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斑猫譚  大島博光覚え書(中) ──西条八十と関東大震災  三方克

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(『狼煙』 第62号 2009年1月)
 
西条八十
西条八十 昭和11年







―大島博光と長谷川四郎には、強いリズムを感じます。ときにリズムが強すぎて、それにことばが流されてしまう危険がないでもないと、生意気ですが感じますが。
「ありがとう。なかなかあなたのようにいってくれる人がいなくてね。気をつけてはいるんだけれど。いや、気をつけます。」
―そういわれると困っちゃうけど…。
「あなたの詩にも強いリズム感がある。気をつけないと、リズム感は貴重な才能だけに、ね。」
―あ、そうですね、ほんと。大島さんのリズムは、西条八十さんの影響ですか。
「もともとあったものが、引き出されたのかもしれない。あなたの群馬には八木節があるし、長野には軽井沢町追分がありますから…。」
―『信濃追分』ですね。高野辰之さんの『故郷』は日本の副国歌みたいだし、東京の渋谷をかいた『春の小川』の歌詩も良い。信濃の歌もあって、長野は教育県で音楽県でもありますね。
「その線をずっとのばすと、モンゴルへ行きつくような気がします。」
―それが西条八十へ向かわせたわけですか。
「いやあ、ぼくらの時代は、白秋や雨情とか、山田耕筰と中山晋平とかいったね、童謡、児童詩のすぐれたかき手がたくさんいて、みんな一時はかいたもんでした。」
―『かなりや』もいいですね。不忍池に詩碑がある。名作ですね。
「名作というより、あれはぼくは神品だと思うなあ。全作品と引きかえにした―」
―これからかかれるであろう永久の未発表作もふくめて?
「そうね。」
―西条八十が詩をかき続けたら、日本の詩の流れが変ったともいわれます。それだけの詩人が、なぜ歌謡曲の作詞家になったんでしょうか。
「関東大震災の時ね、上野の山へ逃げたんだそうです。何しろ東京が連日燃え続けたんだから、皆不安でいっぱいだった、先生も。その時、避難民の中から流行歌が聞こえてきて、それはたちまち人々全体の大合唱となったそうです。正しくは大斉唱でしょうが、歌いながら泣いている人も大勢いて、先生も歌いながら心をゆさぶられたそうです。歌っているうちに、暗い民衆の顔が、だんだんと明るくなってきて、生気を取り戻してくるのが分かったそうです。歌う。また歌う。歌い終わっても近くの見知らぬ人を話し出して、生気は消えるどころか、一層強まって行く。先生自体がそうなって行く。そこで考えたそうです。ここで私が現代詩を朗読したところで、こんなに皆は感動するだろうか。おれは詩をやめよう、いや、やめるんじゃない、歌詩をかこう、歌詩人になってやろうって、考えたそうです。」
―分かる気がします。しかし国歌詩人みたいにされて、『比島決戦の歌』ですか、『出てこいニミッツ、マッカーサー。出てくりゃ地獄へ逆落し』なんてかいて、敗戦になると『古い上着よさようなら』と『青い山脈』でかく。調子いいな、とぼくたち若者はだまされたような気になる。逆の立場の歌ですからね。この点、大島さんはどう思いますか。
「確かにね、戦争責任、戦後責任がないとはいえないでしょう。でもね、先生はどっちの歌も本気でかいてるんです。嘘をかいてるんじゃあないの。日本が滅びたらどうなるか。誰も分からない。敗けたらどうなるか。殺されるか、重労働か、女は強姦されるか分からない。先生の民族の運命を思う必死の歌なんです。戦後も占領下にいろいろな圧力がかかったが、先生には予想されるような圧力はかからなかった。それが『古い上着よさようなら』という封建制を脱ぎ捨てようという歌詩になったんじゃないかしら。」
―テレビドラマで観ました。西条家に向かって米軍のジープがやってくる。家族が不安に思っていると、GIがきて、日本の復興に協力してくれ、というのでホッとするという筋書でした。
「事実としておそらくそんなことがあったのでしょうね。」
(つづく)
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