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近くて遠い人ランボオ─「父西條八十は私の白鳥だった」

ここでは、「近くて遠い人ランボオ─「父西條八十は私の白鳥だった」」 に関する記事を紹介しています。
 西條嫩子は「父西條八十は私の白鳥だった」(1978年 集英社刊)のなかで西條八十がさいごまでランボオに執着していたことを書いていますが、そこでは蝋人形時代の博光も描写されています。
*  *  *
近くて遠い人ランボオ
                           西條嫩子(ふたばこ)

・・・二、三年前に喉頭癌で虎ノ門病院に入院した時も、父は枕頭にランボオ論の草稿をうずたかくつんでいた。そしてコバルト療法でやや衰弱気味の合間にもたえまなくペンを入れていた。死んでもこれだけは残したいなどという悲壮感ではない。掌中の玉のようなマスコットをせめてもの楽しみにいじくっているような感じだった。

 父のかたわらにいて詩人ランボオの名を聞きはじめて何十年経つであろう。父がどんなにランボオの生涯に執着をもっていても、娘の私は父を通して以外ランボオとは無縁である。私はリルケやシュペルヴィエルのような、行動的でない瞑想的な詩人のほうをずっと愛しているし興味ぶかく読んでいる。しかし、昔からよく父はひとり言で呟いていた。

 <おお、季節よ、おお、城よ、
  無庇な魂なぞ何処にあろう>

 この句は若い柔軟な心にしみこんでくるし、リズムが美しいのでよく覚えていた。父の主宰する詩誌『蝋人形』の編集をやっていた大島博光氏もランボオの傾倒者で、十三、四歳のお下げ髪の私に声をかけると、
「お嬢ちゃん、季節よ、おお城よ、ランボオの詩はすばらしいですよ」
 と両手を挙げて謳歌して涙ぐみさえしていたのだ。彼はロートレアモンなどの幻想詩人にも心酔していたが、今はその情熱を左翼にささげている由である。
 およそ、父親があまり凝り固まっているものは娘はむしろ敬遠する。父は歌う唄を数知れず書いた。またランボオの作品には私がもの心つく頃から親しんでいた。私は歌う詩にはあまり興味はないし、ランボオの名は聞きあきて逃げ出したい心持ちであった。
 しかし、ランボオ論が発刊されてみると、父の書きかたは優しい筆致なので、三日ぐらいで夢中に読んでしまった。娘が言うとおかしいけれど、彼の波瀾万丈の生涯が小説以上に面白かった。まったく一生を賭けてランボオ研究のペンを休めない父の傍にいながら、ランボオの作風や生涯の大要を知ったのはそれがはじめてだった・・・

「父西條八十は私の白鳥だった」
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