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『エリュアール』 5.詩人の帰国──モロッコ戦争(4)ブルトンとともに離党

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(新日本新書『エリュアール』
 
あか
フォールスタッフ





 しかし、このような一般論がすべてのシュールレアリストにあてはまるかといえば、そんなことはありえない。
 エリュアールは入党を認められて、T・C・R・P(公共交通機関)の従業員細胞に配属される。その頃のことを、ジョルジュ・サドゥールはつぎのように書いている。
 「エリュアールはT・C・R・Pの従業員細胞に配属された。彼は細胞の同志たち――電車の運転手やバスの車掌たちについて、カフェ・シラノで、われわれに陽気に話してきかせた。この最初の細胞で、彼はごく自然に心から仲間うちにいるのを覚えた。彼は毎週の細胞会議を首を長くして待った。彼は細胞の同志たちが好きたったし、彼もみんなに好かれていた。数ヶ月後、彼は党活動をやめた。シュールレアリスムがやめるように彼に命じたからだ。その動機を『シュールレアリスム第二宣言』はこう説明した。アンドレ・ブルトンは書いた。
 『イデオロギー状況ではない、ひたすら(鋼鉄の生産など)統計的事実をふまえたイタリヤ情勢の報告を《ガス》細胞のために書くようにと、わたしは命じられた。わたしにはできなかった』
 アンドレ・ブルトンの催促で、エリュアールがガス細胞から離れた頃、彼はしばしば自分の最初の詩集についてわたしに話した。しかし詩の題名については説明しなかったが、それはつぎのような詩である。

義務と不安が
ぼくの辛い生活を二分している
(それをきみにうまく話すのは
とてもむずかしい
……
ぼくは 静かな希望を夢みる)

 一九一七年にエリュアールが詩で抗議した《義務》とは不正の戦争であり、《不安》とは若き兵士エリュアールをかき立てた反抗である。この不安は、ダダとシュールレアリスムの文学的冒険を通って、彼の夢みていた《希望》へと彼をみちびいた。それは静かな希望ではなくて、燃えるような戦闘的な希望であった。だが、たちまち《不安》がふたたび彼を捉えた。
 (わたしは断言するが)マルセイユの郊外に、《不安におびえる人たちの大いなる酒場》という看板の出ているカフェがある。一九二七年には、カフェ・シラノもこの看板をだすことができただろう。われわれの意識の指導者アンドレ・ブルトンがわれわれの上に及ぼしていた威信や、権威は、われわれの不安に乗じたものであり、われわれの不安を持続させたのだった。一九二七年まで、この不安は恐らくひとつの原動力だった。《上部構造》(シュールレアリストたちがやがてむちゃくちゃに使うようになった言葉)の多くの幻想的なかたち《﹅﹅﹅》をとおして、妙《たえ》なる屍をとおして、自動記述、夢物語、進歩的な《自覚》などが、われわれのあいだで行われた。われわれはポール・エリュアールとともに、同じ矛盾にとりつかれていた。その矛盾とは、われわれのなかでは、ブルジョワ・イデオロギーの織りなす多くのきずな《﹅﹅﹅》と共産主義の引力との対立であった。『シュールレアリスム第二宣言』は一九二九年、光明《クラルテ》と自覚への反対を結論づけることになり、アンドレ・ブルトンはそこでつぎのようなスローガンを大文字で公表したのである。《わたしはシュールレアリスムの深い、真の秘儀化occultationを要求する……》」(サドゥール『詩人の肖像』――「ウーロップ」誌一九六二年十一、十二月号)
 これで見ると、エリュアールの離党が、ブルトンの命令に近い催促によるものだったことがわかる。そうしてブルトン自身の離党が、革命的自覚よりもシュールレアリスムの秘儀化をえらんだ反動的後退にあったことと、そのブルトンのシュールレアリストたちに与えていた影響が、呪縛にも似ていたことがわかる。
(つづく)

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