花束売って
■上京して三鷹に住み、『フランスの起床ラッパ』を出したと言っても、あの頃は大変な時代だったし、しかし一番大変なのは奥さんの静江さんだった。群馬県のイイトコロのお嬢さんだったらしいけど、とにかく大島先生は身体が悪かったということもあるが大学を出て一度も就職したことがない人だった。収入があるわけないから静江さんが花束を持って売り歩いた。少し儲かって自転車を買って、また儲かってリヤカーを買って、それから店を買って大島花屋さんを始めて評判になった。そうやって全部奥さんが生活を支えたんですよ。
博光さんは四十二歳で胸の手術をして肺を片一方とってしまった。二階に上がってくるにもハアハア息を切らしていた。それなのにクラシックのレコードを持って聴いていた。ワレワレは誰もそんなもの持てなかった時代にです。でも、そのほかに何もない。茶碗もないんですよ。
角笛の時代
■胸郭成形手術をした同じ年に詩誌『角笛』を出した。戦後もかなりたった昭和二十七年です。ワシは四号か五号から引き継いでやった。ワシも金がないし三鷹から金がくるとガリ刷りやってもらって、二百部ぐらいの製本はワシがやって大島先生のところへ届けに行った。夜十一時頃の夜行列車で行くと、むこうに朝早く着く。コタツの布団をめくってボヤを焚いてオキが残るとコタツに当って一息ついた。十年ぐらい続き二十五号までそんなふうにして『角笛』は出たんです。
■『角笛』は二度ぐらいゲラ刷りを持ってゆかれたことがある。大島先生が長野で住んでいた近くの印刷所の二階の窓ガラスを割って何者かが持ち去った。六号か七号で「松川事件」の被告の人の詩も紹介したりした。大変な時代でしたからね。ワシなんかも尾行されていました。
ワシは『武器』という詩誌を出していたことがあるが、名前がキツすぎて誤解されるといわれて、チクショウと思ったが石川啄木を思い出して『呼子』という誌名に変えた。そんなで「いつ逮捕されるかわからない」と言うと女房に「詩なんか書かないでくれ」と言われました。詩を書くだけでそんな時代でしたよ。
昭和三十七年に壷井繁治さんらと大島博光さんは『詩人会議』を結成する。しかし会員があまり集まらないし、長野へも壷井さんが入会の誘いにやってきた。それで『角笛』の長野のメンバーは『詩人会議』に合流してしまったんです。
今日はこのへんにしておきましょう。
(『狼煙』57号 大島博光追悼特集 2006年6月)
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