ネルーダの詩にディナ・ロット(Dina Rot)が曲をつけた「山と川」(日本名「おいで一緒に」)は詩集『船長の詩(Los versos del capitán)』(1952年)の中の1篇です。この詩集はヨーロッパ亡命の最後にマチルデと過ごしたカプリ島で書き上げられ、匿名で刊行されました。新日本新書『パブロ・ネルーダ』には次のように記述してあります。「山と川」は苦しんでいる人々が待っている祖国に一緒に行って闘おう、という呼びかけの歌ですが、詩集『船長の詩』はマチルデに捧げられた愛の詩集なのです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
……事情はイタリアにおいても同じであった。チリ当局がネルーダの入国を拒否するように手をまわして要請していたからである。イタリアでもネルーダは国外追放を宣告されるが、イタリアの詩人、芸術家たちがこれに反対して、この命令を撤回させるにいたる。またカプリ島の歴史家エドウィン・チェリオがネルーダの滞在のためにその別荘を提供してくれる。こうしてネルーダはマチルデとともにカプリ島の滞在をたのしむことになる。
カプリ島の恋人たち
島はそのたたずまいのなかに
時間と風に磨かれた金貨のような魂をもち
手つかずのアーモンドのように
野生のアーモンドのように
生(き)のままだ
そこでわたしたちの愛は眼に見えぬ塔だった
煙りのなかで顫えていた
……
なぜならカプリの恋人たちが眼を閉じると
鋭い稲妻が ひゅうひゅうと鳴る周りの海のなかで
恐怖を射しつらぬいた
恐怖は死の深傷(ふかで)を負い血を流しながら逃げた……
いまや蜜のような海のうえを
舳(へさき)の女人像が裸かで漕いでゆく
颱風(サイクロン)のような男にからまれてかきたてられて
(『イスラ・ネグラの思い出』)
このマチルデとの愛には、まだこの詩にみられるように「恐怖」がつきまとっていた。妻デリア・デル・カリルの影が恋人たちから離れなかったからである。それにもかかわらず、マチルデへの愛を詩人はこの旅のあいだじゅう書きつづけた。それは『船長の詩』と名づけられて、匿名のまま、一九五二年ミラノにおいて刊行される。この詩集についてのネルーダじしんの弁明をきくことにしよう。
「わたしはカプリ島で、情熱的で苦悩にみちた一冊の詩集を書きあげて、『船長の詩』と名づけた。
これからこの詩集の由来について語ろう。これはわたしの書いた本のなかでもっとも物議をかもした一冊だった。それはずっと長いことひとつの秘密だった。ずっと長いことこの詩集の表紙にはわたしの名前がなかった。まるでわたしがこの詩集を自分のものと認めず、また詩集じたいもその父親が誰かを知らなかったかのように。私生児、自然の愛の子供が存在するように、『船長の詩』は自然の詩集だった。……
ある疑い深い批評家たちは、この詩集の匿名を政治的理由によるものと見なした。(「党がそれに反対したのだ。党がそれを認めなかったのだ」と彼らは言った。幸いなことに、わが党は美の表現にはそれが何んであれ反対しない。
真実は、それらの詩が別れたデリアを傷つけないように、ずっと長いことわたしが願っていたことにある。デリア・デル・カリルは過ぎさった過去の優しい女で、わたしの手にからみついた鋼と蜜の糸であり、一八年のあいだ模範的な伴侶であった。このとつぜんに燃えあがった情熱の詩集は、石のように彼女の柔らかい心を傷つける危険があった。そこにわたしがこの詩集を匿名にした深い個人的な理由──考慮すべき唯一の理由があったのだ……」(『回想録』)
一九五二年、ネルーダは三年数ヶ月にわたる亡命を終える。詩人を乗せた旅客機がサンティアゴ空港に着いたとき、そこに迎えに出ていたのは、もはや逮捕状をもった警官ではなく、詩人を歓迎する群衆であった。詩人はヨーロッパの葡萄畑のなかをさまよい、プラハでは、なつかしいフチークの影と街歩きをし、ベルリンの世界青年友好祭では、全世界の若者たちの輪に拍手を送ってきた……彼はようやくなつかしい祖国に帰りついたのである。
(新日本新書『パブロ・ネルーダ』──「亡命 ヨーロッパで」)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
……事情はイタリアにおいても同じであった。チリ当局がネルーダの入国を拒否するように手をまわして要請していたからである。イタリアでもネルーダは国外追放を宣告されるが、イタリアの詩人、芸術家たちがこれに反対して、この命令を撤回させるにいたる。またカプリ島の歴史家エドウィン・チェリオがネルーダの滞在のためにその別荘を提供してくれる。こうしてネルーダはマチルデとともにカプリ島の滞在をたのしむことになる。
カプリ島の恋人たち
島はそのたたずまいのなかに
時間と風に磨かれた金貨のような魂をもち
手つかずのアーモンドのように
野生のアーモンドのように
生(き)のままだ
そこでわたしたちの愛は眼に見えぬ塔だった
煙りのなかで顫えていた
……
なぜならカプリの恋人たちが眼を閉じると
鋭い稲妻が ひゅうひゅうと鳴る周りの海のなかで
恐怖を射しつらぬいた
恐怖は死の深傷(ふかで)を負い血を流しながら逃げた……
いまや蜜のような海のうえを
舳(へさき)の女人像が裸かで漕いでゆく
颱風(サイクロン)のような男にからまれてかきたてられて
(『イスラ・ネグラの思い出』)
このマチルデとの愛には、まだこの詩にみられるように「恐怖」がつきまとっていた。妻デリア・デル・カリルの影が恋人たちから離れなかったからである。それにもかかわらず、マチルデへの愛を詩人はこの旅のあいだじゅう書きつづけた。それは『船長の詩』と名づけられて、匿名のまま、一九五二年ミラノにおいて刊行される。この詩集についてのネルーダじしんの弁明をきくことにしよう。
「わたしはカプリ島で、情熱的で苦悩にみちた一冊の詩集を書きあげて、『船長の詩』と名づけた。
これからこの詩集の由来について語ろう。これはわたしの書いた本のなかでもっとも物議をかもした一冊だった。それはずっと長いことひとつの秘密だった。ずっと長いことこの詩集の表紙にはわたしの名前がなかった。まるでわたしがこの詩集を自分のものと認めず、また詩集じたいもその父親が誰かを知らなかったかのように。私生児、自然の愛の子供が存在するように、『船長の詩』は自然の詩集だった。……
ある疑い深い批評家たちは、この詩集の匿名を政治的理由によるものと見なした。(「党がそれに反対したのだ。党がそれを認めなかったのだ」と彼らは言った。幸いなことに、わが党は美の表現にはそれが何んであれ反対しない。
真実は、それらの詩が別れたデリアを傷つけないように、ずっと長いことわたしが願っていたことにある。デリア・デル・カリルは過ぎさった過去の優しい女で、わたしの手にからみついた鋼と蜜の糸であり、一八年のあいだ模範的な伴侶であった。このとつぜんに燃えあがった情熱の詩集は、石のように彼女の柔らかい心を傷つける危険があった。そこにわたしがこの詩集を匿名にした深い個人的な理由──考慮すべき唯一の理由があったのだ……」(『回想録』)
一九五二年、ネルーダは三年数ヶ月にわたる亡命を終える。詩人を乗せた旅客機がサンティアゴ空港に着いたとき、そこに迎えに出ていたのは、もはや逮捕状をもった警官ではなく、詩人を歓迎する群衆であった。詩人はヨーロッパの葡萄畑のなかをさまよい、プラハでは、なつかしいフチークの影と街歩きをし、ベルリンの世界青年友好祭では、全世界の若者たちの輪に拍手を送ってきた……彼はようやくなつかしい祖国に帰りついたのである。
(新日本新書『パブロ・ネルーダ』──「亡命 ヨーロッパで」)
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