アジェンデの死とネルーダの死と

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アジェンデの死とネルーダの死と

 一九七三年三月四日の国会議員選挙において、「人民連合」は一九七〇年の三六・三パーセントをさらに越えて四四パーセント近い得票を獲得して勝利した。それゆえ、反動たちがアジェンデ政権を合法的に倒す道は閉ざされた。そこで彼らは公然たる反乱にうって出る。五月には、「人民連合」に反対する一部の労働者をそそのかして、エル・テニエンテにおいてストライキを起こす。七月には、ファシストたちの決定的な反撃が始まる。アジェンデ政府の海軍副官アラヤ少佐が極右によって暗殺されたのを始めに、虐殺、暴行が頻々と行われる。「人民連合」は反対派のなかの民主的な部分との対話によって、この危機を乗り越えようと努める。しかしキリスト教民主党は、表向きには対話をうけ入れるように装いながら、じつさいには対話をぶちこわすように動く。チリ人民はこのような反動ぶりを「ミイラ」と呼んでいた。ネルーダも書く。

 情勢は たちまち きびしくなった
 姐虫どもは またぞろ うごめき出し
 ・・・
 キリスト教的ミイラと 熱狂的ミイラが
 ぞっとするようなキッスを とり交わし

 なまぬるいミイラと こちこちのミイラが
 叛逆の長靴を一斉に ふりあげるのだ
                  (「姐虫はまたぞろうごめく」)

「キリスト教的ミイラ」とはいうまでもなくキリスト教民主党を指し、「熱狂的ミイラ」は国民党を指している。このようにネルーダがその本質を痛烈にあばいたように、キリスト教民主党のフレイは、上院議長という自分の地位を利用し、クーデターに手をかすにいたる。彼の意図にしたがって、八月未、国会はアジェンデ政府を非合法と宣言し、政府にたいする軍の忠誠の誓約を無効とする。これによって、軍のファシスト部隊が政府支持の部隊を排除して、彼らの部隊を配置する。こうしてクーデターの準備は着々と進行する。
 九月十一日、三軍の司令官と憲兵隊長は「軍事政権」を結成して、アジェンデ大統領の辞職を要求し、大統領府のモネダ宮を包囲し爆撃する。アジェンデは英雄的に抵抗し、銃殺される。血みどろのテロがチリ全土で荒れ狂う。左翼の諸政党、労働組合、民主的諸団体が解散に追いやられ、大学は軍の支配下におかれる。この悲劇のなかで、ネルーダは『回想録』の最後にこう書き加える。
「わが偉大な友人アジェンデ大統領を奪いさった言語に絶する事件からわずか三日後に、わたしはこれらの数行を急いで『回想録』に走り書きしている。彼の暗殺をめぐっては沈黙が守られている。彼は秘密裡に埋葬され、ただひとり未亡人だけがこの不滅の遺骸につきそうことが許された。襲撃者たちの説明によれば彼は死体で発見されたが、明白な自殺の跡が残っているというのだ。しかし外国で公表された説明はちがっている。空軍による攻撃の直後、戦車隊─たくさんの戦車─が作戦に移った。たったひとりの人間、チリ共和国大統領サルバドル・アジェンデと戦うために。大統領は煙と炎に包まれた執務室で、自分の勇敢な心臓だけを伴(とも)として敵を待っていた。
 好機到来で、これを利用しなければならなかった。そこで、自分の義務を放棄しなかった男を機銃掃射しなければならなかった。その死体はどこかある場所にひそかに葬られた。その遺体は、世界の苦悩をになった、ただひとりの婦人につきそわれて墓場へと向かった。その栄光に輝く死者は、機関銃の弾丸によって穴だらけにされ、ばらばらにされていた。またしても軍人どもは祖国を裏切ったのである」(「回想録』)
 このようにネルーダは、自分自身が病状のなかにありながら、ファシストによるこの「言語に絶する事件」を怒りをこめて書きとめ、戦い仆れたアジェンデの栄光をたたえている。それから十日後の十九七三年九月二四日、こんどはネルーダ自身にも死が訪れる。愛妻マチルデはその最後について語っている。
 「・・・彼がアジェンデの死をラジオで知ったとき、このニュースは彼にとって耐えがたいものでした。このニュースが彼を死に追いやったのです。翌日目がさめると、パブロは発熱していました。しかし医師の診療をうけることはできませんでした。わたしたちのいた太平洋岸のイスラ・ネグラの家はサンティアゴから一〇〇キロも離れていたからです。そのうえ、彼の主治医は憲兵隊に逮捕されてしまったのです。
 五日後、わたしは救急車を呼んで、パブロをサンティアゴの病院に連れてゆきました。途中、車は止められて徹底的な捜索をうけました。・・・そのために手間どった遅れはパブロにとって致命的でした。病院に着いたときには、彼の病状は危篤状態になっていたのです。
 パブロが夜の十時半に最後の息をひきとったときには、夜間外出禁止令のために、だれも病院に駈けつけることはできませんでした。それからわたしは遺体をサンティアゴの家に運びました。家の中は荒され、略奪され、ぶち壊されていました。そんな中で、駈けつけてくれた数人の人たちといっしょにお通夜をしました。チリを蔽った悲劇的な瞬間にもかかわらず、葬式には外交官やたくさんの人びとが参列してくれました。
 葬列がサン・クリストバルの丘に着いたとき、墓地への道に、四方からたくさんの人びとが湧き出してくるのが見えました。きびしい顔をして黙りこんだ労働者たちでした。墓地に近づくと、葬列の半分が『パブロ・ネルーダ・・・』と叫び、あとの半分が『ここにいるぞ』と答えました。それは自殺行為でしたが、幸いに何も起りませんでした。葬列は『インターナショナル』を歌いながら墓地にはいったのです」
 こうしてネルーダの葬列が挙げた歌声とシュプレヒコールは、軍部ファシストにたいする闘争の最初の雄叫びとなった。
 ネルーデの死に際して、スペインの詩人ラファエル・アルベルティは「心のなかのチリ」を贈って、彼の死を悼むとともに、ファシストどもを痛撃している。二人はスペイン市民戦争以来の親友でありこの詩はかつてネルーダが「心のなかのスペイン」をスペインに贈ったことにたいする返礼ともなっている。

ネルーダ葬列
ネルーダの葬列 中央はマチルデ夫人

(新日本新書「パブロ・ネルーダ」)
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コメント
この記事へのコメント
ネルーダとアジェンデは、今回のチリの鉱山の落盤事故の騒動を、天からどのような気持ちで見守っているのだろうか。。。。?
2010/09/20(月) 18:39 | URL | Venceremos #-[ 編集]
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