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詩と音楽にかかる橋(中)  西山克太郎

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中


(『角笛』19号 1961年6月)

彫刻



     2
 元来詩という「言葉によって考える芸術」と音楽という「音によって考える芸術」(J・コンパリウ)との差別と関連がとりあげられるのは、ここである。音楽性を第一義的に要求される場合は、詩は歌詞にまで撤底しなければこの差別はなくならない。が然しその前に音楽と詩との関連をもっと深く考えてみなければなるまい。音楽的思惟と詩的思惟とは異ってはいるものの、その表現媒体としての文字や語のくみあわせである詞章と、音の結合である曲のあいだにある共通点・類似のあるものはメロデイと話し言葉の段落とである。
 体止符は(不完全終止も、完全終止も)文章に於ける句読点に相為する。さてこれ以上のものはどこから生れるか、詩には思想韻以外のものはないわけではないのか。たとえば詩を表現していることばが、耳にうったえ、耳を楽しませるようにかかれていたとしても、そのような生理学的な音楽性というものは否定されていることではないのか。
 すなわち話し言葉の中の抑揚法(イントネーション)や句読法(パンクチュエーション)は原始音楽に於ける単調なリズムと一致することはあっても、それは音楽そのものではないことは、ヘルムホルツーヴントの生活学的音楽規的が誤謬規定そして今日ではもはや広く否定されているところであるからいうまでもあるまい。また詩を表現する言葉がアラベスク即ち線の運動を意味していることに於てそのリズミカルな進行性=詩の音楽性と規定をくだすむきもあるが、それまた約一世紀も前にハンスリックが主張して批判され尽されてしまった、音のアラベスクという形式主義的音楽理論に起因することを考えるとその論理的誤謬がわかるであろう。
 われわれはいまや、詩とは抒情詩であるという規定から類推又は拡大適用して、音楽を「情緒の言語である」(カント)とか「感情の芸術である」(へエゲル)という誤れる規定にむすびつけて、詩と音楽との不可分関係を立証しようとすることの蒙を啓かねばなるまい。(カント=ヘエゲルの規定が、いかにわれわれの周囲にその煙幕をはりめぐらしていることか!)
(つづく)
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