
いよいよ7月から村方の自普請が始まりました。
まずは木材の切り出しです。長さや目的の違う木を217本そろえました。
自普請の動員数は関屋村2813名、近隣の村の動員数を入れれば4000名近くになったでしょう。

まず、地蔵峠の峯より荒町村石橋まで、道幅を2m70cmにそろえるため、杭を120本打ち込んでいきます。
暑い中での長距離の作業でした。

橋は3本かけ直ならすことになりました。渡した丸太の上に土を盛り固くならすのです。ここでは150cm×30cmの大木を160本使いました。殿様の行列162名が一度に渡るので、事故があったら大変です。

明徳寺では参道の狭いところを広げるので、邪魔な杉の木を切り倒し、太い切株を掘り起こします。そのあとの穴を埋めていくのも大変な作業でした。ここでは120cm×27cmの材木を15本使いました。

本堂では、檀家の皆さん総出。と言っても力のある若い者は皆外に出払っているので、年配の男衆、女衆だけです。畳替え、障子や襖の張替え、大掛かりな本堂の大掃除と休む暇もありません。藩の役人も来て、襖の下張り用に不用になった書類の紙をたくさん持って、様子を見ながら配っていました。

今までに経験のない大掛かりな食事の用意でした。
袴釜は6升炊、5升炊、計7個。ナベは5升、4升、3升炊を15個。飯びつ17個。焚き木は全戸から一東(ひとたば)ずつ。あとは町のお寺や個人の家からも協力してもらいました。
一番は240人分のお膳と食器類です。八田家は、京であつらえたお膳とお椀を110人分。屏風、その他を長持に入れ荷馬車で明徳寺まで届けました。

行列が江戸を出発した報告が入りました。通常の参勤交代では、中山道、北国街道を通り決められた本陣に5泊6日。
ところが今回は、江戸から日光、例幣使街道に入り高崎から信州街道へ。
大笹、鳥居峠、地蔵峠を越え松代に帰るという15泊16日の長旅です。
老中を辞任し高齢での最後の参勤交代なのです。

通信網のないこの時代、諸荷物の輸送、宿泊、休息場所、時間、食事の内容、献上物に至るまで藩の関係者と宿場役人で綿密な打ち合わせを何回もします。
静かだった信州街道も急に連絡の馬や人の行き来が激しくなり、街道沿いの村人達は何が起きるのかわからず、大きな不安に駆られていました。

鎌原宿は、天明3年の浅間山の噴火で起きた土石雪崩(なだれ)で7m下に埋まり全滅しました。
家老鎌原石見(かんぱらいわみ)の先祖は鎌原(かんぱら)城主でした。ここで案内をした録原増右衛門は噴火の時、大笹の関守をしていて助かった人の子孫なのです。
ここでは皆が正装の裃(かみしも)姿で出迎えました。幸貫は籠を庭先まで入れ、座敷から部屋に入ったそうです。子供たち5人がお茶の接待のお手伝いをして幸貫を和ませました。

大笹から真田までの鳥居峠は長距離で、山中は特に険しいそうです。松代藩が申し入れてきた人馬の数では絶対無理なので、大笹宿では助郷8ヵ村の協力で人足60人、馬80頭を追加してくれました。合計人足120人、馬120頭で無事鳥居峠を越えることができました。

朝、5時に大笹宿を出た行列は途中、朝日に黄色く輝く屏風のようにそびえ立つ山を見ました。一行は、思わず足を止めました。殿様も籠から降りて「これは何という山か」と尋ねました。「山ではございません。浅間山の噴火で起きた土石雪崩がここで止まったのです。吾妻川に流れ落ちたものは、利根川から江戸川、銚子沖まで人や家を飲み込み流れていきました」
案内係の説明に、殿様は自然災害の恐ろしさを知ったのです。
この翌年、善光寺地震がありました。
(つづく)
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