「前」と「後」と ─「エリュアール」

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「前」と「後」と

 すでに『政治詩集』の項でも触れたように、エリュアールが共産党員となり、政治的実践に参加し、政治詩を書くようになると、ある批評家たちはそういうエリュアールには異をとなえ、反共的中傷や言いがかりを加えるにいたる。そこにはかっての親友たちさえもまじっている。その一人リュク・デコーヌは書く。
 「エリュアールの晩年にとり組むにあたって、わたしは大きな混乱に捉われるのを感じる。詩人としてのエリュアールにたいするわたしの讃嘆、敬服と、わたしの知っていた人間としてのエリュアールにたいする愛着と、彼の活動家としての活動や創作活動の或る側面がわたしを投げ込む困惑とのあいだに、わたしはひき裂かれるのだ」
 そして彼はあるブルジョワ批評家の反共的見解を引用している。
 「・・・・ジュリアン・グラッグはエリュアールの死の翌日、《エリュアールは─彼の作品は共産主義によって決定づけられている、とあなたは考えるか》というジャーナリストの質問に答えた。
 《・・・エリュアールの作品の大きな部分─もっとも重要な部分、そしてわたしにとって(また多くの人びとにとっても)もっとも良い部分は、戦争前に書かれた。ある党への入党は、詩人にとって拘束以外の影響を与えうるとは思われない。一九四〇年以後の若干の美しい詩は、レジスタンスの思い出に結びついているように思う。以来、わたしはエリュアールを幾度か読もうと試みたが、読むのをやめてしまった・・・》」
 ここでも、共産党へ入党する前のエリュアールと入党した後のエリュアールとが区別され対立させられる。それは次元の低い、悪意にみちた政治的な言いがかりにすぎない。ジャック・ゴーシュロンの言うように、彼はながいこと詩と人間についての諸問題にぶつかっていた。彼はそれを解決しようと努めていた。こうして彼はながいことさまよい夢みた。弁証法的唯物論が本質上共産主義となることを、彼はだんだんに理解してゆく。エリュアールの共産党への入党は、彼がおのれ自身に忠実であったことの表明であり、それはゆっくりと準備されたものである。それは断絶ではなく、人間の質的変化であって、自分の根本的な渇望、生きる理由をふたたび見いだし構築することである。エリュアールが詩的追求とマルクス主義の哲学的追求とを溶けあわせるようになってから、彼は世界への見方やイメージを大きくひろげ、こうして彼はひとびとの眼に大詩人として映るようになる・・・ジャン・レスキュールは書く。
 「ここにいるのはただひとりの人間─自分の人間性に忠実なただひとりの人間である・・・われわれはつぎのことを知っているし、そのことをはっきりと言わなければならない。ポール・エリュアールは共産覚員詩人であった。彼の共産主義は彼の偉大さと無関係ではない。それは服従でもなければ無気力でもなく、ひとを弱める従属でもなかった。じつにそれは生けるエリュアールが悪と死にたいして闘いとった勝利であり、彼の純粋さの最後の試金石であった」(「ウーロップ」誌一九六二年十一月・十二月号)
 レスキュールは共産党員ではないが、彼の言うようにエリュアールにとって、共産党員であることは、おのれに忠実であることであり、人生に忠実であることである。
 すでに一九三八年の『自然の流れ』の冒頭の詩で、まだ共産党に入党する前のエリュアールは、その頃のシュールレアリストの友人たちにつぎのような訣別の詩を書いている。


  相反する友らよ きみらその瞳のなかに
  生まれながらの夜や恐怖を湛えている
  その夜や恐怖のなかにおれはきみらを置いてきた
  きみらのむかしの所行の
  油のような怠惰のなかの不器用な手といっしょに 
  死にうち負かされるほんの小さな希望といっしょに
  おお 迷える友らよ
  おれは生活の方へ行く おれは人間の風貌をもつ
  この世界がおれの尺度で作られていることを証明するために

 これは、一九四八年、「要求の多い友らに」贈られた「詩は実践的な真理を目的としなければならぬ」という詩の前ぶれをなすものである。そしてアラゴンは書く。
 「たしかにエリュアールの詩には『前』と『後』がある。それを区別するものは、瞳のなかに『生まれながらの夜や恐怖』を湛えたひとびとの同意よりも、『人間の風貌』をもったひとびとの同意を選んだ共産党員エリュアールの決意である。そしてのどが渇いて水のほしいひとびとにとって、水差しは美しい。そしてそのひとびとは共産党員エリュアールの詩を愛するだろう。未来の色をしたその澄んだ水のゆえに。
 ・・・・レジスタンスの時代、エリュアールはすでに『相反する友ら』とは訣別しており、そのとき、国民が耳傾けるにいたった彼の詩は、しかし国民的な諸問題に眼を閉じていたひとびとの不信と無理解にぶつかった。彼らはのどが渇いていなかったから、水差しは彼らには美しく見えなかった。
 戦後の一九四五年から(死の)一九五二年までの数年は、エリュアールにとってその前のどんな時代にも比べられないほど豊かな時代だった。この数年には『持続しようとする堅い願望』『メディウーズ』『軽やかなシーツ係』『ベッドとテーブル』『見る』『途絶えざる詩Ⅰ』『政治詩集』『道徳の教え』『すべてを言うことができる』『フェニックス』『途絶えざる詩Ⅲ』が書かれる。それにレジスタンスの時代の『開かれた書』『詩と真実一九四二年』『ドイツ軍の集合地で』を加えよう。・・・これら七年間に書かれたものこそ、政治は芸術創造を不毛にする、共産主義は創造者を拘束する、と言いたてるひとびとへの共産党員エリュアールの返答である。・・・
 この数年のなかには、国民の敵も抑えつけることのできなかったこのエリュアールが、個人的な生活によって危く挫折しかねなかった重大な危機があった。ニューシュの死とそれにつづくドラマはよく知られている。
 しかしこの数年の詩は、不幸を乗り越え、絶望の強い力を克服することをエリュアールに可能にしたことを証言している。その頃の彼の詩は、結局、生の勝利として位置づけられるだろう。そしてそこにドミニックがおり、『フェニックス』のいくつかの詩がある。しかしそれまで生き永らえる保証はなかったのではないか。ポール・エリユアールがそれまで生き永らえたのは、それを可能にしたもろもろの力が彼のまわりにあったからであり、それらの力の抜きがたい反映が彼のなかにあったからである。そこに党があり、党への彼の愛があったからである」(『共産主義的人間』第二巻)
 アラゴンはここで、共産党員エリュアールを反共主義者たちの悪罵や中傷から防衛しながら、彼はさらに、エリュアールを「生き永らえさせた」ものとして、党と同志たちの役割を積極的に強調している。エリュアールがニューシユ死後の重大な危機を乗り越えることができたのは、そこに彼を支持し援助する党と同志たちがいたということである。
 なお、「のどの渇いたひとびとに水差しは美しい」という言葉は、エリュアールの「水差しは水よりも美しくありうるか」(『道徳の教え』序文)という言葉を受けて書かれたものである。
 そしてこの水差しの美しさと同時に、その新しさを強調する必要があるだろう。その新しさとは、エリュアールが実践と詩的追求をとおして先駆的に表現することのできた共産主義的人問像、その新しい愛、新しい道徳のもつ決定的な新しさである。反共主義者たちが憎悪するのは、この「未来の色をした」新しいものにほかならないのである。

(新日本新書「エリュアール」1988.11)


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