〈高み〉を心に
尾池和子
「詩は、精神の高みをうたわなければ意味が無い」大島さんは、繰り返し口にされました。その詩は、世の中の動きとは無関係に、風景や恋愛をうたう詩…〈純粋詩〉poêmes pursではなく、〈状況詩〉と呼ぶものでした。そんなものは詩にならない、といわれるような状況を詩にすることによって、苦しんでいるひとに寄り添い、そのもとのところへ目を向けようとされました。「身のまわりのことだけに、かかずりあう」純粋時に批判をこめて、〈非純粋詩〉poémes impursとも呼ばれました。しかも、それは「ひとを、泥にまみれさせるようなもの」ではなく、ひとの心を「空に舞い上がらせるような」、かつてアラゴンの『ウラル万才!』によって、生涯、詩人として生き抜かれる、道筋をつけられたように、「ひとの生き方に、影響をあたえる詩」でなければならない、と言われました。
状況を書いただけでは、散文になってしまい、訳詩も直訳しただけでは、日本語にならないので、詩としての言葉を選び、韻を踏んでいるか、リズムがあるか、イマージュがあるか、それはきらめくようなイマージュか、太陽の下の散歩の時も、夜の深い闇の中でも、考え続けられました。その思素は、書棚の膨大な書物と比例する、西洋文学、哲学、美術などの広汎な知識と教養に裏打ちされ、例えば二〇〇三年に出された、ゴーシュロンの訳詩集の原題、〈起きている〉veille 〈状態〉état が「不寝番」になり、〈学ぶ〉étudier と〈誠実〉fidelité のたったふたつの単語から、「学ぶとは誠実を胸にきざむこと」という一節(アラゴン『ストラスブール大学の歌』)を生み出したのではないかと思います。不躾に、どうして、こんなぴったりの訳が出てくるのでしょう、とおたずねしたことがありました。「だって、そう書いてあるんだもの」「ずっと読んでいると、そのひとの言わんとすることが、わかるだよ」と微笑まれました。
いつも言葉を探されているといっても、気難しい人柄では決してなく、枝葉は気にしない磊落さと、詩が浮かんで来ない時は、さっさと休まれたり、釣り支度で多摩川の風を思い、母校のラグビーのビデオで、競技場に響きわたるどよめきを感じ、気持ちを切り換えられる、朗らかさを持たれていました。
入院が必要となってから、どこの病院へも、フランスから送り届けられる、アラゴン研究の書物と辞書を携えられ、いつでも詩が書けるように、床頭台の引き出しの中には、モンブランの太い万年筆とインク瓶が、テーブルの上には、ノートと原稿用紙を置かれていました。何か書きたいと思われると、「年筆は?」と白い手を伸ばされるのでした。
初めてお手伝いに伺った時、大島さんは、八十九歳でいらっしゃいました。「パリへは、行ったことがあるの?」と旅の思い出話から始まり、訪問介護の一員として週末に伺ううち、アラゴンの名前さえ知らず、突然やって来た見ず知らずの人間に、いつしかフランス詩や、ご自身の詩について語ってくださるようになりました。それは、長い間、周囲の多くのひとびとと取り交わされた、素朴な、ひとを信じる気持ちを持たれていたからではないでしょうか。
(『詩人会議』二〇〇六年八月 大島博光特集)
- 関連記事
-
-
〈高み〉を心に 尾池和子 2023/01/23
-
ジャック・ゴーシュロンをフランスに訪ねて Visitez Gaucheron en France 2013/09/27
-
夢のようなパリ郊外のゴーシュロンの邸宅──尾池さんの話 2013/09/24
-
詩人の部屋 三鷹の家の思い出(下) 2012/03/30
-
詩人の部屋 三鷹の家の思い出(上) 2012/03/29
-
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/5440-d4c148c4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック