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このような考え方をおしすすめてくると、さまざまの詩人の音楽への接近を試みる実験が、詩と音楽との機械的なむすびつきを何とか完成しようとするむなしい努力をつづけるのみにすぎないことに気付くであろう。われわれの作品と音楽との結びつさはそのような表面にあらわれた上すべりの協奏ではないしそうしてむすびつけようとすること自体、実にはかないバベルの塔のゆめを播くことに外ならないものであることをしらねばなるまい。
詩に於ける思想韻を考えることなしに、私たちの現代日本語は、ついにその非韻律性のゆえに西欧諸国語に敗れさるものと考える。短歌→俳句→新体詩の五・七青形成(さらに細分しても一・二、二・三、二・二・三、二・三・二といった程度のくみあわせ)の伝統を破って、古代詩としての祝詞から近代詩に致る途を歴史社会的に辿りつつ、思想詩として完成してきたものをふたたび音楽的韻律性の魔のもとに返すようになってはならないはづだ。詩は言葉によって考える芸術であるという自覚的詩人の座にあるからなのではないか。詩と音楽との谷間を埋めるものはない。あるものはただその思惟性という共通な懸橋のみなのだ。
附記・もう大分以前のものではあるが、この頃ちよっと思い到るものあって、ここに発表する。これは、「文学者」を中村八朗が編集していた頃、何かをといわれてかきだしたけれど、ずるずるとして、まとめることもせず、メモのままで放ってあり格巧つけた頃は、オフ・シーズンの感ありということになってしまったものである。 ──六一年五月
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