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相思樹の歌 太田博~戦場に散った若き命の詩

ここでは、「相思樹の歌 太田博~戦場に散った若き命の詩」 に関する記事を紹介しています。
ひめゆり部隊の少女たちが歌った「相思樹の歌」、これを作詩した太田博の師が大島博光であったという。
太田博
太田博
音楽教育の会の方が資料を提供。太田博については福島中央テレビで太田博~戦場に散った若き命の詩という番組を放送していました。
この歌についてひめゆり学徒だった渡久山さんが語っています。
「与儀での陣地構築作業の頃、福島県郡山商業学校出身の太田博少尉の作詞、東風平恵位先生作曲の「相思樹の歌」という曲がたちまち私たちの間に広がり、愛唱歌になりました。軍歌づくめのあの頃、この歌はどんなに私たちの心を打ったことでしょう。「目に親し/相思樹並木/往きかへり/去りがたけれど/夢のごと/とき年月の/行きにけむ/あとぞくやしき」と校門前の相思樹並木を歌い、そして友情、学園との別れをしみじみと歌っています。特に卒業を間近に控えた私たちにはじーんとくるものがありました。生きている限りの愛唱歌になることでしょう。」(『読谷村史第五巻資料編4 戦時記録下巻』ひめゆり学徒「私がたどったいくさ場の道」)

*コピーで提供された上の資料について、太田博遺稿集編集委員長の常松明男氏からつぎの通り誤りがあるとの指摘がありましたのでご留意ください。
1、太田博の生年は1921年です。
2、沖縄赴任は8月で秋ではなく、夏の赴任です。
3、学芸会には招かれていません。陣地構築の際に学徒の方々と交流しその話を聞いて、12月頃卒業式のはなむけに詩をおくりました。ひめゆり学園訪問はその後翌1月です。
4、内省は測ることができませんが、反戦の意思を表した表現は見当たりません。

(2012.7.1)
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コメント
この記事へのコメント
一昨年「太田博遺稿集」をお送りした者です。本稿にいくつかの誤りがありますので、ご訂正方お願いいたします。
1、太田博の生年は1921年です。
2、沖縄赴任は8月で秋ではなく、夏の赴任です。
3、学芸会には招かれていません。陣地構築の際に学徒の方々と交流しその話を聞いて、12月頃卒業式のはな  むけに詩をおくりました。ひめゆり学園訪問はその後翌1月です。
4、内省は測ることができませんが、反戦の意思を表した表現は見当たりません。
               太田博遺稿集編集委員長 常松明男
2012/07/01(日) 14:06 | URL | 常松明男 #-[ 編集]
太田博遺稿集編集委員長 常松明男様
ごていねいに資料の誤りについてご教示下さいましてありがとうございます。本稿の執筆者がわかれば、ご指摘の点について伝えたいと思います。
「太田博遺稿集」をお送り下さいまして誠に有難うございました。これからもよろしくお願いいたします。
大島朋光
2012/07/01(日) 22:27 | URL | 管理人 #0EvD.WU.[ 編集]
大島朋光様
早速の適切な対応ありがとうございました。
ところで太田博氏は山崎智門氏と中將愛星氏お二方への献詩を作り、大島博光氏の推薦で入選し、「蝋人形」誌上に発表されております。
お二人については出身地や生年・お亡くなりになった状況などほとんど分かっていないのですが、もしお分かりでしたらご教授いただければ幸いです。
          常松明男
2012/07/06(金) 17:29 | URL | 常松明男 #-[ 編集]
常松明男様
中将愛星氏については松本隆晴氏が信濃毎日新聞に書いた文章がありますのでブログに掲載させていただきました。本名伊藤寛之、早稲田大学の政経科の学生で蝋人形同人となったが、昭和16年2月19日、結核のため死去とあります。ウエブサイト「名詩の林」http://www.urban.ne.jp/home/festa/meishiswoods.htmには<伊藤寛之(1916-1941) 紀州に育ち成城中學を經て早大政經學部に學ぶ。學園の聖代奉祝歌「若き學徒の歌」に選ばる。「蝋人形」同人。1941年 4月逝去。>とありました。
山崎智門氏に関しては資料は見当たりません。「名詩の林」では<山崎智門やまさきちもん(1915-1941)金澤市に生ル。1928年、東京市幡代小学校卒業。1933年、東京成城中学校卒業。「蝋人形」準同人トナル。1935年、東京市役所淀橋出張所勤務。同年12月、金澤工兵第九聯隊入營、渡満。警備ニ服ス。1937年5月、金澤に凱旋。8月、病ヲ得テ除隊ス。1938年、「蝋人形」同人トナル。1939年4月、東京市役所土木局治水工事課設計係ニ勤務。5月、満州警備ノ功ニ依リ賜金、及満州事變從軍記章ヲ授ケラル。1941年4月19日死去。/山崎智門遺稿集『極圏投影』より>と書いています。
大島朋光
2012/07/07(土) 15:04 | URL | 管理人 #0EvD.WU.[ 編集]
大島朋光様
お忙しい中厚かましいお願いにもかかわらず、お調べいただきましてありがとうございました。
おかげさまで幻のベールの中から、「蝋人形」同人のお二人が現の世にあらわれたように親しく感じられました。
お二人は出身地は違いますが成城中学の先輩後輩だったのですね。
お二人の取り組んだ現代詩というか抽象詩は太田博氏も好んで取り組んだ分野だと思います。大島博光氏の目指す方向で三人は一致していたのでしょうね。
太田博氏が尊敬するお二方が同じ昭和16年に亡くなられたのは偶然でしょうか。さぞ悔しかったことと思います。
ともあれ、積年の悩みが解消いたしました。感謝申し上げます。
           常松明男
2012/07/07(土) 20:13 | URL | 常松明男 #-[ 編集]
常松明男様
こちらこそお教えいただき、ありがとうございました。戦争の時代に20代半ばの若さで亡くなった太田博(谷玲之助)、中将愛星(本名伊藤寛之)、山崎智門の3氏が「蝋人形」を通じ詩友として結ばれていたことが分かりました。このあたりをもっと調べたい気もします。
大島朋光
2012/07/08(日) 18:47 | URL | 管理人 #0EvD.WU.[ 編集]
本年2月、兼ねてよりの願望たる沖縄初訪問を果たす。
余談は、さて置き…日程の都合上、定期観光バスを利用し南部の戦跡を訪れた。
以前のNHK番組で概略は識って居た「つもり」の我が軽薄は、見事に吹き飛ばされた。
旧海軍司令部壕~ひめゆりの塔(及び、ひめゆり平和祈念資料館)~平和祈念公園……其れゞに、全く異なる…いや、異なるとは云い難い「先人・沖縄県民への追悼」の一日と為った。
私事で在るが、平和の碑に刻まれる故人(叔父)への、祈りと誓いが第一儀で在った筈が…
ひめゆりの塔に詣り、平和祈念会館の展示ブースを廻る内、懸る故人等への追悼の念…其の奥に在る、尊い犠牲を決して無駄にしない覚悟…
嘗ての本山長崎市長の宣言「長崎を此の地上で最後の被爆地に…(概略)」と同義の、戦後呆けした現代人への非常に重い宿題!
平和祈念会館~平和の碑…もうイケない。
激涙が止まらぬ。
…斯くして、CD「ひめゆり」に収録された「別れの曲(ウタ)」全曲を、帰宅せし後もレクイエムとして、唱和して居る愚人で在る。
故・太田 博少尉は、誠に純粋に市井詩人として…諸妹等へ、此の「相思樹の詩」を贈られし…と、愚人は確信した。
~詫び請い願う、乱長文の失礼を…
2014/04/23(水) 19:08 | URL | 伯耆國乃黄忠老 #-[ 編集]
太田博氏は敬虔なクリスチャンでした。ご指摘のレクイエムとのご指摘はまさに讃美歌とも受け取れる歌詞が意味する深い祈りと、その意を汲んだ東風平先生の流麗なメロディが醸す見事な結晶であるかと思われます。
2016/08/22(月) 20:56 | URL | sansin sanba #-[ 編集]
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