座談会─ 『NOVA』の時代を回顧して─(上)

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NOVA
NOVA通信第一号(プレ・イッシュー版)
●座談会
『NOVA』 の時代を回顧して

出席者
小野 みつ(NOVA店主)
大島 博光(詩人・仏文学者)
吉井 忠(画家)
皆川 滉(演劇人)
日下部 栄一(小野みつ氏実弟)
上野 まり子(NOVA勤務)

末松 真海子(朝日新聞記者)
NOVAの会事務務局
     吉田 ひろこ(画家・司会)
     栗原 澪子
     山県 衛

▽一九八八年七月二十六日/新宿・中村屋「レガル」


                   吉井 忠
 これから、時々NOVAの集りがあるという。
 戦前そこに集った人が何を語り合い、それぞれどんな仕事をしていたのかは私は興味がある。
 それがただの昔話でなく、現在と深い関係があることを私は感じるからである。


    NOVAに行かない日はなかった常連たち

吉田 本日はご多忙のところ、お集りいただいてありがとうございます。
 今回、私の父、鶴岡政男の展覧会が渋谷パルコで催されました。その折りに小野様から戦前、昭和十年頃の父のデッサンをお持ちだと、お手紙をいただきました。さっそく、小野様にお電話を差し上げたところ、昭和五年頃から十七年まで、新宿、いまの伊勢丹のあたりでNOVAという喫茶店をなさっていて、私の父とはそれ以前に駒込でケルンという喫茶店をおやりになっていた頃から、ご存じだったとうかがいました。
 駒込の頃というのは多分、父が太平洋研究所に通っていた時期だと思います。それから、新宿に「NOVA」をお出しになったのですが、当時、そのお店にはいろいろな、芸術家、文化人、学者の方が出入りなさいました。現在、存命の方がどれだけいらっしやるかわかりませんが、一度、小野様を囲んで、皆様の懐かしい会を持とうというところまで、お話しが進みました。
 でも、考えてみますと、それだけではもったいない、そこにある歴史的な意義もふくめて、今のうちに私たち次の世代が、先生方のお話しをうかがって、何か、形のあるものに残してみたいと思いつきました。
 それを小野様に申しあげまして、NOVAに親しく出入りされていました詩人の大島博光先生と、画家の吉井忠先生にご相談したところ、快くご賛同くださいました。
 そこで大島、吉井両先生に窓口になっていただいて、呼び掛ければ、何か繋がりとか、発見とか、拡がりとか、どんどん膨らんでいくような気もいたします。そのとっかかりの集りといいましょうか、NOVAの小野様をはじめ、この趣旨にご賛同いただいた方がた、いわば発起人の方と、この会の呼び掛けにご協力いただけるマスコミの方にお出でいただき、それに、私たち、会の雑務を受け持つ者が加わりまして、最初の会合をひらくことになりました。
というわけで、何分よろしくお願いいたします。
 大島先生はひんぱんにNOVAへ出入りしてられたのですか。
大島 行かない日は無かったんだ。
小野 入りびたって・・・。
吉田 上野様はNOVAで働いていらっしゃったんですね。
小野 「築地」の一期生。
上野 ちがうわよ、その前よ。
小野 女優さんだったんでしょ。
上野 女優じゃなかったんです。
小野 声がきれいだからそうだと思っていたの。
上野 美術部です。トンカチをぶらさげて、舞台作りをやっていたんです。
大島 店にはこの人ともう一人、さくらちゃんでしたっけ。
小野 ええ、小此木さくらさん、PMにいた。
大島 プロレタリア音楽のね。戦後CIAにつかまって苦労した鹿地亘の最初の奥さんになった人だね・・・。
吉田 そのお二人とお店をやっていられたのですか。
小野 もっといましたけれど、階下の店はこの二人でした。
大島 ぼくが一番先に知ったのはさくらさんだよ。
上野 ええ、でも私の方が早いんです。
大島 うん、あなたは早かった。ぼくが出入りを始めたのがさくらさんの来た頃なんだ。
吉田 その時代は私なんかほんとに子供だったころで、なにも知らない世代なんですけれど、ある文化があったんですよね、それが戦争で中断されてしまって、いまも、目隠しされた形になっているんですね。その時代の文化的なリーダーの方の中には、現存されていまも社会で活躍されている方もいらっしゃいます。
 でも、文化としては、日本が戦争に深入りしながら歩んでいた、その時の文化については、私たち学校でも習いませんし、このままでは私の娘とか若い人達に本当のことがわからなくなってしまう、いま、表に出すための橋渡しの役目が重要なんじゃないかと思っています。
小野 こういう機会をつくってもらって有難うございます。
 私とか、まあちゃん(上野まり子)とかがいるうちに、NOVAの会をやって、みんなで集りたいなんて言っていたんですが、発起人をどなたに頼もうかと迷っていたんです。そのうち、山本薩夫さんも、井出則雄さんもつぎつぎになくなってしまって・・・。やっぱり若い方が、先の先までつながるようにやってくださらないと、年寄りだけでは続きませんから。
  (小野みつさん一枚の写真を出席者にみせる)
吉井 NOVAの内部の写真ですか。
小野 伊藤喜朔さんが設計なさったもので、とてもハイカラでした。
大島 ハイカラだったよねえ、あの頃は。
          (皆川滉氏出席)
吉田 場所としては今でいえば・・・。
大島 今の丸井の裏・・・。
日下部 昔、帝都座っていう映画館がありました。あの裏側です。
吉田 皆川さんとNOVAとのお付き合いは。
皆川 当時は新協劇団の経宣部にいまして、同じ劇団のブタクさんに連れられてきてから、割合に出入りしていました。ただ、つきあいは芝居関係の人だけというところです。
大島 吉井さんは御存じですかね、今の歌舞伎町のあたりに「武蔵野サロン」って喫茶店があって、絵描きさんたち、とりわけ、シュルレアリズムの方たちの会なんかあったでしょう。
吉井 ええ、ええ。
大島 あなたもいらしていたんですか。
吉井 行ってました。あのときは、あなたと滝口修造の話をわれわれは聞いているんです。で、その頃、野田秀夫とか、それから寺田かな、アメリカから来たばかりのそれを聞いたことがある。だから、それ以来、大島さんと滝口修造の二人は、ずっとわれわれの間ではシュルレアリズムの開拓者になっているんです。
大島 二人ね。あれは何年頃でしたっけ。
吉井 昭和の初め、といっても十年前後かな。

    二階では新進画家の個展も開催

小野 NOVAでなさったお父さんの展覧会・・・。
吉田 父の年譜によりますと、昭和十年がNOVAの喫茶店で個展と書いてあります。
小野 私が始めたのは昭和五年くらいで、二階の喫茶部が最初です。内装の設計は築地小劇場の奥野文四郎で、その娘さんが今、絵を描いていらっしゃるんですね。
大島 それで、私がひとつ覚えているのは、昭和十五年頃かな、舟越さんて女の絵描きさんがいたんだよねえ。どういうグループにはいっていたのかなあ。
小野 二科の方が二人いらっしてました。一人が奥野文四郎の娘さんですよね。時期が違うんですけれど下の方をやっていたんです。上はまた違った人で鶴岡政男さんがやってらした「NOVAの会」にいて、ついこの間亡くなった・・・。
吉井 大竹久一さんですか。
小野 ええ、昭和十年頃、NOVAで知り合って大竹さんと結婚したんですが、その方が二階の喫茶部で展覧会をやっていた頃にいて、下はこちらの上野さんと二科の会の一人がいたんです。その方は中国か朝鮮に実家のある方で、もうひとりはもちょっと年のいった方で、名前はちょっと忘れてしまいまいたが、二科展で何回か入選していました。
 ともかくあの頃は女の人の働き場所がなくて、昼間何かできるっていうんで、そういう方が多かったんですね。
吉井 アルバイトにね。
小野 私がお店を始めましたのは、ウチの主人がちょっと引っ掛かって会社を辞めたもんですから、それで最初にケルンを始めたのです。
 そのとき、鶴岡さんが団子坂で焼鳥屋さんをやっていて、毎晩、店をしまってから鶴岡さんの屋台へ行ったものです。
 それが昭和三年の頃でしたか、四年頃だったかしら・・・。
吉田 父の二十二、三の頃です。
吉井 それじゃ四年頃だ。
小野 そしたら、階下の場所で床屋さんをやっていた田中って人がそこを売りたいというんで、皆さんにお話しして、お金なんかない頃ですから、私たち、皆さん、伊藤喜朔さん、奥野さんで出しあって二階を作って、下は、劇団に呼び掛けて、喜朔さんから、久米さんでしたっけ支配人の方は。
上野 松田さんです。
小野 ええ、そんな人たちがみんなで出しあって酒場にしたんです。とにかくお金がないので、家具をいれたら家具のお金を借金取りが裏で待っているような状態で始まったんです。
吉田 旦那さまがちょっと入れられたというのは、やっぱり当時の治安維持法ですか。
小野 そうです・最初は築地小劇場にいて、舞台効果をやっていたんです。その後プロ科にいたんです。だから、私たちは結婚して一ヶ月ちょっとで連れて行かれちゃって。
 それで私も被害を受けるといけないというんで、たまたま知り合いに喫茶店のことを知っている人がいて、私は何が何だかわからないけれど、ともかく始めまして、お盆をもったり何かすることを劇団の女優さんたちに教えてもらいながらやりました。
吉田 旦那さまのお名前は。
小野 小野申治です。
 NOVAは下は暗いんですが、上は三方ガラス張りで、いや二方でした。それが今はやりの大きな壁面なもんですから、展覧会には向いていたんです。
吉田 NOVAの喫茶店で個展をなさった方はどのくらいいらっしやるんですか、三十人とか。
小野 いや、そんなにはなかったですよ。だいたい、鶴岡さんのグループ、それから、ちょっと名前を思い出せない。
吉田 竣介さんとか 光さんとかいらしたんですけど、当時だったら 川さんとか・・・。
小野 やらなかったと思います。とにかく狭い。二十人入れるか入れないかでしたから。
吉田 難波多(竜)さんなんかもいらしてましたか。
日下部 姉さんの話に聞いたような気もします。
吉田 不特定多数の出入りですから、そんなに覚えているわけにもいきませんね。
小野 ええ、それに、私は仕入れ係をやっていましたから、あんまり店にでなかったんです。下にはほとんど顔を出さなかったですね。

     店の名はエスペラントからとる

吉井 NOVAという名前は誰がつけてくれたんですか。
小野 考えてみれば、鶴岡さんの絵の会がNOVAでしょう。どっちが先なのかしら。
吉井 おそらくNOVAに行ってたからNOVAの会なんですよ。NOVAってのは新しいって意味でしょ。
小野 そうです。エスペラントです。
大島 ロシア語でノーバっていうと赤いという意味もありますよ。
小野 いいえ、エスペラントです。鶴岡さんに会ったころはドイツのケルンって名前を付けたんです。それで今度、新宿へ出すんでエスペラントを使ったんです。ウチの旦那がつけたんです。
大島 その頃は早稲田の正門の前に鶴丸さんがロシア語でドームという喫茶店をやっていた。
小野 そうね、鶴丸さんあたりに経営の仕方をいろいろ聞いたりしたもんです。築地の方たちが来て、コーヒーを挽いて、こうやって出すもんだとか、うしろでそんな手伝いをしてくだすったんです。ケルンをやっていても、ケルンは小さな店でちょいと変わっていますから、その頃、「イタチハザン」の親戚とか、そういう人たちがよくきていました。
 そのときは、主人が駒込署に拘留されていて、居なかったときです。だからこんぐらかってねよくわからないんですけれど、NOVAは最後の日まで惜しまれて・・・
吉井 それで看板か何かを出しておいでになったんですか。
小野 ええ、小さな看板とそれから外灯です。ヨーロッパにあるような。それも、内装と同じように喜朔さんですから、非常に凝っていました。で、二階は狭いところから上がっていくんですけれど、そこの一段に「NOVA」って書いてありましてね。
 下の開店のときに飛行機でビラを撒いたんです。
吉井 NOVAの宣伝ビラですか。
小野 ええ、だれか知っている人が撒いてあげるっていうんで。それを拾った人が、飛行機でビラを撒くんだから、どんな大きな店だろうと思ってたら、ずいぶん捜したってね。
            (一同大笑)
小野 それで、いくらか名前も知られたんでしょうけれど、あんな狭いところですから、よっぽど捜さなくちゃ。
 で、大島さんはどうしてNOVAに見えるようになったんですか。
大島 初めはどうしていったのか、もうわからないよ。
小野 でも、ナルシスよりウチの方が早かった。
大島 ずっと早い。ナルシスでも、山小屋でもその後で、NOVAが出発点だから。

     「NOVA」常連の群像

吉田 この間の父の展覧会のオープニングに見えた方が、新宿にあったNOVAという喫茶店で、鶴岡政男とか松本竣介に初めて出会った。いま、この会場で当時の人達の顔が見えないのが淋しいとおっしやっていました。
吉井 お客には劇団関係の人が多かったようですね。お話しをうかがっていると。
小野 ええ、それと文学者、早稲田が近いから。
吉井 それから、鶴岡さんの下のグループ、たとえば帝国美術、あのジャンの連中、入江亮太郎とか小山田くんたちのグループ。
小野 小山田さんも毎日のようだったわね。
大島 ぼくが連れていったわけだけれど。
上野 あの田村泰二郎もよく来ていたわ。
大島 うん、田村もよく来ていた。それから浅野晃なんていう・・・。
栗原 日本浪漫派の人ですか。
大島 そうそう、彼もよく来ていました。あの頃はそういうのと会っても、あまり話をしないでね、暗暗裡にもう、みんなごまかしてやっていたんです。
栗原 「赤と黒」の系譜の方たちは。
大島 そっちの人たちはあまり来なかったですね。
 一番最後の頃は鮎川信夫なんか二階に来ていましたね。彼はまだ学生でね。それに堀田善衛なんかも来ました。
 それで、NOVAを起点にして、そこで一杯のんで、それから向こうの三丁目の方に山小屋というのがあって、そこへ行くんです。山小屋のこっちの方に例のナルシスがあって、これがその当時の新宿の三角形というわけです。で、その三つを歩けば誰かがいる。
上野 NOVAと山小屋とナルシスですね。
大島 そりゃ、よく歩いたよ。
栗原 森川義信という方は。
大島 ああ、いたかも知れないねえ。それから後では、死んだ読売の中桐雅夫がよく来ていたね。
小野 音楽新聞だしてた方で村松静光。
上野 音楽の友という雑誌でした。
小野 島崎翁助なんかも年中きていて、閉店の日に踊ったんです。
大島 翁助っていえば、ぼくはナルシスの前で、翁助と取っ組みあいの喧嘩をした。アハハハ。
吉井 元気よかったんだ。(笑い)
富田 翁助さんは何人兄弟なんですか。
小野 三人か四人。
大島 彼は一番下でね。ちょうどドイツから帰ってきた頃でね。
吉田 父がお付き合いいただいたのは敏樹先生って、医科歯科大学の精神病医学の先生でした。
大島 翁助は藤村の三男坊です。
小野 兄さんが鶏二で絵を描いていらっしゃる。
吉田 翁助さんはまだお元気ですか。
小野 二、三年前にお会いして所を聞いたら、杉並にいらっしゃるらしいですね・皆川さんはよく知っていらっしゃるでしょう。
皆川 ぼくたちが一緒に棲んだ頃は目黒で、当時、競馬場があってその反対側の方でした。
 それからかれはプロレタリア美術の方にいって、ぼくはプロ芸に入った。それで事務所が淀橋にあって、そこで大勢、中野重治とか二十人くらいで合宿したんです。
小野 そういえば、西条八十も来たことがあったかも。
大島 そんなことありましたか。
小野 だれかが下に連れて来ました。
大島 そうそう、あの頃、私が『蝋人形』って西条八十の雑誌を編集していたんですよ。当時、西条八十は文学従軍記者として中国の揚子江へいくことになったんです。それで、ぼくは先生が持っていくピストルをある将校から借りてくることになったんです。借りた帰りに新宿へ出てNOVAへ行って、こうやって振りかざした。あんなの見つかったら大変だった。
小野 この間、野長瀬さんもも亡くなったでしょう。
吉井 だれですか。
大島 野長瀬正雄って詩人がいて、しよっちゅう新宿に出ていたもんだ。
小野 それからこの間亡くなった彫刻の井手則雄さん。亡くなる前の前の年に、窪島誠一郎さんのところで、ばったり顔が合ったんです。なにしろ四十年振りくらいですからね。そしたら、「しばらく」っていうから、「わかりますか」って聞くと、「そりゃあ、ぼくはNOVAで育ったようなもんだからわかりますよ」って。それで年質状をやりとりするようになったら、すぐ亡くなってしまわれて。本当に毎日のように二階の喫茶部に来ていたんです。
吉井 その頃は詩人、演劇人、絵描き、音楽家も含めて交流がうんとあったんです。今はそれぞれの分野に立て篭って、あんまり交流しないんだね。やっぱり時代のひとつの動きだったんですね。
小野 いま考えると、圧迫や制約はあったけれど、心の自由はあった素敵な時代でした。
 大人のいうことを若い学生さんたちも同じに話題にしていました。下のトイレの落書なんか文学の議論ばっかりでした。
栗原 ナップとかコップというのは解散させられた後ですか。
吉井 後ですけれど、プロレタリア美術なんかがまだ残っていて、上野で展覧会をやったりしていました。

(つづく)


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