パブロ・ネルーダ年譜
一九〇四年 〇歳
七月十二日、チリ中部パラルに生れる。本名、ネフタリ・リカルド・レイス・イ・バゾアルト。父親ホセ・デル・カルメン・レイス・モラレスは鉄道員であり、母親ローザ・ネフタリ・バゾアルト・オペソは教師であった。八月末、母親は結核のために死亡。
一九〇五年 一歳
一家は、南部の密林のなかの小さな町テムコに移る。この雨の多い密林地帯にあるテムコで、ネルーダは少年時代を送ることになるが、テムコの森は少年を詩人へと育てる。
一九〇六年 二歳
父親はトリニダッド・カンディア・マルベルデと再婚する。この義母を、ネルーダはのちに「わが少年時代の守護神」と呼ぶ。
一九一〇年 六歳
テムコの小学校に入学。
一九一七年 十三歳
テムコの新聞に初めて詩を投稿、掲載される。
一九二〇年 十六歳
父親はネルーダの詩作をよろこばなかったので、父親の眼をかすめるためにパブロ・ネルーダのペンネームを採用する。この名まえは、チェコの作家ヤン・ネルーダにあやかったものである。
一九二一年 十七歳
三月、サンティアゴの学生寮に移り、大学でフランス語を学ぶ。モダニズムの詩人のルベン・ダリーオの他、フランスの詩人、ボードレール、ランボー、サマンなどを耽読する。十月、『祭りの歌』によって学生連合の詩コンクールにおいて一等賞を獲得する。
フランスの「クラルテ」運動のチリ版である「クラリダッド」に協力する。革命的な示威運動などにも参加。「この頃から、政治はわたしの詩と人生にはいってきた。若い詩人の心は、愛、生、悦び、悲しみに、扉を閉ざしているわけにはいかなかった。」
一九二三年 十九歳
詩集『たそがれの書』を刊行。詩集をだすために、自分の家財道具や懐中時計を売る。
一九二四年 二十哉
詩集『二○の愛の詩と一つの絶望の歌』を刊行。詩人としての名声を獲得する。「これはわたしの愛する詩集だ。強烈な憂鬱にもかかわらず、そこには生きる悦びが見いだされるからだ……」
一九二六年 二十二歳
詩集『無限なる人間の試み』、散文詩集『指輪』(トーマス・ラーゴとの共著)、散文詩集『居住者とその希望』を刊行。
一九二七年 二十三歳
外交官生活にはいる。ビルマのラングーン駐在領事。孤独のなかで『地上の住みか』を書き始める。
一九二八年 二十四歳
コロンボ(セイロン)駐在領事。
一九三〇年 二十六歳
バタビヤ駐在領事。ジャバ在住の若いオランダ女性、マリア・アントニエッタ・マルヴァと結婚。
一九三二年 二十八歳
チリに帰国。
一九三三年 二十九歳
詩集『地上の住みか』第一巻刊行。
八月、ブエノスアイレス駐在領事。
一〇月、フェデリコ・ガルシア・ロルカと出会い、友情を結ぶ。ロルカの芝居がブエノスアイレスで上演されていた。
一九三四年 三十歳
バルセロナ駐在領事。
一〇月四日、娘マルバ・マリーナ、マドリッドで生まれる。
一二月六日、マドリッド大学で詩の朗読と講演。ガルシア・ロルカの推薦による。
一九三五年 三十一歳
マドリッド駐在領事。ラファエル・アルベルティと友情を結ぶ。『地上の住みか』第二巻、マドリッドにて刊行。
十月、ネルーダの編集による詩誌『詩のための緑の馬』創刊号マドリッドにて発刊。ミゲル・エルナンデスを識る。
一九三六年 三十二歳
七月一八日、ファシスト・フランコは、ヒットラーとムソリーニの支援のもとに、スペイン共和国にたいする反乱を起こし、流血の内戦が始まる。
八月一九日、親友ロルカは早くもファシストの手に落ちて、グラナダ郊外にて銃殺される。ファシズムの暴虐を眼のあたりに見て、ネルーダは最初のヒュマニズムの叫びをあげ、最初の政治詩『死んだ義勇兵の母親たちに捧げる歌』を書く。
ネルーダは領事職を解かれ、パリに移る。
この年、マリア・アントニエッタ・マルヴァと離婚し、デリア・デル・カリルと出会う。彼女はかれの二番めの妻となる。
一九三七年 三十三歳
二月、パリで開かれたスペイン人民支援集会にて、『ガルシア・ロルカの思い出』を講演する。 四月、スペイン支援ラテンアメリカ委員会をパリに創設する。
七月、バレンシアおよびマドリッドで開催された第二回文化擁護国際作家会議に参加。アラゴンとともに活動する。
十月十日、これらの行動のため本国に召還され、チリに帰国する。スペイン共和国の栄光をたたえた『心のなかのスペイン』刊行。
(つづく)
(『ネルーダ最後の詩集──チリ革命への賛歌』 1974年)
一九〇四年 〇歳
七月十二日、チリ中部パラルに生れる。本名、ネフタリ・リカルド・レイス・イ・バゾアルト。父親ホセ・デル・カルメン・レイス・モラレスは鉄道員であり、母親ローザ・ネフタリ・バゾアルト・オペソは教師であった。八月末、母親は結核のために死亡。
一九〇五年 一歳
一家は、南部の密林のなかの小さな町テムコに移る。この雨の多い密林地帯にあるテムコで、ネルーダは少年時代を送ることになるが、テムコの森は少年を詩人へと育てる。
一九〇六年 二歳
父親はトリニダッド・カンディア・マルベルデと再婚する。この義母を、ネルーダはのちに「わが少年時代の守護神」と呼ぶ。
一九一〇年 六歳
テムコの小学校に入学。
一九一七年 十三歳
テムコの新聞に初めて詩を投稿、掲載される。
一九二〇年 十六歳
父親はネルーダの詩作をよろこばなかったので、父親の眼をかすめるためにパブロ・ネルーダのペンネームを採用する。この名まえは、チェコの作家ヤン・ネルーダにあやかったものである。
一九二一年 十七歳
三月、サンティアゴの学生寮に移り、大学でフランス語を学ぶ。モダニズムの詩人のルベン・ダリーオの他、フランスの詩人、ボードレール、ランボー、サマンなどを耽読する。十月、『祭りの歌』によって学生連合の詩コンクールにおいて一等賞を獲得する。
フランスの「クラルテ」運動のチリ版である「クラリダッド」に協力する。革命的な示威運動などにも参加。「この頃から、政治はわたしの詩と人生にはいってきた。若い詩人の心は、愛、生、悦び、悲しみに、扉を閉ざしているわけにはいかなかった。」
一九二三年 十九歳
詩集『たそがれの書』を刊行。詩集をだすために、自分の家財道具や懐中時計を売る。
一九二四年 二十哉
詩集『二○の愛の詩と一つの絶望の歌』を刊行。詩人としての名声を獲得する。「これはわたしの愛する詩集だ。強烈な憂鬱にもかかわらず、そこには生きる悦びが見いだされるからだ……」
一九二六年 二十二歳
詩集『無限なる人間の試み』、散文詩集『指輪』(トーマス・ラーゴとの共著)、散文詩集『居住者とその希望』を刊行。
一九二七年 二十三歳
外交官生活にはいる。ビルマのラングーン駐在領事。孤独のなかで『地上の住みか』を書き始める。
一九二八年 二十四歳
コロンボ(セイロン)駐在領事。
一九三〇年 二十六歳
バタビヤ駐在領事。ジャバ在住の若いオランダ女性、マリア・アントニエッタ・マルヴァと結婚。
一九三二年 二十八歳
チリに帰国。
一九三三年 二十九歳
詩集『地上の住みか』第一巻刊行。
八月、ブエノスアイレス駐在領事。
一〇月、フェデリコ・ガルシア・ロルカと出会い、友情を結ぶ。ロルカの芝居がブエノスアイレスで上演されていた。
一九三四年 三十歳
バルセロナ駐在領事。
一〇月四日、娘マルバ・マリーナ、マドリッドで生まれる。
一二月六日、マドリッド大学で詩の朗読と講演。ガルシア・ロルカの推薦による。
一九三五年 三十一歳
マドリッド駐在領事。ラファエル・アルベルティと友情を結ぶ。『地上の住みか』第二巻、マドリッドにて刊行。
十月、ネルーダの編集による詩誌『詩のための緑の馬』創刊号マドリッドにて発刊。ミゲル・エルナンデスを識る。
一九三六年 三十二歳
七月一八日、ファシスト・フランコは、ヒットラーとムソリーニの支援のもとに、スペイン共和国にたいする反乱を起こし、流血の内戦が始まる。
八月一九日、親友ロルカは早くもファシストの手に落ちて、グラナダ郊外にて銃殺される。ファシズムの暴虐を眼のあたりに見て、ネルーダは最初のヒュマニズムの叫びをあげ、最初の政治詩『死んだ義勇兵の母親たちに捧げる歌』を書く。
ネルーダは領事職を解かれ、パリに移る。
この年、マリア・アントニエッタ・マルヴァと離婚し、デリア・デル・カリルと出会う。彼女はかれの二番めの妻となる。
一九三七年 三十三歳
二月、パリで開かれたスペイン人民支援集会にて、『ガルシア・ロルカの思い出』を講演する。 四月、スペイン支援ラテンアメリカ委員会をパリに創設する。
七月、バレンシアおよびマドリッドで開催された第二回文化擁護国際作家会議に参加。アラゴンとともに活動する。
十月十日、これらの行動のため本国に召還され、チリに帰国する。スペイン共和国の栄光をたたえた『心のなかのスペイン』刊行。
(つづく)
(『ネルーダ最後の詩集──チリ革命への賛歌』 1974年)
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