どうしたわけか、ミチレーヌに着いたこの小娘は、間もなくサッフォと寝台を共にしている。朝めざめると、となりに女が寝ているという唄をうたっている。《わたしは眼をこする……もう日が高い、みたい。あ、わたしの横に人がいる、誰だろう…女の人…彼女はねむっている。力士のように、髪はみじかくしているが、美しいといえるにちがいない…だけど、この奇妙な顔、男のような胸、せまい腰…》と、うたっているところをみればサッフォは、マンハントならぬ、ガールハントをやったのにちがいない。レスポスの愛の手ほどきをされたと思わぬわけにはゆかぬ。
その夕方、わたしはイズミールの港町の、二流ホテルの食堂のテラスの夕ぐれどきのうす明りのなかで、地酒のブドー酒をのんでいた。すぐ横の席で食事している中年の男に、わたしは話しかけてみた。立派なフランス語がかえって来た。建築技士であるという。トルコ人というのは、人柄が素朴で暖かで、いいですね。と話のつぎ穂に話してみる。たとえば、この国の詩人、ナジム・ヒクメットの詩の第一の値うちは、その暖かい人柄であるとつけ加えてみた。すると、次の瞬間、くだんの建築士、声をひそめて、この国ではヒクメットの話はやめた方がいいですよという。へえ。そうですか。でもヒクメットは死んでしまったのですよ。しかも、死ぬ少しまえに出した詩集の巻頭に、わたしの妻たちに捧げるとやって、ソビエト政府から単数にしてくれと注文されたが、ヒクメットは、良心に従って断呼ことわったという落ちまでつけて話した始末であったが、トルコの軍部政府が今もって言論弾圧を加えていることを知らされた。しかしこの建築士は酒もはいって気分もさわやかになったものか、ですが、わたしはもちろん、ヒクメットを同国人にもつことを誇りと思っていますよ、と、小声でささやいたものだ。
明くれば八月四日。わたしはターロス山を越えて、アナトリアの奥ふかくはいりこんだ。奥ふかくはいりこんではみたものの、しかし、トルコ人の生活のなかには入りこめない。杏のひとみの若い女たち、無格好な服装の老百姓たち、彼らは、わたしを物めずらし気に眺めるが、言葉はさっぱり通じない。
その夕ぐれ、五百のモスクのあるという、セルジュクトルコの古都コニヤにつく。コンヤはコニヤどまりだと、シャレてみるが、一向におかしくもない。宿さがしにウロウロするばかりだ。
歴史はやり直しがきかない。かつてヨーロッパ人の肝を冷やしたトルコも、今では後進国の列のなかに伍している。技術のおくれである、体制のおくれであると、人はいうがローマを亡したのはローマ自身であり、アメリカをおとろえさせているのはアメリカ自身であるといえないだろうか。
アナトリアの高原が海にせまるところ、
アナトリアの肥え土をあふれさせまいと
山が来て腕を組む
組んだ腕のそのすき間から
組んだ肩のその垣間から
爆発する水が湧いてでる
地中海にそそぎ入るために……
(完)
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