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パブロ・ネルーダの生涯 The life of Pablo Neruda (11) 帰国

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帰国

ネルーダ

 




帰国
 一九五一年八月のある日、ネルーダはイタリーの隠れ家を出て、南仏のニースに上陸した。フランスの警官がかれの肩を叩いた。
 「ひき返すんですな。この国はもう自由の隠れ家ではないんです。フランスに足をふみ入れることは、あなたには禁じられているのです」
 ネルーダはふたたび、行きあたりばったりの旅をつづけて、祖国に向った。チリではすでにビデーラが打倒されていた。ネルーダを乗せた旅客機がサンチアゴ空港に着いたとき、そこに迎えに出ていたのは、もはや逮捕状をもった警官ではなく、詩人を歓迎する群衆であった。詩人はヨーロッパの葡萄《ぶどう》畑のなかをさまよい、プラーグでは、なつかしいフチークの影と街歩きをし、モスコウの赤の広場では、スターリングラードの勇士たちにあいさつをおくり、ベルリンの世界青年友好祭では、全世界の若者たちの輪に拍手をおくってきた。……かれはようやく、なつかしいわが家イスラ・ネグラに帰りついたのである。

 短い春
 一九七〇年九月のチリ大統領選挙で、ネルーダははじめ共産党の予定候補者であった。しかし、「人民連合」の統一候補者として社会党のサルバドール・アジェンデが選ばれたので、かれは自分の立候補をとりさげた。かれはアジェンデを支持して言った。「もしも、人民連合が花咲くなら、国じゅうが花咲くだろう」と。
 アジェンデの人民連合政府が成立すると、ネルーダは最初の駐フランス大使に任命されて、パリに赴任する。かれはそこで、ピカソやアラゴンなどに会って、旧交をあたためる。『鳩のおじさん』という詩をかいて、ピカソに贈っている。
 そして、一九七一年度のノーベル文学賞は、ネルーダの頭上に輝いた。かれは、アラゴンも言うように、現代の偉大な詩人のひとりであったが、受賞によってさらに広く世界のひとびとに知られるにいたった。
 こうして、長い亡命生活と、苦難にみちた長いたたかいののちに、ようやくネルーダとチリの上に春が訪れたのであった。しかしこの春も、あのスペイン共和国の春とおなじように、ファシストたちの銃剣のもとに、ふみにじられ、潰《つい》えさった。
 一九七三年九月二十四日、ネルーダは、「多くの血と火でかちとった旗をかじりとるネズミども」の声を耳にしながら、六十九歳の生涯を閉じた。
 九月二十五日、ネルーダの埋葬式がサンチアゴの一般墓地で行われた。本来ならば、詩人を敬愛する数千、数万の労働者市民の長い列となったであろう葬列は、カービン銃に包囲されたなかで、わずか数百人の参列者によって行われたのであった。だが、この参列者のなかから、「インターナショナル」の合唱がわき起ったのだった。まるで死んだネルーダが、ひとびとと一緒に歌いだしたかのように。
 ネルーダは死ぬ直前まで、クーデターに抗議し、人民の自由と権利をはぎとった「腹黒い奴ら」に痛撃をくらわせた。かれもまたアジェンデのように、最後まで戦って仆れたのである。歌う武器を手にして。
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