1.大島博光さんと『フランスの起床ラッパ』
2010.5.15 川上勉
アラゴンのレジスタン詩はわが国ではひとえに大島博光さんの訳業によって紹介されていると言ってよい。
レジスタンス期に刊行されたアラゴンの数ある詩集の中で、大島さんが最初に訳出されたのが『フランスの起床ラッパ』で、1951年2月に三一書房から出版された(4年後には三一新書として再刊されている)。この詩集の中の「教えるとは希望を語ること 学ぶとは誠実を胸にきざむこと」という『ストラスブール大学の歌』の一節や、「神を信じたものも信じなかったものも、ドイツ兵に囚われたあの美しきものをともに讃えた」という『薔薇と木犀草』の一節などは、戦後のわが国では、さながらフランスレジスタンスを象徴することばとしての意味を持ったのである。
ところで、大島さんのこの初訳からおよそ30年後の1980年に、こんどは新日本文庫から装いを新たにして再刊されている。そして、巻末の「解説」の中で30年前のことを次のように回想しておられる。
「1950年頃、初めて『フランスの起床ラッパ』を読んで訳したときの、ほとんど衝撃的な感動をわたしは忘れることができない。詩がこれほどわたしを根底からゆさぶったことはなかった.わたしはそこに、美と真実とが、詩と伝統とが、そして詩と歴史とが、みごとに結びつきとけあった詩的奇跡をみる想いがした。」
この回想のことばは、その当時の気持ちをたいへん率直に語ったものだと思う。1950年といえば、日本がこれからどのような方向に進むべきかまだ不確定な時期であり、大島さんはレジスタン詩から受けた「衝撃的な感動を通して、詩の役割を根本から見つめ直し、戦時中の過去を反省し、将来に向かって人々に希望を語り、進むべき道を指し示そうとされたのである。言いかえると、『フランスの起床ラッパ』こそが大島博光さんの戦後の仕事の原点であり、出発点であったということである。
その後のお仕事は、アラゴンの多くの詩集にとどまらず、ユリュアールやギュヴイックなどのレジスタンス詩人たち、また、ネルーダやアルべルティといった、フランス以外の国の革新的な詩人を紹介するといったように、この原点はかぎりなく広がり深まっていったのである。
わたしが5月15日の話の中で具体的に取り上げたのは、『フランスの起床ラッパ』の1951年版と1980年版とを比較して、訳語にどのように変化が見られ、それがどういう意味を持っているかを探ることだった。
二つの版を比戟してただちに気づくことは、1980年版は原著の26篇の詩が目次の順番どおりすべて収められているのに対して、1951年版の方は順番が違っているし、5篇が省略されていることだ。このような形式的な違いはともかくとして、訳の上でいくつかの注目すべき工夫と変化が見られる。ほんの一例として『責苦のなかで歌ったもののバラード』の第一節を較べてみよう.
(1980年版)
もし もう一度 行けとなら
わたしはまた この道を行こう
ひとつの声 牢獄より起こり
明日の日を 告げる
(1951年版)
もしもう一度 生れかわったとて
またこの道をわたしは行こう
ひとつの声 牢獄より起り
明日の日を語り告げる
この詩は、ヴィシー警察によって1941年5月に逮捕され、12月にドイツ軍によって処刑されたガブリエル・ペリの一周忌を記念して作られたものである。ペリは30歳の若さで国会議員に選出されたフランス共産党の活動家で、獄中から友人に宛てた最期の手紙「もう一度わたしの人生をやり直す(recommencer)としたら、同じ道を行くであろう」と書いたと言われている。ペリの手紙のことばがこの詩ではリフレインとして用いられており、15節のうち5回も繰り返されている。
注目すべきは、1951年版では「もしもうー度 生れかわったとて」とされていたものが、1980年版では「もし もう一度 行けとなら」に変わっていることである。これは第二行目の「わたしはまた この道を行こう」に対応させたからで、refaireという同じ動詞が使われていることによる。
しかし、詩の意味内容をはっきりと力強く表現するのは「生れかわったとて」の訳語の方であろう。それゆえ、最後のリフレインだけは、大島さんもこの訳語をそのまま残しておられるのだ。なぜなら、最後の第14、15節ではいよいよペリが銃殺される場面を歌っているわけで、死を目前にした、緊迫した気持ちを表現するためにはどうしても「生れかわったとて」ということばを残したかったのだと思われるからである(新日本文庫版65-6ページを参照されたい)。
大島博光さんは198O年版ではとりわけ原詩の形式を尊重しようと工夫されながら、しかし、レジスタンス詩として持っている内容についても日本語表現として最大限生かそうと努力されていることが、『責苦のなかで歌ったもののバラード』ひとつ取り上げてみてもよくわかるのである。
2.われわれ日本人にとってレジスタンスとは何か
2010.5.15 川上勉
アラゴンのレジスタン詩はわが国ではひとえに大島博光さんの訳業によって紹介されていると言ってよい。
レジスタンス期に刊行されたアラゴンの数ある詩集の中で、大島さんが最初に訳出されたのが『フランスの起床ラッパ』で、1951年2月に三一書房から出版された(4年後には三一新書として再刊されている)。この詩集の中の「教えるとは希望を語ること 学ぶとは誠実を胸にきざむこと」という『ストラスブール大学の歌』の一節や、「神を信じたものも信じなかったものも、ドイツ兵に囚われたあの美しきものをともに讃えた」という『薔薇と木犀草』の一節などは、戦後のわが国では、さながらフランスレジスタンスを象徴することばとしての意味を持ったのである。
ところで、大島さんのこの初訳からおよそ30年後の1980年に、こんどは新日本文庫から装いを新たにして再刊されている。そして、巻末の「解説」の中で30年前のことを次のように回想しておられる。
「1950年頃、初めて『フランスの起床ラッパ』を読んで訳したときの、ほとんど衝撃的な感動をわたしは忘れることができない。詩がこれほどわたしを根底からゆさぶったことはなかった.わたしはそこに、美と真実とが、詩と伝統とが、そして詩と歴史とが、みごとに結びつきとけあった詩的奇跡をみる想いがした。」
この回想のことばは、その当時の気持ちをたいへん率直に語ったものだと思う。1950年といえば、日本がこれからどのような方向に進むべきかまだ不確定な時期であり、大島さんはレジスタン詩から受けた「衝撃的な感動を通して、詩の役割を根本から見つめ直し、戦時中の過去を反省し、将来に向かって人々に希望を語り、進むべき道を指し示そうとされたのである。言いかえると、『フランスの起床ラッパ』こそが大島博光さんの戦後の仕事の原点であり、出発点であったということである。
その後のお仕事は、アラゴンの多くの詩集にとどまらず、ユリュアールやギュヴイックなどのレジスタンス詩人たち、また、ネルーダやアルべルティといった、フランス以外の国の革新的な詩人を紹介するといったように、この原点はかぎりなく広がり深まっていったのである。
わたしが5月15日の話の中で具体的に取り上げたのは、『フランスの起床ラッパ』の1951年版と1980年版とを比較して、訳語にどのように変化が見られ、それがどういう意味を持っているかを探ることだった。
二つの版を比戟してただちに気づくことは、1980年版は原著の26篇の詩が目次の順番どおりすべて収められているのに対して、1951年版の方は順番が違っているし、5篇が省略されていることだ。このような形式的な違いはともかくとして、訳の上でいくつかの注目すべき工夫と変化が見られる。ほんの一例として『責苦のなかで歌ったもののバラード』の第一節を較べてみよう.
(1980年版)
もし もう一度 行けとなら
わたしはまた この道を行こう
ひとつの声 牢獄より起こり
明日の日を 告げる
(1951年版)
もしもう一度 生れかわったとて
またこの道をわたしは行こう
ひとつの声 牢獄より起り
明日の日を語り告げる
この詩は、ヴィシー警察によって1941年5月に逮捕され、12月にドイツ軍によって処刑されたガブリエル・ペリの一周忌を記念して作られたものである。ペリは30歳の若さで国会議員に選出されたフランス共産党の活動家で、獄中から友人に宛てた最期の手紙「もう一度わたしの人生をやり直す(recommencer)としたら、同じ道を行くであろう」と書いたと言われている。ペリの手紙のことばがこの詩ではリフレインとして用いられており、15節のうち5回も繰り返されている。
注目すべきは、1951年版では「もしもうー度 生れかわったとて」とされていたものが、1980年版では「もし もう一度 行けとなら」に変わっていることである。これは第二行目の「わたしはまた この道を行こう」に対応させたからで、refaireという同じ動詞が使われていることによる。
しかし、詩の意味内容をはっきりと力強く表現するのは「生れかわったとて」の訳語の方であろう。それゆえ、最後のリフレインだけは、大島さんもこの訳語をそのまま残しておられるのだ。なぜなら、最後の第14、15節ではいよいよペリが銃殺される場面を歌っているわけで、死を目前にした、緊迫した気持ちを表現するためにはどうしても「生れかわったとて」ということばを残したかったのだと思われるからである(新日本文庫版65-6ページを参照されたい)。
大島博光さんは198O年版ではとりわけ原詩の形式を尊重しようと工夫されながら、しかし、レジスタンス詩として持っている内容についても日本語表現として最大限生かそうと努力されていることが、『責苦のなかで歌ったもののバラード』ひとつ取り上げてみてもよくわかるのである。
2.われわれ日本人にとってレジスタンスとは何か
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