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よみがえる詩人 大島博光(4) 戦後詩の出発   小熊忠二

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戦後詩の出発


(『狼煙』 57号 2006年6月)




戦後詩の出発

■敗戦後は大島先生はふるさとに帰っていたがボンヤリして何も手につかなかった。何に手をつけてよいかわからなかった。ボンクラになってしまつて何にも手のつけようがなくなってしまった。博光先生も、その切なさ、やるせなさを後にしみじみと私にも述懐しましたからね。
■詩人の多くが大東亜戦争賛美の詩を書いてしまっていた。昭和十六年、十七年──その時分は日本の軍隊はアジアの各地を占領して景気がよかったからチョンコヅイテいた。詩人も文学報国会に入って戦争に協力する詩を書いた。詩の報国会の責任者というか代表は『智恵子抄』の高村光太郎です。
 金子光晴なんかは集まりに参加しなかったが、参加した深尾須磨子は戦後二年ぐらいは何もできなかったと言いますからね。その頃の詩の報国会のアンソロジーだか機関誌には宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が巻頭に載っていた記憶がありますよ。
 誰も戦争に勝つなんて思っていなかったと思いますが、戦争に不満や不安があっても、そんなこと書けませんでしたから、大島博光も戦争を賛美するような詩を書いてしまっていたということで、戦後は落ち込んで何も手がつかなかったわけです。
 長い一生の間に一度も間違わない人なんかいないし、誰も誤ったり変わっていくことは人間にはありますよ。

信州での出合い

■ワシは戦後間もなく、昭和二十三年頃ですか、大島博光氏が疎開して長野にいると聞いて訪ねて行きました。その頃は労働組合の機関誌が勢いがあって、いいものが出ていて、ワシはそこの文化部にいてね。大島先生も日本共産党に入党されて間もない頃だったと思います。何にも手のつかないような大島先生が党の講演会を聴いて感動して、昭和二十一年二月の「ある雪の降る日」に「その場で入党した」と書かれています。
■大島先生が住んでいたのは長野の桐原駅のスグ裏で、結婚したばかりの奥さんと一歳半ぐらいの子供と三人で暮らしていた。
 初めて訪ねていった時は、奥さんは上田の鐘紡の争議の応援に出かけていて、博光氏が一人で子供をみていました。
■昭和十九年から昭和二十五年くらいまで、大島先生は信州で暮らした。結婚して生家のある西寺尾でしばらく暮らし、それから桐原へ移った。
 大島先生の三十四歳から四十歳までの五年間ですが、ワシの感じではもっと年をしていた感じでしたね。その当時から杖もっていた。杖を突いていましたよ。胸が悪かったですから。
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