エリュアールの墓
バラの枝のかげの「自由」と愛の詩人
大島博光
*エリュアールの生地
パリの北門クリニアンクールを出ると、ひろびろとして古めかしい工場地帯となり、バスで二十分もゆくとサン・ドニに着く。──ここがポール・エリュアールの生地であり、「王の町にしてまた赤い町」といわれる町だ。バスを降りると、眼のまえにこれまた古めかしい大伽藍がそびえている。これが、フランス歴代の王たちの墓のある有名なサン・ドニのバジリック(菩提寺)であり、ここが「王の町」といわれるゆえんである。はいってみると、うす暗い内陣には、いくつもの石や大理石の寝棺(ねかん)の墓がならんでいて、墓のうえには、胸のうえで合掌している王たちの横臥像が置かれていて、なんとも鬼気せまるものであった。案内者によると、一七八九年の大革命に際して、これらの王たちの墓は、革命的な人民によって運びだされて破壊され、それを復原したのはナポレオンだったという。
この大寺院の前に、道はばの狭い田舎町がじかにつづいていて、それはきわだった異様な対照をみせている。エリュアールの記念室のある、小さなサン・ドニ博物館は、この寺院の斜めまえの小路にあった。受付のところで、絵はがきやエリュアールのカタローグといっしょに、『パリ・コミューン』という本を売っていた。これは、一九七一年、ここでひらかれたパリ・コミューン百周年記念展覧会に出品された、コミューンの頃のビラ、デッサン、版画、その他の資料と解説を編集したものである。
*いたるところに「日本」
エリュアールの原稿や写真やその他の資料は奥の二部屋にならべられており、いちばん奥の小さな部屋は、エリュアールの書斎を再現していた。壁にはピカソの「鳩」が飾られ、ボードレールの胸像が置かれている本だなには、大佛次郎の『パリ燃ゆ』二巻がならんでいた。たしか一九六一年、大佛次郎はコミューンの資料をしらべるため、この博物館を訪れているのである。・・・わたしは、ランボーの生地シャルルビルで帰化した日本の老婦人に出会ったときのなつかしさを思い出した。フランスにきていたるところで「日本」に出会って、わたしはむしろ驚いた。ランスのカテドラルをたずねてゆくと、はからずもシャペル・フジタの前に出たのであった(これは、フジタ・ツグジが壁画を描いた教会であり、フジタはランスにアトリエをかまえていたという)。
エリュアールの資料のなかでわたしの興味をひいたのは、一九二一年、サンジュリアン・ル・ポープルの空き地でおこなわれたダダのデモンストレーションの時の、エリュアール、ブルトン、アラゴン、スーポーなど当時の「文学」誌同人の面々が写っている、もう黄色くなった記念写真であった。これらの若い反抗者たちは、こうもりがさやステッキなどをもって、なかなかの青年紳士として写っていた・・・。
べつの日、わたしはぺール・ラシェーズの墓地にある、エリュアールの墓と「連盟兵の壁」に花束をささげに行った。その壁は一八八七年にジュール・ジゥイがうたったとおりであった。
茫茫としてひろい墓地の奥
みどりの草の寝藁の下に
蛆虫どもに食いちらされて
銃殺された人たちは眠る
ならんだ旗と 花輪が
壁に残っ銃痕をかくし
連盟兵たちが最後に隠れた
この不吉な壁を 飾る・・・・
*とけてゆく疑問
エリュアールの墓は、道をへだてて、この壁の前にあった。三十年前の対独レジスタンスの殉難者たち、コロネル・ファビアン、ピエル・タンボー、ギイ・モッケなどの名の刻まれた墓碑とならび、アンリ・バルビュスやジャン・リッシャール・ブロックとならんで、「自由」と愛の詩人は、伸びたバラの枝かげに眠っていた。造花のスミレが一束、供えられていた。わたしはつぎのようなエリュアールの詩を思い出した。
夜明けは 青年にも老年にもいいものだ
ということを疑わずに生きた男 ここに眠る
死ぬとき かれは 生れることを考えた
なぜなら 太陽はまた のぼってきたから
この墓碑銘を、かれはみずからのために書いたにちがいない。
アラゴンやエリュアールなどの、フランスのシュルレアリストたちはどうして共産党員になったのだろう、という素朴な疑問を、わたしは以前からいだいていた。「赤い町」サン・ドニから、ペール・ラシェーズの赤い壁の前を訪れてみると、わたしの疑問の一半はおのずと解かれたような気がした。
(詩人)
<「赤旗」 掲載年月日不詳>
バラの枝のかげの「自由」と愛の詩人
大島博光
*エリュアールの生地
パリの北門クリニアンクールを出ると、ひろびろとして古めかしい工場地帯となり、バスで二十分もゆくとサン・ドニに着く。──ここがポール・エリュアールの生地であり、「王の町にしてまた赤い町」といわれる町だ。バスを降りると、眼のまえにこれまた古めかしい大伽藍がそびえている。これが、フランス歴代の王たちの墓のある有名なサン・ドニのバジリック(菩提寺)であり、ここが「王の町」といわれるゆえんである。はいってみると、うす暗い内陣には、いくつもの石や大理石の寝棺(ねかん)の墓がならんでいて、墓のうえには、胸のうえで合掌している王たちの横臥像が置かれていて、なんとも鬼気せまるものであった。案内者によると、一七八九年の大革命に際して、これらの王たちの墓は、革命的な人民によって運びだされて破壊され、それを復原したのはナポレオンだったという。
この大寺院の前に、道はばの狭い田舎町がじかにつづいていて、それはきわだった異様な対照をみせている。エリュアールの記念室のある、小さなサン・ドニ博物館は、この寺院の斜めまえの小路にあった。受付のところで、絵はがきやエリュアールのカタローグといっしょに、『パリ・コミューン』という本を売っていた。これは、一九七一年、ここでひらかれたパリ・コミューン百周年記念展覧会に出品された、コミューンの頃のビラ、デッサン、版画、その他の資料と解説を編集したものである。
*いたるところに「日本」
エリュアールの原稿や写真やその他の資料は奥の二部屋にならべられており、いちばん奥の小さな部屋は、エリュアールの書斎を再現していた。壁にはピカソの「鳩」が飾られ、ボードレールの胸像が置かれている本だなには、大佛次郎の『パリ燃ゆ』二巻がならんでいた。たしか一九六一年、大佛次郎はコミューンの資料をしらべるため、この博物館を訪れているのである。・・・わたしは、ランボーの生地シャルルビルで帰化した日本の老婦人に出会ったときのなつかしさを思い出した。フランスにきていたるところで「日本」に出会って、わたしはむしろ驚いた。ランスのカテドラルをたずねてゆくと、はからずもシャペル・フジタの前に出たのであった(これは、フジタ・ツグジが壁画を描いた教会であり、フジタはランスにアトリエをかまえていたという)。
エリュアールの資料のなかでわたしの興味をひいたのは、一九二一年、サンジュリアン・ル・ポープルの空き地でおこなわれたダダのデモンストレーションの時の、エリュアール、ブルトン、アラゴン、スーポーなど当時の「文学」誌同人の面々が写っている、もう黄色くなった記念写真であった。これらの若い反抗者たちは、こうもりがさやステッキなどをもって、なかなかの青年紳士として写っていた・・・。
べつの日、わたしはぺール・ラシェーズの墓地にある、エリュアールの墓と「連盟兵の壁」に花束をささげに行った。その壁は一八八七年にジュール・ジゥイがうたったとおりであった。
茫茫としてひろい墓地の奥
みどりの草の寝藁の下に
蛆虫どもに食いちらされて
銃殺された人たちは眠る
ならんだ旗と 花輪が
壁に残っ銃痕をかくし
連盟兵たちが最後に隠れた
この不吉な壁を 飾る・・・・
*とけてゆく疑問
エリュアールの墓は、道をへだてて、この壁の前にあった。三十年前の対独レジスタンスの殉難者たち、コロネル・ファビアン、ピエル・タンボー、ギイ・モッケなどの名の刻まれた墓碑とならび、アンリ・バルビュスやジャン・リッシャール・ブロックとならんで、「自由」と愛の詩人は、伸びたバラの枝かげに眠っていた。造花のスミレが一束、供えられていた。わたしはつぎのようなエリュアールの詩を思い出した。
夜明けは 青年にも老年にもいいものだ
ということを疑わずに生きた男 ここに眠る
死ぬとき かれは 生れることを考えた
なぜなら 太陽はまた のぼってきたから
この墓碑銘を、かれはみずからのために書いたにちがいない。
アラゴンやエリュアールなどの、フランスのシュルレアリストたちはどうして共産党員になったのだろう、という素朴な疑問を、わたしは以前からいだいていた。「赤い町」サン・ドニから、ペール・ラシェーズの赤い壁の前を訪れてみると、わたしの疑問の一半はおのずと解かれたような気がした。
(詩人)
<「赤旗」 掲載年月日不詳>
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