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パリの夏─フランスからのたより

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パリの夏─フランスからのたより
                            大島博光

 としのパリの夏はものすごく暑い。六十年ぶりの記録的な暑さらしい。きのう四日の「ユマニテ」の一面には、うだって、ノビてしまった白熊の写頁が一面にでていて、「相も変わらぬすさまじい暑さ」と書いていた。
 この暑さのなか、ヴァカンスといいながらパリの街は、相変わらず世界じゅうからの観光客でにぎわっている。チュイルリー公園でも、トロカデロ公園のあたりでも、シャツをぬいで胸をはだけた男や、背中とおへそを出した若い娘たちが歩いている。ジーンズで、サンダルをはいた、ラフな服装と格好が多くて、まったく自由気ままなパリの街の風景だ。そのサンダルや靴さえも手にもって、素足で、公園の芝生のうえを歩いている。
 シャイヨー宮の前にある池では、午後三時ころから大噴水が始まる。正面の高みに、四列の砲口を三段にならべたようないくつもの蛇口から、弾道を描いて水の幕が放出される。虹がかかる。むろん垂直に噴きあげる噴水が、ニ百メートル四方もある池のいたるところにある。市民たちはしぶきを浴びて涼をとっている。まわりの芝生に腰をおろしたり、ねころんでいる。赤ん坊をいれたゆりかごを、両側から夫婦でつるして歩いている黒人のカップルは誇らかに見えた。紫色のスターチースの花と、真紅のサルビアと、ピンクのゼラニュームを幾何模様にあしらった花壇を背景に、それはまさに地上楽園のように見える・・・九十フランの電気、ガス代を払うことのできない数万の労働者の家庭があるなどは、思いもつかない。

 ころで、この噴水の上のシャイヨー宮の左の翼には、いまも「人類博物館」がある。レジスタンスの時代に「人類博物館」事件として有名な、学者たちの抵抗グループがここに勤務していた。この学者たちはいち早く捕らえられて、モン・ヴァレリアンで銃殺されたのであった。かれらは、アラゴンが「五月の死者たち わが友らのために」とうたった、一九四二年五月の死者たちである。
 きょう五日、そのモン・ヴァレリアンの丘を訪れた。アンヴァリッド発の郊外電車で、パリの西郊スュレンヌ駅で降りる。朝の九時だというのに、電車には四、五人ほどの客しかいない。スュレンヌの小さな駅から急な坂を一キロメートルほどのぼってゆくと、白黄色の広場に出る。広場の右手に、はば二百メートル、高さ十五メートルほどの壁面がそびえている。これがモン・ヴァレリアンの国立記念碑である。壁の中央にキ字形の大きな十字架が浮き出ていて、その下の壁に
  いかなる事態が起ころうと
  レジスタンスの炎は消えぬだろう
    シャルル・ド・ゴール
と刻まれていた。そのまえに大きな香炉のようなかたちをした火皿のなかに、「永遠の火」が燃えていた。

 千五百人の人質がナチスによって銃殺された処刑場は、このモニュマンのうえにあって、いまはこんもりと茂った樹木におおわれて、蝉(せみ)の声ひとつきこえずに、静まりかえっている。五、六人のフランス人の一群のほか、だれもいなかった。帰途、リュックサックを背負った日本人の若者が四人、わたしたちを追い越して行った。きけば、この近くにはユースホステルがあって、かれらはそこに宿ったのであった。モン・ヴァレリアンについてはなにも知らないと答えた・・・坂の途中に「うさぎのおじさん」という、古風なカフェがあった。つたの茶かげのテーブルで、わたしたちはかわいたのどをうるおした。
 パリに帰って見たら、きょうの「ユマニテ」は、フランスの労働運動と共産党の大指導者ブノワ・フラションの死去を報じている。フランス共産党は、ジャック・デュクロについで、いままた党の長老をひとりうしなったことになる。 (詩人)

(1975.8.16「赤旗」)

パリ
パリ
パリ
シャイヨー宮の噴水と静江。1975.8
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