エリュアールとアラゴンにおける愛について

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エリュアールとアラゴンにおける愛について
                             大島博光

 『平和のための詩』が呪われた一九一七年から、『途絶えぎる歌』の書かれた一九五二年まで、エリュアールの作品には途絶えることのない連続がみられる。不義不正、愚蒙、戦争、悲惨にたいするエリュアールの反抗はしだいに深まるとともに、愛の詩もまた高まってゆく。
 第一次世界大戦(一九一四─一九一八)にエリュアールは一兵卒として動員され、のちには野戦病院付きの看護兵となり、戦争の悲惨さをまのあたりにして、『義務と不安』『平和のための詩』のなかで、最初の抗議の声をあげる。そして『平和のための詩』のなかには愛の詩も見いだされる。
 おお 友よ/世界のすべての仲間も/ぼくの妻と子どもたちの坐った/ぼくの丸いテーブルには及びもつかぬ/おお 友よ
 マルスナックも言うように、ここでは、愛もまだ、愛しあう二人だけの世界にとどまる、つつましい愛でしかない。
 しかし、エリュアールの愛は次第に高まって、「万人の地平」へと出てゆく・・・
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 エリュアールが生涯、倦むことなくくり返し歌ったのは、孤独からの脱出であり、孤独の終焉である。孤独の終焉とは、孤独にうち勝ち、孤独を終らせることだ。そして孤独を抜け出した新しい人間にとっては、もはや孤独という言葉は意味をうしなうであろう。
 まだエリュアールがシュルレアリストてあった頃、一九三六年六月、ロンドンでひらかれた「シュルレアリスト展に際して行った講演のなかで、かれはつぎのように語っている。
 「詩人はほかの人びとの生活のなかに、共同の生活のなかに、根深くはいりこんで、とすべての詩人が主張する権利と義務をもつ時代がやって来た。・・・
 詩人たちの孤独は、こんにち消えうせる。いまや詩人も、人びとのなかにまじった人間であり、いまやかれらは兄弟をもつ。」(『詩的自明の理』)
 ここには人民戦線の時代がその影をおとしているのでもあろう。しかし孤独の脱出、孤独の克服は愛によって果されることになる。
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 一九四六年十一月二八日、愛する妻ニューシュが死んだ。彼女はエリュアールとほかの人びとを結びつける橋であった。ニューシュを失って、エリュアールは愛するひとを失っただけでなく、世界と希望をも失ったのだ。なぜなら、ニューシュへの愛によって、かれはこの世界に希望をもつことを学んだのだから。エリュアールに生きる希望をあたえ、フランス人民との結びつきを教えたのはニューシュだったから。第二次大戦下、あのレジスタンスの絶望約な時代に、『戦争中の七つの愛の詩』を書くことができたのも、ニューシュの愛のおかげであった。

 ・・・/われらはいつも愛し合った/そうしてわれらは愛し合っているから/凍えるような孤独から/他の人びとを解き放ってやりたい/われらは願う いわば私が願い/いわばきみが願い われらは願う/徳にかがやく夫婦たちを/勇気を鎧(よろ)った夫婦たちを/光が生き永らえさせてくれるように/なぜなら かれらの眼は面と向い合い/かれらはほかの人びとの生のなかにおのれの目的をもっているのだから

 エリュアール初期の詩における愛にくらべれば、この詩では、愛はなんと高く遠くやって来たことだろう。そしてそれこそは新しい愛の名にあたいするだろう。あるいは、それを愛における進歩と呼ぶこともできよう。
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 エリュアールのこのような新しい愛の詩には、苦悩にみちた彼の生と実践のずっしりとした重みがあるのはいうまでもない。しかしこの天才的な声は、なにか神秘的な源泉などから生まれたものではない。それはすべての人びとの共同の声のこだまであり、歴史のこだまてある。とりわけいま引用した詩には、レジスタンスにおけるフランス人民の英雄的な闘争が反映しているのである。
 レジスタンスの闘争のなかで銃殺されたジョルジュ・シテルヌは、一九四四年五月七日、その死の直前、妻にあててつぎのような手紙を書いている。
 「この世には、ぼくらとぼくらの愛があるだけではない。この世には、ぼくらとほかの人びとを幸せにすることができる、あるいは不幸にするかも知れぬ、生活がある。ぼくらの幸福よりももっと大きな、しかもぼくらの幸福をもふくんだ、その大きな幸福のために、ぼくは死んでゆくのだ・・・」
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 ニューシュは死んでエリュアールはひとり地獄に残される。残されたものの苦悩、いやしがたい深傷(ふかで)を負いながら、かれはなお闘いにむかう。『溢れる時間』(一九四七年)の最後の詩『ぼくらの生』はそのようにして書かれた。
 ぼくらは目的に向かって一人づつではなく二人で行くだろう/二人でたがいに知り合いながら ぼくらはみんなと知り合うだろう/ぼくらはみんな愛し合うだろう そしてぼくらの子供たちは笑いとばすだろう/孤独な者が泣いている 黒い伝説などを
 エリュアールはここで、もはや自分ひとりのためではなく、ほかのすべての人びとのために、勝利を希っているのである。
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 ニューシュは死んで、エリュアールはひとり地獄に残される。しかしエリュアールは死の地獄をくぐり抜け、われとわが身を滅ぼさんばかりの苦悩にうち勝って、『政治詩集』を書く。アラゴンは、この詩集の序文「天国と地獄の結婚」のなかで、死んだ妻を地獄に探しに行ったというオルフェの伝説に対比させながら、エリュアールの地獄くぐりについて書いている。
 「・・・オルフェはふたたび、雪が降り、燃えるような太陽の降りそそぐメナードたちの空(天国)を見いだしたが、しかしついに人びとを見いだすこともなかったし、人びとにとって天国と地獄はひとつのものであり、それは「大地」と呼ばれる、ということを理解することもできなかった。
 いつか、ポール・エリュアールの偉大さがその点にあったことをひとは知るだろう。かれはランボオでもなければオルフェでもなく、じつに「大地」を見いだしたひとりの男なのだ。
 わたしを生きるように援けてくれたひとについて考えさせてくれ たくましい愛の悦びのあるにも拘らず/疲れている人たちに わたしは希望を与えよう
 かれを生きるように援けるとは、ほかの人びとをも生きるように援けることである。オルフェはそのことを考えもしなかった。ましておとぎ話のオペラにいたっては話にもならない。」(飯塚書店『アラゴン選集』三巻四九ページ)
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 それからドミニックがやってくる。
 一九四九年九月、エリュアールは旅行先のメキシコでドミニックと出会い、かれらはまもなく結婚する。
 きみはやってきた すると火はまた燃えあがり/影は消えさり この世の寒さはひび割れ/ふたたび大地はきみの明るい肉で蔽われ/ぼくは軽やかになる自分を感じた/きみがやってくると孤独は敗れさり/ぼくは地上の案内人をもち/身を処するすべを知り はてしないおのれを知り/ぼくは前進し 空間と時間を征服した//・・・/人間はたがいに知り合い/理解し合い 愛し合うように作られている/かれらは子供をもち 子供たちもまた人の子の父となるだろう/かれらは家もない子供たちをもち/子供たちもまた作り出すだろう 人間と/自然とかれらの祖国を/すべての人間のそれを/すべての時代のそれを(「死・愛・生」)
 「きみがやってくると孤独は敗れさり」─エリュアールがここでも歌っているのは、愛のカは孤独をまぎらわすことにあるのではなく、孤独に勝利することにある、ということだ。
 生きるとは分ちあうこと ぼくは孤独を憎む 
                        (「政治詩集」)
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 孤独にうち勝った新しい愛は、愛しあう夫婦(クーブル)というかたちをとるであろう。このような夫婦が詩のなかに意識的に登場してくるのは、二〇世紀においてである。ボードレールが愛し、あの妖しい美を讃えたサバティエ夫人、あるいはマリ・ドオブラン、ジャンヌ・デュヴァルは、疎外された女であり、男のための女であり、あるいは娼婦であった。ボードレールとこれらの女たちの関係と、エリュアールとニューシュあるいはドミニックとの関係を思いくらべてみれば、そこに根本的な大きなちがいのあることがわかるだろう。
 いち早くマヤコフスキーはこの新しい愛についてつぎのように歌つた。

 男たちと女たちの生を
   結びつけ
 ねばならぬ
 われらをひとつに結びつける
   同志
     という言葉で・・・・

 そしてエリュアールは、ドミニックに贈った詩集『不死鳥(フェニックス)』の扉に書く。
 「不死鳥(フェニックス)は、夫婦─アダムとイヴ─である・・・」
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 アラゴンはエリュアールの愛の詩の新しさについて『ベル・カント通信』に書く。
 「・・・現代詩には、永遠のプラトニスムの名に、われわれを二度と戻らせることのできぬような新しさがある。男はもはや女なしには考えられないし、女は男なしには考えられないからである。そして現代の愛についての調子高い表現は、もはや愛についてのあの「理念(イデエ)」でもなく、欲望の一方的な表現でもない。それが表現するものはもはや恋人ではなくて、夫婦(クーブル)である。そしてエリュアールの詩はこの新しさによって説明される・・・」
 アラゴンはさらにポール・シュワットとのインターヴューで、この夫婦(クーブル)という考えについて具体的に語っている。
 「わたしは共産主義をつぎのようなものとして想い描いています。つまり、よく結びつき、おたがいに忠実で、愛しあう、幸福で自由な男女の一組(クーブル)が、社会の基礎的な細胞となるような社会として想い描いています・・・・」
 そして「女は男の未来だ」というアラゴンの直観的予言も、このような夫婦(クーブル)の理念のうえに成り立っているのである。だから、このような夫婦の理念は、男と女の全的融合をねがう二人だけの愛を絶対化するものではなく、それだけを目的とするものでもない。なぜなら、その場合には、愛は孤独な者を他者へ結びつける通路であることをやめてしまうからである。
 アラゴンにおける愛──夫婦の理念の本質は、つぎのような詩に要約されて歌われているようである。
 人間だけが 夢をもつものなのだから/自分の抱いた夢が ほかの人たちの手で/自分の歌った歌が ほかの人たちの唇で/自分の歩いた道が ほかの人たちの道で/自分の愛さえが ほかの人たちの腕で成就され/自分の蒔いた種を ほかの人たちが/摘みとるために ひとは死をも辞さない/人間だけが 明日の日のために生きる//・・・・/わたしはきみに言おう 男は女のために/生まれ 愛のために生まれてくるのだと/古い世界の すべてが 変わるだろう/はじめに生が つぎに死が 変わるだろう/そうしてすべてのものが 分けられよう/白いパンも 血まみれの くちづけも/そうして 夫婦たちの わが世の春が/オレンジの 花のように 地上こ散り敷くだろう/(『エルザの狂人』─「未来の歌」)

(「詩人会議」1980.5)
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