チリ連帯 Solidarity with Chilean People

ここでは、「チリ連帯 Solidarity with Chilean People」 に関する記事を紹介しています。
千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


虹をシンボルに「ノー」の運動

高橋 その後チリ情勢は八八年の国民投票に向けて動き出しました。このとき、チリではいろいろな議論が起きていました。国民投票に参加するのは軍事政権の法体制を認めることだとか、自由選挙を要求すべきだとか。リティンが来日したとき、彼も国民投票はまやかしだと言っていた。
 僕が八八年七月にチリに行ったとき、日本でのイメージがズレていることが分かった。チリではおそろしく多様で豊かな色彩の運動をやっている。白黒イメージでなくて、カラーなわけ。虹がシンボルだった。希望の象徴であるとともに、いろいろな政治的色合いを持った人たちがひとつになっていることを象徴していた。そうした色彩豊かな運動だった。
 帰国してから明るい運動をやっているといっても、何が明るいんだなんて言われた。

立松 先生だけが喜んでいてギャップを感じた。

司会 あのときは本当にわからなかった。高橋さんはチリ人じゃないかと思った。ビデオを見てはじめてああそうかなと思った。

高橋 イメージをきちんと正しくもっていること、そうしたイメージにもとづいて手をつないでいくことが、本当に大事だし、また難しい。
  チリはこれで一つの区切りがついたが、これで終ったわけではないし、未解決の問題が残っている。軍は相変らず無傷だ。ただ軍の腐敗が暴かれてきて、軍の危機感がつのってきている。
 経済も問題だ。貧困は相変らず。しかも深刻なのはこれからどのような経済をつくっていくのか、発展の方向は何なのかというモデルが壊れてしまっていることだ。工業化をどうするのか、一次産品の輸出をどうするのか、外国資本にどのような態度をとっていくのかなど、昔の公式では通用しなくなっている。どこに活路を見つけていくのかが大変です。
 話は飛びますが、つくづく感じるのは文化の力です。歌とか、映像とか。歌を通じて参加してくる人が日本でも多かった。アルピジェーラ(壁掛け)も技術は稚拙だが訴える力をもっている。文化的な活力はすぐに効果は出てこないけれど、長期的には質の高い運動をつくっていくことになると思います。

山口 八一年十一月から高橋さんの論文が「ニュース」に初めてのった。そのタイトルは”腐朽化がすすむピノチェト体制──強まる弾圧と反撃のたたかい”というもの。チリ人民のたたかいを高く評価し、ピノチェトの側の弱点を浮き彫りにする。そのひとつの根拠がチリ経済の危機的な状況。それを引き出したのが、シカゴ・フリードマン学派の経済政策、とこうなるわけです。
 ゆきずまるピノチェト。ところが、これにたいしてピノチェトの側から戒厳令などの弾圧が強まる。暗い見通しとなっていく。この高橋さんの書くチリ情勢にしたがって僕らの情勢判断もゆれ動いていく。
(つづく)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って>

チリのたたかいは日本のたたかいに示唆

小松 東欧・ネパールも見たが、ひとつの世紀末の今日、あれだけ強い独裁を紙と鉛筆の力でひっくり返したチリ人民のたたかいは、一九九〇年代の今後の民衆のたたかいにひとつの指針を与えたものと思う。
 クーデター以後、独裁の十六年のなかで、草の根の民衆が一人一人できることで立ち上がっていくチリのたたかいは貴重だ。学んでいくことが大事だ。アジェンデ政権ができたときに励まされ、その後のきびしいたたかいのなかで励まされ、いまも励まされている。あの本(『チリ・嵐にざわめく民衆の木よ』大月書店)の出版はささやかな恩返しだ。
 今度は日本でチリの民衆がやったことをやる。それが真の連帯につながるのでは、と思っている。

司会 今まで共通して出てきた問題は、ピノチェトの弾圧がひどかったということ。そのなかで、八八年十月の国民投票の勝利が確信を持たせることになったということ。そのときの情報の収集を高橋さんがやって、その資料がとても役に立ったということなどです。
 皆が勝てないと思っていたチリ人民がどうして勝てたのか、そのあたりを今の状況にもふれて話して下さい。

高橋 年表を見ていると、思っていることと実際とのあいだにズレがありますね。僕は七八年頃にチリ連に引っぱり込まれたと思っていたけど、でもそれ以前から活動に加わっていたんだなあ。チリの建築家のミゲル・ラウネルの来日(七五年八月)のときには通訳をしたし。
 彼とは今も付き合っていますが、反軍政運動では大事な役割を果たした人だった。いまではすっかり白髪頭で、建築家組会の理事をしています。
 キラパジュンのとき(最初の来日)も通訳をやってますし、新庄さん(初代のチリ連専従)の指揮で封筒の宛名書きのバイトもやったな。
 でも本格的に始めたのは七八年頃です。横目でチリ連の活動を見ていて気になったのは、これは日本側の、きつい言い方をすれば独りよがりな、片思い的な運動だなということでした。チリの現状をあまり知らないでやっている。それでチリの状況を紹介する必要を強く感じた。
 ほかの国のことを理解するのは難しい。クーデターのイメージも違う。僕はクーデターの半年後、七四年三月に短期間ですがチリに行きました。
 ある晩、ピノチェト以下軍政の幹部連が建物から出てくる場面にぶつかった。そのとき、通りの人たちから自然発生的に拍手が起こって、これに強いショックを受けました。
 もちろん野次など飛ばせばすぐ引っぱられる状況だったから、このことを一般化するつもりはありません。現に僕自身、写真をとっていて捕まったこともありました。
 でも僕が目撃した光景は、メキシコで伝えられていた、圧倒的多数の国民を一握りの軍人が暴力で抑え込んだというイメージとは違っていた。クーデターが起きるにはそれなりの社会的な条件があったのだと思いましたね。そうしたことも伝えなければと思って始めました。
 ただチリ情勢についてはいつも読みまちがいをしていました。八三年五月からプロテスタ(抗議行動)と呼ばれる厳しい形での決起が起こった。毎月のように激しいたたかいが起きた。それでピノチェトの最後は近いなどと口走ったりしました。
 ああいう運動は分かりやすいですね。たたかうチリ人民というイメージにぴったりだから。でもそれが八六年にポシャる。八六年九月にピノチェトの暗殺計画が失敗して、直接行動型の反軍政運動が終る。
 それからしばらくは混迷状態に入ります。その時期に僕らはミゲル・リティンをよんだ。
(つづく)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って>

嵐にざわめく民衆の

アジェンデ夫人は日本の連帯に感謝

立松 マダム・アジェンデと娘のマリアさんを招いたときは、いろいろと大変だったけど、いまにして思えば、チリという皆があまり知らない国を知らせるいい機会だった。
 その後、アジェンデ夫人に何度も会う機会があり、その間に彼女はどんどん変貌していった。最後に会ったのは、八五年五月、彼女がナイロビでチリのことを訴えているのに出会ったとき、ブルジョア夫人が本当に大衆的な運動家に変っていたのにはびっくりした。
 会うたびに披女は言うんだけど、日本で運動が持続していのは誇らしいし、こんなに続いているのは日本だけで、感謝していると。
 正直なところ、一ペんひっり返ったものが、もう一度勝てるかどうか疑問をもっていた。
 途中から確信をとりもどしたのは、間島さんの発案で国労会館で日本の軍国化の問題とからめて集会をやったとき。やっぱり日本人がかかえている問題とチリの問題とは海をへだてていても密接なんだなと思いました。
 だからこそ、この間の勝利には感激しました。一番感激したのは、女たちが水をぶっかけられても「第九」を歌い、場所を変えてまた「第九」を歌う映像を見たとき。ああいう闘争は私たちはまだやっていないし、私たちはまだ余力があるなと思っています。

 はじめは文団連として間島さんといっしょにチリ連に出ていました。
 わたしは当時はチリを知らなかった。一九六九年から七〇年にキューバに行っていたとき、アジェンデの話を聞いて、チリに行きたいなと思ったが、結局行けなかった。そのときからチリに関心をもつようになりました。
 九段会館のアジェンデ夫人歓迎の集会のとき、舞台のうしろに何か書いてくれと言われ、でっかい画板を買ってきてつないで、大塚のガン研の大きな講堂を借りて、ぼくと飯野(紀雄)君とで描いてもっていった。
 それから何となく文団連のひとは出てこなくなったが,間島さんが何かと電話をかけてくるから、だんだんとチリ連と関係が深くなった。チリ人民支援の画展「ベンセレモス展」をやろうじゃないかと四、五人集めて、五、六回やった。小さな画集も出した。いっしょにやった絵かきもついてこれなくなった。たいして情報もないので、チリの問題を考えていくことができないわけね。あんた何してんの、絵を描いているより新聞読む方が中心みたいだね、なんて言われながらやってきた。まだ若かったんだね。

世界のチリ連帯運動

 最後の方では「ノー」の勝利のときには、本当に勝つのか分からなかったという感じは確かにありましたよ。ピノチエ卜独裁がきつかったんだよね。それで勝つときはテンポが早いという感じがしましたよ。
 長い運動のなかでいちばん印象に残っているのは、ピノチェ卜が外遊して、南太平洋のフィジーでストライキをやって追い返したという事件があったでしょ。あれにぼくはどえらいショックを受けたね。あのときはね。これはチリ人民は勝つなという感じがした。
 ピノチェトがタラップを降りてくる。ストライキで誰もいなくて役人がタラップをつないでやっと降りてくる。卵をぶつけられる。ホテルでもストライキ。勝手にやれってんで、飲み物も食物もなく帰った。あれはね、どうしてフィジーが、と思った。日本より情報が発達していない小さな国だよね。ああ日本は遅れてんな、人民の団結ってすごいものなんだなと感じた。
 最後のほうは、十何年になってどこでピリオドをうてるのか確信を持てなかったが「ノー」の運動でやっと持てました。
 チリの映画監督リティンが来たときもそうだった。たまたま息子がスペインに住んでいて、ミゲルが近所だったので、連絡して来てもらうことになったんだが、『戒厳令下チリ潜入記』に書かれていたチリの状況が変るには、まだまだずいぶん時間がかかるなと思っていました。それが、ふっと変ったのは「ノー」の勝利からだな。
 それからひどくこの運動で役に立ったのは、マスコミ情報の少ないなかで高橋さんが詳細に紹介してくれたチリ情勢だった。分からないことがパッと分かる。楽しみだった。
 アテネの国際会議(一九七五年十一月)に行ったとき、往復ともにローマの「民主チリ」に寄りました。なかなか訪ねられないところを、コネをえてやっと訪ねました。イタリアの大きな労組のビルの迷路のようなところを通って、奥の一部屋を「民主チリ」が借りていた。
 イタリアではずいぶん丁寧に亡命者を扱っていた。仕事につけてやったりね。責任者は若い人で、話を聞いているうちにこの人たちは大変だなと思った。世界中の労働者が連帯を強めている。若い人が中心となって働いている。これはうまくするといけるかなとあの時分から思った。

小松 一九七〇年当時の青年学生運動、六〇年安保や七〇年の変革のたたかいで、当時はひとつの高揚期だった。
 セイロン(スリランカ)で民主連合政府が成立し、チリで社会主義政権が選挙で成立し、その当時の青年学生のなかでは、つぎは日本だというイメージが強かった。美濃部革新都政をはじめ、社共が統一した革新自治体がたくさんできていたし、日本でも民主連合政府が実現できるのでは、という期待が強かった。
 当時、新聞記者で伊豆に取材に行っていたとき、お昼のニュースでクーデターでモネダ宮が燃えているのを見た。あのときの、チリの人民連合政権はわずか三年でひっくり返ったという印象が強く残っている。
 アジェンデ夫人が来日したときも取材した。チリのフォルクローレ・グループ「キラパジュン」が来日したとき、彼らの前で「隅田川」と「もみじ」を歌った記憶がある。「インティ・イジマニ」とも新宿にすき焼きを食べに行った。外相に申し入れに行ったときも同席した(日本政府がピノチェトを国賓として招待を決めた一九八〇年前後、チリ連代表は園田外相、大来外相、伊東外相に会い、ピノチェト招待中止を直接申し入れた)。節目、節目でチリ連と関わってきたという思いがある。いつかチリに行ってみたい気持があった。
 それがたまたまこのあいだ、ベルリンの壁が崩れる前後のドイツとか東欧の民衆の生活を見る機会があって、そのとき、チリがどうなるのだろうか、チリ連の活動をやってきた一人として、ジャーナリストとして見ておきたい気持ちが強くなった。
 高橋さんが一緒に行こうと言ってくれたのでこんどの仕事ができた。一人だけでは上っつらを見て終った気がする。
(つづく)

 *出席者
  山口啓二(歴史研究者)
  立松隆子(国際婦人運動家)
  谷 圭(画家)
  高橋正明(中南米研究家)
  小松健一(フォトジャーナリスト)
  司会 松野哲朗(チリ連常任委員)
  記録 大島俊介(チリ連常任委員)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号(最終号)1991年4月20日>
 チリ人民連帯日本委員会の解散にあたって

 一九八九年十二月のチリ大統領選挙で、反軍政・民主主義回復をめざす諸党派の一致して推すエイルウィンが勝利し、九〇年三月十一日に大統領に就任して軍政に終止符が打たれた。以来一年、チリ人民連帯日本委員会(チリ連)は、情勢の推移を見守ってきたが、チリ連結成の目的が基本的に達成されたことを確認し、来る四月末日をもって解散する。

 チリ連は、一九七三年九月のチリ軍事クーデターによる人民連合政府の転覆と流血の弾圧、民主主義の破壊に抗議し、チリ人民支援を訴えてきた団体と個人によって、七四年二月十九日に結成された。以来十六年余、チリ連はチリ情勢と日本国民の当面する課題とを結びつけ、チリ人民に連帯して運動してきた。

 結成当初の、アジェンデ夫人の招待を中心とする運動の高揚にひきつづき、ローマの「民主チリ」(人民連合亡命組織)と連絡をとりつつ国際会議や国際統一行動に参加し、来日する亡命チリ人との交流を進めたが、「民主チリ」との連絡がとだえた七九年からは、独自に情勢分析を行なって、ピノチェト来日反対を貫いた。

 八三年五月、チリ人民が公然と反軍政行動に立ち上がると、これに呼応して連帯運動を強め、『戒厳令下チリ潜入記』(岩波新書)などによる関心の高まりのなかで、潜入を果たした映画監督ミゲル・リティンの招待を成功させた。

 八八年の国民投票に向けた「ピノチェト・ノー」の運動、八九年の大統領選挙勝利をめざすチリ人民のたたかいの際には、たたかいの中で歌う民衆歌手二人を招待し、さらに九〇年三月の民政回復のあとには、勝利の喜びを歌うアンヘル・パラの日本公演を成功させた。十七年におよぶこうしたチリ連の運動は次のような意義と特徴を持っていたといえるだろう。

 第一に、チリ人民の軍政打倒・民主主義回復の成果は、何よりもチリ人民の、歴史に根ざした民主主義の力と不屈のたたかいによってかちとられたものであるが、国際的なチリ人民連帯運動がチリ人民を鼓舞し、軍事政権を孤立化させた役割も大きい。その一端を担い続けたチリ連の寄与も小さくはなかったと自負できる。

 第二に、チリ連の運動が、一貫して日本における自主的な運動として、日本国民自身の自由と民主主義の課題と結びつけてとりくまれ、それだからこそ、国際連帯の力を発揮できた。

 第三に、毎年パブロ・ネルーダ生誕記念集会を催すほか、文学、映画、演劇、美術、写真、音楽など多様な文化活動と連帯運動との結合がはかられ、運動を根付かせることができた。

 解散にあたり、これまでチリ連を担ってきた団体・個人と、運動に参加し支えてくれた全国多数の人びとが、民主的な国づくりに苦闘を続けているチリ人民にこれからも連帯の心を寄せ続けることを期待する。

 一九九一年三月十一日 チリ民政移管一周年記念日に
                      チリ人民連帯日本委員会

<『チリ人民連帯ニュース』第39号(最終号)1991年4月20日>
          
チリ連ニュース
座談会 チリ連の17年をふり返って
                            1974年〜1991年

司会 常任委員会の決定で、チリ連は目的が達成されたので解散することとなりました。そこでニュース最終号の中心記事として本座談会を企画しました。
 始めるにあたって、解散にいたる経緯、とくにチリ人民の一九八八年以降のたたかい、一九八九年の大統領選挙での勝利についてどう感じたか話してください。

予想できなかった勝利

山口 一九八八、一九八九年のたたかいは生々しい体験でした。ああいう形でチリ人民が勝つというのは予想していませんでした。
 はじめにチリ人民が決起した一九八三年以後、それに呼応して連帯も強めてきたが、軍事政権は非常に強固で弾圧をくり返し、これを突破するたたかいがどうやって出てくるのか、なかなか見えなかったというのが正直なところです。
 それが見え始めたのは、高橋さんが一九八八年に二度目にチリを訪問して見てこられたチリ情勢の報告を受けて、認識が改まった時からでした。
 「ノー」の運動の盛り上がりはアレよアレよという感じで、チリ人民の軍政反対・民主主義回復をめざす運動の発展を感動して見てきました。
 チリのビデオで、幅広い人たちの、しかも文化の香りの高いすばらしいたたかいを見ることができました。これはやるんじゃないか。「ノー」の勝利が次の大統領選の勝利につながるという確信をもちました。
 そういう段階でチリから歌手のダニエルとコロリンを呼ぶことになり、この場合も情勢をつかみきれなかった私たちの認識の古さもあって、諸団体の意思決定に時間がかかりましたが、なんとか意思統一でき、来日を実現して有終の美を飾れました。
 また故間島事務局長はチリへ代表団を送ることを提案していたのですが、これは全員の合意をえることができず実現できませんでした。ピノチェトの残忍な弾圧が強く印象づけられていて、代表団としてでかけていくことにチリ連としては責任が負えないというのが多数意見でした。
 それでも高橋さんと小松さんが個人として大統領選挙の最終段階にチリに行き、チリ人民の勝利の場面を見てきてくれたことで、チリ連としてもピリオドをうてました。お二人の著作『チリ・嵐にざわめく民衆の木よ』はチリ連の運動の最後を飾る役割を担ったものと言えます。
 アンヘル・パラの日本公演はチリ人民の勝利に連帯する日本国民の運動をもう一度盛り上げ、共に祝う役割を果たしたのではないでしょうか。
 私はアジェンデ夫人の来日歓迎以来、谷圭さんとともに運動の当初から参加しました。チリ人民の勝利の日まで参加できたことは本当によかったと思います。
 とくに高橋さんが、一九八八年七月以来チリヘ四往復してもたらしてくれた情報がチリ認識を変え、チリ人民の勝利をめざすたたかいと歩調を合わせることができたのは何よりでした。

司会 チリの最後の勝利にいたるなかで、八八年十月五日の国民投票が大きかったと思いますが、どう感じましたか、一言ずつ。

立松 個人的になりますが、アジェンデ政権ができたとき(一九七〇年)、国際民婦連の本部があるベルリンに滞在していました。私のアパートのとなりにチリ人のおばさんがいて、アジェンデ政権が成立したときに言ったのは、勝利して気になるのは、チリ民主勢力の核心部だったチリ共産党がほかの人と手をつなげていくことに修練が足りなかったこと、その点がこれからの課題なのだと言って、むしろそのことへの不安を感じていました。
 彼女は二人の息子がいて、一人はあのバスケット競技場で殺され、もう一人は行方不明となった。そういうこともあってアジェンデが殺されたあと、婦団連の米原美智子さんがアジェンデ(夫人)を呼ぶことを決めて帰ってきたのです。
(つづく)

出席者

山口啓二(歴史研究者)
立松隆子(国際婦人運動家)
谷 圭(画家)
高橋正明(中南米研究家)
小松健一(フォトジャーナリスト)

司会 松野哲朗(チリ連常任委員)
記録 大島俊介(チリ連常任委員)
(一九九一年二月九日、学士会館にて)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号(最終号)1991.4.20>

1989年12月、チリで19年ぶりに大統領選挙がおこなわれ、反軍政派の統一候補パトリシオ・エイルウィンが軍政側の候補を破って勝利しました。ピノチェトの独裁を終わらせた歴史的な選挙に立ち会った体験を高橋正明氏と小松健一氏が語っています。

チリ連ニュース

チリ連ニュース

チリ連ニュース

1988年10月、民主化要求の強まりに負けてピノチェトは大統領の任期延長を問う国民投票を行った。国民投票は反ピノチェト連合(ノーの運動)が創意工夫を凝らした大運動を展開して圧勝した。そして1989年12月の大統領選挙の勝利をめざしてエイルウィンを反軍政派統一候補として闘うことになった。
「サンチャゴに雨が降る」を見て 'Il pleut sur Santiago'

サンチャゴに

1973年9月11日の軍事クーデターの開始からモネダ宮での戦闘とアジェンデ大統領の最期、武器をとって抵抗する労働者や学生たちと制圧する軍隊、ファシズムに反対する最初のデモンストレーションとなったネルーダの葬儀までを描いた実録。途中に、1970年の大統領選挙でのアジェンデ当選発表をめぐるフレイ大統領と軍部、人民連合の息詰まる攻防や、アジェンデ政権下でアメリカ企業ITTの意を受けた資本家側がトラック業界や医師会に対しいくらでもカネを出すからと反政府ストをそそのかすエピソードなどが入り、クーデターの背景を描く。

サンチャゴに

「今までに見た中で一番重い映画」「映画が悲惨な結末で終り、その後の動きが入ってないので重苦しいわね」「クーデターの1、2年後に作られた映画だからその後は無理だね、ただ、力で押しつぶされても心はいつまでも忘れない・・・と未来への期待を語っていた」「ネルーダの葬儀の行進でもこれからの闘いを誓っていたね」
「軍隊の怖さと民主主義の尊さを感じた」「クーデターは単なる殺人を何百倍も上回る極悪な犯罪なのに、世に通用してしまうからひどい」
「アジェンデの最期の演説は実際の音声を使ったのですか?」「フランス語で作られている映画なので、そこだけスペイン語になるのは不自然、フランス語でしょうね」
「アジェンデの演説を放送したラジオ局が攻撃されたんだね」「ベネズエラでもそうだったが、軍事クーデターでは最初に放送局をねらう」「ラジオが『サンチャゴに季節外れの雨が降っています』と言って危機を伝えたのも、クーデターを直接報道できなかったからではないか」
「アメリカの銅山会社(アナコンダ)が42年間に42億ドルも収奪したのもひどいね。国有化で利権が奪われたアメリカ資本がクーデターの背後にいるのがわかるね」
「ピノチェトは国有化をやめて主人たるアメリカ資本に戻した。また新自由主義を最初に導入して新自由主義の実験場とし、世界に広がるさきがけとなった。貧富の差が拡大して庶民は苦しむことになった」

<原発とオリンピックの話になり>
「汚染水の問題がどうなるか分からないのに安倍首相はひどいね」「オリンピックに回すカネがあったら福島に当てるべきだ、福島に最大限の力を注がないと」
「今の状況にわたしも何かしなければと思うけれど、どうしていいかわからない」「アルピジェラを作りましょう、アルピジェラに今の自分の思いを描き、広めることが力になる、というのが伝道師バシックさんの教えです」

民主化への流れはもはや止められない
                チリ情勢について有延出氏にきく

 昨年十月の国民投票で「ノー」が勝利し、反軍政運動は大きく前進しました。今年十二月には、大統領選挙と国会議員選挙が予定されており、民主化に向けてチリはいま大きな山場を迎えています。国民投票をめぐるチリ情勢と今後の展望について、中南米研究家の有延出さんにお話を伺いました。

チリ連ニュース

 ──早速ですが、国民投票での「ノー」の勝利の意味からお話し下さい。
 有延 一口で言って、これによりチリの民主化の過程がいよいよ最終段階に入ったなという気がします。国民投票の結果によって軍政側と反軍政側の力関係は逆転したと言えるでしょう。何しろ、国民の多数はピノチェトを支持していないことがはっきり数字で示されてしまったのですから。一時的な逆流はあっても、民主化への流れはもはや誰にも止めることができないと思います。
 ──ピノチェトが自分で仕掛けた国民投票に敗れるなんて予想できなかったんですが。
 有延 当初、チリの反政府勢力の中にもそうした意見がありました。ピノチェトはすでに一年以上前から、大々的に選挙運動を開始していました。文字通りの官営の選挙運動です。何しろ国と地方の行政機関、それに陸軍を丸ごと選挙運動組織として動員し、国の予算を選挙資金として投入したんですから。また政府の統制下にあるテレビで大宣伝をくりひろげました。ですから、当初、反政府勢力の間では悲観論が強く、国民投票への参加に消極的な意見も少なからずありました。票の操作など不正への懸念も大きかったですし。しかし、チリの反政府勢力は国民投票に参加する道を選びました。それからの運動は実に見事なものでした。
 ──その一端を紹介して頂けますか。

 「ピノチェト・ノー」をもたらした運動の背景

 有延 まず、統一の実現です。ピノチェトは野党の分断を狙っていました。穏健な中道政党には活動を認めてアメを与え、他方、左翼勢力にたいしては弾圧して排除しようとしたのです。しかし、反軍政勢力はこれに乗りませんでした。昨年二月、右派から左派までの十六政党が協定を結んで、国民投票をめざして共同行動をとることになったのです。これほど幅広い統一はかつてありませんでした。そして「ノーをめざす運動本部」がチリ全土にわたって組織されました。そこで様々な党派の人から無党派の人までが、文字通りともに肩を並べて活動したのです。また、不正を許さない体制を創り出しました。投票と開票を監視する立会人をすべての投票所に配置し、開票結果はただちに中央本部に連絡する休制が組まれました。また、非常事態令や亡命者帰国禁止措置の解除がない限り国民投票は無効だと牽制し、政府から一連の自由化措置を引き出しました。
 ──テレビでの宣伝も効果が大きかったと聞いていますが。
 有延 ええ、テレビの利用を要求して、結局、賛成派、反対派に十五分ずつ無料で宣伝を行なうことを政府に認めさせたのです。もっとも、それ以外の時間はピノチェト側があいかわらず独占したままでしたが。でも、このわずか十五分がとても大きな効果を生みました。それまで決まり切ったピノチェト賛美しか聞かれなかったブラウン管から初めて、これとは違ったメッセージが豊かな色彩、親しみやすい音楽とともに流れてきたのですから。この番組の制作には知識人、芸術家、広告業界の人々が無償で協力を申し出て、毎日、創意あふれた番組が制作され、放送されました。この点については別の雑誌に詳しく書いたのでぜひそちらを読んでいただきたいと思います(「チリよ、喜びはもうすぐやってくる」『文化評論』一月号)

 年末選挙で新しい前進めざす民主勢力と混迷深める軍部

 有延 軍政支持派は敗北によって混迷状態に陥りました。まず大幅な内閣改造や軍首脳の更迭が行なわれました。さらに軍政支持勢力の内部対立が激しくなりました。極右勢力は非民主的なピノチェト憲法護持を叫んでいますが、右派の有力政党、国家革新党(RN)は軍政から距離をおき始めました。同党は憲法改正は必要だとして、反政府政党と話合いを進めています。他方、今年十二月に予定される大統領選挙をめぐっても、右派勢力の間では複数の候補者が分立している状態です。ピノチェトを次期大統領侯補として擁立しようとする声はもうほとんど聞かれません。
 ──反政府勢力の側はどうなんでしょうか。
 有延 反軍勢力は統一を引続き強固に維持しています。国民投票に向けて反政府十六政党がつくっていた「ノーをめざす政党協議体」は「民主主義をめざす政党協議会」へと名前を変え、現在、十二月の大統領選挙をめざして、統一候補の調整と統一綱領作成に向けて準備を進めています。
 ──十二月には国会議員選挙も同時に行われるそうですが。
 有延 そうです。問題なのはむしろこちらの方でしょう。政府は全選挙区で定数二名との新たな選挙制度法案を発表しています。これだと、反政府派が上院で、悪法改正に必要な三分の二を確保するのはかなり難しくなります。さらに国会議員選挙では政党間の競争になりますから、反政府諸党がどのように候補者を調整していくかという難しい問題も出てきます。
 ──その際、共産党など左翼政党は選挙に参加できるのですか。
 有延 今の憲法はマルクス主義を禁止していますから、たとえ政党登録を望んでも許可されないでしょう。また今の非民主的な政党法の下で政党登録をすることを望まない左翼政党もあります。そこで考え出されたのが、選挙に目的を限定した政党の結成です。「民主主義をめざす党」(PPD)、「社会主義左翼拡大党」(PAIS)はこうして生まれました。ともかく、どんな悪条件の下でも、これを乗り越える方法を考え出してしまう知恵には本当に感心してしまいます。
 ──最近、パラグアイで独裁者ストロスネルを倒したクーデターがありましたね。
 有延 ええ、新政権の性格はまだよく分かりませんが、選挙の実施を約束しています。これが民主的に実施されれば、南米に残る独裁政権はチリだけだということになります。ピノチェトはパラグアイに行く準備をしておけ、というのが反政府派の集会で聞かれたシュプレヒコールですが、ピノチェトは最後の盟友とともに亡命先まで失ってしまったというわけです。

 (『チリ人民連帯ニュース』34号 1989.3.20)

壁 画 Mural

壁画

 チリの反政府勢力、とくに左派の芸術のひとつに壁画(ムラル)がある。二十四日のリサイタルの舞台となった公園の南側に面した教会の壁にも数十メートルにわたる壁画がみられた。人民連合時代から有名だった共産党系のラモナ・パラ隊をはじめ、さまざまな壁画グループが、自由を求める民衆の闘いをカラフルに、力強いタッチで描いた。
 「勇気のこもった歌は、永遠に新しい」というビクトル・ハラ作「マニフィエスト」の一節の横で、こぶしを振り挙げた若者のもつギターの共鳴穴から、四羽の白い鳩がとびたつ。胸から血を流し横たわる女を両手で抱きあげ、前方を見つめる男、彼の方にふりむき両手を広げ、「さあ、行こう。」と呼びかける長髪の若者、その横には褐色の上半身をさらし、棍棒で黒ずくめの男を攻撃する先住民アラウカーノスの男、その前ではもう一人のアラウカーノスの勇士が頭上にふりあげた鎖を断ち切る。さらにその右には、チリの国旗をなびかせ、馬に乗ったアラウカーノスの勇士を先頭に、男が女がこぶしをふり上げながら進んでくる・・・。
 チリの壁画の大部分はいわば時間芸術だ。ポブラシオンの内部以外の場所では、当局の手により数日以内に消されてしまう。しかし、チリ民衆の自由への希望と想像力そのものを消すことはできない。チリの街に壁というものが存在するかぎり彼らは描き続けるだろう。ある絵にはヘルメットをかぶった三人の鉱夫の顔の横にこう書かれていた。「独裁制に反対し、天まで描こう。」

 「ノー」のバッチ

 八月ぐらいから、「ノー」と書かれたバッチをつけて街を歩く人々の姿が目立つようになった。これはサンチアゴの中心街の路上や反政府集会などで売っているものだ。単に「ノー」、あるいは「勝利するまでノーを」という文字の書かれたものから、人気風刺漫画のキャラクターの女の子マファルダのにっこり笑った顔の上に赤い字で「ノー」と書かれたもの、スヌーピーが白い壁に赤ペンキで「ノー」と書いているもの、銃剣をかついで左方向に行進する軍人の隊列から抜けたひとりが赤いバラを掲げて石に歩いていく姿を描いたものまで、ユーモアと芸術性にあふれた実にさまざまのバッチがある。
 政府支持派もこれはいかん、とばかりバッチを売り出した。模倣は彼らの専売特許だ。しかし実に能がない。白地に赤青の二重線で「シー(イエス)」と書かれているものだけだ。
 街を行く人々を見ても「ノー」のバッチをつけた人の方が圧倒的に目立つ。これは、ノーの支持者の方が多いということだけではなく、彼らが人前で政府への反対表明することを恐れなくなったという重要な事実を示している。

ガラガラの軍事パレードとフォンダ「ウマノィデ」

 ピノチェ候補への人気のなさを如実に示したのは、九月十九日、オヒギンス公園で行なわれた軍事パレードだ。アジェンデ時代まではサンチアゴ市民の楽しみの一つで、みな弁当を持ち、家族連れで見にいったというパレードも、ピノチェ期に入るとずいぶん人気がおちたようだ。
 今年のパレードをテレビで見た。軍人、カラビネ一口ス関係者などは家族ぐるみで出席しているはずだが、それにもかかわらす、テレビカメラのとらえる客席はあわれなほどガラガラであった。黒いサングラスをかけたCNI(国家情報局)の屈強な男たちに囲まれ、ピノチェが入場してくると、ガラガラの見物席からピーピーとこれをヤジる口笛が聞こえてきた。一緒に見ていた友人は、こんなことははじめて見たと楽しそうに笑っていた。選挙を二週間前にひかえ、重要な選挙効果を持つはずであったパレードは、完全に裏目にでたといえる。
 さて、パレードが行なわれたオヒギンス公園の一角に林立したフォンダ(臨時木造酒場)は、独立記念祭の最終日をむかえ、実に多くの人でごったがえしていた。もちろんノーのバッチをつけた人も多い。もともとぶどうからつくる飲料チチャやワインをのみクエカやクンビアを踊るフォンダも、今年は異色のものが見られた。最も人気のあったフォンダが「フォンダ21・もとウマノイデ」。「21」は整理番号、「ウマノイデ」とは、先日メリーノ提督が反政府勢力につけた名で、「外国(特にソ連)に操られた人造人間」という意味だ。これに対抗しわざと「ウマノイデ」という名のフォンダを出そうとしたところ、区長に禁止されたため「もとウマノイデ」と改名?したのだ。満席の店内では、ロック・グループが反体制的な歌を演奏し、店内の客から外で立ち見している人まで一緒になって手拍子をとってこれに応えていた。右派の一部から中道、左派まで幅広い反政府勢力にマルクス主義者の短絡的レッテルを貼ることにより少しでも浮動票を獲得しようとしたメリーノの発言もむなしく、みんな心から楽しそうにウマノイデしていた。
 国民投票を目前にひかえた九月のサンチアゴは反ピノチェの気運にあふれていた。あまりにも長い間拒否されてきた自由を求めるチリ民衆の創造性と不屈の精神が歌・踊り・壁画・ポスター・凧・叫び声など、様々な表現となり街にあふれでた。
 十月五日、自由と民主主義の回復への道のりを一歩前進した民衆は、すぐに次のシュプレヒコールを編み出した。
 「ピノチョ・コモ・エスタイ、パ・イルテ・ア・パラグアイ(ピノチョよ、パラグアイに行くための準備はどうだい。)」
       美原 伴平

(『チリ人民連帯ニュース』33号 )

イジャプ、インティ・イジマニのリサイタル Ijapu, Inti Ijimani

 八月末に政府は国外追放者の帰国許可を発表した。ピノチェが国民投票に向けての宣伝効果をねらって行ったことに間違いはないが、連日のように感動的な再会が実現した。七三年のクーデター以降亡命していたアジェンデ大統領夫人オルテンシア・プッシが帰国した九月二十四日、「ノーのための無党派」の呼びかけで、やはりラ・バンデーラ公園でイジャプ、インティ・イジマニの合同リサイタルが開かれた。イジャプはチリ北部アントファガスタ出身のアンデス系音楽グループで、八年の間亡命していた。インティ・イジマニはいうまでもなく、一九六〇年代後半以降、キラパジュンと並び新しい歌運動の中心的存在として活動してきたグループで、クーデター以降十五年の間イタリアに亡命し、演奏活動を続けてきた。両グループとも数日前に帰国したばかりである。
 イジャプが自由をテーマにした曲パロマを歌う。これは、反政府系のラジオでよく流されていた曲だ。パーカッションの音に合わせてメンバーの一人が「イ・バ・ア・カエール」と誘う。会衆も即座に反応した公園に十万人の「イ・バ・ア・カエール」の声がこだまする。
 インティ・イジマニが人民連合時代に聴かれた器楽曲タタティを弾き始めると、「ウォー」という歓声とともに大きな拍手が会衆の中から湧き起った。ビオレタ・パラの「南から追放されて」、ビクトル・ハラの「鋤」、亡命先イタリアの人々に捧げた器楽曲などを次々に演奏。「団結した民衆は決して敗れない」を弾くと、リフレインの「エル・プエブロ・ウニード・ハマス・セラ・ベンシード」の部分は、公園を埋めつくした会衆も一体になって大合唱だ。最後にチリの国民舞踊クエカを二曲演奏すると、そばにいた男女の若者二人がごく自然な形踊り始めた。女性の方は白いハンカチの代わりに、白地に赤文字で「勝利するまでノーを」と書かれた小旗を右手につかんで踊っている。近くにいる人々もたちまちこれを取り囲んで口笛を吹いたり手拍子を打ってはやしたてる。こういった政治的なリサイタルの場でも心から楽しむことをチリ人は決して忘れない。
 約三時間にわたったリサイタルは大成功に終わった。ピノチェの意図がどこにあるにせよ、何年間もの間引き裂かれていた自由を求める二つの声が一つに溶け合ったこのリサイタルが反政府勢力の意気をさらに高めたことは間違いがないようだ。

シュプレヒコール Yelling in chorus

 さて、こういった反政府系の集会につきもののシュプレヒコールにも実にさまざまなものがある。「イ・バ・ア・カエール」や「エル・ケ・ノ・サルタ・エス・ピノチェ」については既に述べたが、「エル・プエブロ、ウニード、ハマス・セラ・ベンシード(団結した民衆は決して敗れない)」という古典的なシュプレヒコールからも、この3・3・7という音節数と押韻の規則を守りながら次々に新しいものが作り出されてゆく。
 二十四日のリサイタル終了直後、ラ・バンデーラ公園で生まれたシュプレヒコールが「ピノチョ、ルシーア、テ・ケーダン・オンセ・ディーアス(ピノチョ、ルシーアよ、お前らはあと十一日の運命)」である。ある若者が即興的にこれを叫ぶと近くにいた者たちが「それ、いいね。」といい、声を合わせる。周りにいた人たちもすかさずこれに加わりみんなで声をはりあげて合唱する。リズムと韻を楽しみながら自分たちの気持ちをシュプレヒコールにこめ、力のかぎり叫びそして笑う。シュプレヒコールひとつにもチリ人の創造性とユーモアが顔をだすのだ。

(つづく)

(『チリ人民連帯ニュース』33号 「『ピノチェト・ノー』勝利の前夜 現地からのレポート」美原伴平)

チリ連ニュース
『ピノチェト・ノー』勝利の前夜 現地からのレポート
                               美原伴平

 去る十月五日の国民投票で「ノー」が勝利し、ピノチェトは国民の多数から不信任されました。チリの民主化への歩みは大きく前進しました。国民投票直前のチリの様子を、最近までチリに滞在されていた美原伴平氏に報告してもらいました。

ノーの勝利

国民投票直前のチリの気運

 九月十日、七三年のクーデター以降はじめて大規模な左派系合同集会がサンチアゴ南部のラ・パンデーラ公園で開かれた。公園といっても、同名のポブラシオン【低所得者層の居住地区】の北端に広がった、いわば空き地だ。ポブラシオンの中から、そして外から、各政党の旗、虹の絵とNOの文字の書かれた旗、チリの国旗を掲げた人々が何十人、何百人の群となって力強く進んでくる。
 公園の南西に位置する区役所の中に、その前を通る「反体制分子」の写真を撮る職員の姿が見られた。しかし、住民はもう抑圧を恐れてはいないようだ。反政府勢力の合い言葉、「チリ、もう喜びがやって来る」を唱いながら歩いてきた若者グループの中の一人の女の子が、わざわざそちらの方を向いて「こっちこっち」と叫びつつⅤサインを向ける姿が印象的であった。
 バスでやって来る者、自動車でやって来る者が、「イ・バ・ア・カエール(もう倒れるぞ)」のリズムで、パパッパパーとクラクションを鳴らす。道を行く者が、にっこり笑ってこぶしを振り上げ、これに応える。それは、自分たちの共通の闘いによって必ずよりよい社会をかち取るのだという』決意を確認しあうかのようであった。
 公園には、共産党、社会党、キリスト教左派、急進党など、さまざまな旗がひらめく。アジェンデ大統領の顔を描いた垂れ幕も見える。住民の話では、中道のキリスト教民主党のグループもいたという。一方、武装闘争路線のMIRの若者たちも、公園に面した四階建てのアパートの屋上にのぼり、へりをドンドコ・ドンドコと叩きながら、さかんに気勢をあげていた。他の参加者たちも、そちらの方をみては「うん、やっとるな」といわんばかりにニヤッとしている。若者のグループ、男女のカップル、子供や赤ん坊をかかえた家族連れ、老人など、実にさまざまな年令の人々が見られた。
 さて、集会の内容も、各党の代表者の演説の他、「自由よ、お前の名を呼ぶ」を歌ったイサベル・アルドゥナテ、詩を朗読したケレンタロ、ロックグループのロス・プリシネオー口スの演奏などバラエティに富んでいた。舞台の下には、ポブラシオンの子供たちに囲まれて歌うビクトル・ハラを描いた垂れ幕が下がっている。
 集まった者も、ただ黙って聴いているだけではない。演説や歌の合い間に、「イ・バ・ア・カエール」と叫ぶもの、「エル・ケ・ノ・サルタ・エス・ピノチェ (跳ねないやつはピノチェ)」と言いながらピョンピョンと跳ねるものもいる。それにつられて、同心円状にピョンピョン跳ねる者の輪が広がっていく。「ノー」と書いた色とりどりの凧を天高く揚げるもの、プラスチック製の安価なラッパを口に当て、「イ・パ・ア・カエール」のリズムでププッブプーと吹く者の姿もあちこちに見える。政党の機関紙を売るもの、「ノー・アスタ・ベンセール(勝利するまでノーを)」と書かれた小旗やはちまきを売るもの、アイスクリームや一本売りのたばこを売って回るものもいる。街の建物や塀に壁画を描く共産党系のラモーナ・パラ隊のカンパを集めて回る若者もいる。
 ポスターを売っていたので近くに寄ってみると、思わず笑ってしまった。そこには、セクシーな若い女性が「ノー」にちなんださまざまな言葉を語る姿がえがかれていた。医者の前で「先生、もう喜びがやって来るわ」というビキニ姿の女性、エレベーターの中でその気になっている中年紳士に向かって「アキ・ノー(ここじゃダメ)」という超ミニのエレベーター・ガール……。さまざまな形で弾圧を受けながらけっしてユーモアを忘れない、ここにチリ反政府勢力のしたたかさを感じた。
 集会は大成功で、数万人もの人々が集まった。「ノー」が多数派であることを確信し、気勢をあげつつ、夕暮れのアメリゴ・ベスプシオ通りを通って、あるいはポブラシオンの中に帰っていった。
 
(つづく)

(『チリ人民連帯ニュース』33号 1988.12.20)
 おまえたちを殺す口実を 私に与えてくれ

 捕虜たちは黙ってサンチャゴにあるチリ国立競技場の指揮官の声に耳を傾けていた。一万をこえる人々が、大統領官邸の爆破以後ずっと勾留されていた。彼らのほとんど全員が、ここに来る前ずっと警察や兵舎で拷問を受けていた。
 まる一日もの間、彼らの大部分はまったく食物を支給されていないことを忘れて、彼らはアルバラド指揮官の声を聞いていた。──「おまえたちは戦争の捕虜である。おまえたちはチリ人ではなく、マルクス主義者であり、外国人なのである。よって、我々はおまえたち全員を殺すことに決めた。お気の毒ではあるが、私は喜んでそれを行うだろう。もし、おまえたちの中に、私がいくらか憐れみを感じるかもしれないなどと思うものがあったら、そんなことは考えない方がよい。この収容所を生きて出ることはできはしないのだ。
 私は評議会政府において、上官から特別の指令をうけた。私は、好きなようにお前たちを扱うことができるのだ。もし、そうしたいと思うなら殺すことさえできるのだ。私にそれを行う口実を与えてくれ。機関銃の弾が、どんな風に体を真っ二つに引き裂くか試してみたいなら、ただおまえたちの一人が動いたり、ちょっとでも怪しい態度をとりさえすればよい。それも、私が怪しいと思いさえすればよいのだ。では、おやすみ」(国立競技場から脱出した一人からの報告)
──世界平和評議会「チリ連帯ニュース」より──

<「チリ人民連帯ニュース」創刊号 1974.3.25>

国立競技場
National Stadium in Santiago used as Prison

 国際民婦連代表団調査報告について

                    婦団連国際部長 米原美智子

 ことし一月、クーデターの後のチリの状態を調査するためチリに国際婦人代表団を派遣した国際民主婦人連盟(WIDF)の報告によれば、すでに軍事評議会によって八万人が虐殺され、首都サンチャゴ市だけでも、一万五千人の男女、老人や子どもたちも殺されています。
 また約一万八千人がいまも牢獄や強制収容所につながれており、十五万の人びとが解雇されました。
 多数の高校教師や大学教授が教壇から追われ、数千の学生が高校や大学から追放されました。このことは二十五万をこえる家族が、無収入のまま何ヶ月も放っておかれることを意味し、これに平均十倍にのぼる物価騰貴が追いうちをかけています。
 連日つづけられているテロ刑の執行、拷問、人狩り、逮捕の恐怖に加えて、毎日のパンを手に入れることさえできないという不安が、ますますつよまっているのです。
 また、非常時態法が発令中で、装甲車と重装備の軍人がパトロールしており、代表団は滞在中、毎夜、銃声を耳にしました。投獄されている人びとの運命については、まったく不明です。
 軍事評議議会によって外界から完全に遮断され、裁判に訴える権利も、法廷で自己を弁護する権利も、面会を受ける権利も奪われています。
 同代表団は、人民連合政府を支持した婦人たちが、正式の調査も裁判もうけずに収容されているサンチャゴ収容所を訪問したいと要請しましたが、軍事評議議会によって拒否されました。
 代表団は、この報告のなかで、チリ軍事政稚によるこの憎むべき人権侵害は、国連をふくむ全世界の大衆、国際諸組織にもっとも強力な行動をおこすよう求めているとのべ、チリ軍事評議会にたいし、人権擁護の諸原則を守るよう、ただちに影響力を行使することを要請しています。

(『チリ人民連帯ニュース』創刊号 1974.3.25)
 チリ人民連帯日本委員会は創立集会が1974年2月19日に私学会館(東京)で開かれ、発足しました。その詳細が「チリ人民連帯ニュース」創刊号(1974.3.25)で報じられています。
*   *   *   *
「チリのファシスト軍事独裁政権によるチリ人民連合政府の暴力的転覆と流血の弾圧、民主主義の破壊は、ファシズムに反対し民主主義を愛する世界の人びとにたいする許しがたい挑戦である。ヒューマニズムと国際連帯の精神にもとづき、チリ人民との連帯のために奮闘しよう」とのわが国各界著名人三十四氏のよびかけにより、二月十九日、チリ人民連帯日本委員会が発足しました・・・。

「チリ人民連帯ニュース」

「チリ人民連帯ニュース」創刊号(PDF)