旅と人生
宇治の平等院で
大島博光
秋の一日、宇治の平等院へ行ってみた。
じつはその前日、京都の嵐山から嵯峨野のあたりを歩いたのだった。たいへんな人出で、嵯峨野の道は人の流れに埋まり、わたしもまたその流れに浮かんだまま、流されるままに流されてゆくほかはなかった。まるで書割のような紅葉の下の小道、かずかずの歴史を秘めた寺院や遺跡、むかしの姫君が出てきそうな庵(いおり)苔(こけ)むした古い、枯れた萩の根株・・・、それらをゆっくりと観照する静けさや、遠いむかしに想いを馳せる落ちつきなどは、この人の流れのなかにあっては、得られるべくもなかった。
ところが、宇治の平等院は、ウイーク・デーのせいか、訪れるひとも割合に少なく、静かに、優雅でひろやかな両翼を張って、秋の陽ざしのなかに輝いていた。わたしはゆっくりと屋上の鳳凰(ほうおう)を眺めた。また高くて大きな扉(とびら)に、数百年を経てなお残っている絵画の色に見とれた。そこに松の緑はまだあざやかであった。この高くて大きな扉は、こんにちの普通の扉の大きさ、扉の観念というものを遥かに越えて、豪壮なものであった。わたしはそこに当時の権力の気宇の高大さを感じずにはいられなかった。するといつか労音で見たオペラ「山城国一揆」が想い出され、この伽藍(がらん)の背後から農民たちのときの声が湧きおこり、鳴りどよもして聞こえてくるようだった。
(詩人)
<掲載紙・日時不詳─「学生新聞」か?>
宇治の平等院で
大島博光
秋の一日、宇治の平等院へ行ってみた。
じつはその前日、京都の嵐山から嵯峨野のあたりを歩いたのだった。たいへんな人出で、嵯峨野の道は人の流れに埋まり、わたしもまたその流れに浮かんだまま、流されるままに流されてゆくほかはなかった。まるで書割のような紅葉の下の小道、かずかずの歴史を秘めた寺院や遺跡、むかしの姫君が出てきそうな庵(いおり)苔(こけ)むした古い、枯れた萩の根株・・・、それらをゆっくりと観照する静けさや、遠いむかしに想いを馳せる落ちつきなどは、この人の流れのなかにあっては、得られるべくもなかった。
ところが、宇治の平等院は、ウイーク・デーのせいか、訪れるひとも割合に少なく、静かに、優雅でひろやかな両翼を張って、秋の陽ざしのなかに輝いていた。わたしはゆっくりと屋上の鳳凰(ほうおう)を眺めた。また高くて大きな扉(とびら)に、数百年を経てなお残っている絵画の色に見とれた。そこに松の緑はまだあざやかであった。この高くて大きな扉は、こんにちの普通の扉の大きさ、扉の観念というものを遥かに越えて、豪壮なものであった。わたしはそこに当時の権力の気宇の高大さを感じずにはいられなかった。するといつか労音で見たオペラ「山城国一揆」が想い出され、この伽藍(がらん)の背後から農民たちのときの声が湧きおこり、鳴りどよもして聞こえてくるようだった。
(詩人)
<掲載紙・日時不詳─「学生新聞」か?>
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