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チリ人民のあゆみをふり返って(2)スペイン植民から独立宣言まで

ここでは、「チリ人民のあゆみをふり返って(2)スペイン植民から独立宣言まで」 に関する記事を紹介しています。


 
チリあゆみ2


(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「ピノチェトを通すな」1980年3月)
 
トーテムポール





スペイン植民から独立宣言まで

スペインの植民はじまる
 一六世紀の初期、スペインがインカ帝国を征服するまで、チリの北部から中部地方までは、インカ帝国の一部として統治されていました。住民たちは金、銀、銅の細工や農耕、高山動物リヤーマ(アメリカらくだ)の放牧などに従事して暮らしていました。一五四一年には、すでにリマ(ペルーの首都)のスペイン植民地政府の派遣したペドロ・デ・バルジピアによって、チリにおけるスペイン植民地の基礎がきずかれます。
 チリ南部の原住民アラウーコ族は、このスペインの侵人に長期にわたって抵抗したため、スペイン軍はしばしば苦戦をしいられます。しかし一六四〇年、アラウーコ族との間に停戦協定が成立してから、チリはおよそ三百年にわたって、スペインの植民地として統治されることになります。

ついに共和国として独立
 しかし、ナポレオンのスペイン侵入をきっかけに、チリの独立運動はラテン・アメリカの他のスペイン植民地とともに活発化し、一八一七年、チリの独立運動の指導者ベルナルド・オヒギンスは、アルゼンチン軍の支援をえて、スペイン軍をやぶり、翌一八年二月、ついにチリは共和国として独立を達成します。
 独立して半世紀あまりたって、硝石の開発をめぐるイギリスの策動もあって、チリは隣国ボリビアーペルーの両国を相手に戦争(太平洋戦争とよばれています)をはじめ、大勝して北部の硝石地帯を手にいれます。
 以後、チリは急速にイギリス帝国主義への従属を深め、硝石の輸出を中心とするモノカルチュア(単一商品栽培)経済におちいり、人民の生活は苦しいものになっていきます。
 資源は豊富なのですが、働く人々は、きわめて貧しい生活をしいられてきました。

(人民戦線政府の樹立へつづく)
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