パブロ・ネルーダの最後の数日
大島博光
過日、NHKの海外ニュースで、チリ・クーデター後のサンチアゴの街頭風景がうつしだされた。数ヵ月もたっているのに、まだ夜間外出禁止令がしかれていて、数人のカービン銃を構えた兵隊たちが、一台のマイクロバスをものものしく検問している光景であった。乗っていた運転手と二人の婦人が車から降ろされた。ナレーターの声が告げた。──この車は、産気づいた婦人を病院にはこぶところであったが、運転手は通行許可証をもっていなかった。そのために、この運転手はその場で強制労働を課せられ、ただちに道路工事にまわされた。──「ははあー、これだな、ネルーダを殺したのは…」とわたしは思った。死の直前、重態のネルーダを病院にはこぶ寝台車も、この検問にひっかかったのである。
主侍医は逮捕されてしまう
ネルーダの未亡人マチルデ夫人は、ネルーダの最後の数日について、ベネゼエラの「エル・ナシオナル」紙のインタビュアーにこう語っている。
「クーデターが起きて、アジェンデ大統領が倒される日まで、かれは調子がよく、元気でした。
……病床にこそついていましたけれど、かれの病気は少しばかり回復していたのです。しかし、クーデターの日は、かれにはとてもたえがたいものでした。
わたしたちがサルヴァドール(アジェンデ大統領)の死を知ったとき、医師はただちにわたしを呼んで申しました。『パプロには何も知らせてはいけませんよ。病状がわるくなるかも知れませんから』
パブロはベットの前にテレビをすえていました。運転手に新聞を買いにやらせました。そのうえ、あらゆる放送がきけるラジオも持っていたのです。わたしたちはメンドサ(アルゼンチン)放送で、アジェンデの死を知ったのですが、このニュースがかれを死に追いやったのです。そうです、それがかれを殺したのです。」
マチルデ夫人は、アジェンデの死んだ翌日のことを、つぎのように語っている。「パプロは目をさますと、熱発していました。けれども、手当てをすることができなかったのです。主侍医は逮通されてしまい、助手の医師は、危険をおかしてイスラ・ネグラまで来てくれようとはしなかったからです。」
「こうしてわたしたちは、医師の手当てをうけずに、孤立していました。数日がすぎて、パプロの容態は悪化したのです。わたしは医師をよんで申しました。『かれを病院に入れなければなりません。とても悪いのです』
かれは一日じゅうラジオにかじりついて、ベネゼエラ放送、アルゼンチン放送、モスクワ放送などを聞いていました。とうとう、わたしたちは何もかも真相を知ったのです。パブロの意識は、はっきりしていました。眠りこむまでは、頭も冴えていたのです……
五日めに、かれをサンチアゴの病院に入院させるために、わたしは病人用の寝台車を呼びました。車は途中で、検問にひっかかってとり調べられましたが、それはひどくかれにこたえたのです」
重態なので通して下さい
──乱暴でもおこなわれたのですか──
「そうです。たいへん乱暴なもので、かれにはとてもこたえたのです。わたしはかれのわきに座っていました。かれらは、わたしを車から引きずり降ろして、とり調べ、それから寝台車を調べました。それはなんとも、かれにはたえがたいことでした。わたしはかれらにいいました。『これはパブロ・ネルーダです。重態なのです。どうか通してください』。まったくおそろしいことでした。かれは危篤状態になって病院に着いたのです。パプロ・ネルーダは、二二時三○分になくなったのです……」
いまなお、たくさんのチリの愛国者たちの生命が危険におびやかれている。こんど、チリ人民連帯日本委員会も発足した。死刑執行人どもの手をおさえつけるために、われわれもまた、ネルーダにならって、ファシスト犯罪者たちを告発し、あばきだし、糾弾しなければならない。
(『赤旗』一九七四年三月五日)
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