狼煙

ここでは、「狼煙」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


 大島博光記念館にて
                     重田

 大島博光記念館で、私は、私の祖父に再会するとともに、あるひとりの未知の詩人に出会った。
 記念館の裏庭に面した奥まったところに、祖父の書斎を再現した部屋がある。私が小さかった頃に見た、祖父の椅子の後ろにならべられていた、あの辞書のように分厚い本たち、それがいまアラゴン全集となって、私の眼に新しく映る。書斎に座る祖父の一枚の写真。その満面の笑みに、私の遠い記憶にある祖父の高笑いの声までが、そのまま閉じ籠められているかのようで、私は思わず耳を澄ませた。そのとき、この部屋には祖父がいる、と私は思った。その存在の絶対的な不在がゆえに、私はその空白を満たすかのように、祖父の存在をかえってありありと思い浮かべることができるのだった。
 これは私にとっての祖父との再会といえるものだったが、小さい頃とはちがい、私は祖父がひとりの詩人であったことを、いまでは知っている。書斎の丸テーブルに無造作に置かれたフランス書を何気なく手にとっていると、小林園子さんが私に言った。「これが詩人というものなのです。」その本には、翻訳なのか覚書のようなものなのか、広告紙の裏をつかって書かれたメモがたくさん挟まれてあった。祖父が詩人であったことを知ってはいても、容易に両者の像が結ばれないのは、小さい頃にしか祖父に接したことのなかった私としては無理もないのだが、園子さんの口からふいに「詩人」という言葉をきいたとたん、私のなかで祖父と詩人が、このメモ書が挟まれた本のなかで一点に結ばれたような気がした。ひとりの生活者としての自分から離れ、書物に思考を深く埋め、その思考が乾かないうちにさっと青いインクにのせて、かるやかな文字となってすべるように定着されていったかのような、詩人の仕事のきらめく破片、かけらたち。私はそんないかにも詩人らしい祖父の姿を、園子さんの言葉と一冊の本から、想像せずにはいられなかった。

        *

 記念館の入り口のわきに、詩碑がある。

  千曲川よ
  その水に風は足
  跡をのこし
  その水にわたし
  はきみの名を書く

 この詩碑をまえに、私は本当のひとりの未知の詩人に出会ったような気がした。それは、この詩にふさわしい、抑揚のある流れるような祖父自筆の字体で彫られてあった。ごく簡単な言葉の組合せが、これほどひとの心をさわがせるのは、どうしたわけだろうと、私は隠された秘密をさぐるように、何度も詩行の間をいったりきたりした。けれどもそこには、いってみるなら、詩の存在性、ともいうべき質感が、ただただ充溢していて、それ以外のものである必要はなかった。川も風も恋人も、詩句のなかにこれほど精確に配置されてみると、それらはほとんど、詩となるために存在している、とさえ思われてくるのだった。
 「天気のいい日には、このけやきの木の下のベンチで詩を朗読するのです。」
 と、詩碑のまえにちょうどよい具合にある憩いの場をさして、園子さんが言った。その日も天気が良く、木造りのベンチとテーブルのまわりには、樹立の梢の落とす五月の木漏れ陽が、まるで波の上にゆれる光りのように、溢れていた。
「このけやきの木は、博光さんがよくその詩に歌ったものです。」
 と彼女はつけくわえた。光と影に彩られた綾模様をながめていると、かつてけやきの木に託した祖父の想いが、いまこの地の上に木蔭となって保たれている、と私はふと思った。それは、詩人が言葉をひとつひとつ精確にならべ、配置し、きらめかすことが、地に飾られる木漏れ陽と葉翳のアラベスクが風にゆられる、その精確さに、どこかでつうじているように思われたからだった。詩碑に書かれた詩は、そんな木蔭のように、くり返しくり返し、私たちの心の上に、そのくっきりとした反映を刻むのをやめないように思われた。

(『狼煙』72号 2013.8 )
 「光陰矢の如し」、早くも五年がたちました。地元の方々はじめ、幅広い多くの人たちの熱意に支えられて、博光記念館は年々行事も多彩に持続展開され、今や博光さんの愛してやまなかった地元長野はじめ、ある意味で全国的な文化運動の一センターとして、活気を呈していること、ご同慶の至りです。朋光館長夫妻はじめ、小林その長野詩人会議代表、石関みち子事務局長らや多彩な詩友たちの献身的で持続的な努力によって、誇張すれば初期以上の活力と、幅広い文化界の人たちのお力ぞえにもよって、活力ある詩と歌とを軸にする、いわば「全世界的な」存在感が発揮されていることを、亡き博光さん夫妻もどれほど喜んでおられることでしょう。
 文字通り名ばかりの名誉館長として、これら多くの友人たち支援者の皆様に感謝しつつ、篤くお礼申し上げるとともに、自分の無力をおわびいたします。
 博光さんは、晩年まで病気がちだったのに、九十五歳まで文筆を奮い続けた希有の詩人でした。フランス・スペイン・ラテンアメリカ・ベトナム…と、訳業対象も二十〜二十一世紀の東西世界の平和と進歩・変革の大テーマに固く結びついていました。その中で、日本はどうあるべきか、自由と文化の闘いに生涯を捧げたのです。博光記念館が「全世界的」存在といえるのは、事業・運動の文化的内容がそういう筋道を、懸命に追究しているからです。
 それに比するつもりはありませんが、借越ながら戦時下「人生二十年」の呼号に半ば酔わされて陸軍航空士の卵だったぼくは、ついに馬齢を重ねて、八十六歳という今日を迎えてしまいました。「徒然草」に「われらが生死(しょうじ)の到来、ただ今にもやあらん…」との述懐がありますが、老いや死が不可避なことは誰でも承知です。けれども、正直にいえば、昨今の自分は病気や日常生活の不如意に脅かされつつ、認知症にだけは侵されまいと、歯を食いしばっている毎日です。ここのところ。長野の博光記念館まで出向くことも出来ずにいるありさまです。
 博光さんも発起人に加わった詩人会議は、昨年創立五十周年=半世紀を迎えました。その先頭に立った詩人壷井繁治が一九七五年九月に七十七歳で急逝したとき、詩人会議葬の葬儀委員長は六十五歳の詩人大島博光が担ったことなどを思い出します。こんな回想の繰り言も老いのれっきとした証拠なのでしょう。もちろん今日の日本と世界の動向に対して、恐るべき所は怒り、喜ぶべき所は喜び、近隣で闘うべき動向とは「老力」をもって闘う、その筋は博光さんに倣って、気概だけは堅持しています。
 博光記念館の存在と活動は、これからこそ大事な意味を高めて行くはずです。広い意味での世界の文化・芸術、民衆の創造力の発信点の一つとして、とりわけ若い世代の人たちに受け継がれることを切に願っています。
そこにこそ歴史的な時代の要請が感じられてなりません。博光さんの遺志の軸にも、それがあったにちがいないと思うこと切なるものがあります。
 遠くから信州に来られ、博光記念館へお足を運ばれ文化的交流を深める方々のことを「記念館ニュース」などで読むと、とりわけ嬉しくなるこの頃です。「御客様は神様です」という言葉が一時はやりましたが、来館される人たちのご感想、ご批評が、記念館発展のこれ以上ない栄養だという点でなら、正しい教訓といっていいのではないでしょうか。
 大島博光記念館とその文化運動のさらなる創造的発展を願いつつ…。
                               (2013・7・13)

<長野詩人会議機関誌『狼煙』72号>


のろし
のろし
     よろしく
                 小林その

ねえ
私 病気していろいろ出来なくなったんだよ
外見だけ見ると変わっていない
よくしゃべるし 歩いている
ところがそれがかえってくせ者
自分でも前のままと思ってしまうから大変
あれ?
手紙が書け無いどころか字が書けない
「数」がどこかへ行ってしまって時間も解らない

直に戻ると思っていたのに
どうもそんなに簡単じゃ無いみたい
有り難いことに落ち込まない性格に助けられて
 ちがうよ
 くよくよ落ち込む心配性で
 目の前の道に突然穴が開いて落ちたらどうしょうなんて
 性格は変わったんだよ いつの間にか
有り難いことに落ち込まない性格に助けられて
もうじき直る もうすぐ元に戻るって

パソコンの操作を少しずつ思い出して
手紙は出せるようになった
(封筒の宛名が書けてポストに入れた時の興奮)
出来ることが少しずつ戻ってくる

病気になって2年が過ぎた
おかげさまでって云わなくてはいけないね
ほんとに大勢の人がいてくれて
あっちからこっちから支えてくれて
隙間無いくらいに支えてくれて
ほんとだよ

算数はあまり期待できないから
お金心配から解放
複雑な込み入った事は上手く整理できないから
ごめんね
良いなと思うこといっぱいやる

わがままに 自分の思いのままに生きてきた
だから少しは反省して
なんて思わないんだよね
まだまだ もっともっとやりたいことを
まだまだ もっともっとやりたいことを
やりたいんです

 (『狼煙』第71号)
狼煙71
狼煙71詩
狼煙71もくじ
おめざ
                清美

父は、東京で
兄と創めた小さな工場をたたみ
姉を連れ、母の里に疎開した。
終戦後、私が生まれ、妹が生まれた。

空襲に怯え、都会の暮らしに馴染めなかった母が、
東京に戻ることを承知しなかったため、
そのまま、田舎暮らしを余儀なくされた。

そして、長野市内の印刷会社で植字工として働いた。
鉛に囲まれた裸電球の町工場
冬になると卒業文集等の受注が多くなるのか、
恒常的な残業が続いた。
遅くなる日は、会社から、お夜食といって、
イチゴジャムや、ピーナツジャムの食パンが、支給された。

帰りの遅い父を待てずに、私たちは寝ていた。
そして、翌朝、枕元におかれたパンを、
私たちは、「おめざ」といって楽しみにして食べた。

そのころ、父は何時に帰り
夕食に何を食べたていたのか、まったく記憶にない。

暗く寒い夜半、千曲川の木橋は、ガタガタと音をたてた。
家路に向かう父は、何を思い自転車をこいだのだろう。

給料は遅配、残業代は削られて、
それでも父は黙って働いた。
この不景気でと、頭を下げる社長に何も言えなかったと。

今は、母も亡く、父も亡く、東京生まれの姉も逝ってしまった。
幼かった殊に尋ねても、何も憶えていまい。

「おめざ」なんとも、懐かしくせつないことば。

<『狼煙』70号>
70号になりました

 1990年12月創刊の長野詩人会議機関誌「狼煙」が創刊70号を迎えました。
 意気高く発行部数500、季刊で始めましたが現在130部、年3回発行がやっとの状況です。
 存亡の危機にも遭いましたがそのときは、大島博光さんが千曲川から大きな声を掛けてくださって、何とか今日まで狼煙を上げ続けることができました。
 詩を愛し、詩を人生の支えと来られた、沢山の先輩との別れにも幾度となく出逢うことになりました。
 そのときにも最後は詩が励ましを与えてくれました。
 さらに、新しい詩の書き手が育っていることも希望です。
 迷いながらも、人生から、書くことから離れられないでいるのです。
 そろそろ 飛躍、脱皮の時を迎える頃ですね。
 詩集発行の準備をしている仲間が何人かいます。
 有り難いことに横浜詩人会議の皆さんからは、大島博光記念館で泊まりの学習交流会のお誘いを頂きました。
 この機会に詩を愛する皆さんの、大きな胸を借りて詩の喜び楽しみに溺れようではありませんか。
 狼煙は何度あげても良いのです。

     2012年10月15日   長野詩人会議

<『狼煙』70号>

狼煙
狼煙
狼煙
のろし


今号も原発廃止を訴える詩を石関さん、八町さん、宮沢さん、新村さんが書いています。

狼煙


のろし


狼煙

そのちゃん
                      宮沢栄一

「はい 大島博光記念館です」
母のようなやさしい声にホッとする
恋人のように時めく声にドキッとする
大島博光記念館を松代に建てた
大島博光記念館を全国に発信している
大島博光が好きで
大島博光の詩を愛して
夢も希望も幸せも、博光に学び
そして「狼煙」に活かす
おもしろい もっともっと書いて
これは君らしくない、自分でしっかり書いて
贋作を見ぬかれてしまった
倒れてもなお博光への思いと
詩への情熱は高まるばかり
平和への想いも高まるばかり
そうやっていっしょに歩む友がいる
大島博光記念館の電話の向こうから
「そのちゃん」のあの笑顔が話しかけてくる
「そのちゃん」をかこんで励ます友の話し声もする
だいじょうぶだよね
そのちゃん!

(「狼煙」第六七号)

狼煙
狼煙

狼煙

狼煙

狼煙
狼煙

昨年発行の予定が大幅に遅れましたが、ようやく発行になりました。
博光生誕100年記念の取り組みのうち
  「西條八十の素顔ー西條紀子さんを囲んでー」    石関みち子
  「大島博光生誕100年のつどい」            小林 その
  「イリーナ・メジューエワ、ピアノコンサートの印象  八町敏男の記事があります。
お求めください。1部500円です。(ご注文はメールまたは電話で記念館へ。

イリーナさんは、2010年度レコードアカデミー賞15部門の中の、器楽曲部門で最優秀賞を受けられました。
おめでとうございます。最高のものを聞かせていただいて、感謝いたします。

のろし
のろし
のろし


のろし



のろし

届いた絵
届いた絵

届いた絵

(長野詩人会議「狼煙」第64号)