FC2ブログ

「日本の響きをつくる 小山清茂の仕事」─消え去りし泉の歌

ここでは、「「日本の響きをつくる 小山清茂の仕事」─消え去りし泉の歌」 に関する記事を紹介しています。
小山清茂
一昨年亡くなった作曲家の小山清茂が出版した「日本の響きをつくる 小山清茂の仕事」に、博光の詩「消え去りし泉の歌」に作曲した経緯が載っていました。作曲したのは1940年(S15)1月で、1938年から作曲の勉強をはじめた清茂の最も初期の作品になります。詩「消え去りし泉の歌」はそのあと「蝋人形」に発表しています。
     ◇     ◇     ◇
・・・その頃小山氏にとってはまだ本業であった教職の方はというと、その少し前から屋代小学校につとめていた。氏の同郷に詩人の大島博光がいる。当時早稲田の仏文出で西条八十門下の俊秀として活躍していたが、胸を悪くして故郷へ帰っていた時なので、小山氏とも行き来していた。もともと小山氏は詩心があったらしい。中学二年の時、国語の教師が宿題に短歌を作って来いと言いつけたのがきっかけで、短歌を作ることに興味をもつようになった。師範へ入ってからは、寮に皆と一緒に生活していたため、一人で静かに考えることが出来なかったことと、音楽にすっかり熱を上げていたことのため、短歌は作らなかったが、それでも詩を作って同人雑誌「星林」にのせたりしていた。屋代小学校に勤めていた時、或る雪の晩大島博光が帽子もかぶらずやって来て、真白に雪をかぶった頭のまま、自作の詩を小山氏に読んで聞かせた。だんだん気持が高まって来ると涙をながしながら詩を朗読したのだった。一説によると大島氏は涙腺が故障しているせいで、よく涙をながすのだそうだが、それはともかく、聞いていた小山氏もすっかり感激して、その晩一気にこの詩に作曲をしてしまった。これが「消えさりし泉の歌」である。これは演奏に七分以上を要し、かなり長いものだが、ガリ版に刷ってほうぼうへくばったり、大いに自信をもった作品だった。「全くいい気なもんだよ」とおっしゃるが、若い頃のそうした感激は今でも忘れられるものではないようだ。最近ではとても一晩で一曲作り上げることなど出来ないという。「消え去りし泉の歌」は終戦直後四家文子氏によって歌われ放送されたが、また、オーケストラの伴奏をつけてみたり、氏にとっては愛着を感じている作品なのだ。・・・<出典「作曲家訪問・小山清茂」/丹羽正明「音楽芸術」昭和35年1月号>
     ◇     ◇     ◇
この本は2004年3月に出版され、その際に博光に贈呈されています。ちょうど博光が杏林大学病院に初めて入院した頃であり、本人は目にしていないのではないかと思われます。
小山清茂の土着的で明るい音楽のなりたちがわかり貴重です。
「歌劇『山城国一揆』の記録」(市野宗彦、S40)はドキュメンタリー番組のように面白い。この歌劇は東京労音の委嘱をうけて小山清茂が作曲、集団的な論議で改訂され、全国で47回公演されて大きな反響をよびました。歌劇『山城国一揆』は労音運動のモニュメント的な作品だと思いました。

関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/868-abcfb3f1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック