連合軍の上陸・オラドゥールの悲劇
一九四四年六月六日の夜明け、英仏海峡は連合軍のかぞえきれぬ艦船で埋められた。船体をよせあった幻のような大船団が、ノルマンディ海岸をめざした。連合軍の敵前上陸がはじまったのである。
ドイツ軍は海岸線の防備を強力にかためていた。トーチカには強力な火砲が配置されていた。浜べに深くぶちこまれた鉄板が、装甲車やトラックの上陸をこばみ、幾重にもめぐらされた有刺鉄線が、歩兵の前進をはばんでいた。しかし、それも連合軍の上陸作戦をおしとどめることはできなかった。上陸用舟艇の口がひらいて、兵隊や武器弾薬が吐きだされる。ジープや戦車が船を並べた橋のうえを前進し、橋頭壁がつくられる。ダンケルクの敗走から四年後、ついに連合軍はフランスを解放するために上陸した。
シェルブール港に近いサント・メール・エグリスには落下傘部隊が降下した。六月八日、バイユーの町が解放される。
ドイツ占領軍とその協力者たちは、じぶんたちの敗勢を知って、いよいよその野蛮ぶりを発揮する。
六月六日以来、南仏トゥールーズ附近に進駐していたナチス親衛隊の精鋭部隊は、戦車と大砲とともに退却するため、北方にむかって行軍をはじめていた。いたるところで、とりわけドルドーニュ県やリムーザン地方で、フランスの愛国者たちはドイツ軍に襲いかかり、ドイツ軍の前進をにぶらせた。こうしてナチスはいよいよ狂暴になった。かれらは通過する村むらに火を放った。テュル市では、九九人の人質を絞首刑にして、路上に吊した。六月十日、オート・ビアンヌ県のオラドゥール・シュル・グラーヌの村を焼きはらい、全村民を虐殺し、女と子供たちを教会に閉じこめて、これを焼きはらった。この怖るべき犯罪は、フランスのひとつの村を文字どおり地図から抹消し、およそ五百人が犠牲となった。
オラドゥールは、ナチスの冷酷残忍な蛮行の象徴である。ナチス・ドイツ軍に占領された国ぐにでは、とくにポーランドとソヴェトでは、オラドゥールのような運命をたどった村むらは百を数えるといわれる。チェコのリディツュ村でも、オラドゥールとおなじ犯罪がおこなわれたのである。
一九四四年八月、『レットル・フランセーズ』紙一九号の一面に、ジャン・タルディウの詩「オラドゥール」が掲載された。
オラドゥール
ジャン・タルディウ
オラドゥールには もう 女たちがいない
オラドゥールには ひとりの 男もいない
オラドゥールには みどりの 木がない
オラドゥールには もう 石ころもない
オラドゥールには もう 教会がない
オラドゥールには もう 子供たちがいない
もう 煙りもでない 笑い声もない
もう 屋根もない 納屋もない
もう 藁の山もない 愛もない
もう ぶどう酒もない 歌声もない
オラドゥールと 開くだけで ぞっとする.′
オラドゥールよ おまえの流した血に
おまえの傷ぐち おまえの焼け跡に
近づく勇気は わたしにはない
おまえの名をきくことも 見ることも
とても わたしには 堪えられない
オラドゥールよ 人類の 汚辱よ
オラドゥールよ 永遠の.恥辱よ
われらのこころを 静めうるのは
ただ 心ゆくばかりの 復讐(ふくしゅう)だけだ
永遠の憎しみよ 永遠の汚辱よ
オラドゥールは もう 跡形(あとかた)もない
オラドゥールには もう女も男もいない
オラドゥールには もう 子供たちがいない
オラドゥールには もう みどりの木がない
オラドゥールには もう 教会がない
もう煙りもなびかない 娘たちもいない
もう夕ぐれもない 朝もない
もう 涙もない 歌声もきこえない
オラドゥールは もう一つの叫びでしかない
世にも怖ろしい 凌辱が 虐殺が
生きていた村に くわえられた
世にも怖ろしい 汚辱のゆえに
村は ただ一つの叫びと 化した
人類の 憎しみをつげる 名まえよ
人類の 汚辱をつげる 名まえよ
われらの 復讐をつげる この名が
わが国の 国じゅうからあがるのを
身を顛わせながら われらはきく
その名は いつまでも呻いている
妻と子供をこのオラドゥールに疎開させていた、ひとりの鉄道技師が、この村を訪れて、はからずもその惨状を目撃することになった。この目撃者は書いている。
「そこでわたしは、すでに見つかった死体置場の方へ歩いていった。
眼のまえにくりひろげられた光景は怖るべきものであった。
残骸を積みあげた堆積(やま)のまんなかには、黒焦げになった人間の骨が、とりわけ、骨盤の骨が浮き出て見えた。村の医者が住んでいた屋敷の離れ家で、わたしは黒焦げになった子供の死体をみつけたが、もう胴と腿(もも)しか残っていなかった。頭と脚はなくなっていた。わたしはいくつもの死体置場を見た。ひとつは、サン・ジュリアン街道とラ・フォペット街道との分岐点のそばにあった。もう一つは、村の駐車場にあり、もう一つは、カフェ・シェーヌ・ベール(緑の柏)のわきの納屋のなかにあった。骸骨は大部分、焼かれて崩れていたが、犠牲者の数は、相当高い数にのぼるように見えた。
村のなかを見て歩いているうち、わたしが確かめたことは、朝確認された三人の死体が夜明けには消えてなくなっていたということ、難をまぬかれていた二軒の家が、朝わたしたちが出会ったパトロール隊によってまぎれもなく焼きはらわれたということであった。
それから、教会のなかで、多くの女と子供の死体が発見されたことをわたしは知ったが、それは午後五時であった。このような見るに堪えない惨状をかきしるすには言葉もない。教会の最上部の骨組と鐘楼は完全に焼けていたが、本堂の丸天井は焼け残っていた。大部分の死体は、黒焦げになっていたが、いくつかは、まさに灰になるばかりではあったが、まだ人間の姿かたちをとどめていた。聖具室には、十二歳から十三歳の少年が二人、死の恐怖におそわれたまま、ひとつに抱きあっていた。慨悔(ざんげ)室には、小さな子供が、頭を前に、かしげて、座っていた。乳母革のなかには、七ヶ月から十ヶ月の赤ん坊の死骸が横たわっていた。
わたしはもうこれ以上、こんなことに立ち会うのには堪えられなかった。わたしは酔いどれのように、よろめくようにして、レ・ボールドに帰ってきた。
わたしがこの限で目撃した事実の報告はこれで終る。」
オラドゥールの悲劇は、たんに退却中の一指揮官の狂気によるものではなく、永年にわたって経験をかさね、意識的に行われたナチの蛮行のひとつである。
(「レジスタンスと詩人たち」)
一九四四年六月六日の夜明け、英仏海峡は連合軍のかぞえきれぬ艦船で埋められた。船体をよせあった幻のような大船団が、ノルマンディ海岸をめざした。連合軍の敵前上陸がはじまったのである。
ドイツ軍は海岸線の防備を強力にかためていた。トーチカには強力な火砲が配置されていた。浜べに深くぶちこまれた鉄板が、装甲車やトラックの上陸をこばみ、幾重にもめぐらされた有刺鉄線が、歩兵の前進をはばんでいた。しかし、それも連合軍の上陸作戦をおしとどめることはできなかった。上陸用舟艇の口がひらいて、兵隊や武器弾薬が吐きだされる。ジープや戦車が船を並べた橋のうえを前進し、橋頭壁がつくられる。ダンケルクの敗走から四年後、ついに連合軍はフランスを解放するために上陸した。
シェルブール港に近いサント・メール・エグリスには落下傘部隊が降下した。六月八日、バイユーの町が解放される。
ドイツ占領軍とその協力者たちは、じぶんたちの敗勢を知って、いよいよその野蛮ぶりを発揮する。
六月六日以来、南仏トゥールーズ附近に進駐していたナチス親衛隊の精鋭部隊は、戦車と大砲とともに退却するため、北方にむかって行軍をはじめていた。いたるところで、とりわけドルドーニュ県やリムーザン地方で、フランスの愛国者たちはドイツ軍に襲いかかり、ドイツ軍の前進をにぶらせた。こうしてナチスはいよいよ狂暴になった。かれらは通過する村むらに火を放った。テュル市では、九九人の人質を絞首刑にして、路上に吊した。六月十日、オート・ビアンヌ県のオラドゥール・シュル・グラーヌの村を焼きはらい、全村民を虐殺し、女と子供たちを教会に閉じこめて、これを焼きはらった。この怖るべき犯罪は、フランスのひとつの村を文字どおり地図から抹消し、およそ五百人が犠牲となった。
オラドゥールは、ナチスの冷酷残忍な蛮行の象徴である。ナチス・ドイツ軍に占領された国ぐにでは、とくにポーランドとソヴェトでは、オラドゥールのような運命をたどった村むらは百を数えるといわれる。チェコのリディツュ村でも、オラドゥールとおなじ犯罪がおこなわれたのである。
一九四四年八月、『レットル・フランセーズ』紙一九号の一面に、ジャン・タルディウの詩「オラドゥール」が掲載された。
オラドゥール
ジャン・タルディウ
オラドゥールには もう 女たちがいない
オラドゥールには ひとりの 男もいない
オラドゥールには みどりの 木がない
オラドゥールには もう 石ころもない
オラドゥールには もう 教会がない
オラドゥールには もう 子供たちがいない
もう 煙りもでない 笑い声もない
もう 屋根もない 納屋もない
もう 藁の山もない 愛もない
もう ぶどう酒もない 歌声もない
オラドゥールと 開くだけで ぞっとする.′
オラドゥールよ おまえの流した血に
おまえの傷ぐち おまえの焼け跡に
近づく勇気は わたしにはない
おまえの名をきくことも 見ることも
とても わたしには 堪えられない
オラドゥールよ 人類の 汚辱よ
オラドゥールよ 永遠の.恥辱よ
われらのこころを 静めうるのは
ただ 心ゆくばかりの 復讐(ふくしゅう)だけだ
永遠の憎しみよ 永遠の汚辱よ
オラドゥールは もう 跡形(あとかた)もない
オラドゥールには もう女も男もいない
オラドゥールには もう 子供たちがいない
オラドゥールには もう みどりの木がない
オラドゥールには もう 教会がない
もう煙りもなびかない 娘たちもいない
もう夕ぐれもない 朝もない
もう 涙もない 歌声もきこえない
オラドゥールは もう一つの叫びでしかない
世にも怖ろしい 凌辱が 虐殺が
生きていた村に くわえられた
世にも怖ろしい 汚辱のゆえに
村は ただ一つの叫びと 化した
人類の 憎しみをつげる 名まえよ
人類の 汚辱をつげる 名まえよ
われらの 復讐をつげる この名が
わが国の 国じゅうからあがるのを
身を顛わせながら われらはきく
その名は いつまでも呻いている
妻と子供をこのオラドゥールに疎開させていた、ひとりの鉄道技師が、この村を訪れて、はからずもその惨状を目撃することになった。この目撃者は書いている。
「そこでわたしは、すでに見つかった死体置場の方へ歩いていった。
眼のまえにくりひろげられた光景は怖るべきものであった。
残骸を積みあげた堆積(やま)のまんなかには、黒焦げになった人間の骨が、とりわけ、骨盤の骨が浮き出て見えた。村の医者が住んでいた屋敷の離れ家で、わたしは黒焦げになった子供の死体をみつけたが、もう胴と腿(もも)しか残っていなかった。頭と脚はなくなっていた。わたしはいくつもの死体置場を見た。ひとつは、サン・ジュリアン街道とラ・フォペット街道との分岐点のそばにあった。もう一つは、村の駐車場にあり、もう一つは、カフェ・シェーヌ・ベール(緑の柏)のわきの納屋のなかにあった。骸骨は大部分、焼かれて崩れていたが、犠牲者の数は、相当高い数にのぼるように見えた。
村のなかを見て歩いているうち、わたしが確かめたことは、朝確認された三人の死体が夜明けには消えてなくなっていたということ、難をまぬかれていた二軒の家が、朝わたしたちが出会ったパトロール隊によってまぎれもなく焼きはらわれたということであった。
それから、教会のなかで、多くの女と子供の死体が発見されたことをわたしは知ったが、それは午後五時であった。このような見るに堪えない惨状をかきしるすには言葉もない。教会の最上部の骨組と鐘楼は完全に焼けていたが、本堂の丸天井は焼け残っていた。大部分の死体は、黒焦げになっていたが、いくつかは、まさに灰になるばかりではあったが、まだ人間の姿かたちをとどめていた。聖具室には、十二歳から十三歳の少年が二人、死の恐怖におそわれたまま、ひとつに抱きあっていた。慨悔(ざんげ)室には、小さな子供が、頭を前に、かしげて、座っていた。乳母革のなかには、七ヶ月から十ヶ月の赤ん坊の死骸が横たわっていた。
わたしはもうこれ以上、こんなことに立ち会うのには堪えられなかった。わたしは酔いどれのように、よろめくようにして、レ・ボールドに帰ってきた。
わたしがこの限で目撃した事実の報告はこれで終る。」
オラドゥールの悲劇は、たんに退却中の一指揮官の狂気によるものではなく、永年にわたって経験をかさね、意識的に行われたナチの蛮行のひとつである。
(「レジスタンスと詩人たち」)
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