
その日は大豆島飛行場、長野機関区、川田、松代、篠ノ井と攻撃は続きました。長野駅周辺では、民家の庭先の防空壕が狙われ、3人の子どもが亡くなりました。もう一軒の民家は、爆撃で土蔵まで吹き飛ばされ、そのあとには直径5、6メートル、深さ1メートルの穴があき、家族9人が亡くなりました。家族みんなの遺体は見つからず、1歳の赤ちゃんの体がすっぽり抜けた形のオムツが、木の枝に引っかかっていたそうです。

松代では町のなかに爆弾が落とされ、多くの人が犠牲になりました。川田では長野電鉄屋代須坂線が狙われました。電車が止まると皆飛び降りて電車の脇に伏せます。6年生のテツロウは戦死したおじさんの新盆にお供えを届けに行く途中でした。飛行機の音が遠のいたので飛びだした途端、次の機銃掃射に遭ったのです。一緒にいた富山の薬屋さんが「バカ、戻れ!」と叫んだときにはもう死んでいたそうです。

大豆島では飛行場爆撃に追われた人たちが逃げ場を失い、千曲川の土手に向かいました。
みんな我先にと土手に這い上ってホッとした時、突然バリバリッという音とともにボードF4U飛行機が土手の下から顔を出したのです。みんな土手から下に転げ落ちました。その飛行機の腹のものすごい大きさにびっくりしましたが、操縦士の青い目、首に巻いた白いマフラーもはっきり見えたそうです。

3年生のタクヤのお父さんは、大豆島飛行場に勤めていました。ここも爆撃され、広いグラウンドには焼け焦げてバラバラになった100機もの木で作った練習機や建物の残骸が散らばっていました。亡くなった人たちの上にはムシロがかぶせられ、いくつも並んでいます。家族に知らせが届いたのは翌日の昼頃でした。
焼けた顔に砂や石炭の破片が食いこみ、誰だか分かりません。一人一人まわり、やっとお母さんが下着のツギの赤い糸を見つけ、分かったのです。

ひろしのお母さんの実家は落合橋を渡った山の近くにあります。皆自分たちのことで手いっぱい、人のことなど思う暇もありません。お母さんは明るいうちに実家に避難しようと決心しました。リヤカーに鍋、コンロ、布団の上には病気の爺ちゃんを乗せ、2人の子どもと背中には赤ちゃんをおぶって、長い落合橋を渡りました。焼け付くような暑さのなか、お母さんは必死でリヤカーを引いたのです。

その頃、今の東長野病院は国立傷病軍人病院といって戦争に行って病気になった人たちが千人近く入院していました。あきこはそこの附属看護師養成所の3年生でした。お昼頃、給食当番のチエ子と給食係のおばさんたちの5人で今の清泉大学のある丘から真っ黒な煙に覆われている長野市街地を震えながら見ていました。

そして、夕食の準備をはじめた午後4時、給食室のそばに爆弾が落とされたのです。長野空爆を終えて新潟港に帰る途中の飛行機が、一つ残っていた爆弾を捨てていったのだそうです。千人分のごはんを炊く大釜がいくつも宙を飛び、柱や窓枠が紙のように舞って襲ってきました。4人は即死、太い柱の陰にいたあきこは爆弾の破片が骨盤に刺さり、出血が酷かったものの命だけは取り留めました。

夕方6時、昼間の恐ろしい出来事が信じられない静けさです。学校が無事だったので大塚先生は千歳町の家に帰りましたが、玄関に「西高の裏山に避難しています」とメモが貼ってありました。先生は暗い参道を「千歳町の人はいませんか」と大きな声で呼びかけながら登っていきました。木と木の間に蚊帳を吊って、中には病気のお年寄りや、赤ちゃんが寝ていました。

先生は町の人たちやお母さんの無事が分かったので、夜空襲があるといけないので学校に泊まることにしました。往生寺の坂道のほうに回ると町は真っ暗で何も見えません。長野駅の方向だけが松明を並べたように燃えています。その炎を見ながら先生は生徒一人一人の顔を思い浮かべ、「どうか皆無事でいるように」と祈りながら山を下りていきました。

静かな静かな夜でした。やっとお母さんの家族の物置に落ち着いたひろし一家は、安心したせいか急にお腹が空きました。「今日は朝から何も食べていなかったねえ」早速お母さんはお釜にダイコンやサツマイモを入れて煮ました。お釜から湯気が立つとやっとみんなの顔に笑顔が戻りました。空には今にも落ちてきそうなほど大きく赤い月が出ています。長野の空はまだ炎が見えていました。

その2日後の15日。お昼に重大な発表があるというので、皆ラジオの前に座りまっていました。それは日本が戦争に負けたという天皇陛下のお話でした。「おばあちゃん、戦争が終わったよ!」くに子が大きな声で言うと、おばあちゃんは慌てて「そんなこと人に聞かれたら、牢屋に連れて行かれるよ」と怒りました。戦争中は特高警察というのがあって、つげロされると警察へ連れて行かれたのです。

翌日はもう送り盆です。地元の習わしで、お盆のお供えや飾り物をまとめて千曲川に流すのです。日本中がひっくり返るほど変わってしまったのに、みんないつもと変わらずお喋りしながら歩いて行きます。戦争の辛い思いや悲しみを乗せて、お供え物はゆったりと流れていきました。

夕方、ひろしたちは庭でワラを燃やしながら「じいちゃん、ばあちゃん、お父さあん、この灯りでお帰りお帰り」と言いながら手を合わせました。その時、「ひろし、お母さんを頼むね」とお父さんの声がしたような気がしてふり返りましたが、そこには誰もいませんでした。
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