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パブロ・ネルーダ年譜 (3) 1965年 61歳〜1973年 死去

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(3)
1965年  61歳
 この春、チリ大地震により、イスラ・ネグラの家が崩壊する。これを機会に、アラゴンは『パブロ・ネルーダヘの悲歌』を書く。
 1965年より69年に至るあいだ、キリスト教民主党は、銅山を「チリ化」し、農業を改革方をきめたが、ほんの一部で実施されたにすぎず、革命も自由をももたらしはしなかった。その政治は、エルサルバドルにおける銅山坑夫たちの虐殺(1967年)、プエルトモントにおける浮浪人たちの虐殺(1969年)等によって特徴づけられる。
 ネルーダは多くの作品を書いて、闘争に参加する。

1969年  65歳
 1970年に行なわれる大統領選挙の前哨戦が、危機をはらんだ情勢のなかで始まる。右翼は、反動的寡頭制と帝国主義の利益を代表する前大統領ホルヘ・アレサンドリを立候補させる。キリスト教民主党は、党内矛盾と分裂に足をとられている。左翼は「人民連合」を結成する。「人民連合」を構成する諸党はそれぞれ「予定候補」を指名することになり、共産党はパブロ・ネルーダを指名する。

1970年  66歳
 1月10日、ネルーダは立候補をとりさげ、サルバドル・アジェンデが人民連合の統一候補者となる。ネルーダはアジェンデを祝福して言う。「もしも人民連合が花咲くなら、国じゅうが花咲くだろう。乾ききった大地を雨がうるおすだろう。ぶどうは熟れて、秋のぶどう酒をかもすだろう。」
 9月4日、大統領選挙において、アジェンデは36.3パーセントの得票を獲得して当選する。
 10月22日、陸軍総司令官レネ・シュナイダー将軍が、ビオー将軍らファシストによって暗殺される。「マルクス主義に道を閉ざすために」軍を動かすことに反対したからである。
 10月24日、議会は圧倒的な多数で、アジェンデを大統領に選出する。
 ネルーダは『炎の剣』を9月に、『空の石』を12月に刊行する。

1971年  67歲
 人民連合政府は、帝国主義および寡頭制に反対し、社会的進歩を推進するきわめて改革的な綱領を断乎として実施する。
 7月11日、議会は、銅国有化のための憲法改正を全会一致で採択する。
 人民連合は、4月の地方選挙においても絶対多数を獲得する。
 この頃より、右翼反対党の挑発的攻撃が激化してくる。
 12月1日、フィデル・カストロが3週間におよぶチリ訪問が終わって帰国するやいなや、人民連合政府に反対する、いわゆる「からっぽのシチューなべ」運動といわれる大示威運動が展開される。これは、右翼ファシストが組織した最初の大示威運動であった。(本書『俗悪な物語』35頁参照)キリスト教民主党は、急速に、右翼に接近する。
 ネルーダは、アジェンデによって、駐仏大使に任命され、3月、パリに赴任する。
 10月には、ノーベル文学賞を受賞する。

1972 年  68歲
 人民連合政府にたいする帝国主義の反動的圧力は日ましに強まる。キリスト教民主党は右翼と決定的に同盟をむすぶ。右翼の攻撃は本格化し、内乱の危険が増大する。10月、右翼の「トラック・スト」「資本家スト」は激化する。
 ネルーダは病気のため、駐仏大使の任を解かれて、11月20日、マチルデ夫人とともにフランスに別れて帰国する。

1973年  69歲
 帰国したネルーダは、ふたたびチリ人民の闘争に参加し、『ニクソンサイドのすすめとチリ革命への賛歌』を刊行する。
 3月4日、上下両院議員選挙において、人民連合は、1970年の36.3パーセントを越えて、43.39パーセントを獲得。アジェンデ政権を合法的にうち倒すことのできないことが明らかとなり、右翼反対党は、必死になって暴動反乱をけしかける。そのために、人民連合政府に反対する一部の労働者をも利用する。5月〜6月にわたるエルテニエンテ銅山の職員、技師、一部労働者によるスト。
 6月29日には最初の軍事冒険──クーデターを企てるが失敗。
 5月20日、ネルーダはイスラ・ネグラから、チリの知識人および世界にむかって、チリ人民連合政府を防衛するよう訴える。
 7月26日、トラック・ストの再開を皮きりに、右翼の攻撃激化。
 9月4日、人民連合はアジェンデ選出三周年を記念して、百万人の大集会をひらき、その席上ネルーダは、内乱の脅威を遠ざけるよう、愛国者たちを激励するアッピールを行なう。それは、いわばかれの遺言となる。
 9月11日、三軍の司令官、国家警察長官は、「軍事政権」をつくり、アジェンデの辞職を要求し、モネダ宮を包囲し、爆撃する。アジェンデは忠実な部下とともに英雄的に戦って仆れる。
 血みどろのテロがチリ全土に襲いかかり、左翼の諸党、労働組合、進歩的諸団体が解散させられる。
 ネルーダの家は、9月11日以来、軍部の監視下におかれ、かれのイスラ・ネグラおよびサンティアゴの家は、数回にわたって家宅捜索をうけ、蔵書類はみな持ち去られる。
 9月24日、ネルーダは69歳の生涯を閉じる。死因は癌ということであるが、アジェンデ夫人の言うように、かれは「肉体の上と、精神の面と、二重に殺された」のである。
 2日後に行なわれた葬儀は、銃剣の監視下にもかかわらず、盛大に行なわれ、参加者の間から「インターナショナル」の歌ごえが湧きあがり、ファシズム反対の最初の大デモンストレーションとなる。
(『ネルーダ最後の詩集──チリ革命への賛歌』 1974年)
 
アジェンデと


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