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先生とわたし (西條八十教授の思い出) 4

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香りもない花束──わが師西條八十の思い出に
 
ランボオ研究
(西條八十 「ランボオ研究」 グラビアより)




先生はアルチュル・ランボオをこよなく愛し

生涯 愛しつづけて倦むことがなかった

夏 日光の「梅屋敷」へ行くときも

また 伊豆の大仁ホテルに行くときも

鞄には数冊のランボオ研究書が入っていた

B29による東京空襲は烈しくなった

先生は 下館の旧家の別荘に疎開した

そこの書斎でも先生は 大島つむぎを着て

フランス語のランボオ研究書に向っていた

やがてそれは 大冊の「ランボオ研究」となる

長い長い持続のはての みごとな果実

ある時  先生は言った 「生きていたランボオは

さぞつきあいにくい男だったろうねぇ」と――

反抗に燃えてパリ・コミューヌをほめ讃え

パリのブルジョワどもを罵倒したランボオを

先生は「若者の若気のいたり」と書いた

その「若者の若気のいたり」をわたしは

生涯 つづけることになってしまった

わたしはまことに不肖の弟子だった

この「ランボオ研究」については、宮田毬栄さんが「ランボオ研究に執着した秘密」(「無限」四四号)のなかで、きわめて深い洞察を書きしるしている。

「多難な境遇が与えた並はずれた理性で激情を抑え、平衡の感覚を生の武器としてきた西條八十にとって、ランボオは氏の詩魂を揺りうごかさずにはおかない、危険な挑発者だったようです。

二つの異質とみえて、実は重なりあう個性の出会いが西條八十をとらえて離さなかったのでしょう。

歌謡の世界での成功の傍で、ランボオ研究に執着しつづけた西條八十の歳月の秘密はそこにあるのではないでしょうか。

それだけに、西條氏は、ジャック・リヴィエールをして、『ランボオの天才が私の知性に与えた傷が癒える日はもうない』とまでいわしめた世紀の天才児ランボオに距離を置いてたいすることを厳しく自身に課し、三十年あまりその世界に浸りながら、溺れることなく、冷静に、また残酷に詩人の全貌をとらえることを試みています。……」

そこに蛇足をつけ加えるなら、この「ランボオ研究」のなかには、おのれの内部にゆたかな詩的体験をもった者としての、実作者としての西條八十のランボオにたいする鑑賞と観察が随所に光っている。たとえば、ローラン・ド・ルネヴィルはランボオの詩とインドの神秘哲学とを結びつけ、あたかもその神秘哲学をよりどころとしてランボオが詩作をしているように言っているが、それにたいして先生は実作者の立場からして、それは牽強附会であると喝破しているのである。

このように、詩から歌謡、ランボオ研究へと、異質とも思われるいくつもの領域での知的活動を数十年にわたってつづけえたということは、不器用なわたしなどの理解をはるかに越えるものであった。

さて、「蠟人形」は一九四四年の初め、太平洋戦争の情勢切迫によって用紙の割当がなくなり、廃刊に追いこまれた。当時は雑誌の用紙までが割当制によって配給されていたのだった。

そして先生は茨城県下館町に疎開し、わたしは信州の千曲河畔の家に疎開した。

そして戦後、わたしは反抗の道をおしすすめることになる……

(西條嫩子〈ふたばこ〉編『西条八十詩集 石卵』 1987年1月)

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