしでは 地獄でしかない

  返えしてくれ 返えしてくれ おれの空を 音楽を
  愛する妻なしでは どこにも歌もない 色もない
  妻なしでは 五月もおれには 砂漠でしかない
  太陽も侮辱でしかない 暗闇も苦しみでしかない

(1)エスコー河──北仏を流れベルギー、オランダを経て北海に注ぐ。
(2)ノルウェー──ドイツ軍は一九四〇年四月、ノルウェーに侵攻する。
(3)オイラ──レオンハルト・オイラー(一七〇七─八三年)スイスの数学者。天文学の分野でも、月に関する新しい理論を書き、遊星の軌道に関する重要な研究論文を書いた。六十歳で盲目となったが、死ぬまで研究をつづけた。

 ここでは、冬と春との、戦争と平和との、矛盾した主題が、簡潔な影像(イメージ)によって描かれ、対比され、それをとおして、詩人は、希望をかかげ、呼びかけている。アラゴンは、愛をうたうことによって、フランスの現実を見出し、フランスの伝統と、再生の希望をうたいあげている。おなじような主題をうたった『リラと薔薇』はとりわけ有名である。

(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

ピンクばら


 この「サンタ・エスピナ」は、検閲の眼をかすめる典型的な「密輸(もぐり)」の詩であった。多くのひとびとには、わかりにくかったとはいえ、一九三七年から三八年にかけての、スペイン共和派支援の集会で、サンタ・エスピナと題するカタローニャの民謡を聞いたことのある人たちにとっては、この詩はきわめて直接的だったのである。それらの集会では、この民謡は、「コブラ」と称するカタローニャ地方のファンファーレによって吹奏されたのだった。当時、この曲はまたレコードによって、ひろく知られていた。

  おお 聖なる冠(サント・エピーヌ) 聖なる冠(サント・エピーヌ)よ もいちど湧き上れ

 と歌ったとき、アラゴンは、スペインの反ファシズム闘争の戦士たちを思い浮べると同時に、いやむしろ、マドリッドよりはパリのことを念頭においていたのだ。それは、この詩の最後の一節に、はっきりと歌われている。

  そうしてあの不幸の象徴たる 血の冠(かんむり)は
  「人の子」の額から ずり落ちるだろう
  そのとき 人間は 声高くうたうだろう
  人生は美しかった さんざしは花盛りだったと

 この詩には、当時、無神論者がかいたものとしては突飛に思われるもの、つまり「キリスト教の奇跡」がうたわれているが、それは、状況が要求していたからである。このカタローニャの舞踊曲は、キリストの荆の冠を主題としていたからであり、この曲はまた、多くのカトリック教徒や司祭たちまでが、スペイン人民戦線の隊列にくわわって、フランコとその同盟軍にたいして最後まで闘ったことを思い出させるからである。それに、「黙りこんでる歌い手や笛たちが……声を上げる」ようにはげますために、いつか手をさし伸ばすかもしれない人たちを、あえて神をののしる言葉で払いのけることがあろうか。こうして、中世の騎士道物語とならんで、キリスト教の神話が、アラゴンの詩のなかに現われてくる。後年、「神を信じたもの」と「神を信じなかったもの」とが手を結ぶにいたる抵抗運動のなかでは、自然にその比重も大きくなってゆく。
 この『荆の冠(サンタ・エスピナ)』は一九四○年三月に書かれたが、一九四一年四月まで発表することができなかった。四○年五月の、ヒトラーの大攻勢が、それを許さなかったのだ。

 一九四○年四月には、ドイツ軍はデンマークを席巻して、ノルウェーに侵入する。「春」という詩のなかにはその遠い影が落ちている。

(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

白バラ


  荆の冠

  一九三九年から四○年にまたがる奇妙な戦争のさいちゅう、アラゴンが発表した詩の深い意味は、フランス当局の検閲の目をのがれることができた。しかし、多くの読者は、アラゴンの詩による呼びかけと、その深い意味を読みとっていた。しかも「深夜の太陽」が支配している時代に、それらの詩だけが合法的に聞くことのできる唯一の詩的な声だったから、ひとびとはいよいよ感動したのである。
 ネルヴァール、ランボオ、マラルメ以来、近代詩は、フランスの支配階級からは、印象主義や立体主義と同様に、不可解な気ちがい沙汰とみなされてきた。象徴主義につづいて、ダダイスムとシュルレアリスムとは、ブルジョワばかりでなく、ひろい大衆にたいしても、詩とは難解な謎だという考えを、ずうっと植えつけてきた。アラゴンは一九三九年以来、この状況を利用して、詩のわからない判事や警察官を越えて、一定の読者たちに語りかけたのである。そして、このように、検閲の目をくぐって、読者に訴える詩の方法を、アラゴンは『密輸(コン・バンド)』と呼んでいる。

 「奇妙な戦争」の時期はまた、混乱、不安、動揺の時期で、混乱はいたるところにあり、人心は動揺していた。多くの誠実なひとたちさえ、どうしたらいいのか、わからずに、途方にくれていた。アラゴンは、『荆の冠(サンタ・エスピナ)』(一九四○年三月)を書いて、それらのひとたちに呼びかける。

    荆の冠(サンタ・エスピナ)

  おれはあの歌を思い出す あの歌を聞けば
  胸は高鳴り 血は燃えたたずにはいなかった
  灰の下の埋れ火さえ 心のように燃え立った
  そうしてついに なぜ空が青いかがわかったのだ

  おれは思い出す 渡り鳥の叫びにも似た あの歌を
  沖あいの大気のように 塩からいあの歌を
  あの歌の悲痛な調べは 征服者どもに立ち向う
  海の塩の復讐を じょうじょうと湛えているようだ

  あれは暗闇の中で 誰かが日笛で吹き鳴らした歌だ
  太陽もない さまよう騎士たち(1)もいない時代に
  子供たちが泣きわめき 地下の穴倉のなかで
  まっとうな民衆が 暴君の打倒を夢みていた時に

  あの歌は 聖なる荆を その名まえとしていた
  その荆で ひとりの神の額には血が流れたのだ
  舟が錨を下すように 歌は肉の中に根をおろし
  傷口を再びうずかせ 痛みをよみがえらせたのだ

  誰もあの歌に 歌詞(ことば)をつけようとはしなかった
  この鼻声でうたう歌には 言葉が禁じられていた
  かっての天然痘に荒しつくされた世界(くに)よ
  あの歌は おまえの希望であり 永遠の明日だった

  あの胸えぐる歌の文句を探しても 見当らぬ
  しかも地上には お芝居の空泣きしかないのだ
  テノーラ(2)のタべ 泉から泉へと呼びかける
  あの水のささやきを 思い出す者もいないのだ

  おお 「荆の冠(サンタ・エスピナ)」「荆の冠」よ もいちど鳴りひびけ
  かって それを聞いてみんなが立ち上ったのだ
  きょう 黙りこんでる歌い手や笛たちも
  その調べがよみがえれば また声を上げるだろう

  おれは信じたい この歌が そのしらべで
  祖国の謎ひめた心を 奮い立たせてくれるのを
  鳴りひびくコブラ(3)を聞いて 唖も声をあげ
  中風病みも立ちあがって 歩き出すだろう
 
  そうしてあの不幸の象徴たる 血の冠(かんむり)は
  「人の子」の額から ずり落ちるだろう
  そのとき 人間は 声高くうたうだろう
  人生は美しかった さんざしは花盛りだったと

(1)さまよう騎士たち──革命的な活動家たちのことを指している。
(2)テノーラ──不明。
(3)コブラ──カタローニャ地方のファンファーレ。

(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

十字

  <クロス・ワードの時>

 また十月には、エルザの手紙や、口ずてのニュースや、新聞、ラジオなどで、きのうまでのある同志たちが、党をうらぎり、党の大業を捨てさったことを、アラゴンは知る。その状況は、つぎの詩に、反映している。

   クロス・ワードの時

  おお ひとり眠りもやらぬ 深夜の太陽よ
  おまえの見張る 男たちの影さえもない家家の中に
  恐怖におののく妻たちは その枕もとで
  作り笑いを浮べる怪物どもに 心をくだく

  誰が この追い出したはずの恐怖を解き放ったのか
  誰が 屋根の下の砂漠を 床を 怖ろしい蒼白さに
  塗りたくったのか もう誰も読みとれぬのだ
  心の中の不眠を トランプ占いの中の運命を
 
  魔法使いたち おまえらだけがヒースの荒地で踊るがいい
  かの女たちはもう 愛が裏切るかどうか知ろうとも思わぬ
  パリの東部駅(ガール・ド・レスト)が 恋びとたちを呑みこんだとき
  かの女たちは どんな祈りにもまして首うなだれたのだ

  ほどいた腕から 楽園が消えうせたことを
  われら同様に ついに思い知った女たちよ
  きくがいい きみを愛するとささやくわれらの声を
  そして君のくちびるで 空(くう)にくちずけするがいい

  いまわしい別離のうつろさ 戦争の苦酒(にがざけ)
  その苦(にが)にがしい酒に きみはまだ酔わぬというのか
  われらの脚がからみあっていたのを 覚えているか
  おれは おまえゆえに知ったのだ おまえの身(からだ)の与えてくれたものを

  おれたちは 二人の時をあまり大事にはしなかった
  おれたちのちがった夢を十分に分かちあわなかった
  曇ったおれたちの眼の奥を十分に見つめあわなかった
  おれたちの競(きそ)いあう心を 十分に話しあわなかった

  おまえにそんなことを言う筋あいではないにしても
  多くの雲が 灰色の秘密を陽(ひ)にさらけ出したとか
  黒い木木が 踊り出したとか そんなことを
  どうしておれが耳にしたり 考えたりするのだろう

  聞いてくれ 夜 わたしの血は高鳴って おまえを呼ぶ
  おれは寝床の中に探すのだ ずっしりとしたおまえの重みと肌の色を
  みんな逃げ出してゆくのか だがかの女さえいてくれれば
  そんなことは構わぬ おれは彼らの同類ではない

  おれは彼らの同類ではない そうなるためには
  自分の生肌を剥ぎとらねばならぬ バロアで
  リジェの男が 自分の哀れな野蛮な心臓を
  骨と皮ばかりになって 高々と窓の方へ差し出したように

  わたしは彼らの同類ではない 人間の肉は
  菓子のように ナイフで断ち切れるものではないからだ
  わたしの命には 兄弟の血の温(ぬく)みが必要なのだ
  そうして川を 海から逆流させることはできないのだ

  わたしは彼らの同類ではない くらやみは
  愛しあうために 木立は空のためにあるのだから
  そうしてポプラの木木は 種子(たね)をたっぶりともち
  風は 愛や 蜜蜂や 蜜をはこんでくるのだから

  おれはおまえのもの おまえひとりのものだ
  おれは愛するのだ おまえの歩いてきた足跡を
  おまえの坐った窪みを 擦り切れたスリッパやハンカチを
  眠るがいい びくびくせずに おれが見守ってやる

  おれが見守ってやる 夜が更けた 中世の夜が
  黒いマントでこの砕けた世界を蔽うている
  きっと おれたちのためではなくとも いつか嵐は止んで
  またクロス・ワードを楽しむ時代が くるだろう

 「灰色の秘密を陽にさらけ出した」雲や、「踊り出した黒い木木」──党を裏ぎったものたちにたいして、詩人は「おれは彼らの同類ではない」と叫んで、党の大業を守ることの人間的な美しさを、それに対置している。
 この詩は、一九三九年十二月一日、コメディ・フランセーズにおいて、マドゥレーヌ・ルノーによって朗読され、聴衆に大きな感動をあたえた。とりわけ最後の一節は、呼びかけのラッパのように鳴りひびいたという。なお、当時フランスでは、クロス・ワード・パズルさえも、スパイたちに利用されるという理由で、禁止されていたことを考えれば、「クロス・ワードの時代がくるだろう」は、いっそう深いひびきをもってくるのである。

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

像

『断腸詩集』

 引き裂かれた恋びとたち

 『断腸詩集』の時代、「引き裂かれた恋びとたち」の時代がやってくる。それは、あの「奇妙な戦争」第二次大戦によって始まる。
 一九三九年九月、戦争の勃発とともに、フランス共産党は解散に追いこまれる。当時アラゴンの編集していた「ス・ソワール」紙が発行禁止になる。サドゥールは、その頃の雰囲気についてこう書いている。
 「わたしが動員される前夜、わたしの参加した集会で、アラゴンは、「ス・ソワール」紙が政府によって発行禁止を命ぜられたことを、同紙の協力者たちに告げた。われわれはもう二度と会えないのではないか、とわたしはひそかに思った。われわれは明日にも、すべての友人とともに、戦争か、脅迫的な政治弾圧によって、おしつぶされるのではなかろうか……」(サドゥール『アラゴン』)
 アラゴンはエルザと別れて、クルイ・シュル・ウルクの第二二〇部隊に入隊する。

 一九三九年十月に書かれた三篇の詩は、ジャン・ポーランによって「新フランス評論(エス・エル・エフ)」の十二月号に発表される。つまり『廿年後』『タぐれにおまえの手紙を待つ』『クロス・ワードの時代』の三篇であり、それは「わが心臓の鼓動のひとつひとつ」をエルザにささげた、愛の詩である。十二月には、『引き裂かれた恋びとたち』が書かれる。

   廿年後

  時代はまた 味気ない単調な輸送をはじめ
  のろのろとした赤毛の牡牛たちを車につなげた
  いまは秋だ 空は金箔のなかに穴をうがち
  十月は検電器のように顫えて まどろむ

  おれたちは カロリンガ時代(1)の 臆病な王たちだ
  おれたちの夢は 牝牛のやわらかな足跡を辿るのだ
  野の果てで ひとが死んでゆくのも知らぬげに
  何が明け方に起きるのか タぐれには分らぬのだ

  人影もない空家をぬって おれたちはさまよう
  鎧もつけず白衣もなく ものも想わず声もなく
  まるで ま昼の化け物だ 昼ひなかの亡霊だ
  恋をささやいていた 娑婆からやってきた幽霊だ

  おれたちはまた廿年後に 忘れていた物置部屋から
  おれたちの古服をとり出し 千のラチュド(2)たちが
  独房の中で またも昔の仕ぐさを始めるのだ
  そんなことは彼らには ものの数ではないらしい

  またぞろ きまり文句のご時世が 始まるのだ
  人間がついに誇りを捨てて そのくちびるに
  でれでれと並べる歌は もうラジオのおかげで
  うんざりするほど聞き飽きた 阿呆な歌だ

  廿年といえば 赤ん坊も若者になる歳月だ
  あの頃のちびたち あどけなかった子供たちが
  廿年後 おれたちといっしょに戦争へ出てゆくとは
  年寄りたちにとっては なんともつらいことだろう

  廿年後(3)とは 皮肉な題名だ おれたちの人生が
  そのなかに すっぼりと書きこまれてしまう
  だが 親父のデュマの この嘲笑にみちた言葉から
  想いは逸(そ)れるのだ きみの愛した女の影とともに

  愛するひとはただひとり とても美しい優しいひと
  かの女だけが 焦茶色の十月のように浮びあがる
  かの女だけが おれの恋びと おれの苦しみと希望なのだ
  かの女の手紙を待ちながら おれは日を数えるのだ

  おまえはおれの人生の 熱(う)れた半分だけを味わった
  おお妻よ 思い返えす歳月は ちびちびと惜しげに
  数えてみても おれたちには しあわせだった
  みんながおれたちの噂をして あの二人と言ったものだ

  あの悪(わる)だった若者(4)には おまえはかかわりないのだ
  あの若者はとっくの昔に ひとつの染(し)みのように
  海べの砂に書かれた文字のように 消えているのだ
  あの若者の暗闇や あの虚無をおまえは知らなかった

  雲が空で変わるように ひとりの男が変わる
  おまえは優しく撫でてくれた おれの顔の上を
  物思わしげな影をたたえた おれの額のうえを
  灰色になった髪のあたりに たわむれながら

  愛するものよ このもの悲しいタぐれのひととき
  おれのこころには ただおまえだけがあって
  愛するものよ おれの詩の流れも 人生の流れも
  よろこびも 声も みんな一度に消え失せてしまう
  おれはもう一度 おまえを愛すると言いたかったのだ
  だがこの言葉も おまえなしで言えば心痛むのだ

(1)カロリンガ時代──八世紀中葉から十世紀末までフランスに君臨した王朝。シャルルマーニュ王を始祖とするが、代々怯惰の王が多い。
(2)ラチュド──(一五九○〜一六五三)ポムパドゥール夫人にたいする陰謀のかどで、バスティーユ、ヴァンセンヌなどの牢に投獄されるが、数回にわたって脱獄する。
(3)廿年後──アレクサンドル・デュマ・ペールの小説「廿年後」をここでは指している。アラゴンは一九一九年の第一次大戦に動員され、また廿年後の、一九三九年の第二次大戦にも動員された。
(4)悪だった若者──ダダイスト、シュルレアリストであった頃のアラゴンじしんを指している。

(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

像

『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』

 目 次

1. まえがき
2. アラゴンの人となり
 ・少年時代
 ・青年時代──ダダの時代
 ・シュルレアリスムの闇夜
 ・入党
 ・わたしはヴェニスで死のうとした
 ・エルザとの出会い
 ・最初のソヴィエト訪問
 ・アラゴン事件
 ・七年間の沈黙
3. エルザの人となり
 ・少女時代
 ・エルザはロシヤを離れる
 ・エルザはモンパルナスにおちつく
4. 『断腸詩集』
 ・引き裂かれた恋びとたち
    ──廿年後
    ──引き裂かれた恋びとたち
    ──クロス・ワードの時
 ・荊の冠
    ──荆の冠(サンタ・エスピナ)
    ──
    ──リラと薔薇
    ──四○年のリチャード二世
5. 『エルザの眼』
 ・リベラックの教訓
 ・エルザへの讃歌
6. 地下生活と『グレヴァン博物館』
7. 『フランスの起床ラッパ』
8. 『新断腸詩集』
9. 『眼と記憶』
10. 『未完の物語』
11. 『エルザ』
12. 『工ルザの狂人』
13. アラゴンにおける愛について
 ・エルザは神話ではない
 ・愛は 不可思議である
 ・わたしはおまえの唇から生まれた
 ・愛は認識の場である
 ・女は 男の未来だ
14. あとがき

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』東邦出版社 1971年)

本


 (筆者はここで、その頃やはりモスコーに滞在していた中条百合子(宮本百合子)のことを思い出さずにはいられない。中条百合子は、正確には一九二七年十二月に東京を発ってモスクワへ向い、一九三○年十月二十五日にモスクワを発って帰国している。ちょうどアラゴンたちのモスクワ到着とすれちがいということになる。そのとき中条百合子は、みずみずしい澄んだ眼で、社会主義建設をまのあたりに、むさぼるように見てとり、自己の革命と未来への道を見きわめつつあった。東西の二人のブルジョワ出身の作家詩人が、社会主義建設を自分の眼でたしかめて、自己の革命への決定的な転換点としたということは偶然だろうか。───なお、宮本百合子の『道標』第三部には、マヤコフスキーの告別式の模様が、きわめて印象的に描かれている。

 「伸子は思いもかけない場所───広間の敷居を越した、棺の足もとで、停止した。停止した伸子の目のさきに棺からぬっとはみ出すように突立っているマヤコフスキーの大きな靴の裏があった。生きていないひとのはいている靴の底をまともに見ているというのは異様な感じだった。……伸子が思わず一旦そらすようにした視線をふたたび、大きな靴の裏にもどしたとき、伸子の瞳に、かすかな衝撃の色と、何かをいそいで理解しようとする表情が浮かんだ。大きい大きいマヤコフスキーの黒い靴の底に、二つのへりどめ金がうちつけられて光っているのだった……」)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

マヤコフスキーポスター
マヤコフスキー「労働組合を居浮花せよ!-4」1921年

 最初のソヴィエト訪問

 一九三〇年の秋、エルザとアラゴンはソヴィエトを訪問する。建設途上の社会主義の国を、まのあたり自分の眼で見るためである。かれらはゲンドリコフ通り(1)のマヤコフスキー博物館を訪れて、深い感慨におそわれる。マヤコフスキーは、その五ヵ月前に自殺していたのである。アラゴンはまた、ドニエプルの大水力発電所の工事現場を訪れ、そこで働く何千という青年男女の労働をまのあたりに見て、衝撃にもちかい感動を受け、それはかれの人生の決定的な転換点ともなる。それらの感慨と感動は後年、つぎの詩に歌われることになる。

  ゲンドリコフ通りの 客間のテーブルをかこんで
  私たちは いっしょに腰をおろしていた
  まるで いまにも扉口があいて あの大男が
  窓に射す陽のように ぱっと現われそうだった

  五ヵ月たてば もうやすやすと彼の死にも慣れてしまう
  彼の声が聞けなくなると すぐに過去形で彼のことを話すのだ
  きみにまつわりつく彼は もう観念であり 記憶の仕業(しわざ)なのだ
  だが 隣り部屋の 洋服だんすの扉があいていて
  彼のネクタイが 二つ折れに ぶら下っているのを見ると
  誰でもふと マヤコフスキーがうしろを通るような気がするのだ

  彼はそこで 煙草をふかして トランプ遊びをしている
  彼の詩が どこか上着のポケットで歌っている
  彼はちょっと伸びをする それをきみは転地旅行と呼んだものだ
  彼のような肩なら 地平も軽がると持ちあがる
  彼の詩が船出の支度をするには 海のひろさが必要だ
  耳にひびく脚韻のために 彼には車とレールが必要だ
  だが そんなことを言ってみても いまではもうむだなのだ

  彼は言ったものだ 明日(あす)どこかわからないが 出かけるよ
  パリか パミールか それともペルーか ペルシャへ
  彼には 世界は玉突き台だ 頭のなかの赤玉の言葉が
  緑いろの絨毯(じゅうたん)の上をころがって とつぜんキャノンするのだ

  ああ 彼はほんとに行ってしまった そのわけは永遠にわからぬだろう
  そのわけを訊(たず)ねるのは ほんとに彼を愛していた人たちにとってむごかろう
  あんなに何度も 彼は地獄から抜けでてみせると約束した
  それは暗喩だったようだ 少くとも奇妙なことだった
  いまそれを読みかえすと 心はひっくりかえるようだ
  いつか 彼がもどってきたら きみはどうか黙っていてくれ おねがいだ
  ネバ河は もうこの世捨て人を放すまいと 彼をその氷のなかに閉じこめる
  彼はもう銅像でしかない 通りの名 広場の名でしかない
  したしげに鳥が飛んできて その腕のうえで羽根をやすめる
  青銅(ブロンズ)の服のなかで ふるえおののくのは もう風だけなの
  わたしはいつも思い浮べるだろう 一九三○年のモストルグ(2)を
  照明の暗い大きなホール 売ってるものとては ほとんど何もない
  カウンターには人影もなく 隅の方に わずかばかりの商品があるばかり
  靄(もや)のような人群れが それを遠くから眺めて満足している
  「未来は みんなの貧困にうち勝つのだ」と書いた
  白文字が赤い布に浮いている 吹き流しのしたで
  田舎から出てきた おのぼりさんの農民や 値段をたずねる女たち
  奥の方で 宝石屋が ほの暗い光りを放っていた
  五本ばかりの金の匙を 蒼白い店員が見守っていた
  そうして雪は地上に もの悲しげな汚れた足跡を幾すじも浮き立たせていた
  
  わたしは知っている 塗りかえられたこともない壁の中の すし詰めの暮らしを
  わたしは知っている 見つけたひと切れのパンを わかちあい
  飢えをわかちあい 部屋をわかちあった生活を 息づまるような ひどい廊下を
  南京虫や 衝立(ついたて)や 叫び声や もろもろの悪(わる)だくみを
  わたしは知っている 一本のピンが宝だったような
  数年もつづいた ひどい物資の欠乏を そうして浮浪児たちを
  タ方疲れた まっ黒な人たちが 電車の昇降口にまで溢れて
  恐ろしいけんまくで みんなが殺気立っていた
  そうして冬なのに 腐ったキャベツの悪臭の中を 穴のあいた靴で歩きまわり
  人びとは ゴムの上靴を買おうとして 口ぎたなく値ぎっていた

  そういう時だったのだ マヤコフスキーがぱっと光りを投げたのは
  どうしてそんな蜃気楼がつくり出されたか わたしにはちっとも分らないが
  はじめてわたしは 自分に注がれた人間らしい眼を感じとり
  見知らぬ人たちが 路傍のわたしに投げてくれた言葉をきいて身ぶるいした
  まるで 肉体的な啓示が わたしに与えられたかのように
  ある日 音楽とはどんなものかを教えられた つんぼのように
  ある日 こだまとはどんなものかを教えられた 唖(おし)のように
  わたしはくらやみから あのドフジェンコの描いた夜の光りへと変ったのだ
  わたしは思い出す 「大地」という映画を見たのも その頃だった
  月の光りが あんまり美しくて 思わず声が出てしまったものだ

  ふさふさした亜麻色(ブロンド)の髪が スカーフからはみ出て なびいていた
  河の流れと泥のなかに作られた 橋脚の台座のうえで
  大理石の色をした 背の高い娘が立ちどまって 工事場のたくさんの人たちを見て
  びっくりしている おお ドニエプローグ(3)よ 秋の雨よ
  おお 希望の巨大なダムよ だがこのダムは その後 敵を前にして
  同じ手によって たまらない苦痛と勇気をもって 爆破されるのだ
  十二年後のある夜 ニースで わたしたちはモスクワ放送をきいていた
  わたしは この思い出の その白い娘とそのまなざしを思い浮べた
  そうして あの危険な工事現場の こまごまとした部分まで思い出した
  そうして むかしを夢みながら前進する 生き残った人びとや死者たちを

  こんなつらい感情(おもい)を どんな言葉で言い現わしたらいいのだろう
  雨が降ろうと 風が吹こうと わたしがいま何ものであろうと
  何をしようと 何を言おうと この感情(おもい)はわたしの肉の中に根を下しているのだ
  世界のこっちの端(はじ)からさえ この人民を助けよ でなければ
  この人民とわれらとの連帯をも害ねることになる 気遣うがいい 夢の中でまで
  事態が重くのしかかって 人びとをストライキ破りのような行動に駆りたてている時
  そうしてわたしは見るのだ 高級な連中が令ややかにあざ笑っているのを
  彼らには建設が気に入らぬのだ そうして攻撃されるのは指導者たちだ
  しかし手に血をにじませて 石や綱やケーブルをつかんでいる人たちに
  きみたちは 何を話そうというのか お慈悲を説く先生方よ
                              (『未完の物語』)

(1)ゲンドリコフ通り──モスクワのこの通りに、マヤコフスキーは、リーリヤ・ブリックと住んでいた。いまではマヤコフスキー通りと呼ばれ、マヤコフスキー博物館がある。
(2)モストルダ──モスクワのボリショイ劇場の近くにある大百貨店。
(3)ドニエプローグ──ドニエプル水力発電所のこと。その大きなダムは、第一次五カ年計画の期間に建設を始めたが一九四一〜一九四二年、ドイツ軍が進攻してきたとき、ソ連軍によって爆破された。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

政治ポスター
マヤコフスキー「同志たちよ、労働組合活動週間に参加せよ!」(1921年)


 後年、このマヤコフスキーとの出会いについて、アラゴンはつぎのように書く。「この瞬間こそ、わたしの人生を全く変えてしまうことになった。詩を武器に変えることのできた詩人、革命の下手(しもて)にいることのできなかった詩人マヤコフスキーは、世界とわたしとを結びつけるきずなとなった。それは、わたしが自分の手くびに受けとり、こんにち、すべてのひとびとにさし示している鎖の最初の環である。この鎖は、あらたにわたしを外部世界に結びつけている。御用哲学者たちは、この外部世界を否定するようにといままでわたしに教えこんできた。唯物論者として、われわれが変革しうるこの外部世界に、それ以来、わたしは醜悪な敵の顔を見いだすだけでなく、数百万の男女の深い眼を見いだすのである。詩人マヤコフスキーは、これらのひとびとにこそ語りかけるべきであり、語りかけうることを、わたしに卒直に教えてくれた。これらのひとびとこそ、この世界を変革するであろう。彼らは、うち砕いた鎖のぶらさがっている傷だらけの拳を、この世界のうえ高くさしあげているのである」(『社会主義リアリスムのために』)

 アラゴンはまた、エルザに出会ったときの自画像を、自嘲のニヒリズムのなかに生きていた自分じしんのイメージを、つぎのように描く。

  おまえに会った時のわたしは 浜べで拾われた小石であり
  だれにも使い方のわからぬ 奇妙な落し物であり
  潮にうち上げられた 藻のからみついた六分儀であり
  部屋の中に入ろうと 窓べにただよっている靄(もや)であり
  掃除もされず ちらかし放題になったホテルの部屋であり
  祭りのあとの 汚れた紙屑で埋まった十字路であり
  列車のデッキに座った 切符なしの旅客であり
  悪い岸べのために 野の中をくねって流れる川であり
  自動車(くるま)のヘッド・ライトに照らし出された森の獣であり
  白みかけた明けがた 家に帰ってくる朝帰りの男であり
  牢獄の暗やみに 吹っきれずに残っている夢であり
  ……
  沼の濁った水を飲みに 駆け出してゆく馬であり
  夜 悪夢にうなされて もみくちゃになった枕であり
  眼に藁屑が入ったとて 太陽にあたり散らす罵詈(ばり)であり
  天の下 なんの異変も起らぬと 業をにやす むかっ腹であり
  夜中に おまえの出会ったわたしは 取り返しのつかぬ言葉であり
  家畜小屋に横たわって眠っていた 放浪者であり
  他人の頭文字のくっついた頸環をはめた犬であり
  わめき散らし 騒ぎ散らしていた かっての日の男であった
                           (『未完の物語』)

 こういうアラゴンの前に、エルザはまさに救世主のように現れた。エルザとの出会いは、アラゴンの人生における決定的な転機となる。それは、アラゴンの人生における、それまでとは全くちがった世界の出現を意味していた。このちがった世界がアラゴンをちがった人間へと、変えてゆくことになる。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

ホテルイストリア
ホテル・イストリア=L'HÔTEL ISTRIAのプレート(安西良子さん撮影)
1920年代に出入りした芸術家たちの名前とアラゴンの詩が刻まれています

  ” 輝いたものは消えるだけだ…
  ホテル・イストリアからきみが出てきたとき
  すべてはちがっていた カンパーニュ・プルミエル街
  1929年 正午頃… ”
                    ルイ・アラゴン「私にはエルザのパリしかない」

アラゴンの人となり

 エルザとの出会い

     おお 狂気の頃よ 思い出よ 消えさるがいい
     そしてきみは十一月にやってきた 僅かな言葉の
     やりとりで わたしの人生はふいに向きを変えた
     クーポールの酒場での一夜
                        (『眼と記憶』)

 ドラマはつぎのように始まった。「一九二八年十一月五日、あのモンパルナスの、まるで駅のように大きなカフェのひとつで……満員の狭い酒場と騒々しい大広間とをへだてている、飾りのないマホガニーのぶらぶらした鎧戸を通っているとき、わたしは自分の名を呼ぶ外人の声をきいた。見知らぬ連中が、腰掛けのうえで、わたしをじっと見ていた。そのなかのひとりが立ち上って、わたしに言った。
 「詩人ウラジミール・マヤコフスキーが、あなたを呼んでいます。かれのテーブルに座ってくれませんか……」二十五年前に、この男がそこからやってきたあの巨大な現実について、わたしが何を知っていただろう?けんけんごうごうたる賛否両論に蔽われたその国について、ユゴーとダンテから浮かび上る夢のような国について、わたしが何を知っていただろう?その国の思想は、三十才のわたしの唇には酒のように強烈だったが、何冊かの本や絵本と「戦艦ポチョムキン」のほか、何をわたしが知っていただろう?──わたしはそのテーブルに座った。あの心のなかのロマンティスムと、パリのめまいのするような無鉄砲さとをもって。このことから、わたしの人生が根底から変ってゆくなどとは、わたしは夢にも知らなかった。──そうして翌日、混んではいたが風通しのいい同じ場所で、もうちょっと遅い時刻、とつぜん店がほとんど空(から)になる頃、わたしはエルザ・トリオレに出会った。それ以来、わたしたちはもう離れなかった……」(『ソヴィエト文学』)

 この二つの出会い──マヤコフスキーとの出会いと、エルザとの出会いとが、アラゴンの人生に決定的な影響を与えることになる。アラゴンがマヤコフスキーに初めて会ったのは、この一九二八年の末であったが、マヤコフスキーは、当時ほとんど毎年のようにパリを訪れていたのだ。マヤコフスキーのこれらのパリ滞在中、フランス語を知らぬマヤコフスキーの案内役をつとめたのがエルザであった。一九二二年九月には、フランスの芸術家たちが、マヤコフスキーを歓迎して、宴会を催している。一九二七年五月には、アンリ・バルビュスの指導する「クラルテ」のグループによるレセプションに応じて、マヤコフスキーはそこで挨拶をしている。この一九二七年の旅行ノートのなかに、マヤコフスキーはまだ会ったことのないシュルレアリストたちにふれて、こう書きとめている。「彼らのうちの多くは、共産主義者である。彼らのうちの多くは、「クラルテ」の協力者である。とりわけ、詩人であり作家であるルイ・アラゴン、ボール・エリュアール、その他の詩人たちがそうだ。奇妙なのは、この前期革命的なグループが、詩と宣言によって仕事を始め、わがロシヤにおける「左翼インテリゲンチャ」の古い冒険を復活させていることだ」
 マヤコフスキーは、ここで、シュルレアリストおよび当時のフランスの作家たちが、フランス文学の民族的伝統に十分深く結びついていない点を、主として非難しているのである。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

イストリアホテル
モンパルナスのイストリアホテル(安西良子さん撮影)

 エルザはモンパルナスにおちつく

 ベルリンからエルザはパリにもどってくる。そのとき、かの女は故国ロシヤに帰えることもできただろうし、帰えるべきだったのかも知れない。しかし、自分がまるで楽園のようなタヒチ島で暮していた間にも、故国のひとびとが、国内戦や、飢僅や、怖るべき冬とたたかっていたことを思うと、エルザの良心はうずいて、おめおめと故国へ帰える気にはなれなかったらしい。それに、モスクワにはもうかの女の家もなかった。それに「わにしにとって、パリはもう離れがたいものとなっていた。しかも、あの頃、あちらこちらとわたしは旅行していたが、それはわたしの孤独の内部を旅行していたのに過ぎなかった」
 こうしてエルザのパリ生活が始まる。
 「パリにもどって、わたしがモンパルナスに住むようになったのは、まったく偶然であった。わたしは初め、テルス街のあるホテルに身を落ちつけたが、ある日、ホテルの女主人が、わたしの身の上を根掘り葉掘りして、もうどうにも我慢ができなかった。すると、フェルナン・レジエ(どうして彼と知りあいになったのか、わたしも思い出せない)が、ちょうどそこへやって来て、涙に泣きぬれていたわたしを、彼の住んでいるモンパルナスへ連れて行ってくれた。ホテルの肥っちょの女主人がどうして女の子をこんなひどい目に会わせたんだろう、といった彼のあっけにとられた顔を、わたしは思い出す。しかし彼は、この奇妙な出来事のわけを知ろうとはせずに、そのまま受けいれて、その場をつくろってくれたのだ。

 わたしは、カンパーニュ・プルミエル街のホテル「イストリア」に身を落ちつけた。わたしは、どうやらそこがたいへん気に入ったらしい。家は塔のように立っていて、廊下というものがなかった。狭い階段が一つと、いくつかの小さな踊り場、その小さな踊り場のうえに、五つの小さな戸口があった。すべてが、その頃としては新しく粋(いき)で、明るく、小ざっぱりとしていて、無駄というものがなかった。おのおのの部屋には、ペッド、枕頭台、硝子張りの戸棚、小さなテーブル、二つの椅子、洗面所などがついていた。壁はすみれ色と黄色の大きな縞模様で、まるで風変りな掛布団のようだった。この壁の中で、わたしは数年を幕らした……窓からは、エドガー・キネの大通りと広い空とが見え、夜にはその空をたくさんの光が流れ掠めた。わたしの持ちものといえば、タヒチ旅行に使ったトランクひとつだけであった……
 ホテル「イストリア」の頃は、わたしは若くて陽気で、言い寄る男や求婚者たちに手を焼き、無頓着で、無意識で、見たり聞いたりするものを知ろうとする子供のように、「無我夢中」に生きていた……
 「イストリア」には、マルセル・デュシャン、ジャンヌ・レジェ(フェルナンの最初の妻)、マン・レイ、ピカビァ、などが住んでいた。美女のキキが、光った鼻でやってきた……わたしは、しょっちゅうモンパルナスのカフェに行って、ロシヤ人たちと会った。すでに、イリヤ・エレンブルグは、自分のテーブルと友人と取巻き連をもっていた。わたしもまたそこに友人たちと、どれほどとも分らぬ敵をもっていた。つまり、パリ警視庁にいちいち報告を書いていた連中である……そんなことをわたしが知ったのは、数年後のことだった。警視庁にある、わたしについての調査書類は、膨大なものにちがいない。ソヴィエトと接触をもっているホテル暮らしの独身の女は、警視庁のねらう格好の餌食だった、ということに、わたしは気もつかなかった。わたしは自分がつけねらわれていることを知らなかったから、そんなことを気にもしなかったのだ」(『交錯小説全集』第一巻序文)

 こうしたパリ生活のなかで、ある日、エルザは、タキシードを着たひとりの若ものが、クローズリ・ド・リラの二階の窓から、身をのり出して、「アブド・エル・クリム万才!」とわめいている姿を見た。鉄かぶとをかむった数百人の警官が、大通りを埋めていた。アブド・エル・クリムは、当時フランスの植民地だったモロッコのリフ族の、民族解放闘争の指導者であり、それを弾圧するための、いわゆるモロッコ戦争(一九二五年)にたいして、パリの労働者たちは、ストライキによって反対していた。知識人たちも、その残虐な弾圧にたいして抗議運動を起こしていたのである。タキシードを着た若者とは、むろん若き日のアラゴンであった。それから四年後エルザは、その若者をよく知りたいと思った。窓ベで叫んでいた彼を見たからではなく、彼の書いた『パリの農夫』を読んだからだった。──『パリの農夫』を読んだとはいえ、見知らぬ者に関心を抱き、情熱を寄せるのがエルザの性格だった。
 「わたしは『パリの農夫』を読んだ。これほどわたしに近く、これほど近親で、ロシヤで言うように血縁的なものはなかったので、わたしはその作者を知りたいと思った。わたしはあなたに出会って、フランスにとどまった。一九二八年のことだった。
 わたしは、うつくしい『アニセ』を読んで、涙を流した。泣いた。しかも、この世に出ようとしていた『カムフラージュ』(エルザの小説)もまた難破の物語であり、自殺への序曲ではなかったろうか。わたしたちは出会うために熟していた」
 こうして運命は、一九二八年十一月六日クーポールの酒場で、エルザとアラゴンとを結びつける。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

ラビーニア


 エルザはロシヤを離れる

 一九一八年、エルザは、あるフランス人と結婚するために、ロシヤを離れる。この結婚の相手は詩をかかなかった。かの女は一九一七年に、生れ故郷のモスクワで、彼と出会ったのである。出がけに、かの女はすぐまた帰って来れるものと思いこんで、ちょっとした旅行に出かけるくらいに思っていたのである。「運命とは、政治だ」ということを、かの女はまだ知らなかった。つまり、十月革命が偉大な出来事だということは、よくわかっていたとはいえ、四方の国ぐにが、その扉を閉ざしてしまうなどとは、かの女には思いもよらなかったのである。こうしてエルザは生涯、郷愁の海のなかに投げこまれることになる。

 この頃の思い出を、エルザはその『マヤコフスキー』のなかに、こう描いている。
 「わたしの建築学校は、以前の貴族学校の中の、赤い門の傍にありましたが、この学校のすぐ横を通るノーヴァヤ バスマンナヤ通りで、外国行きのパス・ポートをくれた人がありました。パス・ポートを手渡しながら、そのお友達はこう言いました──《外国人と結婚しなきゃならないほど、この国じゃあなたにとってはもう男の人もいなってわけですか?》わたしの周りの人たちもこんな考えをもっていました。わたしはどんなことも誰の言うことも聞き入れませんでした。仕方なしにお母さまがわたしに同行する決心をなさいました……。
 一九一八年の七月でした。うだるような暑さでした。レニングラードの町は飢えとコレラのために死にそうになっていました。毎日市民は群れをなして死んでゆきます。彼らは往来でも、電車の中でもばたばた倒れてゆくのです。果物の山は腐っていました。こんなものを食べたが最後、コレラに罹るのでした。
 リーリヤとマヤコフスキーはレニングラードの郊外の田舎に住んでいました。わたしは二人にお別れに行きました。
 リーリャはひとりで、わたしたちをストックホルムに運ぶ船まで見送りに来てくれました。埠頭の上に見えたリーリャのあの姿はいつまでも忘れることができません。わたしたちが甲板にいた時、リーリャは一包の肉入りサンドウイッチをくれましたが、それは当時としてはひじょうに豪勢なものでした。褐色の髪の毛をうしろにかき払ったリーリャは、くっきりベニで描いた大きな口から、見るからに堅そうな歯並みをあらわし、みだらなほど表情たっぷりの顔には、まんまるな栗色の眼をきらきら輝かしていました……」(エルザ・トリオレ『マヤコフスキー』神西清訳)

 これで見ると、エルザはまわりの人たちの言うことには耳もかさず、この「外国人」との結婚に、がむしゃらに飛び込んでいったものらしい。わがままで、情熱的な若き日のエルザの姿が見えるようだ。ここにはまた、姉のリーリャの肖像があざやかに描きだされている。後年、アラゴンは『エルザへのほめ歌』のなかの『美女たち』において、このリーリャの美しさをうたうことになる。

  かの女たち 二人姉妹を並べても わたしはエルザを見わけよう
  二人のちがったところ 似たところを言いあてよう
  ひとりは黄金(こがね)いろの眼をもち ひとりはこの世と
    あの世とに開いた二つの窓のような眼をもつ
  それは 夢で見たクリミヤの 気の遠くなるような青空だ

  そうだ ここで二人の姉妹を結びつけるのが わたしの戦略だ
  おまえのように 歌われるために生れてきたリーリャは
  かの女の詩人にいつまでも耳傾けている──わたしも愛する
    その詩人は とあるタべ 自分の詩の上で死んだが
  決死の若者たちは 今もその詩を彼らの流儀で歌っているのだ
                           (『美女たち』)
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

アスピリンローズ


エルザの人となり

 少女時代

 エルザ・トリオレは、一八九六年、モスクワの教養にとんだ中産階級の家の次女として生れる。その家には因襲打破をかかげた未来主義者たちが出入りしていた。マヤコフスキーもそのひとりだった。こうして、マヤコフスキーとエルザとの交遊は、かの女の少女時代から始まる。その交遊の思い出は、エルザの『マヤコフスキー』にくわしい。
 「わたしは詩が大好きでした。寝床(ベッド)でお人形と遊ぶ年頃から、もうレールモントフとプーシキンの二冊のぶ厚い本を寝床にひきこんでいました。この二冊の本にはためになることがぎっしり詰っていました。いろいろな映像を読み取ることもできましたし、またそれを色どってみることもできたのです……
 そののち、わたしは軽蔑すべき例の「デカダン」詩人たちをほったらかし、いささかもその害を蒙ることなく、プリューソフ、バリモント、ブロークなどの象徴派詩人(サンボリスト)に手をのばしました。わたしはこれらの詩人たちがスケートでもするように歌っているのに気づきました。……わたしたちの世代にとって象徴派はすでにとやかく言う筋合いのものでもありませんでした……わたしたちには、新たな地震が必要でした。そしてマヤコフスキーこそこの地震だったのです。そうは言っても、わたしたちの世代の中で、マヤコフスキーの詩の影響を受けていた人びとは、いわば開拓者のようなものでした。彼らは開拓者に特有な情熱や、忍耐力や、果敢な征服欲を持たねばなりませんでした」(エルザ『マヤコフスキー』神西清訳)
 つまり、エルザは、一九一五年にすでに、きわめて難解な詩をとおして、ウラジミール・マヤコフスキーという、当時あまり知られなかった詩人を発見していたのである。このことは、後年パリで、『パリの農夫』を読んで、この見知らぬ作者アラゴンに深い関心を抱き、情熱をよせるにいたることを、前ぶれしているかのようである。
 エルザは、異常な時代と状況のなかに生れあわせて、異常な生涯を送ることになる。かの女は、その少女時代を、十月革命のさなかに送った。しかし、かの女が後にロシャを去るようになったのは、けっして十月革命のためではなかった。その頃の思い出について、エルザはこう書いている。
 「若い頃、さかんに読書に耽っていたわたしは、自分で書こうなどとは、思ってもみなかった。わたしの手紙でさえ、数はごく少く、短かいものだった。書くことによって、わたしはただ自分自身と通信していた。わたしが日記をかき始めたのは、たぶん十二才の時だった。数年のあいだ、わたしは、一冊のノートに、ここかしこに書きつづけた。こうしてわたしは自分の音階の勉強をしたのだが、音階については何も知らなかった。わたしは建築を勉強していた。しかし、犬とか猫とか鳥とかの動物たちが、同類を求めるように、自然にひとも、同類を探し、見つけあうものだ。わたしの友だちは、詩人ばかりだった。画家や、文献学者や、歴史家や、詩人や──友だちはみんな詩を書いていた。恋と芸術、生れつつある詩、セザンヌにおける林檎の重み、愛の神秘、それらのもので、わたしたちは、えんえんとつづく長いおしゃべりに花を咲かせていた……」(『交錯小說集』第一卷序文)
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

バラ


『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』

 まえがき

 愛しあうことがきわめて困難な現代にあっては、エルザとアラゴンのような模範的な愛は、一種の奇跡とも言えよう。そうしてかれら二人の名まえは、文学史上の高名な恋びとたちのリストのなかに書き込まれるであろう。
 アラゴンは、『断腸詩集』(一九四一年)から、『エルザの狂人』(一九六三年)へと、そしてこんにちにいたるまでなお、エルザへのかわらぬ愛を歌いつづけている。『エルザの狂人』という題名がしめすように、「エルザに憑(つ)かれたひと」の、老いを知らぬ情熱をもって歌いつづけている。
 エルザの詩人のこのエネルギーは、いったいどこから出てくるのだろう?
 エルザの詩人のこの愛は、いったい何を呼びかけているのだろう?
 アラゴン自身がそれに答えている。
「"わたしは愛する"、とわたしが言っても、ひとはわたしを信じてくれない。だが、わたしをよく見ていただきたい。わたしは恐らくは、ひとりの気狂いであり、恐らくは愛の奴隷であり、恐らくは阿呆であるかも知れない。しかし、わたしは諸君に申しあげるが、わたしはこの人生からただ一つのことを学びとったのだ。つまり、愛するということを。そしてわたしが諸君に望むことも、この愛するということを学びとる以外の何ものでもない」(『手の内を見せる』一三二頁)

 この本を書いているさいちゅう、エルザの突然の死が伝えられた。アラゴンの心中を察して、筆者もまた暗然とした。エルザは一九七○年六月十六日、波瀾にみちた七十四才の生涯を閉じた。かの女の枢には、アラゴンの心づかいで、かの女の最後の著書『鴬は夜明けに歌い止んだ』(一九七〇年)と、一輪の薔薇の花と、かの女が生前いつも身につけていた金の鎖とが入れられたということだ……また風の便りによれば、エルザの死後、アラゴンは窓を開ざし、カーテンをおろして、喪に服したということだ。アラゴンの慟哭がきこえてくるようだ。
 生前、エルザが病気で倒れたとき、アラゴンは、かの女を失いはせぬかという恐怖をこう書いた。

  とある夜 かの女の額がすっかり蒼ざめはて
  顔と手が 敷布(シーツ)にまがうばかりだったので
  わたしは自分が死ぬのではないかと思った
  毛布をたぐるその手も自分の手ではないかと

  とある夜 わたしの魂が死んだかと思った
  とある ひっそりとして凍(い)てつく長い夜
  わたしのなかで なにかが軋(きし)んだ
  わたしの中は 何か傷ついた鳥のようだった
                   (『未完の物語』)

 いまやこの恐怖は現実のものとなった。
 エルザは、アラゴンが『美女たち』という詩のなかで歌った、あの文学史上の美女たちの列に加わってしまった。かれがそのとき願ったように、「太陽に近いところ」へ、レジスタンスで朴れて行った英雄たちの近くへ行ってしまった。しかし、エルザは、アラゴンの詩とともに、アラゴンの詩のなかに生きつづけるだろう。

  もしもそこに エルザの名がなお輝いているなら
  もしもそこに 愛の言葉がなお熱く燃えているなら
  わたしは わたしに似た人たちの中に生れ変わる

 アラゴンが未来のなかに生れ変わるとすれば、エルザ=アラゴンという引き離しがたいひと組みとして生れ変わるに違いない。
 一八九七年生れのアラゴンは、一九一○年生れのわたしより十三、年上ということになる。ちょうどわたしの青年時代に──あの経済恐慌と戦争前夜の一九三○年代に、当時アラゴンたちがパリで華やかに繰りひろげていたシュルレアリスムの運動の波は、海を越えてわたしたちのところにまで打ち寄せてきた。わたしの手もとにも大版の雑誌『シュルレアリスム革命』や、その後身の『革命に奉仕するシュルレアリスム』が届けられた。それらの雑誌の表紙に蛍光塗料で印刷された大活字の表題は、闇のなかでぼおっと鬼火のように光って見えた……末熟なわたしのフランス語の力などでは、その中身を充分に読みとることはできなかったが、反抗、夢、狂気、突飛さの趣味、それらの中での絶望的な模索などは、ひしひしとわたしにも感じとることができた。わたしたち孤独な日本のシュルレアリストたちは、夜の街を、火を放って燃えあがらせた番傘をかついで歩いたり、曖味屋の屋根の上で踊ったりした。それは空しい孤独な反抗であり、まったくの愚行でしかなかった……やがて第二次大戦が始まった。燈火管制のしかれた暗い新宿の街を、わたしはアラゴンの『パリの農夫』やエリュアールの『ゆたかな眼』をふところに入れてさまよった。それだけが、当時のわたしの精神のよりどころであった。

 戦争が終って、あの敗戦後の混乱と瓦礫のなかで、『エルザの眼』や『フランスの起床ラッパ』を初めて読んだときの、あのめまいのするような感動を、わたしはいまも忘れることができない。

  ここ北仏の砂丘に 「五月」は死に
  ただよう春の香りを 砂は知らない

 この新しい叙事詩のなかの、余韻にみちた抒情の果てなさは、わたしを魅了した。それはかって読んだシュルレアリストの頃の詩とは見ちがえるばかりに、愛の叫びと魅惑にみちた詩人の歌ごえであった……それらの詩集のなかに鳴りひびいているフランス人民の英雄的精神、ナチに占領された百鬼夜行の暗黒の底でも、なお声高く湧きあがった新しい愛の歌、高くかかげられた光りと希望の色──それはほとんどわたしを圧倒したのだった。いくつもの嵐や試練がわたしたちを襲った時にも、わたしの思想や感情が混乱し、わたしが動揺した時にも、その光りと希望はわたしをささえ、わたしの道を照らしてくれたのである。ひとりの人間の人生を変え、その生き方を変えさせ、ひとに未来を覗きこませるような光りと希望を与えること──ここにこそ、アラゴンの詩のもつ深い力がある……
 この詩の深い力は、いったいどこから出てくるのか。あの夢と現実との、美と真実との、愛と詩との、まるで奇跡のような統一は、どのようにして成就したのか。その前方に、自殺という帰結しか見なかったシュルレアリストのアラゴンが、どのようにして偉大な愛の詩人、エルザの詩人となったのか。わたしはこの奇跡の秘密に近づいて見ようと思った。一つの言葉にも、しばしば、多くの意味や含みが与えられている、難解なアラゴンの詩は、わたしの手にあまるものであった。しかし、アラゴンの詩の魅惑にひかれて、わたしは敢えてそれを試みることにした。
(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』東邦出版社1971年)

エルザ