仮想インタビュー 大島博光にパリの魅力を聞く(2)
コロネル・ファビアン広場とフランス共産党本部
大島朋光
問 博光さんのフランス紀行文にコロネル・ファビアン広場が出てきますが、よく行ったのですか?
博光 そう、何回も行った。懐かしいねえ。最初に行ったのは一九七四年八月で、初めてフランスに静江さんと行ったときだ。
問 どんなところですか?
博光 パリ東駅から東方向に歩いて十五分ほど、サン・マルタン運河を渡った先にある。七本の道路が放射状に集まる集合点で、広場のまわりをロータリー状に道路が囲んでいる。右側にフランス共産党本部があり、まっすぐ上って行くと広大なビュット・ショーモン公園に着く。右折してヴィレット大通りを下って行くと有名な労働者街メニルモンタン地区からペール・ラシェーズ墓地に至る。
問 パリ観光の名所なんですか?
博光 いや、観光名所というよりもレジスタンスの記念の地だ。ファビアン大佐はレジスタンスの時代、最初の武装闘争の火ぶたを切った共産党員で、二十六歳で戦死した。彼が生まれたヴイレット大通りにちなんで、この広場に彼の名前がつけられた。侵略者ナチス・ドイツに対して勇敢に闘った共産党は国民から大きな信頼を得ることに
なった。ここは広場を望むフランス共産党本部とともにパリの赤い街区の象徴になっている。
問 フランス共産党本部は?
博光 弓型に湾曲したモダンな七階建ての建物で、前庭の広い芝生のなかの直径十メートルほどの白いドームも印象的だ。このドームの下が地下の会議室となっている。受け付けはむきだしのコンクリートの広い地下にあって、かたわらのガラスケースの中には新刊の党関係の出版物とともにアラゴンの『レ・コミュニスト』も並んでいた。アラゴンはバカンスでアビニョンの方に行っているということだった。
問 ひょっとして、アラゴンに会いに行ったとか?
博光 いやー、ハッハッハ。アラゴンは一九七〇年に妻のエルザを亡くし、一九八二年十二月に亡くなったんだがね。
問 八〇年には一ヶ月ほど滞在したんですね?
博光 そう、あの時は、フランス共産党本部のすぐ近くのカノンヌ家を宿にし、老夫婦の世話になった。毎日のようにビュット・ショーモン公園を散歩した。正門を入った突きあたりは石をあしらった築山になっていて、石のあいだにブロンズの頭部像がさりげなく置いてあり、そこにはパリ・コミューンの詩人クロヴィス・ユグの名前が刻んであった。このビュット・ショーモンの丘で数千のコミューヌが虐殺され、それらの屍を焼く火葬の煙が幾日もパリの空に立ちのぼったといわれている。丘の下に井の頭公園の池の半分くらいの池があり、何人もの老若男女がジョギングをし、釣り師が鯉釣りをしていた。一方、サン・マルタン運河は並木の美しいパリ市民の憩いの場だ。ほとりを散歩しているとレジスタンスで倒れた闘士の標識に出会った。「一九四四年八月二一日 パリ解放のために華々しく倒れたシャルル・デュパの記念に 享年二九歳」──パリではこうした記銘版をたびたび眼にした。
問 静江さんと行ったのは?
博光 妻とは七四年と七五年の二回行った。その思い出を詩に書きつづった。
パリの東駅から
妻と二人で 道をたずねたずね
楡《にれ》の茂ったサン・マルタン運河を渡って
コロネル・ファビアン広場への
だらだら坂をのぼって行った
妻もわたしもまだ若かった
およそ十年後
広場の鈴懸の大樹が見えるあたり
おんなじ道を
こんどはひとり老いの身で歩いていた
すると 初めに行った時の楽しさが思い出されて涙が出た そして
あの時はやはり大きな幸せだったんだ
ということに気がついた
(二〇二二年九月)
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