絵画はわたしの武器
ピカソの共産党入党声明に思う 大島博光
「ゲルニカ」の魅力語って
先年、わたしはマドリードを訪れた帰途、バルセロナのピカソ美術館を訪れた。美術館は、石の家並の迫った、狭い小路にあって、石壁も灰色で古めかしい建物であった。その街のあたりは少年のピカソが遊んだところだとも聞いた。ここには、主としてピカソ初期の絵やデッサンが集められていて、この天才画家の生成過程の一端が見てとれるようだった。入口ではまた「ゲルニカ」その他の絵の複製刷を売っていたので、それを買って、長い紙筒のなかに入れて持って帰った。
この九月、ピカソの傑作「ゲルニカ」がニューヨークからスペインに還され、マドリードのプラド美術館に展示されることになった。それを機会に、「ゲルニカ」について多くのことが語られた。「ゲルニカ」の魅力を語り、その芸術性や手法を語るに急で、その手法や芸術性が表現している内容そのものにはできるだけ触れまいとしたり、それを蔽いかくそうとしているような語りぐちも見られた。ピカソを「ゆがめたり」「骨抜きにしたり」「だらだらとした長談議の宮殿のなかに閉じこめたり」(アラゴン)する試みはあとを絶たないのであろう。
周知のように、「ゲルニカ」はヒットラーとフランコのファシズムにたいするピカソの怒りの表現であり、芸術による告発である。
一九三七年四月二十六日、ナチス・ドイツ空軍は、バスク地方の小さな町ゲルニカに無差別爆撃を加え、町を廃墟にし、住民二千を殺した。この野蛮な破壊・虐殺にたいする怒りを、ピカソはスペイン人民の叫びとして「ゲルニカ」のなかに定着させた。過酷なスペイン市民戦争のなかで、ふみにじられ虐殺されたスペイン人民の姿を、ピカソは二十世紀の光のもとで描き出している。あの歯をむきだしにして死の叫びをあげている馬、虚空をつかもうとして開いた手、長い伸びた女の咽喉(のど)、狂乱の叫びをあげる単純なプロフィルたち──死の叫びをあげる馬のまわりのこれらの強烈なイメージは、自由と独立のためにたたかうスペイン人民の恐るべき犠牲の姿を、全世界の眼のまえに衝撃的に突きつけたのである。そしてピカソはしばしば「絵画はわたしのたたかう武器だ」と語っている。
「ユマニテ」掲載の入党声明
一九四四年パリ解放後、ピカソはフランス共産党に入党する。その入党声明をよむと、ピカソが絵画を武器としてたたかった画家であることがよくわかる。
◇
わたしの共産党への入党は、わたしの全生涯、わたしの全作品の当然の帰結である。なぜなら、わたしは誇りをもって言うのだが、わたしは絵画をたんなる楽しみの芸術、気晴らしの芸術と考えたことは一度もなかったからである。わたしはデッサンによって、色彩によって──それがわたしの武器だったから──世界と人間たちの認識のなかにつねにいっそう深くはいりこみたかった。この認識が毎日よりいっそうわれわれを解放してくれるために。わたしはわたしの流儀で、じぶんがもっとも真実で、もっともただしく、もっともすばらしいと考えたものを表現しようと思った。それは当然つねにもっとも美しかった。偉大な芸術家たちはそのことをよく知っている。
そうだ、わたしは真の革命家としてつねに自分の絵画のためにたたかってきたことをよく覚えている。しかし、それだけでは十分でなかったことを、いまわたしは理解したのだ。あの恐るべき圧制の数年は、自分の芸術をもってたたかうだけでなく、自分自身をあげてたたかわねばならぬことを、わたしに教えたのである・・・。
そこで、わたしは少しもためらうことなく共産党へ行った。なぜならわたしはじつは、ずっと前から党とともにいたのだから。アラゴン、エリュアール、カッスー、フージュロンなど、すべてのわたしの友人たちはそのことをよ<知っている。もしわたしがまだ公式に入党しなかったとすれば、それはある種の「無邪気さ」によるものだった。わたしは、自分の作品、わたしの心での入党で十分であり、しかもそれがすでにわたしの「党」だと信じていたのだから。
世界をもっともよく知ろうとし、世界を建設しようと努め、こんにちと明日(あす)の人びとをいっそう眼ざとくし、いっそう自由にし、いっそう幸せにしようと努めているのは、党ではなかろうか。フランスにおいても、ソヴエトにおいても、あるいはわがスペインにおいても、もっとも勇敢にたたかったのは共産党員ではなかろうか。どうしてためらうことがあったろうか。政治参加(アンガージェ)をするのが恐ろしかったか?──ところでわたしは反対に、これほど自由に、申し分なく感じたことはかってなかった!
それにわたしはひとつの祖国を見つけようとひどく急いでいたのだ。わたしはずっと前から亡命者であったが、いまやわたしは亡命者ではない。スペインがついにわたしを迎え入れてくれる時まで、フランス共産党が腕をひらいてわたしを迎え入れてくれた。わたしはもっとも尊敬する人たち、もっとも偉大な学者たち、もっとも博大な詩人たちを党のなかに見いだした。そしてまたあの(パリ解放の)八月の日日に見た、蜂起したすべてのパリ市民たちの美しい顔をそこに見いだした。わたしはふたたびわが兄弟たちのなかに仲間入りをしたのだ!
(一九四四年十月二十九日付ユマニテ祇)
◇
この時、ピカソはすでに六十三歳の巨匠であった。この入党や声明が、かるい思いつきなどによるものでないことは明らかである。そしてフランコ体制のもとではスペインには絶対帰らないといっていたピカソの、その「ゲルニカ」がいまスペインに迎え入れられたのである。
知らない人もあるだろうから、ピカソの入党声明を訳出してみたが、その芸術も含めて、私たちはたたかう巨人ピカソの姿に感動させられる。
(おおしま ひろみつ・詩人)
<「赤旗」1981年12月5日>
ピカソの共産党入党声明に思う 大島博光
「ゲルニカ」の魅力語って
先年、わたしはマドリードを訪れた帰途、バルセロナのピカソ美術館を訪れた。美術館は、石の家並の迫った、狭い小路にあって、石壁も灰色で古めかしい建物であった。その街のあたりは少年のピカソが遊んだところだとも聞いた。ここには、主としてピカソ初期の絵やデッサンが集められていて、この天才画家の生成過程の一端が見てとれるようだった。入口ではまた「ゲルニカ」その他の絵の複製刷を売っていたので、それを買って、長い紙筒のなかに入れて持って帰った。
この九月、ピカソの傑作「ゲルニカ」がニューヨークからスペインに還され、マドリードのプラド美術館に展示されることになった。それを機会に、「ゲルニカ」について多くのことが語られた。「ゲルニカ」の魅力を語り、その芸術性や手法を語るに急で、その手法や芸術性が表現している内容そのものにはできるだけ触れまいとしたり、それを蔽いかくそうとしているような語りぐちも見られた。ピカソを「ゆがめたり」「骨抜きにしたり」「だらだらとした長談議の宮殿のなかに閉じこめたり」(アラゴン)する試みはあとを絶たないのであろう。
周知のように、「ゲルニカ」はヒットラーとフランコのファシズムにたいするピカソの怒りの表現であり、芸術による告発である。
一九三七年四月二十六日、ナチス・ドイツ空軍は、バスク地方の小さな町ゲルニカに無差別爆撃を加え、町を廃墟にし、住民二千を殺した。この野蛮な破壊・虐殺にたいする怒りを、ピカソはスペイン人民の叫びとして「ゲルニカ」のなかに定着させた。過酷なスペイン市民戦争のなかで、ふみにじられ虐殺されたスペイン人民の姿を、ピカソは二十世紀の光のもとで描き出している。あの歯をむきだしにして死の叫びをあげている馬、虚空をつかもうとして開いた手、長い伸びた女の咽喉(のど)、狂乱の叫びをあげる単純なプロフィルたち──死の叫びをあげる馬のまわりのこれらの強烈なイメージは、自由と独立のためにたたかうスペイン人民の恐るべき犠牲の姿を、全世界の眼のまえに衝撃的に突きつけたのである。そしてピカソはしばしば「絵画はわたしのたたかう武器だ」と語っている。
「ユマニテ」掲載の入党声明
一九四四年パリ解放後、ピカソはフランス共産党に入党する。その入党声明をよむと、ピカソが絵画を武器としてたたかった画家であることがよくわかる。
◇
わたしの共産党への入党は、わたしの全生涯、わたしの全作品の当然の帰結である。なぜなら、わたしは誇りをもって言うのだが、わたしは絵画をたんなる楽しみの芸術、気晴らしの芸術と考えたことは一度もなかったからである。わたしはデッサンによって、色彩によって──それがわたしの武器だったから──世界と人間たちの認識のなかにつねにいっそう深くはいりこみたかった。この認識が毎日よりいっそうわれわれを解放してくれるために。わたしはわたしの流儀で、じぶんがもっとも真実で、もっともただしく、もっともすばらしいと考えたものを表現しようと思った。それは当然つねにもっとも美しかった。偉大な芸術家たちはそのことをよく知っている。
そうだ、わたしは真の革命家としてつねに自分の絵画のためにたたかってきたことをよく覚えている。しかし、それだけでは十分でなかったことを、いまわたしは理解したのだ。あの恐るべき圧制の数年は、自分の芸術をもってたたかうだけでなく、自分自身をあげてたたかわねばならぬことを、わたしに教えたのである・・・。
そこで、わたしは少しもためらうことなく共産党へ行った。なぜならわたしはじつは、ずっと前から党とともにいたのだから。アラゴン、エリュアール、カッスー、フージュロンなど、すべてのわたしの友人たちはそのことをよ<知っている。もしわたしがまだ公式に入党しなかったとすれば、それはある種の「無邪気さ」によるものだった。わたしは、自分の作品、わたしの心での入党で十分であり、しかもそれがすでにわたしの「党」だと信じていたのだから。
世界をもっともよく知ろうとし、世界を建設しようと努め、こんにちと明日(あす)の人びとをいっそう眼ざとくし、いっそう自由にし、いっそう幸せにしようと努めているのは、党ではなかろうか。フランスにおいても、ソヴエトにおいても、あるいはわがスペインにおいても、もっとも勇敢にたたかったのは共産党員ではなかろうか。どうしてためらうことがあったろうか。政治参加(アンガージェ)をするのが恐ろしかったか?──ところでわたしは反対に、これほど自由に、申し分なく感じたことはかってなかった!
それにわたしはひとつの祖国を見つけようとひどく急いでいたのだ。わたしはずっと前から亡命者であったが、いまやわたしは亡命者ではない。スペインがついにわたしを迎え入れてくれる時まで、フランス共産党が腕をひらいてわたしを迎え入れてくれた。わたしはもっとも尊敬する人たち、もっとも偉大な学者たち、もっとも博大な詩人たちを党のなかに見いだした。そしてまたあの(パリ解放の)八月の日日に見た、蜂起したすべてのパリ市民たちの美しい顔をそこに見いだした。わたしはふたたびわが兄弟たちのなかに仲間入りをしたのだ!
(一九四四年十月二十九日付ユマニテ祇)
◇
この時、ピカソはすでに六十三歳の巨匠であった。この入党や声明が、かるい思いつきなどによるものでないことは明らかである。そしてフランコ体制のもとではスペインには絶対帰らないといっていたピカソの、その「ゲルニカ」がいまスペインに迎え入れられたのである。
知らない人もあるだろうから、ピカソの入党声明を訳出してみたが、その芸術も含めて、私たちはたたかう巨人ピカソの姿に感動させられる。
(おおしま ひろみつ・詩人)
<「赤旗」1981年12月5日>
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