1938年 34歳
5月7日、テムコにて父親が死去。その夜、『大いなる歌』を書き始める。8月18日、義母トリニダッド・カンディア・マルベルデ死亡。バルパライソの南方40キロの、砂と岩の太平洋岸に土地と家を買う。イスラ・ネグラである。ここで思索にふけってペンを執るつもりであったが、スペイン戦争はそれをゆるさなかった。
1939年 35歳
チリ人民戦線から立候補して選ばれた、新しい大統領ペドロ・アギーレ・セルダの命令によって、 ネルーダはパリに赴き、スペイン人民戦線の亡命者をチリに避難させる仕事に従事する。こうして、2500人のスペイン共和主義者がフランスからチリに到着する。
1940年 36歳
バルパライソのイスラ・ネグラの家に帰る。8月、メキシコ駐在総領事となる。当時、メキシコ文化をリードしていた3人の壁画の巨匠、クレメンテ・オロスコ、ディエゴ・リベラ、ダヴィッド・アルファロ・シケイロスを識る。かれらの壁画にみられるスケールの巨大さは、のちにネルーダの『大いなる歌』の構成に影響を与えることになる。
1941年 37歳
ケルナバカ(メキシコ)にて、ナチ隊員に襲撃される。
1942年 38歳
娘マルヴァ・マリーナ死亡。9月、ネルーダの詩『スターリングラードにささげる歌』が、ビラに印刷されて、メキシコ市じゅうの璧に貼りめぐらされる。
1943年 39歳
『スターリングラードにささげる新しい愛の歌』を書く。秋、チリに帰国。帰途、グアテマラにて、ノーベル文学賞受賞作家ミゲル・アストリアスと友情を結ぶ。10月、ペルーのリマから、 クスコ、およびインカの廃墟マチュ・ピチュを訪れる。その印象はのちに『マチュ・ピチュの頂き』のなかに書かれる。この年はじめて、マチルデ・ウルーティアに出会い、ひそかに数篇の詩をささげる。彼女はのちにネルーダの3番めの妻となる。
1945年 41歳
3月、チリ北部のタラパカおよびアントファガスター地区より、チリ共産党公認候補として総選挙に出馬し、上院議員に当選する。7月8日、チリ共産党に入党。9月、『マチュ・ピチュの頂き』を書く。この詩は『大いなる歌』に収められる。
1946年 42歳
ガブリエル・ゴンサーレス・ビデーラが、共産党をふくむチリ氏主勢力の支持をとりつけて大統領に選ばれる。
1947年 43歳
ガブリエル・ゴンサーレスは、おのれの掲げた政策をくつがえし、祖国と人民をうらぎり、かれを権力につかせた共産党員の迫害を始める。ネルーダは『数百万の人たちに訴える手紙』(カラカスの「エル・ナシオナール」紙)を書いて、大統領にたいする怒りを表明する。そのために、国家叛逆罪に問われる。8月、チリ共産党は、『大いなる歌』を完成するよう、ネルーダに一年の休暇を与える。一2月、大統領ゴンサーレスは、ネルーダの国外追放を要求する。
1948年 44歳
一月6日、ネルーダは上院にて大統嗣を弾劾する。2月5日、ネルーダにたいする逮捕令状が出されたので、かれは地下にもぐる。かくて一年と2か月のあいだ、隠れ家を転々として移り、そのあいだに 『大いなる歌』を書きつづける。
1949年 45歳
2月、馬に乗ってアンデスを越え、チリを離れる。4月25日、パリで開かれていた第一回世界平和擁護大会に、国際警察の追及の眼をのがれて姿を現わし、詩を朗読し、熱烈な拍手を受ける。 この組織の委員に選ばれる。ポール・エリュアールと出会う。6月、ソヴェトへの最初の訪問。プーシキン誕生一50周年記念集会に出席。7月、 ポーランドとハンガリーを訪問。8月、平和擁護ラテンアメリカ大台に出席のため、エリュアールとともにメキシコに赴く。
1950年 46歳
4月、『大いなる歌』第一巻、メキシコにて刊行。ヨーロッパおよびアジアへ旅行。10月、ボンベイで開かれた平和大会に参加。11月22日、 ワルシャワで開かれた第2回平和擁護世界大会に おいて、ピカソ、ロブソンとともに、国際平和賞を受賞する。
1951年 47歳
イタリー、アメリカ、ソヴェト、ドイツ、中国を歴訪。ベルリンで開かれた全世界青年友好祭に、ナジム・ヒクメット、ニコラス・ギリエンらとともに参加する。8月、フランス当局より国外退去を命じられる。
1952年 48歳
イタリーのカブリ島に滞在、『ぶどう柵と風』を書く。ミラノより、『船長の詩』を著者名なしに刊行。この詩集は、「南部のチリ女」マチルデ・ウルーティアとの出会いによって想をえたもの。8月12日、3年5か月に及ぶ亡命生活よりチリに帰国。イスラ・ネグラに落ちつく。ふたたびソヴエト旅行。『基本的なもののオード』を書き始める。
1953年 49歳
サンチアゴで開かれた文化擁護大会に、メキシコの画家ディエゴ・リベラ、キューバの詩人ニコラス・ギリエン、ブラジルの詩人アマドーらとともに参加。スターリン平和賞受賞。
1954年 50歳
詩集『ぶどう畑と風』および『基本的なもののオード』刊行。
1955年 51歳
詩集『旅』刊行。デリア・デル・カリルと離婚し、マチルデ・ウルーティアと結婚する。フランス、イタリー、人民民主主義諸国、および中国を訪問。
1956年 52歳
チリに帰国。『新・基本的なもののオード』刊行。
1957年 53歳
チリ作家協会会長となる。 アルゼンチンを講演旅行中、陰謀の理由で逮捕され、ブエノスアイレスの拘置所にて一日半を過ごす。詩集『第三のオード』を刊行。
1959年 55歳
『航海と帰還』を刊行。マチルデ・ウルーティアに捧げた『一〇〇の愛のソネット』を刊行。
1960年 56歳
キューバ訪問。キューバ革命をたたえた『いさおしの歌』を書く。
1961年 57歳
キューバ訪問。獄中の画家シケイロス救援連動のため、メキシコを訪問。詩集『チリの石』『儀式の歌』刊行。
1962年 58歳
詩集『力の限り』刊行。
1964年 60歳
誕生60周年記念に、詩集『イスラ・ネグラの回想』刊行される。
(つづく)
(『ネルーダ最後の詩集──チリ革命への賛歌』 1974年)
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