シュールレアリストたちはただちに、アラゴン追及即時中止を要求する抗議文をまわして、作家、芸術家、知識人たち三百名の署名を集めた。この抗議運動におされて、フランス政府はアラゴン追及を断念するにいたる。
ブルトンはアラゴン防衛のために『詩の貧困』というパンフレットを書いて、この告発には反対したが、「赤色戦線」にたいする評価ではまったく否定的であった。彼はこの詩を「外部的主題への後退」であると言い、「この詩における後退の別の名は、状況の詩ということである」と言って攻撃した。これにたいして、アラゴンは「ユマニテ」紙のコミュニケで、ブルトンのパンフレットの内容について、「階級闘争とは相容れないもの」であり、「客観的には反革命的である」と反論した。さらにシュールレアリストたちは、かれらがアラゴンに委託した任務をハリコフ会議で果さなかったと言って非難した。アラゴンは、フロイディスム、とりわけ精神分析的手法の立場を防衛すべきであったのに、かれは討論もせずにこの任務を放棄し、精神分析的手法を観念論とする共産主義者の規定に賛成したのではないか――こういう非難をめぐってさかんな論議が行われ、一九三二年三月、エリュアールはルネ・シャール、エルンストらとともに「変節漢」と題するアラゴン非難の一文を書く。シュールレアリストたちをゆさぶったこの危機のなかで、エリュアールはまたしてもブルトンに忠実に追従して、さらにアラゴンの言行を非難する「証明書《セルティフイカ》」(一九三二年)のなかに書く。
「わたしは十四年来ルイ・アラゴンを知っている。わたしは長いこと彼に全面的な信頼をよせてきた。彼にたいするわたしの尊敬と友情は、彼の性格上の欠点とみられたものにも、わたしに眼を閉じさせてきた……
……一年前、彼は、シュールレアリスムの活動、とりわけアンドレ・ブルトンの『シュールレアリスム第二宣言』を非難する文章に署名した後、ロシアから帰ってきた。ブルトンが彼に、この裏切りを公表することは、われわれにはどうしても必要に思われる、と言ったとき、アラゴンは見苦しくも自殺すると言って彼を脅迫した。わたしにとってアラゴンが輝きを失ったのは、そのときだ……」
こうしてシュールレアリストたちとアラゴンとの訣別は決定的なものとなった。のちに、レジスタンスのなかで彼といっしょに活動することになるピエル・ヴィヨンは、エリュアールがその頃について語ったつぎのような述懐を書きしるしている。
「ある日、われわれは過去について、シュールレアリスム宣言の時代について話していた。ポール(エリュアール)はシュールレアリスト・グループの分裂やアラゴンとの対立を思い出して、失われた歳月への悔恨の色を浮べて言った。《あのとき正しかったのは、ルイ(アラゴン〉だ》と」(「ウーロップ」誌一九六二年十一月十二月号、ピエル・ヴィヨン「わが友、わが同志」)
また、プレイヤド版『エリュアール全集』二巻には、この「証明書《セルティフイカ》」についてつぎのような注がついている。
「……一九六五年五月二十九日、ルイ・アラゴンは、サン・ドニにおけるポール・エリュアール名称高校《リセ》の開校式で演説をした。彼はそこでとりわけ故人(エリュアール)の生涯を回顧する。ニューシュの死後、ポール・エリュアールがもう生きつづける気力がないと彼に打ち明けた、あの絶望の時期にさしかかると、アラゴンは初めてあの《残酷》な《証明書《セルティフイカ》》を思い出すことにいたったことに言及して、つけ加えた。《われわれはこの日まで一度もそれについて話したことはなかった。話したとて何になろう。重要なことは、われわれがふたたびいっしょになったということである》……」
(つづく)
- 関連記事
-
-
『エリュアール』 7.アラゴン事件(4)ニューシュへの愛 2022/07/07
-
『エリュアール』 7.アラゴン事件(3)状況の詩 2022/07/06
-
『エリュアール』 7.アラゴン事件(2) 2022/07/05
-
『エリュアール』 7.アラゴン事件(1) 2022/07/04
-
『エリュアール』 6.別れと出会いと(4)人民の子ニューシュ 2022/06/18
-
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/5236-521c125c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック