大島博光全詩集あとがきより
この全詩集刊行にあたって、わたしは自分の戦争中の詩篇を四十数年ぶりに読みかえしてみて、いろいろな感慨にとらわれた。それらの詩篇は、まるで眼に見えない壁のなかに閉じ込められた者が、壁をたたきながら、しわがれ声で、うわ言のように挙げている咽めき、嘆きのようだ。またそれら戦争中の詩篇は、カゴのなかのハツカ鼠がひたすらに針金の輪をぐるぐるまわすように、ほとんど同じような主題をまわしているようである。つまり主題の喪失がみられる。それはやはり、治安維持法などによる血なまぐさい弾圧、抑圧によって抑えられ、おし進められた戦争とファシズム下におけるわたしの詩の姿、わたしの詩のありようを物語っているのにちがいない。
わたしは戦前から戦中にかけて青春を送った世代にぞくしており、ファシズムが統制、弾圧を強めて、戦争へ突入してゆく時代に書き始めた世代にぞくしている。その頃、詩の分野では、いわゆるモダニズムといわれる流派がいくつか生まれた。正確にいえば、それは一九三四年春、プロレタリア文化運動が弾圧によって解散させられるという状況の後に生まれた。したがって、それらモダニズムの詩の流派に共通していたのは、政治(現実)にはかかわらない、政治(現実)を否定する、政治(現実)からの逃避、という態度であった。一方では治安維持法をふりかざしたファシズムは、そういう詩と詩人のありようしかゆるさなかったのである。
またしたがって、それらのモダニズムは、ただ形式均な新しさ、感覚的な新しさ、人工的なイメージの新しさなどを追求するほかはなく、ほとんど現実、人間現実を反映しないものとなるほかはなかった。
わたしは自分の詩に即してそのことを深く感じる。そのモダニズムのなかには、フランスのシュルレアリスムの影響なども見られたが、それも形式上の影響だけであって、シュルレアリスムの反抗的な側面の影響はほとんどみられなかった。アラゴン、エリュアール、サドゥール、ピエル・ユニックなどのシュルレアリストたちは共産党員へと発展していった。そこにはながいフランスの革命的伝統と民主主義の成熟があり、フランス国内に台頭していたファシズムとたたかう強力な人民戦線勢力があった。それとは逆に、わがくにのモダニズムはファシズムの制約の下で生まれ、初めからファシズムの制約のなかでしか活動できなかった。しかも、そのモダニズムの詩人さえ、いわゆる「神戸事件」にみられるように、戦争の後期には弾圧されたのであった。そんな状況のなかで楠田一郎は日本帝国主義の中国への侵略戦争についてつぎのように書いた。
おお 人間が殺されてゆく
殺されてゆく
この木を見よ この石に聞け
掠奪されたばかりの小さな村で
白痴になった十二の少女が
美しいほどの神聖な目をしていた
まるで太陽のようだった・・・
(「黒い歌」)
当時、このような詩はまことに稀有なものであった。この詩が検閲の眼をのがれえたのは恐らく偶然であり、それが書かれたのが戦争の初期であって、作者がまだ若くて無名であったからでもあろう。そのうえ、戦争への突入、展開などは、表の国民には知りようもなく、すべては国民のわからないところ、知らないところですすめられていた。新聞も真実を報道することがなく、大本営発表をくりかえすに過ぎなかった。
その頃、わたしがわずかにうたったのはつぎのような詩句である。
むなし無限に逃れゆく 風に向ひて
歌うなり─われらは暗き夜の虹
かの不在なる太陽に みずから映えて
懸かるなり 虚妄の室に懸かるなり
(「夜の歌」第一の歌)
現実から乖離し、現実をリアルに反映するすべをもたなかったわたしは、わずかに不条理の世界を「虚妄」の世界とみなしていたのである。そしてあの時代は、暗い夜であり、絶望であり、悲惨であったということぐらいを、きわめて抽象的に、心象的に、書いたのにすぎない。
風はすべての樹の葉を吹きちらし
すべての燈火を吹きけした
(「火の歌」)
この二行のなかにわたしは、多くの若者たちを奪いさり、希望をもぎ去っていった戦争をわずかに暗示しょうとしたことを、いまもおぼえている。しかしここまでが精いっぱいであった。同じ頃、フランスのレジスタンスのなかでアラゴンが、敵の検閲の眼をくらますために「密輸」という詩法をあみだして、巧みに抵抗の精神をうたっていたことをわたしが知ったのは、ずっと戦後になってからである。・・・
この全詩集刊行にあたって、わたしは自分の戦争中の詩篇を四十数年ぶりに読みかえしてみて、いろいろな感慨にとらわれた。それらの詩篇は、まるで眼に見えない壁のなかに閉じ込められた者が、壁をたたきながら、しわがれ声で、うわ言のように挙げている咽めき、嘆きのようだ。またそれら戦争中の詩篇は、カゴのなかのハツカ鼠がひたすらに針金の輪をぐるぐるまわすように、ほとんど同じような主題をまわしているようである。つまり主題の喪失がみられる。それはやはり、治安維持法などによる血なまぐさい弾圧、抑圧によって抑えられ、おし進められた戦争とファシズム下におけるわたしの詩の姿、わたしの詩のありようを物語っているのにちがいない。
わたしは戦前から戦中にかけて青春を送った世代にぞくしており、ファシズムが統制、弾圧を強めて、戦争へ突入してゆく時代に書き始めた世代にぞくしている。その頃、詩の分野では、いわゆるモダニズムといわれる流派がいくつか生まれた。正確にいえば、それは一九三四年春、プロレタリア文化運動が弾圧によって解散させられるという状況の後に生まれた。したがって、それらモダニズムの詩の流派に共通していたのは、政治(現実)にはかかわらない、政治(現実)を否定する、政治(現実)からの逃避、という態度であった。一方では治安維持法をふりかざしたファシズムは、そういう詩と詩人のありようしかゆるさなかったのである。
またしたがって、それらのモダニズムは、ただ形式均な新しさ、感覚的な新しさ、人工的なイメージの新しさなどを追求するほかはなく、ほとんど現実、人間現実を反映しないものとなるほかはなかった。
わたしは自分の詩に即してそのことを深く感じる。そのモダニズムのなかには、フランスのシュルレアリスムの影響なども見られたが、それも形式上の影響だけであって、シュルレアリスムの反抗的な側面の影響はほとんどみられなかった。アラゴン、エリュアール、サドゥール、ピエル・ユニックなどのシュルレアリストたちは共産党員へと発展していった。そこにはながいフランスの革命的伝統と民主主義の成熟があり、フランス国内に台頭していたファシズムとたたかう強力な人民戦線勢力があった。それとは逆に、わがくにのモダニズムはファシズムの制約の下で生まれ、初めからファシズムの制約のなかでしか活動できなかった。しかも、そのモダニズムの詩人さえ、いわゆる「神戸事件」にみられるように、戦争の後期には弾圧されたのであった。そんな状況のなかで楠田一郎は日本帝国主義の中国への侵略戦争についてつぎのように書いた。
おお 人間が殺されてゆく
殺されてゆく
この木を見よ この石に聞け
掠奪されたばかりの小さな村で
白痴になった十二の少女が
美しいほどの神聖な目をしていた
まるで太陽のようだった・・・
(「黒い歌」)
当時、このような詩はまことに稀有なものであった。この詩が検閲の眼をのがれえたのは恐らく偶然であり、それが書かれたのが戦争の初期であって、作者がまだ若くて無名であったからでもあろう。そのうえ、戦争への突入、展開などは、表の国民には知りようもなく、すべては国民のわからないところ、知らないところですすめられていた。新聞も真実を報道することがなく、大本営発表をくりかえすに過ぎなかった。
その頃、わたしがわずかにうたったのはつぎのような詩句である。
むなし無限に逃れゆく 風に向ひて
歌うなり─われらは暗き夜の虹
かの不在なる太陽に みずから映えて
懸かるなり 虚妄の室に懸かるなり
(「夜の歌」第一の歌)
現実から乖離し、現実をリアルに反映するすべをもたなかったわたしは、わずかに不条理の世界を「虚妄」の世界とみなしていたのである。そしてあの時代は、暗い夜であり、絶望であり、悲惨であったということぐらいを、きわめて抽象的に、心象的に、書いたのにすぎない。
風はすべての樹の葉を吹きちらし
すべての燈火を吹きけした
(「火の歌」)
この二行のなかにわたしは、多くの若者たちを奪いさり、希望をもぎ去っていった戦争をわずかに暗示しょうとしたことを、いまもおぼえている。しかしここまでが精いっぱいであった。同じ頃、フランスのレジスタンスのなかでアラゴンが、敵の検閲の眼をくらますために「密輸」という詩法をあみだして、巧みに抵抗の精神をうたっていたことをわたしが知ったのは、ずっと戦後になってからである。・・・
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