西條八束「大島博光さんをしのんで」

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大島博光さんをしのんで    西條八束

父と大島さん(略)

私自身の思い出
 さきに記したように、大島さんは『蝋人形』の編集のため、毎日のように私の家の茶の間に、一九三五年から一九四三年まで出勤されていた。それは私が十歳の、小学五年生の頃から中学を経て、旧制松本高等学校の二年生になった頃である。
 私は詩人の家に育ったといっても、家庭内に芸術的な雰囲気があったとは言いがたい。ただ、父の書庫には和洋の文学書が山積しており、好きな本を読むことはできた。しかし、音楽、絵画などについては、六歳上の姉のベートーヴェンの田園交響曲などの少数のレコードや、古い世界美術全集がある程度であった。
 母が私に強く望んでいたのは、病身の私が何とかして兵隊に行かないですむようにさせることだった。そのために私を理工系の大学に入れ、技術将校にさせたかった。そのおかげとは言いがたいが、私は子供の頃から自然科学に興味を持ち、天文学者を夢見ていた。
 そのような時期に、大島さんはまだ十四、五歳の中学生の私を、新響交響楽団の定期演奏会や、何人かの画家の家に連れていって下さったりした。モーツァルトの四一番のジュピターとか、バッハのブランデンブルグ五番の室内楽のレコードを薦められたのも彼であった。中央線の国立駅から、当時まだ武蔵野の面影が強かった自然の中の散歩のお伴をしたこともあり、新宿の月光荘に油絵の道具を買いに連れていってくださったのも大島さんだった。このように私が大島さんからいろいろと教えられるのを母がすべて受け入れていたのは、母が大島さんの並々ならぬ実力を父から聞いていたからだと思う。
 当時、大島さんはご機嫌がよい時に、「ひとを殺したマクベスは眠られぬ」という多分シェークスピアの一節をくりかえし朗読しておられたのが心に残っている。
 また、召集令状が来て、友人が壮行会をしてくれた時に、靴で乾杯した話を聞いた。大島さんの詩の中にも、靴での乾杯と言う言葉が出ているから、おそらくフランスの詩人にでも倣ったものと思う。しかし、結核が残っていたので、即日帰郷になられた。
 私は十七歳の時、旧制松本高校に進学した。松高には当時としてはまだ自由な雰囲気があり、山々に囲まれた自然の豊かさは、都会で育った私には新鮮であった。しかし高校二年のときに胃腸を病んで休学した。もともと信州出身の大島さんは、小諸におられた信州で著名な詩人だった龍野咲人氏や、戦争で体調を崩して除隊になり、帰国して軽井沢におられた、有島武郎の甥の画家、山本蘭村氏を紹介してくださった。私は龍野さんをしばしば訪ねて文学の話を聞いたり、下手な絵を描いて蘭村さんのところへ携えていったりした。実を言えば、戦後、蘭村さんに絵を習っていた少女が現在の私の家内紀子である。
 高校卒業も間近い頃、私は松本から松代の実家に帰っておられる大島さんをお訪ねしたことがある。帰途、当時は大変な貴重品であったリンゴをリュックにいっぱい頂いて帰った。奥様にはじめてお目にかかったのは、その時で、農家の嫁としてご両親のもとで暮らしておられて、さぞご苦労なことだろうと、帰途に思った記憶がある。
 大島さんはよく病気をされ、しばしば入院し、手術を受けることもあった。一九四〇年、三十歳のときに、優れた詩論集『フランス近代詩の動向』を刊行された。既に戦時的気風が強くなっていた折だけに、こんな本が出せるかしらと言う話があったが、私の父が「俺が責任を持つから」と言って刊行に踏み切らせたという話を最近はじめて知った。父が大島さんの語学力ばかりでなく、文学的な面でも高く評価していたことがよくわかる。

大島さんが下連雀に住まわれた頃
 私は家内、紀子と結婚する前に、「子供の頃から私の精神形成に大きな役割を果たしてくれた人」としての大島さんに一度会わせておきたいと思い、三鷹のお宅へ連れていった。冬の晴れた風の強い日で、下連雀のおうちの窓ががたがたゆれていた。多分一九五〇年だったと思う。
 大島さんは厚着の上にテカテカのどてらを着てマフラーをし、ベレー帽をかぶって炬燵で仕事をしておられた。奥様は次男の秋光さんを負ぶって、お花の行商に出かけてお留守だった。炬燵にどうぞと言われて入ったが、火は消えていたようだった。
 大島さんはアラゴンの詩のこと、フランスのレジスタンスのことなど熱っぽく話してくださった。それから父八十の「衣摺れと葉ずれと木と人と・・・」という詩の一節を引用して、「いいねえ」と陶然としたように話しておられた。
 そのとき、とんとんとんと音がして、絣の綿入れの着物を着た三歳くらいの男の子が奥から出てきた。顔の半分ほどもある大きな焼き芋をおいしそうにかじりながら、くりくりした可愛い目で大島さんと私たちを興味深そうに見ていた。それが朋光さんだった。
 家内はこの訪問で非常に強い印象を受けて、「このような人の影響を受けて育った八束さんという人は、いったいどんな人なんだろうと思った」と後で言っていた。
(つづく)

  西條八束(やつか)さん
一九二四年、東京生まれ、陸水学、海洋学専攻、東京大学理学部地理学科卒、名古屋大学水圏科学研究所教授、所長など歴任、元日本陸水学会会長。名古屋大学名誉教授。『湖沼調査法』(古今書院)、『潮は生きている』(蒼樹書房)、『小宇宙としての湖』(青木書店)、『内湾の自然誌~三河湾の再生をめざして』(あるむ)ほか。

(『詩人会議』2006年8月号)
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