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『ネルーダ詩集』解説Ⅱ Neruda's Poems—Commentary 2 (7) 晦渋さと明快さと

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晦渋さと明快さと


(角川文庫『ネルーダ詩集』解説)
 
江戸川





 晦渋さと明快さと

 一九三三年および一九三五年の『地上の住みか』と、『大いなる歌』およびそれ以後の作品との明白な違いは、詩のスタイルの上にはっきりと現れている。つまり、晦渋なスタイルと明快なそれとのちがいである。
 ネルーダは若いころから、じぶんの直接的な体験をうたう詩人として出発し、自分の湧きたつ感興ぜんたいを表現しようとしてきた。そのためには、明快さ、わかりやすさというものを犠牲にすることをもためらわなかった。
 しかし地下生活の中で、かれはたくさんのひとびとと結びつき、連帯するために、すべてのひとびとにわかるような詩を書きたいとねがった。そのためには、何よりもわかりやすく書き、読者の理解をさまたげるような、ひとりよがりな晦渋さを捨てなければならない。かれはみずからこう語っている。
 「ご存じのように『大いなる歌』の大部分は、わたしが官憲に追われていた苦難の時代に書かれた。わたしは牢獄には入れられなかったが、しかし、ひとびとの接触をほとんど絶たれた中で書くということは、つらいことだった。そのころ、わたしは書くという問題で大きな困難にぶつかっていた。数年来、詩における最も大きな問題は──むろん、わたしにとっても最大の問題は──晦渋さと明快さの問題であった。……
 われわれはしばしば、読むことも知らないたくさんの人たちのために書いている。しかも詩は文字や印刷よりも以前から地上に存在してきた。したがって、詩はパンのようなものであって、パンのように、みんなに分けられなければならない。学識のある者にも農民にも、人民という広範な家族のあいだに分けられなければならない。……
 晦渋さを捨てて明快さを手に入れるために、わたしはたいへんな努力をしなければならなかった。というのは、表現上の晦渋さというものは、われわれ文学仲間の特権になっていたからである。そして古い階級的偏見は、大衆的表現や民謡の素朴さを卑俗なものとして侮蔑してきたのだ。……あの官憲に追われていた時代、この晦渋さがわたしの中に姿を現してくるとすぐ、わたしはこの晦渋さをなくそうと闘った。しかし、それに成功したとは思っていない……」

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