詩人の部屋─三鷹の家の思い出─
尾池和子
「お姉さんは三鷹が良くて、すぐ帰っちゃうんだから」静江夫人の妹さんがそう話されていた、と大島さんは目を細めるようにして語られました。
戦後すぐ松代から移られたという家は、その後「静江夫人の先見の明」により洋風に模様替えされたそうで、黄土色の一枚板の玄関ドア、レの字型の彫刻刀で彫りつけたような飾りのある柱や梁、いくつかが点かなくなっている埃の乗った骨太の木組みのシャンデリアなどに、どこか別荘風な趣きがありました。
金魚が泳ぐ可愛らしい池のある庭に面した南向きの、さんさんと陽が入る居間兼食事室を、大島さんは晩年の仕事部屋として使われていました。夫人の描かれた紫陽花の小さな油彩画が、天井近くの壁に少し傾いてかかり、左隣にはうつすらと埃の影のある白い石膏のヴィーナスの頭部の遠いまなざし、その下の灰色の布張りの肘掛椅子が大島さんの居場所でした。手紙やお知らせや書きつけの紙類が山と積まれた、粗い織り目の灰色の布がかかつた丸いテーブルで、食事もすれば原稿も書かれ、そばの大きなやかんをのせたガスストーブは、オレンジ色の炎が真夏でも消されることなく輝いていました。
四方の書棚にはフランスから取り寄せたアラゴンの全集や単行本、ピカソの画集、文芸誌「europe」、それらは手擦れて、綴り糸がゆるくなっていたり、赤鉛筆の書き込みがあったり、背表紙が陽に焼けていたりしました。重い広辞苑やロベールの仏仏辞典の一群は家具やピアノの足もとに横になったり縦になったりして並べられていました。
菱形の花つなぎ模様のくすんだ象牙色の壁紙には、かすれた絵の具の跡、花の図鑑やら何やらが積まれたピアノの上に飾られた、ローランサンの青と灰色と薔薇色のふたりの少女の絵葉書、アルジャントゥイユのひょろひょろとした並木道の風景画の卓上カレンダー、それらは詩人の周囲に絵や音楽を愛する家族がいた証しであり、その家族の歴史をまるごと抱えた古い書物のような家は、いつだったか夕刊にパリに永く暮らした画家が、書斎に漂っていた黴のような洋紙の匂いの記憶、パリであろうと日本であろうと芸術や学問に関わる人々の部屋には、共通する匂いがある、質素ななかにも知性や希望があると書いていたのを読み、ここはまさにその場所だと、大きな発見をしたようにこれをお持ちすると、一読された大島さんは「こういうものに憧れるのもいいけどね、問題はその先だよ」、と言われました。
「その先」の、ひとのためになる詩を書きたい、という強い思いが、調度や趣味、日々の生活といったことを超えて、この部屋を緊張と温かさと清廉な空気で満たしていたのだ、そのことに気づかされたのは、三回忌の折に再びこの部屋をお訪ねしたときでした。
夫人が植えられたという池のそばの紅梅の木は、夏には葉の緑が瑞々しく、冬にはその寂しさをはらうように華やかな濃い色の小さな花を精一杯咲かせ、部屋の花瓶に途切れることなく生けられた花々とともに、そっとその精神を励ましていたのだと思います。
(三鷹の博光宅は老朽化のため建てかえることになりました。尾池さんがその思い出をエッセイに書いてくださいました。)

尾池和子
「お姉さんは三鷹が良くて、すぐ帰っちゃうんだから」静江夫人の妹さんがそう話されていた、と大島さんは目を細めるようにして語られました。
戦後すぐ松代から移られたという家は、その後「静江夫人の先見の明」により洋風に模様替えされたそうで、黄土色の一枚板の玄関ドア、レの字型の彫刻刀で彫りつけたような飾りのある柱や梁、いくつかが点かなくなっている埃の乗った骨太の木組みのシャンデリアなどに、どこか別荘風な趣きがありました。
金魚が泳ぐ可愛らしい池のある庭に面した南向きの、さんさんと陽が入る居間兼食事室を、大島さんは晩年の仕事部屋として使われていました。夫人の描かれた紫陽花の小さな油彩画が、天井近くの壁に少し傾いてかかり、左隣にはうつすらと埃の影のある白い石膏のヴィーナスの頭部の遠いまなざし、その下の灰色の布張りの肘掛椅子が大島さんの居場所でした。手紙やお知らせや書きつけの紙類が山と積まれた、粗い織り目の灰色の布がかかつた丸いテーブルで、食事もすれば原稿も書かれ、そばの大きなやかんをのせたガスストーブは、オレンジ色の炎が真夏でも消されることなく輝いていました。
四方の書棚にはフランスから取り寄せたアラゴンの全集や単行本、ピカソの画集、文芸誌「europe」、それらは手擦れて、綴り糸がゆるくなっていたり、赤鉛筆の書き込みがあったり、背表紙が陽に焼けていたりしました。重い広辞苑やロベールの仏仏辞典の一群は家具やピアノの足もとに横になったり縦になったりして並べられていました。
菱形の花つなぎ模様のくすんだ象牙色の壁紙には、かすれた絵の具の跡、花の図鑑やら何やらが積まれたピアノの上に飾られた、ローランサンの青と灰色と薔薇色のふたりの少女の絵葉書、アルジャントゥイユのひょろひょろとした並木道の風景画の卓上カレンダー、それらは詩人の周囲に絵や音楽を愛する家族がいた証しであり、その家族の歴史をまるごと抱えた古い書物のような家は、いつだったか夕刊にパリに永く暮らした画家が、書斎に漂っていた黴のような洋紙の匂いの記憶、パリであろうと日本であろうと芸術や学問に関わる人々の部屋には、共通する匂いがある、質素ななかにも知性や希望があると書いていたのを読み、ここはまさにその場所だと、大きな発見をしたようにこれをお持ちすると、一読された大島さんは「こういうものに憧れるのもいいけどね、問題はその先だよ」、と言われました。
「その先」の、ひとのためになる詩を書きたい、という強い思いが、調度や趣味、日々の生活といったことを超えて、この部屋を緊張と温かさと清廉な空気で満たしていたのだ、そのことに気づかされたのは、三回忌の折に再びこの部屋をお訪ねしたときでした。
夫人が植えられたという池のそばの紅梅の木は、夏には葉の緑が瑞々しく、冬にはその寂しさをはらうように華やかな濃い色の小さな花を精一杯咲かせ、部屋の花瓶に途切れることなく生けられた花々とともに、そっとその精神を励ましていたのだと思います。
(三鷹の博光宅は老朽化のため建てかえることになりました。尾池さんがその思い出をエッセイに書いてくださいました。)

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