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先生とわたし (西條八十教授の思い出) 2

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2


(西條嫩子〈ふたばこ〉編『西条八十詩集 石卵』 1987年1月)
 
『蠟人形』




ただ何ものとも知れず、わたしの内部で煮えたぎるものがあって、それがわたしを駆って、卒業論文にランボオを書かせたのだった。そして論文の主審教授が西條先生であった。

その頃わたしはやみくもに反抗を養っていた
ひとりよがりの コップのなかの反抗を──
そうして卒業論文にランボオを書いた
いかめしかった吉江喬松先生とならんで
微笑みながら先生はそれを講評された
   *
その後 わたしは先生の近くで 八年
「獵人形」の編集をすることになる
おお 柏木三丁目の西條邸の茶の間よ
赤松に石燈籠をあしらった芝生の庭よ
女子大生だった嫩子さんが姿を現わす…
当時、柏木の西條邸の茶の間が、詩誌「蠟人形」の編集室でもあった。その頃そこによく顔をみせたのは、横山青娥、門田穣、秘書の木村康彦などであったが、みなもう故人となってしまった。仕事がすんで、晴子夫人をまじえてみんなで花札遊びに興じたことも思い出される。
いつか戦後、柏木のそのあたりまで行った折、むかしの西條邸を見にいったことがある。すると、むかしの屋敷の北側の半分は駐車場に変り、南側の半分には、三軒の家が建っていた。わずかに石の門柱だけがむかしのままに立っていた。そのときほど、日本の木造建築のはかなさ、もろさを感じたことはない。ヨーロッパなどのような石の建物なら、そこらの壁に、「詩人西條八十ここに住む」というプレートがはめこまれていたでもあろうに。
「蟻人形」の編集はほとんどわたしに任せられていた。わたしは自分の好きなように、エリュアールの訳詩をのせたり、ロートレアモンの「マルドロールの歌」を訳して連載したり、シュルレアリスムの紹介などをした。シュルレアリスムの紹介についていえば、先生はそれを奨励するという風であった。いまにして思えば、そこに西條八十の寛大さ、包容力の大きさを見いだすこともできよう。
(つづく)
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