昭和十一年ごろから博光は「蝋人形」の編集に携わるようになったが、西條八十について「寛大というか、ほとんど私に任せっきりで、私が自分の好きなようにしても、つまり当時私もシュールレアリスムの紹介などもしたり、そういう原稿を依頼したり、作ったりしていたが、先生は何にもおっしゃらずに任せていた、新しいものに共感を持って、積極的な、進取的な態度をいつも持っていた」と語っています。
詩人の原子朗先生は「蝋人形」への博光の論文発表を西條八十が擁護したエピソードを紹介しています。
* * *
私がまだ小学一、二年生のころ、すでに詩を書いていた秋野さち子姉は「蝋人形」という当時有名な雑誌に、はじめて「刹那に生く」と題する詩を発表している。それは一九三一(昭和六)年十二月号の「蝋人形」で、そのとき姉は一九歳だった。
そうした事実を私はこの「全詩集」で秋野姉の病気はもちろん、すべてを支えぬいた中村秀雄氏苦心の「年譜」と照合させて知ったわけではない。つい先だって姉のあとを追うかのように亡くなった、やはり、ずっと「蝋人形」の中心にいた(第二次大戦後は世界的に有名だったアラゴンの『フランスの起床ラッパ』の訳者としてよく知られた)大島博光氏貯蔵のバック・ナンバーの揃いで、氏の生前確認していたことである。
秋野さち子さんを、姉と私が呼ぶのは実姉や義姉だったわけではない。形式的な敬称や墓碑銘の「姉」でもない。日本語の接尾辞はいいかげんとはいえ、正真正銘の「詩姉」だったからである。それなら大島博光もフランス語のちからをはじめ、私にはおそろしいほどの詩兄だった。「蝋人形」の紹介と再確認も、ここで最少限必要と思うのでそれもやるが、姉の二歳上だった大島博光兄のエピソードを挿むことを先にしよう。兄の『フランス近代詩の方向』(一九四〇<昭一五>年、山雅房)の戦時下とはいえ瑞々しい進歩的な思考は、既に注目されていたが、その後「蝋人形」に発表しようとした兄の戦時下の論文に対して編集委員会が「危いのではないか」と当局の取締りや忌諱にふれる内容を恐れて論議しあっているのを知り、内容を読んだ西條八十主宰が「構わないから載せなさい。何かあったら私が処理します」と断乎として皆に告げたという感動的な場面を、私は戦後門田穣(かどたゆたか)兄から聞き、当の秋野さち子姉からも同じはなしを(当時の同人間で評判にもなったらしく)聞いたことがある。門田兄から、どこで、いつごろ、はじめて聞いたかは不思議に私は憶えている。(だが、それが大島博光兄の、どの作品だったのか、忘れている私には、ほんとうは書く資格はないのだが)新宿の大衆酒場の座敷でだった。・・・
(原子朗「秋野さち子全詩集」解説より)
詩人の原子朗先生は「蝋人形」への博光の論文発表を西條八十が擁護したエピソードを紹介しています。
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私がまだ小学一、二年生のころ、すでに詩を書いていた秋野さち子姉は「蝋人形」という当時有名な雑誌に、はじめて「刹那に生く」と題する詩を発表している。それは一九三一(昭和六)年十二月号の「蝋人形」で、そのとき姉は一九歳だった。
そうした事実を私はこの「全詩集」で秋野姉の病気はもちろん、すべてを支えぬいた中村秀雄氏苦心の「年譜」と照合させて知ったわけではない。つい先だって姉のあとを追うかのように亡くなった、やはり、ずっと「蝋人形」の中心にいた(第二次大戦後は世界的に有名だったアラゴンの『フランスの起床ラッパ』の訳者としてよく知られた)大島博光氏貯蔵のバック・ナンバーの揃いで、氏の生前確認していたことである。
秋野さち子さんを、姉と私が呼ぶのは実姉や義姉だったわけではない。形式的な敬称や墓碑銘の「姉」でもない。日本語の接尾辞はいいかげんとはいえ、正真正銘の「詩姉」だったからである。それなら大島博光もフランス語のちからをはじめ、私にはおそろしいほどの詩兄だった。「蝋人形」の紹介と再確認も、ここで最少限必要と思うのでそれもやるが、姉の二歳上だった大島博光兄のエピソードを挿むことを先にしよう。兄の『フランス近代詩の方向』(一九四〇<昭一五>年、山雅房)の戦時下とはいえ瑞々しい進歩的な思考は、既に注目されていたが、その後「蝋人形」に発表しようとした兄の戦時下の論文に対して編集委員会が「危いのではないか」と当局の取締りや忌諱にふれる内容を恐れて論議しあっているのを知り、内容を読んだ西條八十主宰が「構わないから載せなさい。何かあったら私が処理します」と断乎として皆に告げたという感動的な場面を、私は戦後門田穣(かどたゆたか)兄から聞き、当の秋野さち子姉からも同じはなしを(当時の同人間で評判にもなったらしく)聞いたことがある。門田兄から、どこで、いつごろ、はじめて聞いたかは不思議に私は憶えている。(だが、それが大島博光兄の、どの作品だったのか、忘れている私には、ほんとうは書く資格はないのだが)新宿の大衆酒場の座敷でだった。・・・
(原子朗「秋野さち子全詩集」解説より)
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