西條八十先生の思い出(下)
大島博光
*
先生はいつも多忙をきわめていた。そんななかで、「蝋人形」の編集しめ切りのぎりぎりに「一握の玻璃(はり)」「牡牛の夜」などの詩がとどけられた。
初めて「一握の玻璃」をよんだときの感動をわたしは忘れることができない。それは詩人西條八十の詩のひとつの頂点を示すと同時に、詩人の自画像そのものとなっているように、わたしは思う。
水晶の牢獄(ひとや)のなかに、鶯を
紅き紐もて、つなぐ夜
かなしみの雨、しぶきつつ
一握の玻璃うすぐもる。
詩人の内部の深みでくりひろげられるこの創造のドラマをどれほど解説しようと、このドラマをうたったこの詩のうつくしさを説きあかすことはできないだろう。
ちひさき業をいとほしみ、
小指に珠をめぐらせば、
黄なる鶯、ほの透きて、
くるしげに舞ふ、羽ばたきの。──
「黄なる鶯」は、「水晶の牢獄のなか」で羽ばたきも、「くるしげに舞ふ」のである。──うつくしい歌をひびかせるために。詩人の内面における創作のくるしみの深さを知るのは、詩人じしんのほかにはないだろう。
かたく、つめたく、人の忌む
技術の囚(をり)にこもるとも、
われ、汝(なれ)を信ず、鶯よ、
生死(しょうじ)を超えて、たかく鳴け。
詩人は知っている、信じている──「つめたく、人の忌む/技術の囚(をり)」にこもってこそ、鶯は「たかく鳴」くことができることを。この「技術の囚」とは、詩芸術、歌う詩法そのものである。
その詩芸術において、詩人西條八十は、日本語におけるいわゆる文語、雅語を駆使して詩を書いた最後の詩人ということになろう。
*
一九六七年(昭和四二年)、先生は七〇〇ページに及ぶアルチュール・ランボオ研究』(中央公論社)を刊行された。生涯を通じて、倦むことなくつづけられた研究の集大成であった。
先生はアルチュール・ランボオをこよなく愛し
生涯 愛しつづけて倦むことがなかった
夏 日光の「梅屋敷」へ行くときも
また 伊豆の大仁ホテルへ行くときも
鞄には 数冊のランボオ研究書が入っていた
B29による 東京空襲は烈しくなった
先生は 下館の旧家の別荘に疎開した
そこの書斎でも先生は 大島つむぎを着て
フランス語のランボオ研究書に向っていた
やがてそれは 大冊の『ランボオ研究』となる
長い長い持続のはての みごとな果実
*
一九八〇年(昭和五五年)八月、パリ・コロネルファビヤン広場のほとりで書いたこの詩の終わりは、つぎのようなものである。
この夏もわたしはシャルルヴィルを訪れた
駅前の辻公園を通りながらわたしは想った
五〇年むかしここを歩いて行った先生のことを
大通りの紅スモモの街路樹が北国(ノール)の空に
暗いえび茶色の茂みをかざしていた
そして流れるともない濃緑のムーズの岸べに
石造りの水車小屋ランボオ博物館は立っていた
遠い東洋の詩人の訪れたことなど知らぬげに・・・
(詩人)
(「西條八十全集 月報12」1999年)
* * *
西條八十が亡くなったのは昭和45年(1970)8月12日で、今年は没後40年になります。若い人が彼の名を知らないのも無理はありません。
ヒット流行歌の作家として一世を風靡した西條でしたが、そのために象徴詩の詩人としての評価は正当にされていないといわれています。八十自身も「ジキルとハイドのような生活(レコード会社専属の流行歌作詞家と早稲田大学文学部の教授)だった」と書いているが、分裂した才能をどうみるのか、いくつかの評論がなされています。博光は象徴詩の詩人・ランボオ愛好家としての八十しか見えなかったと「香りもない花束」で書いています。
大島博光
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先生はいつも多忙をきわめていた。そんななかで、「蝋人形」の編集しめ切りのぎりぎりに「一握の玻璃(はり)」「牡牛の夜」などの詩がとどけられた。
初めて「一握の玻璃」をよんだときの感動をわたしは忘れることができない。それは詩人西條八十の詩のひとつの頂点を示すと同時に、詩人の自画像そのものとなっているように、わたしは思う。
水晶の牢獄(ひとや)のなかに、鶯を
紅き紐もて、つなぐ夜
かなしみの雨、しぶきつつ
一握の玻璃うすぐもる。
詩人の内部の深みでくりひろげられるこの創造のドラマをどれほど解説しようと、このドラマをうたったこの詩のうつくしさを説きあかすことはできないだろう。
ちひさき業をいとほしみ、
小指に珠をめぐらせば、
黄なる鶯、ほの透きて、
くるしげに舞ふ、羽ばたきの。──
「黄なる鶯」は、「水晶の牢獄のなか」で羽ばたきも、「くるしげに舞ふ」のである。──うつくしい歌をひびかせるために。詩人の内面における創作のくるしみの深さを知るのは、詩人じしんのほかにはないだろう。
かたく、つめたく、人の忌む
技術の囚(をり)にこもるとも、
われ、汝(なれ)を信ず、鶯よ、
生死(しょうじ)を超えて、たかく鳴け。
詩人は知っている、信じている──「つめたく、人の忌む/技術の囚(をり)」にこもってこそ、鶯は「たかく鳴」くことができることを。この「技術の囚」とは、詩芸術、歌う詩法そのものである。
その詩芸術において、詩人西條八十は、日本語におけるいわゆる文語、雅語を駆使して詩を書いた最後の詩人ということになろう。
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一九六七年(昭和四二年)、先生は七〇〇ページに及ぶアルチュール・ランボオ研究』(中央公論社)を刊行された。生涯を通じて、倦むことなくつづけられた研究の集大成であった。
先生はアルチュール・ランボオをこよなく愛し
生涯 愛しつづけて倦むことがなかった
夏 日光の「梅屋敷」へ行くときも
また 伊豆の大仁ホテルへ行くときも
鞄には 数冊のランボオ研究書が入っていた
B29による 東京空襲は烈しくなった
先生は 下館の旧家の別荘に疎開した
そこの書斎でも先生は 大島つむぎを着て
フランス語のランボオ研究書に向っていた
やがてそれは 大冊の『ランボオ研究』となる
長い長い持続のはての みごとな果実
*
一九八〇年(昭和五五年)八月、パリ・コロネルファビヤン広場のほとりで書いたこの詩の終わりは、つぎのようなものである。
この夏もわたしはシャルルヴィルを訪れた
駅前の辻公園を通りながらわたしは想った
五〇年むかしここを歩いて行った先生のことを
大通りの紅スモモの街路樹が北国(ノール)の空に
暗いえび茶色の茂みをかざしていた
そして流れるともない濃緑のムーズの岸べに
石造りの水車小屋ランボオ博物館は立っていた
遠い東洋の詩人の訪れたことなど知らぬげに・・・
(詩人)
(「西條八十全集 月報12」1999年)
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西條八十が亡くなったのは昭和45年(1970)8月12日で、今年は没後40年になります。若い人が彼の名を知らないのも無理はありません。
ヒット流行歌の作家として一世を風靡した西條でしたが、そのために象徴詩の詩人としての評価は正当にされていないといわれています。八十自身も「ジキルとハイドのような生活(レコード会社専属の流行歌作詞家と早稲田大学文学部の教授)だった」と書いているが、分裂した才能をどうみるのか、いくつかの評論がなされています。博光は象徴詩の詩人・ランボオ愛好家としての八十しか見えなかったと「香りもない花束」で書いています。
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