fc2ブログ

紙芝居 松井須磨子

ここでは、「紙芝居 松井須磨子」 に関する記事を紹介しています。

1
画 赤澤節子

2
松井須磨子は明治19年、松代町清野で生まれました。
17才で上京し、20才の時、坪内逍遥が主宰する文芸協会第一期生となって以後、新劇女優として活躍しました。
イプセンの「人形の家」のノラの役で注目を浴びましたが、島村抱月との恋愛のため、文芸協会を退会し、
抱月と共に芸術座を結成しました。芸術座では、トルストイの「復活」を主演し、須磨子はカチューシャ役で好演、
その劇中で歌った中山晋平作曲の「カチューシャの唄」が大ヒットして、須磨子は全国的な人気女優になりました。

3
須磨子は明治19年11月、松代町清野の小林藤太・ゑし夫婦の9人兄弟の末っ子として生まれました。
本名は小林正子といいます。
先祖は真田家の前の松代藩主・酒井忠勝に仕え、真田家になってからは、藩の勘定役(財政係)として
須磨子の父の代まで務めています。家には京都の庭師による風情のある庭があり、その池におちる
小さな滝の水音と2つ窓の土蔵のある風景は須磨子が大きくなった時の心のふるさとになりました。

4
須磨子は6才の時、子どもに恵まれない上田の父の妹夫婦の所へ養女に出されました。
上田では恵まれた小学校生活を送っていましたが、やさしい叔母のはからいで、
長い休みの時には、にぎやかな兄弟が待つ実家に帰って来ました。
そんな時、須磨子の姿が見えてくると畑にいる人たちが
「元気だったかね」とやさしく声をかけてくれました。

5
ところが、小学校も終わりにかかる頃、幸せにすごしていた須磨子につらい試練が続きました。
まず、清野の実家の母屋が全焼してしまったのです。須磨子の大好きなニッ窓の土蔵だけは
村の人たちが必死でぬれた萱で囲い、かろうじて難をのがれたのです。

6
そして、小学校を卒業した15才の秋、上田の義父が急に亡くなり、事業も解散、義母は須磨子の将来を思い、
清野の実家に帰したのです。ところが、その実家で父が病の床に伏し、半年後には亡くなるという
思春期の少女には重い悲しみが続きました。

7
明治35年、父の遺言もあって、姉の嫁ぎ先、東京麻布にある宮内庁御用達の和菓子店風月堂にあずけられました。
その店を手伝いながら戸板裁縫女学校へ入学し、えび茶の袴姿で、さっそうと学校に通う須磨子の姿は、
近所でも評判になりました。ここでの修業が大女優になってからも役に立ち、自分の着物をぬったり、
舞台衣装を手直ししたりして、まわりをおどろかせたそうです。

8
風月堂の看板娘として、須磨子が店に出ている日はお客さんも多く来たそうです。
そんな須磨子が見染められ、千葉県木更津の割烹旅館の一人息子との縁談がまとまりました。
なれない花嫁衣装に緊張と不安の中、木更津まで連絡船にのり、嫁いでいきました。
17才でした。ところが割烹旅館の一人息子で何不自由なく気ままに育った夫との、
あまりにも違う環境の変化にとまどい、また須磨子自身の病も重なって、
わずか1年たらずで離婚になってしまいました。

9
体も心も傷ついて、生きる気力もなくなって戻ってきた須磨子を風月堂の夫婦は暖かく迎えてくれました。
病気療養で入院した町田医院には文学書などたくさんの蔵書がありました。
須磨子は乾いた砂が水を吸うように読書に夢中になり、これが須磨子の世界を広げていくきっかけになったのです。
そしてここには須磨子の女優への道を開いてくれた前沢誠助が家庭教師として出入りしていたのです。

10
明治38年、健康を取り戻した須磨子は、叔母の嫁ぎ先、須坂の小田切家に身を寄せ、
家業の紡績を伝ったりしていました。ところがこの時、前沢誠助が須坂小学校で
教師をしていたのです。やっと落ちついた日々をすごしていると思われていた須磨子が、
ある日突然、書置きも残さず小田切家から姿を消してしまいました。
夜中、小さい柳ごうりのカバンひとつ持って、須坂の町をぬけ、月明かりの村山橋を渡り、
長野駅まで歩き続けました。「黙って上京してすみません。東京で身を立てたいので」
という詫び状が小田切家に届いたのは、それから1週間程たった後でした。

11
当時、前沢誠助は東京の巌谷小波のお伽芝居に出入りしていました。東京に出た須磨子も
そのけいこ場を見学したり、時には舞台に立ったりしていました。
誠助と出合ってから須磨子は女優になりたい思いをつのらせていました。
誠助はその夢をぜひかなえてやりたいと思い、演劇関係者に須磨子を熱心に紹介していったのです。
明治41年、2人は結婚しましたが、誠助のこの努力があだとなり、演劇のけいこに打ち込む須磨子と
家庭生活との両立は難かしくなり、ついには離婚になってしまいました。

12
明治42年、須磨子は念願だった早稲田大学教授・坪内逍遥が開設した文芸協会演劇研究所の
1期生になりました。その講師陣の中に島村抱月もいたのです。
この入門を期に、須磨子の中に秘められていた情熱が演劇という場を得て燃えあがりました。
そして明治43年、日本で初めて建てられた西洋建築の帝国劇場で「ハムレット」が上演され、
須磨子は「オェリア」役に抜擢されたのです。
それを見に来ていた夏目漱石が「オフェリアが心を病んでからの須磨子の演技は実にすばらしかった」
と周囲に話しています。

13
明治44年、ヨーロッパの新しい演劇を数多く見て帰国した島村抱月は文芸協会第1回公演に
イプセンの「人形の家」をえらびました。
須磨子は、自由を求め、夫・子どもを捨て、家を出る主人公ノラを見事に演じ切りまた。
この「ノラ」の行動は舞台だけに留まらす、当時の女性の自立的世相と相まって、
社会的反響を更に巻き起すことになったのです。

14
大正2年、島村抱月と須磨子は恋愛関係がもとで文芸協会をやめ、新しく「芸術座」をつくりました。
2人にとって演劇活動こそが命がけで取り組みたいものでした。
「芸術座」の第1回公演は須磨子人気もあり、大入り満員の大盛況でしたが、
その後は劇団の有力メンバーが次々と去って、芸術座は苦境に立たされてしまいました。
そんな中、第3回公演にトルストイの「復活」を上演、劇中須磨子が歌う中山晋平作曲の
「カチューシャの唄」が爆発的な大ヒットとなりました。
地方巡業はわずか4年で440回、海外公演でも朝鮮、満州、台湾にまで及んだのです。
「カチュシャの唄」は蓄音器が普及していないこの時代に2万枚を売上げる大ヒット曲となりました。

15
須磨子人気が高まるにつれ、田舎出の素人が瞬く間にスターになったことへの嫉妬から
「須磨子は悪女」という伝説が作り出され、広がっていきました。
それでも2人は、芸術と共にある質素な生活に喜びを見出し、芸術座の新しい演劇の完成
を目指していきました。

16
「復活」の大成功で有名になった須磨子に、いよいよ長野の城山公園にあった三幸(みゆき)座
から公演の声がかかりました。大正3年5月27日から4日間です。
久しぶりに清野の母の元に帰った須磨子に喜びが重なりました。
松代では、町長自らが会長となって須磨子の後援会を作り、
松代公会堂で歓迎会を開いてくれたのです。この時の賛同者は百名を超えていたといいます。
また三幸(みゆき)座での公演が始まると、町民が馬車20台をつらね、応援に行ったそうです。
初めてのふるさと公演で、松代の人々がこれほど暖かく迎えてくれたことは
須磨子にとってどれほど嬉しかったことかしれません。

17
大正7年11月4日、深夜まで続くけいこ場に、突然抱月危篤の知らせが届きました。
須磨子が急いで駆けつけた時には、すでに抱月は亡くなっていました。
うす暗い寒い部屋で須磨子は抱月の遺体にすがって「生き返らせて!」
と泣き叫ぶ悲痛な声だけがいつまでも響きわたっていました。
抱月48才、死因はスペイン風邪をこじら肺炎を併発しての急死でした。

18
突然、手足をもぎとられ、生きる目標を失った須磨子。そして芸術座の中心人物を失った劇団員たち。
芸術座は抱月というより所を失って事実上解散となり、抱月と須磨子の2人で創り上げてきた芸術座は解体となりました。
大正8年1月5日早朝、須磨子は芸術倶楽部の小道具部屋で、抱月のあとを追うように、33才の若い命を絶ちました。
「抱月と同じ墓に埋めてほしい」とくり返し書かれた遺書。その最後の願いも聞きいれられることなく、
須磨子は清野の実家を見おろす裏山にある小林家の墓に眠っています。
1月5日の須磨子の命日には地元有志が墓参りをして、短かくも強烈な女優人生を
けんめいに生き抜いた須磨子をしのんでいます。

19

関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/5325-169da29a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック