一九四三年の状況
この年にレジスタンスはいよいよ成年期にはいる。当時、フランス人の多くがひそかにロンドン放送やモスコー放送に耳を傾けていた。それらの放送はナチによって妨害されたが、ひとびとに戦況の真相を伝え、レジスタンスに立ちあがるように呼びかけた。そこでナチはロンドン放送の受信を禁止し、聴いているところを見つけた者を直ちに投獄するようになる。ロンドン放送は──のちにはアルジェ放送も毎日、レジスタンスの指導者たちに向けて多くのメッセージを放送した。武器をパラシュートで投下するとか、誰それが飛行機または潜水艦で到着したとか、あるいは出発する――といったメッセージで、それは敵にはわからない、ときにはきわめて突飛な暗号で送られた。たとえば「叔父さんは二度鐘を鳴らす」とか、「われわれはもう森へ行かない」とか、「最初のかぎ裂きは二〇〇フランかかる」とか。エルザ・トリオレはこの最後の暗号をそのまま彼女の小説の題名にしている。
また新しい闘争形態も生まれた。武装したグループやマキ団が結成され、森や山のなかに散らばり、占領軍に奇襲をかけて悩ました。武器は初め敵軍から奪ったものを使ったが、のちには連合軍の飛行機によって投下された。
この頃、多くのマキ団が生まれたのは、間接には、一九四二年三月、ドイツ軍が「強制労働奉仕団」の結成を決定した結果であった。働ける状態にあるすべての男性が動員されて、ドイツの工場に送られ、ドイツの労働者たちの代りに働くことになった。そしてドイツの労働者たちは、東部戦線の敗北以来、ますます兵隊を必要としていた国防軍に編入された。こうして一九四三年六月に施行された強制労働奉仕法はフランスにとって、新しい段階を画すことになる。
休戦条約の調印(一九四〇年六月)以来、ドイツ占領軍はすでに多くのフランス人をドイツに送りこんで、働かせていた。ついでかれらは、「交代」という名のもとに、戦争捕虜を一人釈放するごとに、五人のフランス労働者をドイツに送るという卑劣な方式を考えだした。しかしこの方式は、ドイツ側の予期しただけの成果を生まなかった。そこで是が非でも、フランス人労働者を大量にドイツの工場へ送りこむことが問題となったのである。
ところが、フランス人は──とりわけ若者たちは、祖国を捨てて、ナチの戦争機械に手をかしに行こうなどとは、だれひとりとして思わなかった。そこでかれらは、この強制労働奉仕法を大衆的に拒否し、この徴用をのがれるために、あらゆる手段を用いた。――こうしてかれらは「徴用忌避者《レフラクテール》」と呼ばれた。その主な手段は、定住地を離れ、偽の身分証明書を手に入れて、レジスタンスの隊列に、つまりマキ団に加わることであった。
一九四四年二月一日、ドイツ軍がこの徴用令を、十六歳から六十歳までのすべてのフランス人に適用するにいたってから、マキ団への参加者は急速に増大した。この時期から、すべてのパルチザン兵士の武装行動は、かれらがどの組織にぞくしていようと、すべてフランス国内軍(FFI)に統合されることになる。フランス義勇軍(FTP)、秘密軍(AS)、抵抗統一運動(MUR)等がそこに結集する……同時に、国外にあったフランス自由軍(FFL)にたいしても、FFIは重要な軍事的役割をはたすことになる。
(つづく)
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