さらに「二度と会わなかった人たちの永遠さ」(一九四五年)のなかで、エリュアールはレジスタンスの殉難者たちの名前に詩人や作家たちの名前をつらねて、思い出をたぐっている。 「耐えがたい時代」のなかで消えていった友人たちの名前をくりかえす口のなかに、溢れる灰の味を覚えながら、そこに記憶の力を再発見している。
明るい顔たち 暗い思い出
それから 眼のうえの一撃のように
焼かれた紙のような顔たち
灰ばかりの記憶のなかの
忘却の冷たい薔薇
しかしデスノスよペリよ
クレミュよフォンダーヌよピエル・ユニクよ-
シルヴァン・イトキンよジャン・ジョシオンよ
グル・ラドネよリュシアン・ルグロよ
時代 耐えがたい時代
ポリッツェルよドゥクールよロべール・ブランシュよ
セルジェ・メイエよマシアス・リュベックよ
モーリス・ブールデよジャン・フレイスよ
ドミニック・コルティシアトよ
そしてマックス・ジャコブよサン・ポル・ルーよ もう存在しない時代
もどってくるわたしの記憶のなかで
わたしの喚びだす記憶のなかで
すべてである時代
……
そしてみんな人間の顔をした人たち
みんなわれわれに生を可能にしてくれた人たち
(『ドイツ軍の集合地で』)
レジスタンスの大きな闘争のなかで、歴史のなかで、詩もまた日付けをもつことになる。それと同時に、この詩におけるように、詩は人びとに捧げられるものとして書かれる。それは、詩人が自分自身だけを語ることをやめて、共同の闘い、共同の生、共同の未来を見いだしたからである。
こうして詩そのものが、愛、怒り、憎しみをうたう武器となる。敵の手に倒れたたくさんの英雄たちが、詩人たちにそれを無言のうちに要請したともいえよう。つまりそれは占領下の暗黒のなかでくりひろげられていた闘争のこだまであり、反映であった。
エリュアールは「無意識の詩と無意志の詩」(一九四二年)のなかで「真の詩人たちは、詩がただ彼らだけのものであるなどとはけっして考えなかった」と書き、ほかのところで、「詩人たちはほかの人びとのなかのふつうの人間である、とふたたび言うべき時だ」と語っている。つまり、レジスタンスのなかで書かれた詩は、詩人たちだけに通用するような特殊な詩ではなく、ほかのすべての人びととの共同の声であった。
こうしてジャック・ゴーシュロンが語るようにレジスタンスのなかで、長いあいだ土のなかに埋められていた詩という武器が、怪物どもとたたかうために、生き残るために、愛するものをとり返すために、ふたたび土のなかから掘り出されて、多くの詩人たちの手によって磨かれたのだ。そうして武器となった詩は、表現方法であると同時に、詩人と読者たちとのコミュニケーションの方法となる。こうして詩は、塗炭の苦しみのなかで、生ける実践となり、社会的実践ともなり、言葉によるコミュニケーションに力を与えたのである。
解放後、エリュアールは新しい詩の展望を語ることになるが、そのときにも、レジスタンスにおける体験、そこで獲得した確信が大きな拠りどころとなったのだった。その確信はまたナチの暗い夜のなかで、未来のために倒れた多くのレジスタンスの活動家たち、戦士たちのものでもあったのである。
(この項おわり)
(新日本新書『エリュアール』)
明るい顔たち 暗い思い出
それから 眼のうえの一撃のように
焼かれた紙のような顔たち
灰ばかりの記憶のなかの
忘却の冷たい薔薇
しかしデスノスよペリよ
クレミュよフォンダーヌよピエル・ユニクよ-
シルヴァン・イトキンよジャン・ジョシオンよ
グル・ラドネよリュシアン・ルグロよ
時代 耐えがたい時代
ポリッツェルよドゥクールよロべール・ブランシュよ
セルジェ・メイエよマシアス・リュベックよ
モーリス・ブールデよジャン・フレイスよ
ドミニック・コルティシアトよ
そしてマックス・ジャコブよサン・ポル・ルーよ もう存在しない時代
もどってくるわたしの記憶のなかで
わたしの喚びだす記憶のなかで
すべてである時代
……
そしてみんな人間の顔をした人たち
みんなわれわれに生を可能にしてくれた人たち
(『ドイツ軍の集合地で』)
レジスタンスの大きな闘争のなかで、歴史のなかで、詩もまた日付けをもつことになる。それと同時に、この詩におけるように、詩は人びとに捧げられるものとして書かれる。それは、詩人が自分自身だけを語ることをやめて、共同の闘い、共同の生、共同の未来を見いだしたからである。
こうして詩そのものが、愛、怒り、憎しみをうたう武器となる。敵の手に倒れたたくさんの英雄たちが、詩人たちにそれを無言のうちに要請したともいえよう。つまりそれは占領下の暗黒のなかでくりひろげられていた闘争のこだまであり、反映であった。
エリュアールは「無意識の詩と無意志の詩」(一九四二年)のなかで「真の詩人たちは、詩がただ彼らだけのものであるなどとはけっして考えなかった」と書き、ほかのところで、「詩人たちはほかの人びとのなかのふつうの人間である、とふたたび言うべき時だ」と語っている。つまり、レジスタンスのなかで書かれた詩は、詩人たちだけに通用するような特殊な詩ではなく、ほかのすべての人びととの共同の声であった。
こうしてジャック・ゴーシュロンが語るようにレジスタンスのなかで、長いあいだ土のなかに埋められていた詩という武器が、怪物どもとたたかうために、生き残るために、愛するものをとり返すために、ふたたび土のなかから掘り出されて、多くの詩人たちの手によって磨かれたのだ。そうして武器となった詩は、表現方法であると同時に、詩人と読者たちとのコミュニケーションの方法となる。こうして詩は、塗炭の苦しみのなかで、生ける実践となり、社会的実践ともなり、言葉によるコミュニケーションに力を与えたのである。
解放後、エリュアールは新しい詩の展望を語ることになるが、そのときにも、レジスタンスにおける体験、そこで獲得した確信が大きな拠りどころとなったのだった。その確信はまたナチの暗い夜のなかで、未来のために倒れた多くのレジスタンスの活動家たち、戦士たちのものでもあったのである。
(この項おわり)
(新日本新書『エリュアール』)
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